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七粒目 野茨闇 ~『落花流水の情』の巻~
エピローグ 天人樹に、新たな蕾が香るとき
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薄青色の花が咲き乱れる丘の上を、爽やかな風が吹き渡っていく――。
わたしは、空を見上げながら花の布団に寝そべっていた。
わたしのために饅頭を買いに行ったあの人は、なかなか帰ってこない。
いったい、どこまで行ってしまったのだろう?
もし、饅頭が見つからないのなら、戻ってくればいいのに――。
代わりに、揚げ菓子か果物を買ってきてくれれば、それでもいいのに――。
早く、あの人の顔を見たい……。あの人の声を聞きたい……。
わたしの名前を呼ぶ、あの人の優しい声を……。
◇ ◇ ◇
「深緑姉様! 起きてください、深緑姉様!」
誰だろう、わたしの名前を呼ぶのは――。
少し甲高い、可愛らしい声――。
あの人の声は、こんな子雀みたいな声じゃないわ……。
「深緑姉様っ! もうっ! 起きないなら、この饅頭はわたしがいただきますよ!」
えっ?! 何ですって?!
饅頭?! 饅頭があるの?! 饅頭を食べられるの?!
そういえば、何だかおなかがすいてきた気がする……。
わたしは、パッと目を開けた。
草苺の丸い顔が、にんまり笑ってわたしを見下ろしていた。
「雨涵姉様の言っていたとおりですね! 深緑姉様は、下天したときに食べた饅頭が瑕になって、今でもその美味しさを忘れられないでいるから、饅頭と聞けばすぐに起きるって――」
「饅頭が瑕?」
「ええ。下天すると人間界の様々な欲を知ってしまい、それが天人にとって瑕になると聞きました。深緑姉様は、人間界の饅頭という食べ物に魅せられて、天界へ戻ってからも、いつも饅頭のことばかりを考えているのでしょう?」
ひどいわ、雨涵姉様ったら! 変なことを草苺に教えたりして――。
わたしは、もっと深い瑕を負って苦しんでいるのに――。
―― グルギュルグル……ギュルウウウーンッ……。
「うわっ! 『深緑はね、饅頭のことを考えているとき、お腹から変な音を出すのよ』というお話も本当なのですね! これは大変! さあ、深緑姉様、わたくしと一緒に天空花園の水やりをしましょう! 花たちから気を分けてもらって、饅頭のことなど忘れてしまいましょう!」
草苺に手を取られ、わたしは花びらの布団から起き上がった。
わたしったら、全然成長していない!
起こしてくれる人が変わっただけで、同じように面倒をかけている……。
まだ、わたしの肩までの大きさしかない草苺に手を引かれ、わたしは柄杓を下げて、天空花園の奥へと向かった。
◇ ◇ ◇
わたしが人間界にいたのは、天界の時間で言えば、ほんの半日ほどのことだった。
あんなにいろいろなことがあったのに――。
なんだか全部、昼寝をしている間に見た夢のように思えた。
わたしが天界に戻ったときには、天人樹に、草苺となる天人華が咲いていた。
翠姫様が、宮殿にお部屋を用意してくださって、わたしは二日間、そこでぼんやりとしながら過ごした。
二日目の夕刻、天人果から生まれて間もない草苺が、紅姫様に抱かれて宮殿にやってきた。
「深緑、この子の名前は、そなたが付けておあげなさい」
翠姫様に言われて、わたしは赤子の顔をのぞき込んだ。
大きな黒目がきらきらと光る、愛らしい女の子だった。
何よりも心を引かれたのは、草苺のように赤い小さな唇だ。
この可愛らしい唇は、どんな声で話しかけてくれるのだろう――。
「この子は、草苺――と名付けます! 翠姫様、わたくしの妹分として、この子の世話をさせてもらえませんか?」
