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老女と猫
しおりを挟むテューリンゲンの実り豊かな里山の頂き近くに苔むした小さな小屋がある。
そこで老いた女と老いた猫が、身を寄せ合いひっそりと暮らしていた。
彼女らがいつからそこにいるのか、年齢は一体いくつになるのか、全くもって見当もつかない。
多分本人達も覚えてはいない。
山の麓の村に住む少年は、食材の包みを定期的に老女のもとへ持っていく。
何でも少年の何代前かの先祖が山で崖から落ち、大怪我を負って動けずにいたところに老女が通りかかったらしい。
先祖は薬草で命を救われ、それからは礼にこうして心付けを届けるのが少年の家の慣例となった。
古い装束を身に纏った老女はいつも愛想よく少年を出迎え、少年がねだると昔話をしてくれる。
彼女は木造りの椅子に座り、かつて近辺で起こった事件や見聞した大小の合戦について訥々と語り始める。すると猫はその膝上に飛び乗って蹲り、ウトウトし始める。
いつもそうだ。
老女と猫は緩やかな時の流れの中にいて、とても幸せそうに見える。
少年は父に聞いた。
「あのおばあちゃんは何で何百年も昔の出来事を見てきたように話すの?」
父は困ったような顔をして頭を掻いた。
「さあなあ。あの人は父さんのおじいちゃんが子供の頃からお婆さんだったらしいし、本当に見てきた事なのかもなぁ」
父は冗談めかして言うが、目は笑ってはいない。
老女の昔語りの中でも少年が最もスリリングに感じたのは彼女自身の体験談だ。
魔女狩りに遭った事があるという。
こんな内容の話だ。
その頃、老女は既に年老いていた。
人と深く交わるのが苦手で人里を離れ、今も住むその山小屋で猫を話し相手に生きていた。
草木で薬を作る知識があったので、頼って来る者には症状に応じた薬を渡し感謝された。
そんな穏やかな生活がある日突然変わった。
役人がやって来たのだ。
彼女は魔女として告発されたと告げられた。
山で猫と暮らし、薬草を煎じる孤独な老婆。
それで嫌疑は充分。先日薬をあげた子供が小遣い欲しさに訴え出たらしい。
彼女は猫と一緒に引き立てられた。
老女は敬虔なキリスト教徒であり、聖母マリアを深く崇敬していた。
悪魔と交わるなど全く身に覚えがない。
彼女は審問官の厳しい取り調べにも屈せず、容疑を否認した。
拷問を受けてもそれは変わらない。
遂に彼女は水審を受けさせられる事になった。
水審とは神に正邪を伺う神明裁判の一つである。
やり方は被疑者を動けないよう拘束して川や湖に投げ込むだけ。
そして沈めば潔白であり、浮かべば魔女である証明となる。
水は聖なる物なので魔女は拒絶され浮かび上がるという理屈だ。
水に浮かべば魔女として火炙り、沈めばそのまま溺死。
溺死の方がまだましかも知れないが、どちらにせよ死は免れない。
老女は手足を固く縛られ、激流の河の前に立たされた。
身体には長いロープが結び付けられている。
河原では大鍋が火にかけられ、その中では油が煮えたぎっていた。
老女の目の前で、彼女の猫が油の中へ放り込まれた。
集まった見物人らの間からはやんやの喝采。
目を見開き、言葉にならない悲痛な叫びを上げる老婆。
彼女もまた、直ぐに河へと突き落とされた。
巨岩の多い河の中で老女は奔流に揉まれ、何度も岩に打ち付けられた。
そしてやがて流れに呑まれ、水の中へと沈んでいった。
彼女は無実であったのだ。
冤罪だったからといって審問官達の心は特に痛みはしない。
どうでもいい女が一人死んだだけだ。
随分経ってからロープが引かれ、老女の身体は引き揚げられた。
人々がどよめく。
引き摺られて陸に揚がるや、老女はすっくと立ち上がったのだ。
