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試練の時 11

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「確認します!」

 分からないと泣いていたのに、それどころではないと気力を振り絞って、サヤはカーリンに駆け寄った。
 カーリンを仰向けに寝かせて、足を開かせ、夜着の間を覗き込むようにして、状態を確認。

「レイ、ハインさんに湯の用意を伝えて、一応備える。あと、綺麗な手拭いできるだけ!
 それから、凧糸か何か……縛るもの!」

 そう言われ、慌てて部屋を出た。
 背中の方から「まだいきんじゃ駄目です。ハッハッて、お腹に力を入れすぎないように、呼吸して」と、サヤの声が聞こえてくる。

「ハイン!    湯の用意ってサヤが!」
「聞こえました。湯と糸は用意してお持ちします。手拭いはそこの机に残りがあります」

 場違いなくらい冷静なハイン。その返答に頷き返して、手拭いを抱えて部屋に戻ると、切羽詰まった顔のカーリンの背には、枕や座褥クッションが詰め込まれており、少しだけ身体を起こした状態のカーリンが、後ろに落ちてしまいそうなくらいに首を仰け反らせて、フーッフーッと、苦しそうな呼吸を繰り返していた。

「目を閉じたらあかん、血管が切れて、内出血してしまう。後遺症出るかもしれへんから、目は開けて息を吐いて、力抜いて!    ええって言うまで!」
「ウううううぅぅゥゥ!」

 返事なのか、唸っているだけなのか、はたまた拒否なのか……判別できない叫び。
 訛りに戻ってしまっているサヤを、誰も気にする素振りは無く、蒼白になって固まったダニルは、ただそこで棒立ちになるばかり。

「ダニル!」

 呼んで肩を揺さぶると、ハッとして、縋るような視線を俺に向けてきた。

「カーリンの傍にいてやれ、大丈夫だって、声を掛けてやれよ」

 そう言うと、慌てて寝台の横に。

「カーリン!」

 名を呼び、だけど他に何を言えば良いか、分からないダニルは、カーリンが伸ばす手を、ただ握り返した。

「………………今っ、いきんで!」
「うううぅぅぅぅぅ‼︎」

 サヤの合図と共に、カーリンの唸りが大きくなる。
 爪が食い込み、歪む程に手を握り込まれたけれど、ダニルは歯を食いしばってそれに耐えた。
 それだけの力を、今カーリンは、子を産み落とすために振り絞っている。
 それが分かるから、同じ痛みを分かち合うかのように、ダニルはただ寄り添った。

 サヤも……不安の中、必死に状態を見極めて、カーリンを先導している。
 緊張と混乱。それでも、できる最善を。
 そうして、どれくらいそんなことを、繰り返したろう……。
 膠着していた事態が、動き出す瞬間が来た。

「頭、見えた!」

 サヤの、悲鳴とも、歓喜ともつかない叫び。

「もう一回、波が来たら、いきんで!」

 波とは何か、分からなかったけれど、女性二人にはそれで充分意味が理解できるのだろう。
 サヤが何を言わずとも、カーリン何度か荒い息を繰り返したあと、また「ううううぅぅぅぅ‼︎」と、唸るように力を入れた。
 見えていた頭頂部が、カーリンの中から押し出され、赤子自身も出ようともがくように、身体を捻りながら、せり出てくる。

「ま、待って!」

 なのに、途中でサヤの制止の声。

「臍の緒、首に絡んでる⁉︎」

 切羽詰まった声、一瞬でサヤの顔がひきつり、今にも泣きそうに。
 けれど、押し出される赤子を留めておくことなど、できるものではないのだろう。
 頭に続き右肩が出てきた赤子を、必死で支えるサヤ。
 その小さく、うっすら毛の生えた頭部には、白と灰で斑らな管が巻き付いていた。
 ピンと張ったそれは今にも…………っ⁉︎