「ホホホ……、はじめからそのつもりでしたよ。ついこの間まで、わたくしの腕の中ですやすやと眠っていた深緑が、赤子を育てるようになるなんて……。天界であっても、時の流れの速さを感じることはあるものですね。
深緑、草苺が天女として一人前になるまで、天人寮には戻らずに、ここで草苺の世話をしなさい。そうして――、ゆっくりと瑕を癒やしなさい」
「ありがとうございます!」
わたしは、紅姫様から草苺を受け取り、おそるおそる抱きかかえた。
もぞもぞと動いていた草苺は、わたしと目が合うと嬉しそうに顔をほころばせた。
その愛らしく無垢な笑顔を見て、わたしはとても幸せな気持ちになった。
草苺をいとおしんで育てていこう――。
この子の笑顔と成長が、わたしの心にぽっかり空いた暗い穴を、いつの日か埋めてくれるかもしれない……。
◇ ◇ ◇
それから、十日あまり――。
愛らしく、しかし、たくましく成長した草苺は、羽衣を風になびかせ、小さな体で天空花園の中を飛び回っている。
小振りな柄杓を、びゅんびゅん振り回して、天水をかけまくっている。
まるで、ちょっと前の誰かさんみたいに――。
今、天空花園にいるのは、わたしと草苺の二人だけだ。
翠姫様と三人の姉様たちは、毎日、この時間は下天しているのだ。
妍国の皇帝が、都城から少し離れたところに建てた素朴な離宮で、翠姫様は林佳として、皇帝一家と共に幸せな家族の時間を過ごしていらっしゃる。
災媛の企みを知った天帝様は、劉星皇子が魔軍に利用されないように、皇子が成人するまで、母との絆をしっかり作っておくことを翠姫様に命じた。
今は皇后となった貞海様が、責任をもって皇子の養育に携わっていたが、彼女も、皇子の実の母である翠姫様の来訪をいつも待ち望んでいた。
それも、天界の時間では、残すところ三日となった。
皇子が十五歳になる明明後日で、翠姫様の下天は終わる――。
「深緑姉様も、どなたかに代わっていただいて、一度、下天をしてきたらいいのに……。わたしは、もう姉様が少しの間いなくなっても泣いたりしませんよ!」
一休みしようと、二人並んで天空花園の小道の長椅子に腰掛けると、草苺が無邪気な顔で、わたしに言った。
「ありがとう、草苺。でも、わたしはいいの……。わたしが天界へ戻るときに、天帝様は、人々からわたしの記憶を消してしまった。もう一度会ってみたい人はいるけれど、きっと誰もわたしのことを覚えてはいないわ。
人間界での想い出を懐かしく語り合う人も、わたしは失ってしまったし……」
「深緑姉様……、余計なことを言って……、ごめんなさい……」
悲しそうな顔でわたしを見上げる草苺を、わたしは優しく抱きしめた。
頭や背中をそっと撫でて、安心させてやる。
「おいおい、深緑! わしのことを忘れておるぞ! 言ってくれれば、人間界での想い出をいつでもおぬしと語り合ってやるぞ! 寝台の上で寄り添ってな! フォッ、フォッ、フォッ!」
目の前の植え込みから、小さな青蛙が飛び出てきて、わたしの肩の上にぺったりと引っ付いた。
「老夏?!」
「おう! 隣にいるのが、新しい庭番天女か? ちんまりとして、ちょっと前のおぬしに似ておるのう――。
わしの名は、夏泰然、よろしくな! わしは、まあ、深緑の『いい人』といったところかのう。深緑のことなら何でも知っておるぞ!」
「夏泰然様……。お、お初にお目にかかります、ツ、草苺でございます……。シェ、深緑姉様の……、『いい人』……、というのは……」
わたしは、夏先生の背中を軽くつまみ、足元の草むらの上に降ろした。
そして、蛇のようなねちっこい目つきで、夏先生を睨んだ。
本当のお子ちゃまである草苺に、変なことを吹き込まないでくださいね。
せっかくわたしが、手塩に掛けて、立派な天女に育てようとしているのに――。
「深緑―っ!! 大変ですよーっ!!」
今度は、誰よ?