服はボロボロになっているが、その身体には傷一つない。
油の鍋から猫が飛び出し、老女の胸の中に飛び込んだ。
老女は驚き、そして無言で愛猫をぎゅうと抱きしめる。
猫も無傷だ。
涙する老女の姿に人々は困惑する。
魔女ではない事は既に証明された。
では、この奇跡はまさか神の加護によるものなのか。
以後、老女と猫には一定の敬意が払われるようになった。
話を盛っている、と少年は思う。
でも臨場感のある語りに心奪われ、手に汗を握った。
どこまでが本当か分からないが、実際に魔女扱いされた事はあったのかも知れない。
今は人を魔女呼ばわりする者はいない。滅多に。
少年はこのままずっと老女と老猫が平穏に過ごしていければいいなと願う。
心から願う。
☆
昔々。
一人の老女と一匹の老猫の身に起こった、誰も知らないささやかな出来事。
それは彼女達が背教者の疑いで捕まる少し前の事。
すっかり年を取ってヨボヨボだった老女は、自分の死期はもう近いと悟っていた。
このところ身体が重く、具合が良くないのだ。
覚悟はあった。天に召されるのは悪くない。
ただ心残りがあった。
永年共に暮らし、傍に付き従ってくれている愛猫の行く末だ。
老いて活気を失い、自分の膝の上で微睡むばかりの猫。
私が死んだ後、この猫はどうなるの?
誰もいなくなった小屋の中で、一人ぼっちで衰弱して寂しく死んでいくのに違いない。
心が痛む。
猫ももう随分な年だ。お迎えは近いだろう。
ならばせめて、せめて、大往生を我が手で看取り、しっかり見送った後に自分も未練なく死にたい。
老女は聖母マリアに祈り、祈り、祈り続けた。
贅沢な願いを口にするつもりはありません。
ただどうか、自分が果てるのは我が愛猫が静かに天国へと旅立った後にして欲しいのです。
それまで何卒私の命を長らえさせて下さいまし。
それだけどうか・・・。
どうかお願い致します。
天上の聖母マリアは毎日毎夜届く小さな祈願に心を打たれた。
のみならずマリアは猫が大好きだ。
マリアがイエスを生んだ時、同じ場所で同じ時間に雌猫も出産している。
受胎告知をテーマとする絵画にしばしば猫が描かれるのはその為だ。
これは聖書にはないが有名な話であり、猫は聖母マリアの象徴なのだ。
彼女のささやかな願いに応えてあげよう。
聖母マリアは老女の望みを叶えてあげる事にした。
老猫は憂鬱だった。
間もなく自分に死が訪れる事を悟っていたからだ。
死ぬこと自体は構わない。あらゆる生命がいつかは受け入れなければならない宿命だ。
ただ、飼い主の孤独な老女のことが気掛かりなのだ。
長きにわたって自分を愛してくれたこの御主人。
自分が死んだらどんなに嘆き悲しむだろうか。
大好きな主人にそんな悲しい思いをさせるのは辛い。とても辛い。
それに主人の残された寿命もこの先それほど長くはないはずだ。何となく分かる。
その僅かな余生を一人寂しく過ごさせることになるのは何と申し訳ないことか。
切なくて、胸が張り裂けそうだ。
せめて、せめて、もう少しだけ生き延びて、主人の死の床に寄り添いたい。
優しく喉鳴らし、安らかな気持ちで逝けるよう傍に付いて見送ってあげたい。
我が身が果てるのはその後がいい。
老猫は猫の守護聖人ニャンパランに祈り、祈り、祈り続けた。
どうか自分が死ぬのは御主人が安らかに天に召された後にしてくにゃさい・・・。
天上の聖ニャンパランは老猫の小さな願いにいたく心を動かされた。
何といじらしい思いであろうか。
涙溢れて止まらぬ。
よし、あの殊勝な老猫の真摯な望みを叶えてやろう。
そう決めた。
かくして老女と猫は不死の存在となったのである。
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