「大丈夫。外すからそのまま支えてて」

 第三者の声。

 俺とサヤの後ろから、小さな身体が割り込んできて、赤子の頭部に絡み付いていた管を、指に引っ掛けてそっと外した。

「はい、もう臍の緒外したから大丈夫。出てくるまでもうちょっとだよー。
 あっ、今はまだ力入れすぎないで。両肩が出てくるまで、もう少しだけ赤ちゃんを待ってあげて」

 小柄な女性。
 髪を布で巻いて、隠し、紺地の、すっぽりと全体を覆う前掛けのようなものを身に付けている。
 この状況に、まるで日常事のような落ち着いた声音で、身体を旋回させつつ押し出されてくる赤子を、そのまま両手で支えた。
 瞳を閉じ、羊水や血にまみれた赤子が、カーリンの体内からゆっくりと、押し出されてくる。

「サヤさんお疲れ様。有難うねぇ、もう後は引き受けるよー。
 はーい、両肩出たから、後は楽だよ。でもいっぺんに力入れちゃ駄目、赤ちゃん飛び出ちゃうからねー。ゆっくり、息吐くみたいに、出してあげて」

 よろりと、二歩後退し、崩れるように膝を折ったサヤを、なんとか受け止めた。
 まるでサヤ本人が今までいきんでいたみたいに、息を切らしている。
 ぶるぶると震える身体。まだ強張った顔。
 ギリギリまで高まった緊張から、抜け出せていないのだと分かったから、そのまま下がらせて、簡易寝間として用意していた寝具に座らせ、抱きしめた。

 フーッ、フーッ、という、カーリンの苦しそうな息遣いも、いつの間にやら落ち着いていた。そうして見守る中、するんと抵抗なく、赤子が出てきて、女性……ナジェスタの両手が、それをしっかりと受け止める。

「お疲れ様ーっ、おめでとう、男の子だよーっ」

 そう言うと同時に、ふぎぃ……という、動物の声のような、か細い音がして…………。
 真っ赤な身体を小さく丸め、拳を握って、それでも精一杯、声を振り絞るように、赤子はひょろひょろとした、高い声で鳴き出した。
 レイルやサナリも小さかった……だけど、生まれたての赤子はもっと、もっと小さくて……。両掌の上に収まってしまうくらいに、小さくて……。

「まだ胎盤がこの後出てくるからね。お母さんはそのまま。
 ちょっと待っててくれたら、赤ちゃん連れて行くからね。
 まずは臍の緒を処置します。……お母さんはもう痛いの無いから安心してねぇ」

 そんな風に話し掛けつつも、ナジェスタの手は止まらず動いていた。
 赤子を広げていた手拭いの上に下ろし、糸を括った灰色の管を、これまたいつの間にやら後方に広げられていた荷物から取った鋏で手早く切断。赤子の身体の節々を確認して、顔に付いている、白いカスのようなものを指で優しく摘んで外す。

「よく出てきたねぇ。小さいのに頑張った、偉いねぇ。
 すぐお母さんのところに連れて言ってあげるから、まずはちょっと綺麗にしようね」

 気づかぬ間に、ハインが持って来ていたのか、ちゃんと湯が大きめの盥に入れてあって、ナジェスタは湯の温度を確認し、赤子の身体を手早く洗った。
 湯気と共に、強い血の匂いが鼻を掠めた気がしたけれど、それは一瞬。赤子はサッと身にまとわりつかせていた血を流され、すぐに手拭いで包み込まれ、水分を拭き取られた。

「はい。可愛くなった。じゃあお母さんに抱っこしてもらおうか」

 腹に短い管を残したまま、小さくてしわくちゃの赤子は、赤子と言う通りの赤い皮膚に、まだ多少の白いカスを張り付かせたまま、優しく持ち上げられ。

「お母さん、夜着の上、胸元を開いて……あ、お父さんしてあげて。もう動くの限界なくらいに頑張ったからね」

 ナジェスタに言われて、ダニルが慌ててカーリンの胸元をはだけるものだから、俺は急いで視線を逸らす。
 まぁ、開けられたって、そこにはすぐ赤子が乗せられたから、見えはしないのだろうけど……やっぱ他人の目があるっていうのは、気になるだろうと思って。
 カーリンの腹の上に乗せられた赤子は、どうやらそのまま胸を吸い出したよう。泣き声はピタリと止まった。

「本能なんだよねぇ。まだ上手には吸えないし、出ないけどね。でもちゃんと、お母さんがここにいるって、これで分かったよね」

 そんな風に言ったナジェスタは、じゃあ今度はお父さんね。と、赤子をひょいと持ち上げ。

「っ、えっ⁉︎」
「抱っこ。ほら、赤ちゃん待ってるよ。また泣いちゃうよ?」

 そんな風に言われ、自分はお父さんじゃない!……なんて言える男が、いるだろうか……?