ああ、雅文……。
雅文は、例の帳面を振り回しながら、ものすごい勢いで走ってきて、転びそうになりながら、わたしたちの前で止まった。
そして、雅文に踏まれかけ、わたしの足元で「ゲロロッ」と鳴いた夏先生を、ちらりと見てから言った。
「深緑、こんなところで、色好みの青蛙の相手なんかしている場合ではありません! 天人樹に新しい蕾がつきました!」
「天人樹に、新しい蕾が――」
「さあ、早く行きましょう、深緑! 草苺も一緒に来なさい! 女神様たちも、集まっておられますよ!」
わたしたち三人は、羽衣を風に揺らしながら、天人樹のある樹園へと急いだ。
◇ ◇ ◇
天人樹に新しい蕾がついたということを聞きつけ、樹園にはたくさんの天人が集まってきていた。
雅文は、わたしと草苺を、蕾がよく見える場所へ案内してくれた。
蕾は、すでにほころびかけていた。
白い柔らかそうな花びらが、日差しを受け広がり始めていた。
「深緑、気づきませんか?」
「気づくって、何を――」
「香りですよ。蕾から漂うほのかな香り……」
雅文が言うとおり、確かに、蕾は香っている……。でも、これは、花の香りというよりは、……えっ?! お酒の香り……?
はっとして雅文の顔を見ると、目に涙をためて、わたしに微笑みかけていた。
「ようやく還ってきたな、馮颯懍、いや思阿よ! さっさと花開け! そして、天人果を稔らせて、とっとと生まれてこい! あんまりぐずぐずしていると、深緑をわたしの二人目の妻にしてしまうぞ! 二人で下天して、おまえが見つけられぬ場所へ逃げてしまうからな!」
いきなり、耳元で大きな声がした。
振り向くと、見たこともない美しい男の人が、わたしを後ろから抱きかかえていた。
しなやかで力強い腕の感触に、なんとなく覚えはあるのだけど――。
黒みを帯びた緑色の長い髪を背に垂らし、ゆったりとした水色の衣をまとったこの人はいったい――。
「おうっ! 見てみよ、深緑! 花びらがうっすらと赤みを帯びてきたぞ! 思阿の奴、相当悔しがっておるようじゃ! フォッ、フォッ、フォッ……、悔しかったら、深緑のために一刻も早く生まれてこい!」
「えっ?! あ、あなたは……、も、もしかして……、ラ、ラ、老夏?!」
美丈夫は、蕩けるような微笑を浮かべてうなずいた。
そして、わたしを抱いていた腕を解くと、優しくわたしの背中を押して、天人華の蕾の下に立たせてくれた。
雅文が、草苺が、そして女神様たちが、笑顔でわたしを見つめていた。
わたしは、黙って蕾を見上げた。
伝えたいことは山ほどあったけど、胸が一杯で、何一つ言葉にできなかった。
代わりに、髪に挿したかんざしに手をやった。
思阿さんからもらった、想い出のかんざし……。
―― あと少し……、あと少し待っていてくださいね、深緑さん……。
ふるりと揺れた蕾から、そんな囁きが零れてきた気がした。
わたしは、蕾を両手でそっと包み、背伸びをしながら、その花びらに口づけた。
◇ ◇ ◇ 終 ◇ ◇ ◇
わたしは、空を見上げながら花の布団に寝そべっていた。
わたしのために饅頭を買いに行ったあの人は、なかなか帰ってこない。
いったい、どこまで行ってしまったのだろう?
もし、饅頭が見つからないのなら、戻ってくればいいのに――。
代わりに、揚げ菓子か果物を買ってきてくれれば、それでもいいのに――。
早く、あの人の顔を見たい……。あの人の声を聞きたい……。
わたしの名前を呼ぶ、あの人の優しい声を……。
◇ ◇ ◇
「深緑姉様! 起きてください、深緑姉様!」
誰だろう、わたしの名前を呼ぶのは――。
少し甲高い、可愛らしい声――。
あの人の声は、こんな子雀みたいな声じゃないわ……。
「深緑姉様っ! もうっ! 起きないなら、この饅頭はわたしがいただきますよ!」
えっ?! 何ですって?!
