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七.庶幾うもの
しおりを挟む従者が揃い、藩公一家が立ち退いていったのは、子の刻にも迫ろうという真夜中の出来事だった。
敵が近い。
前日に藩境を接する同盟の隣藩・三春の背盟が報告されたのである。
これを受けて、重臣の中にはここで帰順するも已む無しと述べる者もあった。
だが、ここで降伏すれば隣藩同様、裏切り者の誹りを受けるとして、断固戦い抜くと主張する者もいた。
重臣の議論は、またも混迷を極めたのである。
その終結を待つ暇はなく、まず藩公一家の安全を確保することを優先したらしい。
ところが左京太夫は、宣言通り城に残った。
周囲がいくら説得を試みてもその心は動かず、頑として籠城の姿勢を崩さなかったのだ。
その左京太夫の命に反して、武次もまた城に留まっていた。
近習を解任された今、再び左京太夫の側に上がることは許されず、武次は御殿の内玄関でぼんやりと白みゆく空を眺める。
取るものも取り合えずに立ち退きが済んだ奥御殿には、家財や長持が雑然と取り残され、暁闇の中に所在なく浮き上がる。
常に整然と保たれていた奥御殿の、その最期の姿がこれか、と、寂寞としたものを漂わせていた。
未だ敵襲はなく、出立した一行はきっと無事に逃れ行くだろう。
主君の命に背いたのは、これが初めてのことだ。
出立の時、左京太夫は同じく見送りの側に立って動かぬ武次を、ちらと一瞥しただけであった。
以後は声すらもかからない。
払暁、それに代わって武次に声を掛けたのは、青山半蔵であった。
「殿が、すぐにおまえを追い出せと私に御命じになったが……」
気遣わし気な声で、しかし左京太夫の言葉を伝えぬわけにもいかぬといった様子である。
途切れさせた言葉の先を迷う半蔵に、武次はやっと口を開いた。
「たとえ役を解かれても……」
名目などは何でも良い。
近習であろうとなかろうと、心は常に左京太夫にあり続けた。
「左京様の御側を離れるつもりはありません」
静かに、しかしきっぱりと言い放つと、半蔵はやや大仰に息を吐いた。
「……だろうな」
「左京様が真にここを最期と定められたなら、私もそれに御供するのみです」
左京太夫のあの様子から、その意思は強固で、並みの説得では聞き容れられないだろうと思われた。
「私を突き放すのも、左京様のお優しい御心ゆえなのでしょう」
しかし、武次にとってそんなものは優しさと呼べるものではなかった。
大人しかった自分を見出し、常に傍に置いてはその愛情を注いでくれていた人だ。
今や主従以上の絆があると信じて疑わなかった。
左京太夫の傍を離れ、己一人生き永らえたところで、その先に生きる意味など見出せようはずもない。
それなのに。
「最後の最後に、あのように冷たく暇を出されるなど──」
不意に目頭が熱くなり、鼻にかかる声が出た。
半蔵も恐らくそれに気付いたのだろう。
暫時奇妙な沈黙が流れたと思った直後。
半蔵の拳が武次の頬を打った。
抉るような重い一撃を食らった瞬間に、目の前が白い火花に包まれた。
脳髄にまで走る衝撃を受けきれず、その場に尻もちをついて倒れ込む。
朝露に湿った石畳に突いた掌が滑り、擦り傷を作る。
骨が砕けたかと錯覚するほどの鈍い音と衝撃に驚き、痛いと思う間もなかった。
「気概を持たんか! 御上を守ると偉そうに言ったのは、一体どの口だ!」
「──!」
縺れて投げ出した足許に立つ半蔵は、苦虫を噛み潰したような顔で武次を睨み落としていた。
半蔵が声を荒らげるのを、初めて見た。
その狼狽が先に来て、武次は呆然とその顔を仰ぐ。
口の中が切れたらしく、じわりと錆の味がした。
「しかし、左京様は既にお覚悟を──」
「この虚けが! 貴様それでも殿の近習か!」
