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七粒目 野茨闇 ~『落花流水の情』の巻~

余話・八話目 皇后の侍女・涛超、思うところあって翠姫廟に一人詣でる

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涛超タオチャオ! 行ってらっちゃい!」

 女官に抱かれた劉星リウシン皇子が、小さな手を振って涛超を見送った。
 その横では、先日、皇后になったばかりの貞海チェンハイが微笑んでいた。

 毎月一回、涛超は、後宮内にある翠姫廟ツイチェンびょうに一人で詣でることにしている。
 ひと月の間にあった出来事を書いた帳面を持っていき、皇子の成長ぶりや皇帝の様子などを、女神像に逐一知らせている。
 祈りの言葉と共に像の前で伝えるだけだが、なぜか女神にはすべて通じていて、年に一度、彼女が皇帝の生母・林佳リンジァとして下天してくるたびに、大いに感謝された。

 三年前、「秀女選抜」で選ばれた貞海とともに、涛超が後宮へ来てまもない頃、後宮は大変な災厄に見舞われた。
 長い間使われずにいた白珠宮に、大きな雷が落ちて宮殿が燃え落ちてしまったのだ。
 幸い犠牲者は出なかったが、白珠宮の建物だけでなく、中庭や前庭などに植わっていた木々も全て灰燼に帰してしまった。

 それだけの火災でありながら、不思議なことに隣接する宮殿は延焼を免れた。
 東の宮から、白珠宮だけが、きれいさっぱり消えてしまったのだ。
 焼け残った門や塀も、今は壊されて更地になっている。
 厄除けのため、天帝廟の道士が、土地を浄化する儀式を行ったことはあったが、今のところ新しい宮殿を建てる予定はないらしい。

 涛超は、あの頃のことを、なぜかよく覚えていない。
 ところどころぼんやりとして、はっきりしない部分があるのだ。

(貞海様が後宮に上がるとき、わたしのほかにもう一人、侍女がついてきていた気がするのだけど――)

 女官たちに聞いても、貞海に聞いても、侍女は涛超一人だったと言われた。
 多忙な日々が続いて、疲れが溜まっているのであろうと、貞海にねぎらわれた。

 断片的に、様々な場面が心に浮かぶことがある。
 饅頭を頬張る元気な娘。器の中を泳ぐ小さな青蛙。どんな病にも効くという不思議な薬水――。
 しかし、それらはすぐにまた、記憶の深淵へと静かに沈んでいってしまう。
 今はもう、無理に思い出そうとすることはやめた……。

 翠姫廟に着いた涛超は、いつものように入り口で道士に挨拶をし、持ってきた萌葱色の蝋燭に火を点した。
 そして、翠姫の像の横に設えられた燭台に蝋燭を供え、ゆっくりと像の前にひざまずいた。
 白い石を彫って作られた翠姫の像の穏やかに微笑む顔を一度じっくり眺めてから、涛超は床に押しつけるように深く頭を垂れた。

 ◇ ◇ ◇

 十年以上前のことだ――。
 妓楼か茶館で働くつもりで、田舎から州城・廣武グァンウーへ出てきた涛超は、初めて見る賑やかな町並みに目を丸くしていた。
 そして、たまたま通りかかった天帝廟の前で、彼女に出会ってしまったのだった。

 どこかの裕福な家の娘が、両親と一緒に廟に詣でに来ていた。
 何を願ったのかを母親に問われた娘は、小さな胸を反らして堂々と言った。

「わたしは、『みんなが幸せになれますように!』とお願いしたの。わたしは、今とても幸せだから、みんなにもわたしと同じように幸せになって欲しいの。天帝様になら、きっとおできになると思うわ!」

 その言葉を聞いた途端、遠い前世の記憶が涛超の頭に流れ込んできた。
 運命を感じた涛超は、こっそり一家の後をつけ、トゥ家という大きな商家の者たちであることを確かめると、その足で口入れ屋に向かい、杜家での仕事がないか尋ねた。
 ちょうど、奥向きの下回しを募っていたので、さっそく紹介してもらった。

 下回しとして働くうちに、「自分の望むことをよく察して動いてくれる」と貞海に認められ、貞海付きの侍女に出世した。
 貞海と共に別邸で暮らした日々は、今でも忘れられない想い出だ。
 そして、二人一緒に後宮に上がり、貞海の願いだった皇帝との対面を果たした。

 皇帝と貞海は、前世では、浩宇ハオユー永芳ヨンファンいう名の親子だった――。
 小さな集落で、畑仕事や養蚕に励み、二人で仲良く暮らしていたらしい。
 ある日、記憶をなくし林に倒れていた若い女を拾い、家に迎え入れたが、彼女が女神・翠姫であることがわかり、泣く泣く親子は彼女を手放すことになったそうだ。
 