饅頭?! 饅頭があるの?! 饅頭を食べられるの?!
そういえば、何だかおなかがすいてきた気がする……。
わたしは、パッと目を開けた。
草苺の丸い顔が、にんまり笑ってわたしを見下ろしていた。
「雨涵姉様の言っていたとおりですね! 深緑姉様は、下天したときに食べた饅頭が瑕になって、今でもその美味しさを忘れられないでいるから、饅頭と聞けばすぐに起きるって――」
「饅頭が瑕?」
「ええ。下天すると人間界の様々な欲を知ってしまい、それが天人にとって瑕になると聞きました。深緑姉様は、人間界の饅頭という食べ物に魅せられて、天界へ戻ってからも、いつも饅頭のことばかりを考えているのでしょう?」
ひどいわ、雨涵姉様ったら! 変なことを草苺に教えたりして――。
わたしは、もっと深い瑕を負って苦しんでいるのに――。
―― グルギュルグル……ギュルウウウーンッ……。
「うわっ! 『深緑はね、饅頭のことを考えているとき、お腹から変な音を出すのよ』というお話も本当なのですね! これは大変! さあ、深緑姉様、わたくしと一緒に天空花園の水やりをしましょう! 花たちから気を分けてもらって、饅頭のことなど忘れてしまいましょう!」
草苺に手を取られ、わたしは花びらの布団から起き上がった。
わたしったら、全然成長していない!
起こしてくれる人が変わっただけで、同じように面倒をかけている……。
まだ、わたしの肩までの大きさしかない草苺に手を引かれ、わたしは柄杓を下げて、天空花園の奥へと向かった。
◇ ◇ ◇
わたしが人間界にいたのは、天界の時間で言えば、ほんの半日ほどのことだった。
あんなにいろいろなことがあったのに――。
なんだか全部、昼寝をしている間に見た夢のように思えた。
わたしが天界に戻ったときには、天人樹に、草苺となる天人華が咲いていた。
翠姫様が、宮殿にお部屋を用意してくださって、わたしは二日間、そこでぼんやりとしながら過ごした。
二日目の夕刻、天人果から生まれて間もない草苺が、紅姫様に抱かれて宮殿にやってきた。
「深緑、この子の名前は、そなたが付けておあげなさい」
翠姫様に言われて、わたしは赤子の顔をのぞき込んだ。
大きな黒目がきらきらと光る、愛らしい女の子だった。
何よりも心を引かれたのは、草苺のように赤い小さな唇だ。
この可愛らしい唇は、どんな声で話しかけてくれるのだろう――。
「この子は、草苺――と名付けます! 翠姫様、わたくしの妹分として、この子の世話をさせてもらえませんか?」
「ホホホ……、はじめからそのつもりでしたよ。ついこの間まで、わたくしの腕の中ですやすやと眠っていた深緑が、赤子を育てるようになるなんて……。天界であっても、時の流れの速さを感じることはあるものですね。
深緑、草苺が天女として一人前になるまで、天人寮には戻らずに、ここで草苺の世話をしなさい。そうして――、ゆっくりと瑕を癒やしなさい」
「ありがとうございます!」
わたしは、紅姫様から草苺を受け取り、おそるおそる抱きかかえた。
もぞもぞと動いていた草苺は、わたしと目が合うと嬉しそうに顔をほころばせた。
その愛らしく無垢な笑顔を見て、わたしはとても幸せな気持ちになった。
草苺をいとおしんで育てていこう――。
この子の笑顔と成長が、わたしの心にぽっかり空いた暗い穴を、いつの日か埋めてくれるかもしれない……。
◇ ◇ ◇
それから、十日あまり――。
愛らしく、しかし、たくましく成長した草苺は、羽衣を風になびかせ、小さな体で天空花園の中を飛び回っている。
小振りな柄杓を、びゅんびゅん振り回して、天水をかけまくっている。
まるで、ちょっと前の誰かさんみたいに――。
今、天空花園にいるのは、わたしと草苺の二人だけだ。
翠姫様と三人の姉様たちは、毎日、この時間は下天しているのだ。