傲然と吐き捨て、半蔵は未だ立ち上がらぬ武次の胸倉に掴み掛る。
「何に替えても殿をお守りするのが近習の役目ではないのか!? よもや貴様だけが殿を慕っているなどと、ばかげた思い上がりをしているわけではないだろうな!?」
見下す半蔵の双眸には、悲憤の余りか薄らと光るものが浮かんだ。
城内では、今なお老臣らが必死の説得を続けている。
それは家臣の皆が一様に、左京太夫の存命を切に願っているからに他ならない。
それは分かっていた。
だが、分かっていても尚、武次にはそれ以上に気に掛かるものがあったのだ。
「──左京様ご自身のお気持ちは、どうなるのですか」
この城で、皆と共に最期を遂げる。その覚悟を固めるまでに、随分思案したはずである。
その末にようやっと出した意向を無視すれば、生き延びた後の左京太夫を必ずや苦しめるだろう。
「半蔵殿は、左京様に悔いを抱えたままに生きよと申されるのですか」
その問いに、殆ど馬乗りになった半蔵も息を呑んだようだった。
暫しの沈黙のあとで、半蔵はゆっくりと武次の襟を放して立ち上がる。
「私は……、この身を賭して、それを支える覚悟だ」
「………」
「おまえにそれが出来ぬと言うのなら、このまま城を去るがいい」
半蔵は冷然と言い捨て、表御殿へ向けて踵を返した。
***
池の畔には、白く朝霧が立ち込めていた。
その淵に囲った鳥の墓は、長雨に晒されて崩れ、叢に蔽い隠されてひっそりと埋もれている。
長い非常時で手入れも行き届かず、また左京太夫にも武次にも、墓を気に掛ける余裕がなくなっていたことの証であった。
武次はその前に跪き、庭園の山際に咲いていた杜鵑草《ほととぎす》を供えた。
池の蓮は花の時期を過ぎ、今は晩夏の花々が其処彼処に開きつつある。
大勢が立ち退いて行った城屋敷は、不気味なほどの静寂の中に朝を迎えようとしていた。
***
表御殿の御居間に座し、左京太夫は眼前に首を並べる老臣たちと対峙していた。
喧々囂々、鬼気迫る面持ちで説得を重ねる老臣たちを眺め、全く従容とした態度である。
「余は残る」
短く、しかし強く響く声音で、左京太夫は何度となくそう繰り返すのみ。
日が昇っても尚、膠着状態を脱しなかった。
「余はこの城の主だ。敵を前に、城と家中を置き去りにして逃げ出すわけにはゆかぬ」
「しかし御前! 家中一同の願いは、御身の御無事と丹羽家の存続をおいて、他にはございませぬ!」
「後生でございますゆえ、何卒城を御発ちくだされ」
中には涙ながらに訴える者もあったが、それにも左京太夫は儚い笑みで以て返す。
「我が病躯、もとより惜しまず。一任したとは言え、おまえたちだけに責を負わすつもりはない」
そうしたやりとりが延々続き、老臣の一人が席を外して部屋を出たところで、畳廊下の隅に控えていた半蔵が賺さず近付いた。
「御家老」
「む、半蔵か。如何した」
半蔵が呼び止めた裃の人物は、家老の丹羽一学である。
四十も半ば。強行に主戦を説き、今なお死を覚悟で籠城に臨むこの男は、左京太夫の一族の系譜に連なる男であった。
眉間に刻まれた皺の深さが、その苦渋と焦りを色濃く覗かせている。
「御家老、殿はまだ御決意下さりませぬか」
半蔵の問い掛けに、一学は一瞥をくれて瞑目する。
溜めに溜めた息をどっと吐き出してから、漸く重たげな口を開く。
「城に留まるとの一点張りだ」
半蔵も勘付いてはいたが、やはり城と共に死する覚悟は揺らがないらしい。
「もはやただでは殿を動かせませぬ。守備の一隊に協力を仰げませぬか」
一学は振り向いただけだった身体を、半蔵の正面へと向き直った。
「守備隊だと?」
「それから膂力のある者を数人、お立ち退きに同行させるお許しを頂きとうございます」
既に人の気配などないにも関わらず、一学は辺りを窺ってからそろりと一歩踏み寄る。
「何か考えがあるか」
「はい」