 ダニルは、恐る恐る手を差し出し、違う、腕をこうやって!    と、ナジェスタに指導されつつ、モタモタと、要領悪く、赤子を抱いた。
 そのダニルの左手……。
 カーリンの手を握っていた左手が、見事に内出血。カーリンの手形がくっきりと、痣になっている…………。
 だけどダニルは、そんなことには気付いていない様子で、小さすぎる赤子を、真剣に、必死で抱いていた。

 そのうち、赤子はまたふにゃふにゃと泣き出し、慌てふためいたダニルの腕から取り上げられ、カーリンの胸の上に。
 ホッとしたような、残念なような、難しい表情になったダニルの瞳は、赤子に釘付けだ。

「じゃ、このまま胎盤出てくるまでしばらく待ってもらいます。
 赤ちゃんはお母さんの胸を吸わせておいたら、そのうち寝ちゃうと思うから、そのままお腹に乗せておいてね。
 綺麗な手拭い残ってる?    じゃあ寒くないようにそれを掛けておこうね」

 そうしてから、ナジェスタはカーリンの処置に戻った。
 赤ちゃん小さかったから産道も裂けてないし、回復はきっと早いよー。とか喋っているけれど、二人には聞こえていないよう。
 小さな小さな赤子を、二人でただ見つめていた。
 そうしているうちに、ダニルが……そっと手を伸ばす。
 人差し指一本を、本当にそうっと。そのちっちゃなちっちゃな赤子の手に。
 赤子の手は、その一本の指すら握れぬほど。それでも、ダニルの手を、握ろうとするかのように、動いた。

「………………」

 前世が誰であったか、何をしていたのか、分からないけれど……この子は今、ダニルとカーリンの愛し子となった。
 それはダニルも感じているのだろう。黙ったまま、彼はただ、溢れていく涙をそのままに、赤子を見つめる。
 泣く彼の指を、赤子は握り、カーリンは汗だくで、べっとりと髪を顔や首筋に張り付かせたまま、赤子に触れて泣くダニルの涙を、手を伸ばして拭った。

「八ヶ月って聞いたけど、もうほぼ九ヶ月かなぁ。ちゃんと泣けたし、呼吸もしっかりできてる。
 ちょっと小さすぎて心配かもしれないけど、赤ちゃんの生命力は凄いからね。この子もきっと頑張る子だよ。
 だけど、一応入院してもらいます。
 赤ちゃんはまだか弱いし、この子は特にちっちゃく生まれたから、体が慣れるまでは、毎日診察したいしね。その方が二人も安心できるでしょう?」

 そんな風に話すナジェスタに後を任せ、俺はサヤを支えて部屋を出た。
 限界まで緊張を強いられていた彼女は、もう疲労困憊で……嬉しさ、悲しさ、安堵、嫉妬、自己嫌悪……ただ素直におめでとうを言えない、色々な感情に翻弄されて、泣いていたから。

 だけど、やっぱり一番大きいのは安堵だと思う……。
 ちゃんと生まれた、無事だったということに、きちんと役割を果たせていたことに、ホッとできたから……やっと自分の感情に、気持ちを向けることができたんだよな。

「セイバーンに、またひとり生まれた。
 あの子も俺たちの子だよ。ありがとうなサヤ。頑張ってくれて、ありがとう。
 サヤがいなかったら、あの子はちゃんと生まれてこれたかどうか……」

 もしここにサヤを連れて来ていなかったら……そう思うと、ゾッとする。
 だから、サヤが落ち着けるまで、とにかく抱きしめた。
 階下から上がってきたシザーが、俺たちを発見し、慌てて下に戻っていったけれど、そちらはもう少し、待ってもらう。
 サヤの心が落ち着くまで。
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