妍国の皇帝が、都城から少し離れたところに建てた素朴な離宮で、翠姫様は林佳として、皇帝一家と共に幸せな家族の時間を過ごしていらっしゃる。
災媛の企みを知った天帝様は、劉星皇子が魔軍に利用されないように、皇子が成人するまで、母との絆をしっかり作っておくことを翠姫様に命じた。
今は皇后となった貞海様が、責任をもって皇子の養育に携わっていたが、彼女も、皇子の実の母である翠姫様の来訪をいつも待ち望んでいた。
それも、天界の時間では、残すところ三日となった。
皇子が十五歳になる明明後日で、翠姫様の下天は終わる――。
「深緑姉様も、どなたかに代わっていただいて、一度、下天をしてきたらいいのに……。わたしは、もう姉様が少しの間いなくなっても泣いたりしませんよ!」
一休みしようと、二人並んで天空花園の小道の長椅子に腰掛けると、草苺が無邪気な顔で、わたしに言った。
「ありがとう、草苺。でも、わたしはいいの……。わたしが天界へ戻るときに、天帝様は、人々からわたしの記憶を消してしまった。もう一度会ってみたい人はいるけれど、きっと誰もわたしのことを覚えてはいないわ。
人間界での想い出を懐かしく語り合う人も、わたしは失ってしまったし……」
「深緑姉様……、余計なことを言って……、ごめんなさい……」
悲しそうな顔でわたしを見上げる草苺を、わたしは優しく抱きしめた。
頭や背中をそっと撫でて、安心させてやる。
「おいおい、深緑! わしのことを忘れておるぞ! 言ってくれれば、人間界での想い出をいつでもおぬしと語り合ってやるぞ! 寝台の上で寄り添ってな! フォッ、フォッ、フォッ!」
目の前の植え込みから、小さな青蛙が飛び出てきて、わたしの肩の上にぺったりと引っ付いた。
「老夏?!」
「おう! 隣にいるのが、新しい庭番天女か? ちんまりとして、ちょっと前のおぬしに似ておるのう――。
わしの名は、夏泰然、よろしくな! わしは、まあ、深緑の『いい人』といったところかのう。深緑のことなら何でも知っておるぞ!」
「夏泰然様……。お、お初にお目にかかります、ツ、草苺でございます……。シェ、深緑姉様の……、『いい人』……、というのは……」
わたしは、夏先生の背中を軽くつまみ、足元の草むらの上に降ろした。
そして、蛇のようなねちっこい目つきで、夏先生を睨んだ。
本当のお子ちゃまである草苺に、変なことを吹き込まないでくださいね。
せっかくわたしが、手塩に掛けて、立派な天女に育てようとしているのに――。
「深緑―っ!! 大変ですよーっ!!」
今度は、誰よ?
ああ、雅文……。
雅文は、例の帳面を振り回しながら、ものすごい勢いで走ってきて、転びそうになりながら、わたしたちの前で止まった。
そして、雅文に踏まれかけ、わたしの足元で「ゲロロッ」と鳴いた夏先生を、ちらりと見てから言った。
「深緑、こんなところで、色好みの青蛙の相手なんかしている場合ではありません! 天人樹に新しい蕾がつきました!」
「天人樹に、新しい蕾が――」
「さあ、早く行きましょう、深緑! 草苺も一緒に来なさい! 女神様たちも、集まっておられますよ!」
わたしたち三人は、羽衣を風に揺らしながら、天人樹のある樹園へと急いだ。
◇ ◇ ◇
天人樹に新しい蕾がついたということを聞きつけ、樹園にはたくさんの天人が集まってきていた。
雅文は、わたしと草苺を、蕾がよく見える場所へ案内してくれた。
蕾は、すでにほころびかけていた。
白い柔らかそうな花びらが、日差しを受け広がり始めていた。
「深緑、気づきませんか?」
「気づくって、何を――」
「香りですよ。蕾から漂うほのかな香り……」
雅文が言うとおり、確かに、蕾は香っている……。でも、これは、花の香りというよりは、……えっ?! お酒の香り……?
