夏から始まる

神崎

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誘惑

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 町の片隅にある弁護士事務所。そこの事務所に浩治は居た。普段チャランポランとしているように見えるが、浩治の事務能力はすごいモノがある。経費一つ、落とせないモノは「だめ」と言って却下するのだ。
 そして二十時まで開いている事務所に、浩治はきっちり二十時で帰って行く。何の用事があるのかと弁護士たちはひそひそと話していたが、彼らにはわからないだろう。浩治がギターを持ってステージに立つと人が変わることを。
 そのとき事務所に一人の男が訪れた。
「すいません。」
「はい。あ、予約の方ですか。」
「はい。吾川と言います。」
 吾川啓介。教師らしい。仕事が終わった後にやってくるのでこの時間になったのだという。
「先生をお呼びしますので、そちらの応接室でお待ちください。」
 ドアを開けて、啓介を促す。そしてキッチンに立つと、冷たい麦茶を入れた。
 啓介は離婚訴訟にやってきたのだという。奥さんも自分も浮気をしていたが、奥さんの子供は自分の子供ではないと言う啓介の主張は、おそらく今日持ってきたDNA鑑定ではっきりするだろう。
 それでも可愛くないのだろうか。浩治はため息を付く。
 麗華と結婚したのは三年前。だが子供はいない。麗華は不妊治療をしたいといって、産婦人科で調べたこともあったが自分も麗華にも問題はない。
 タイミングの問題かもしれないと、麗華はいつも起き抜けに体温を測ってセックスをしているが、生理が来る度に暗い顔をしている。
 その気持ちがわからないのだろうか。
 お茶を入れて、応接室へ行くとせわしなく携帯電話を当たっている啓介がいた。
「どうぞ。」
「どうも。お構いなく。」
 おかまいしないといけないんだよ。仕事なんだから。
 心の中で悪態を付き、浩治は応接室を出ていこうとした。離婚訴訟を得意とする先生は、他の案件からまだ戻っていない。
「あの……。」
「はい?」
 麦茶を口にして啓介は浩治をみる。
「離婚訴訟だとか。」
「はい。」
「……子供さんは?」
「妻が引き取るそうです。結果は俺の子供ではなかったようですし、妻は相手方の方へ行くそうです。」
 ため息を付き、やはりそうだったのかと浩治はため息を付く。
「事務の方も既婚者ですか?」
「あぁ。そうです。」
「浮気は罪なんですかね。」
 わからない。今は麗華しか見ていなかったから。昔は遊んでいた時期もあったし、二股三股は当たり前だった。ギターをしてれば女は勝手に寄ってくるからだ。
 そんな日々に冷水をかけてくれたのが麗華だった。
「このヤリ○ンが!」
 そういって帰って行ったのだ。そんな日々にストップをかけてくれて良かったと今は思う。
「どうなんでしょうね。」
 そうとしか言いようがない。
「俺もそう思ってましたよ。妻がいて、子供がいて、仕事もあって、それでいいと思ってましたから。嫌でも目を瞑れば、自分が我慢すればいいと思ってたんです。」
 呆れたように浩治は啓介をみる。まるで被害者だ。自分だって浮気をしていたくせに。
 そのときドアから、一人の女がやってきた。この男の担当弁護士だった。
「遅くなって申し訳ありません。吾川さん。」
 若い女性の弁護士だが、それでも引く手あまたの売れっ子の弁護士。といってもこの事務所の弁護士は企業向けの弁護士が多いので、自然にこの女性弁護士に付くことが多いのだが。

 小一時間で啓介と女性弁護士は出てきた。啓介は頭を下げて、出て行く。後は家庭裁判所で話が付くはずだ。
 しかし女性弁護士の表情は浮かない。
「あの人、どうしたの?」
 同じ事務の女性がその弁護士に聞いてきた。女性というのはゴシップ好きなのだ。
「離婚調停なんだけど……あの男の人教師なのね。奥さんが浮気して子供を二人作ったのは、別の男性の子供だったんだけど……。」
「やだ。可愛そう。自分の子供でもないのに育ててたってことじゃない。」
「でも自分も浮気をしていたし、その相手が教え子だったからねぇ。」
「マジで?駄目じゃん。」
「離職したっていってたけど、大丈夫かしら。浩治さん。」
「はい。」
「弁護士費用、ちゃんと振り込まれるのかしら。」
「前金はいただいています。気にしなくて大丈夫でしょう。」
 真面目な男に見えた。だが被害者根性が気にくわない。さっさと終わってくれないだろうか。
 こんなもやもやしたときはギターでも弾いていたい。パソコンのテンキーを打つ手を止めて、ポケットにある携帯電話を手にする。
 麗華は仕事を終えて、食事の用意をしているらしい。今夜は肉じゃがだ。

 弁護士事務所を出た啓介は、その足で繁華街に入っていった。自分の親にはまだ告げていなかったからだ。
 父親はどういう顔をするだろう。兄は何と罵るだろう。いや。兄は知っているからそうでもないかもしれない。などと考えながら、啓介は重い足取りで繁華街へ向かっていった。
 公園へやってきて、その北口へ向かう。すると吾川酒店の隣にある建物から、一人の女性が出てきた。長い髪で、すらりとした高身長のゴシックロリータだった。
 長いまつげにマスカラをたくさん付けている目をしている。
「あら。」
 女性は思ったよりも低い声だった。
「どうも。」
「隣の若旦那のお兄さんね。よく似てるわ。」
「……知ってるんですか?」
「えぇ。うちのお酒はほとんどここで買ってるから。どうしたの?なんか暗い顔をしているわね。」
「そうですか?」
「まるで死にそうな……そうね。死刑執行する前の死刑囚って感じ。」
 少し笑うその口元は紫の口紅がついている。だがその口元は少ししわが見えた。思ったよりも若くないのかもしれない。
「啓介。」
 そのとき隣の酒店から、前掛けをかけた若旦那が出てきた。
「兄貴。」
「親父いるよ。中で話を聞くって言ってる。」
「わかった。」
「啓介。今回のことは、啓介は全面的に被害者じゃないからな。でもまぁ、あんたは社会的制裁はもう十分受けてるよ。」
「……。」
「百合さん。あとでさ、弟を寄らせるよ。」
「あら。お待ちしてますわ。」
「……兄貴。どういうことだ。」
「別にどうってことはないよ。俺の大学の時の知り合いが来るって言うからさ、紹介してやろうと思ってるだけ。」
 ニヤリと笑い、若旦那は啓介を店の奥へ連れて行った。
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