***
城下南方の永田口で大筒を発した音が響いたのは、四ツ頃(午前十時)のことである。
大地を揺るがすような発砲の音に木々がざわめき、辺り一帯の山々からは一斉に鳥が羽ばたき上がった。
「敵襲──!!」
「申し上げます! 城下竹田御門にまで敵が迫っております!」
「皆、殿を御守りせよ!」
「よいか、殿の脱出が成るまで城には敵を近付けるでないぞ!」
砲声が上がると同時に、御居間の重臣たちがどよめき立ち、下役が敵襲を告げると総立ちで騒ぎ始めた。
それまで泰然自若としていた左京太夫も、流石に驚いたらしく、老臣たちの慌てふためく姿に目を瞠ったようだった。
「左京様、もはや時がございません! 御駕籠にお乗りください!!」
右往左往する老臣たちの間隙を擦り抜け、武次は左京太夫に駆け寄ると、その背を強く押し上げた。
凝然と目を見開く左京太夫
「武次!? おまえ、まだ残っておったのか!」
「左京様の御側を離れて、私に行くあてなどございませぬ!」
「ばかな、何故逃げなんだ!?」
押されればいとも容易く上げられてしまう左京太夫の身体は、思った以上に軽く薄いものだった。
不意にそれが労しく思えたが、感傷に浸る間はない。
この機を逃せば、左京太夫は本当に城諸共に露と消えてしまうだろう。
「問答はご無用に! 随行仕ります、早急に御退去を!」
冷淡に解任を告げ、且つ駄目押しとばかりに半蔵を通して放逐し、武次がとうに城を後にしたと思っていたのだろう。
左京太夫がその吃驚と動揺に翻弄された隙に、武次は控える家中に声高に命じる。
「皆でお運び申し上げよ! 御発ちである!!」
これまでにないような、腹の底からの大音声が発せられたことに、武次自身も内心に驚き、また左京太夫その人も凝然としたようだった。
表に万端揃えた駕籠に左京太夫の身体を強引に押し込むと、陸尺が即座に担ぎ棒を上げる。
主君の意思を敢えて無視した、有無を言わさぬ力業であった。
従者が周囲を固め、直ちに裏手より城を発ったのである。
「以後の生涯、殿の御為にのみあると思えよ」
「元よりその思いです」
左京太夫が抵抗の声を上げ続ける駕籠のあとに、ぴたりと付き従いながら、半蔵と武次は互いの目を見ることもなく声を交わした。
生い茂る裏手の通りを抜ける中、背後の城を振り返る。
藩公立退きの一行を見送る、家老丹羽一学をはじめ、城の重臣たちの姿が深々とその首を垂れるのが見えた。
***
半蔵と武次とで進言した苦肉の策を、一学は一も二もなく断行した。
敵襲などとは虚言である。
城の喉元に敵が迫ったと見せ掛けるために、守備隊に大筒を撃たせた。
それを合図に重臣が総出で慣れぬ芝居を打ったのである。
混乱を装った、そのどさくさに紛れて主君を腕尽くで運び出す、というものであった。
この後、一向は城の北へと向かい、水原の地を経由して米沢を目指して落ち延びていく。
二本松城落城は、この翌日のことであった。
最後まで主君を逃がすことに躍起になり、落ち延びる一行を見送った重臣たちは皆、最期には同盟の義に殉じ、城と命運を共にした。
ある者は敵の大群の中へ斬り込み、またある者は城内で自尽したと聞く。
家老の丹羽一学が自尽に際して詠んだ辞世は、後に武次も知ることとなる。
──風に散る 露の我が身は 厭はねど
心にかかる 君が行く末──
それは、いつか武次が推し測った通りの心情を詠んだものであった。
落城の日、散り散りに敗走した藩兵らが会津や仙台、米沢各藩の兵らと共に奪還を試みたものの、これも敗退。
やがて二本松藩は藩公の身を寄せた米澤藩が降伏するのと同時に帰順の意を示し、新政府軍に降ることとなる。
そこからが、生き延びた者たちの苦悩の日々となるのである。
【八.へ続く】
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