はっとして雅文の顔を見ると、目に涙をためて、わたしに微笑みかけていた。
「ようやく還ってきたな、馮颯懍、いや思阿よ! さっさと花開け! そして、天人果を稔らせて、とっとと生まれてこい! あんまりぐずぐずしていると、深緑をわたしの二人目の妻にしてしまうぞ! 二人で下天して、おまえが見つけられぬ場所へ逃げてしまうからな!」
いきなり、耳元で大きな声がした。
振り向くと、見たこともない美しい男の人が、わたしを後ろから抱きかかえていた。
しなやかで力強い腕の感触に、なんとなく覚えはあるのだけど――。
黒みを帯びた緑色の長い髪を背に垂らし、ゆったりとした水色の衣をまとったこの人はいったい――。
「おうっ! 見てみよ、深緑! 花びらがうっすらと赤みを帯びてきたぞ! 思阿の奴、相当悔しがっておるようじゃ! フォッ、フォッ、フォッ……、悔しかったら、深緑のために一刻も早く生まれてこい!」
「えっ?! あ、あなたは……、も、もしかして……、ラ、ラ、老夏?!」
美丈夫は、蕩けるような微笑を浮かべてうなずいた。
そして、わたしを抱いていた腕を解くと、優しくわたしの背中を押して、天人華の蕾の下に立たせてくれた。
雅文が、草苺が、そして女神様たちが、笑顔でわたしを見つめていた。
わたしは、黙って蕾を見上げた。
伝えたいことは山ほどあったけど、胸が一杯で、何一つ言葉にできなかった。
代わりに、髪に挿したかんざしに手をやった。
思阿さんからもらった、想い出のかんざし……。
―― あと少し……、あと少し待っていてくださいね、深緑さん……。
ふるりと揺れた蕾から、そんな囁きが零れてきた気がした。
わたしは、蕾を両手でそっと包み、背伸びをしながら、その花びらに口づけた。
◇ ◇ ◇ 終 ◇ ◇ ◇
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※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
<補足>
オススメは翠姫さまのエピソード回です!
アジア各所・伝承に残る天女のイメージさながら、描写が美しいですし胸が温かくなります。
個人的に、いい息子さんがお母さんを大事にしてふたりで協力して暮らしている…
というだけで「ああ、むかし話尊い…」となってしまいますっ(´▽`*)(まったく個人的な趣味(
本編・深緑ちゃんのおぼこい恋も可愛くて良き。なのですが、しっとりお姉さんの純愛…これは強いっ。
るな様、補足感想ありがとうございました!
翠姫のエピソードは、本当はもっときっちり最終章と繋ぐ予定だったのですが、「説明が長くなりそう」と思って触れるのをやめました。
昔話のような伝説のような雰囲気は意識したつもりです。その辺りを汲み取っていただけて嬉しいです。
本編は、ほぼドタバタ展開なので、せめて余話はしっとりと……でもないエピソードもありますけどね(・∀・)
連載お疲れさまでした!
ハッピーエンドです!無問題!
超絶美形が後ろからハグして煽るとか名称何プレイ!?と興奮してしまいましたが
煽られて焦って早く生まれてきてくださいね思阿さん!
るな様、感想をお送りいただき、ありがとうございます!
26万字……、長い長い道のりでした。最後まで楽しんでいただけたようで嬉しいです。
このラストシーンを書くために書き続けた作品ですので、感無量です。
こののち、本当のハッピーエンドが深緑に訪れると思います!