櫻雨-ゆすらあめ-

弓束しげる

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◆ 一章四話 望みの鎖 * 元治元年 六~七月

長州の動き

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 池田屋の一件を恨みに思った長州が、挙兵して京に向かっている――。

 以前からまことしやかに囁かれていた噂が現実となって耳に入ったのは、斎藤が愁介とひと悶着を起こした翌朝のことだった。

「――今、長州勢は大坂の山崎に陣を敷いているようだ。先年の八月十八日の政変とは異なり、今度こそ間違いなく戦となるだろう」

 隊士一同が会した道場の上座で、近藤が厳しい顔を引き締め、朗々たる声を上げる。

 池田屋の折以上に緊張感の張り詰めた空気に、しかし近藤はいっそ心地良さげに目を光らせて、隊士達をぐるりと見回した。

「池田屋では都を焼き払うなどと画策した上、それが叶わぬとなれば、今度は帝のおわす都へ向けて兵を挙げる――これぞまがう方なき賊の所業だ。賊の討伐こそ我々に課せられた第一の任務と心得、各々方、いつでも出陣ができるよう支度を整えておくように」

 腹の底に響く声で、厳粛に告げる。

 応、という百名近い男達の返答を満足げに受け取ると、近藤は土方と山南を連れて道場を後にした。

「……なーんかなぁ」

 近藤らの足音が遠ざかり、道場がにわかにざわめきたった時、斎藤の隣に座していた永倉がぼんやり口を開いた。

 見やると、永倉は立てた片膝に頬杖をついて近藤の歩き去った方角に視線を投げている。

「間違っちゃないんだけどさ……近藤さん、『街を護れ』とは言わなかったねぇ」
「あー、そういやそうだな」

 永倉の反対隣にいた原田が、思い返すように視線を上げながら相槌を打つ。

 永倉はどこか不服そうに鼻の頭にしわを寄せ、低くぼやいた。

「……近藤さんなら、甘くてもそう言うかと思ってたんだけどなぁ」
「そこは、あれじゃない? 土方さん辺りにでも釘刺されたとか」

 藤堂が後ろから顔を覗かせて、永倉の肩に手を置いた。池田屋から半月以上が経ち、頭に痛々しく巻かれていた包帯がようやく取れて、すっきりした顔をしている。ただしその額には、右上の髪の生え際から左の眉根の近くまでの刀傷がしっかり残っており、ただの爽やかな好青年といった印象から少々変わって箔をつけていた。

「まあ、その線が一番アリかなぁ」

 藤堂の言葉に頷いて、永倉ははふ、と吐息した。

「……でも、あれじゃまるで組の手柄のことしか考えてないみたいで、何かヤな感じだわ」

 永倉の呟きに苦笑して、藤堂と原田が「まぁ確かに」と同意する。

「でもまぁ大丈夫だよ、ハチ。そんな考え、山南さんが許すわけないんだし。今回はたまたまそう聞こえちゃっただけだって!」

 明るく手をはためかせる藤堂に、永倉はようやく頬をゆるめて笑顔を覗かせた。

 それに満足げに微笑むと、藤堂は景気付けるようにパンッと手を叩き合せて立ち上がる。

「はー、オレも怪我が治って良かった! 戦が起きるって時に寝込んでたんじゃ締まらないし、何より何より!」
「ごもっともだね。今回も期待してるよー、先駆けセンセ」

 どのような危険にも真っ先に突っ込んでいく、切り込み隊長としての藤堂のあだ名を茶化すように言って、永倉はにかりと歯を見せた。

 藤堂は「ほいほい、まっかせといて!」と胸を叩く。

「んじゃ、切り込み前の快気祝いに、山南さんを飲みに誘ってこようーっと」

 笑顔で手を振って、いそいそと道場を出て行く。

「……ほーんと、杞憂だといいよね」

 無邪気な後姿を見送った永倉が呟いた言葉は、恐らく隣にいた斎藤と原田にしか聞こえなかっただろう。

 笑みの消えた横顔を眺めていると、気付いた永倉はわずかに口の端だけを上げて、軽く斎藤の腕を叩くばかりだった。
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