 その翠姫が、生まれ変わって皇帝となった浩宇のもとへやって来て、妻となり子までなした。
 親子は今、前世で叶わなかった夢を叶え幸せの絶頂にある。

 白珠宮の火災以降、翠姫は毎夏、天界から侍女と共に人間界に降りてくるようになった。
 都城から少し離れた場所にある小さな離宮で、皇帝、貞海、そして皇子と、ひと月ほど一緒に過ごす。
 四人の仲睦まじい姿を見て、涛超もまた幸福に身を震わせる。
 なぜなら、涛超は――。


「涛超どの、いつも熱心でございますな。あなたのように敬虔な信徒を得て、翠姫様もさぞやお喜びでしょう」
「道士様、お褒めいただき嬉しゅうございます。しかし、わたくしなどの願いが、女神様に届くものでしょうか?」
「女神様は、慈悲深いお方です。熱心に祈れば、きっとお聞き届けくださいますよ」

 突然道士が声を掛けてきたので、涛超は慌てたが、女神像に話した中身までは聞かれてはいないようだ。
 涛超は、何も知らない道士を、少しだけ哀れに思った。

(道士様、修行を積んだあなたでも、生涯お目にかかれない尊いお方と、わたくしは毎年ひと月ほどの間、離宮で親しく過ごさせていただいているのですよ――。申し訳ありません)

 貞海から預かってきた金子きんすを布施として道士に渡し、丁寧にお辞儀をすると、涛超は翠姫廟をあとにした。

 ◇ ◇ ◇

 涛超が天藍宮へ戻ると、皇子が、女官たちと中庭で追いかけっこをしていた。
 皇子は、すぐに涛超の姿に気づいて、嬉しそうな顔で駆け寄ってきた。

「おかえりなちゃい、涛超! 今日は、何をお願いちてきたの?」

 皇子のくるくるとよく動く大きな黒い瞳に、涛超は、懐かしい面影を見た気がした。
 そして、思わず腕を伸ばすと皇子を抱き上げた。

「わたくしのお願いはいつも同じです。『みんなが幸せになれますように!』、それだけですよ。ずっとずっと昔から――」

 ちょうど部屋から中庭に出てきた貞海が、はっとした顔で涛超の方を見た。
 涛超の胸に、微かな希望が湧いてくる。

(貞海も、とうとう思い出してくれたのだろうか? ずっとずっと昔のことを――)

 ◇ ◇ ◇

 彼が、永芳と初めて会ったのは、隣村に立つ市へ出かけたときだった。
 二人とも、まだ十六だった――。

 永芳は隣村の生まれで、祖父が作った櫛を小さな屋台で売っていた。
 母への土産を買おうと屋台に立ち寄った彼から、永芳は母の顔立ちなどを聞き出し、一番似合いそうなものを選んでくれた。
 にっこりしながら、少しだけまけてくれた。

 翌月の市で、彼は、母が喜んでくれたことを伝えるために、再び永芳の屋台へ顔を出した。
 そして、母が天蚕の糸で織った襟巻きを、この前の礼だと言って渡した。
 それがきっかけで、二人は急速に親しくなった。

 それから二年後、永芳は、彼の所へ嫁いできた。
 彼の両親は、二人に様々な仕事を教えた後、相次いで流行病で亡くなった。
 寂しさを感じていた二人の間に、浩宇が誕生した。
 野良仕事の合間に、豊作を願って、三人で翠姫廟に詣でるようになった。

 翠姫廟で願うことは、いつも同じ――。

 ―― わたしたちは、今とても幸せです。だからどうか、わたしたちのように、みんなが幸せになれますように!

 だが、浩宇が三つになったとき、彼もまた流行病でこの世を去ることになった――。

 ◇ ◇ ◇

 貞海は目を伏せ、「そんなはずはない」というように首を振っていた。
 その様子を、涛超は、少しだけ寂しさを感じながら見つめていた。
 そして、腕に抱えた皇子を貞海に渡すため、ゆっくりと彼女に近づいていった。

 貞海と出会い、自分の前世に気づいたとき、涛超は自分の運命を呪った。
 前世は男であったのに、今世は、なぜか女に生まれ変わってしまったのだ。

 だが、今は、それで良かったと思っている。
 女であったから、ずっと貞海のそばにいて、彼女を見守り続けることができた。
 こうして、後宮にも侍女としてついて来ることができた。
 そして、愛しい浩宇の成長した姿を間近で見ることができた。

 二人と一緒に暮らした時間が、あまりにも短かったせいか、二人は涛超の前世にはいっこうに気づいてくれない。夫であり、父であったのに――。
 こうして近くにいれば、いつか気づいてくれるのだろうか――。
 だが、たとえ気づいてもらえなくても、涛超は、これからも二人の幸せのために、そして、孫である皇子の幸せのために、心をこめて仕えていくつもりだ。
 それが、自分の運命なのだと思って――。


「貞海様、お抱きになってみてください! 劉星リウシンさまは、また重くなられましたよ!」
 
 劉星を抱きかかえようと手を伸ばしてきた貞海の笑顔が、涛超の胸を温かく、そして少しだけ切なくさせた――。
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