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【2‐3】天秤
いつか晴れる空
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雨に混じって火の粉が降るなど、どんな仕打ちだろうか。
自然の驚異に人間が踊らされている。足場の悪い山道は、登りよりも下りが怖い。
押し寄せる記憶。忘れもしない、あの日――。
うしろを見ている竜次が、足並みが揃っていないと指摘した。
「ジェフ、落ち着いて。もう少しゆっくり歩かないと」
山道に慣れていないローズとサキが遅れる。ローズはまだしも、サキは瀕死である。
ミティアはサキを気遣った。手をつなごうと差し出す。
「サキ、大丈夫?」
「すみません。でも、自分の足で歩きたいです」
サキはミティアの厚意を受け取らなかった。サキにも意地がある。荷物を任せてしまっているのに、これ以上は贅沢だ。
進む道中、いつの間にか雨脚は強まり、火の粉は気にならなくなっていた。
どちらにしても、不安定な場所で雨宿りをするよりは、ここを早く離脱した方がいいだろう。先頭のジェフリーは、その考えだった。
雨脚はさらに強まり、今度は土砂降りになった。バケツをひっくり返したような雨に該当する。これ以上の強行は無理だ。ジェフリーは、竜次に再度注意を受けた。
「ジェフ!! いい加減にして。どこかで休まないと、この足場では危険です!!」
皆、マントのお陰で体や荷物は守られているが、頭はびしょ濡れだ。フードはついているが、先を急いで誰も被っていなかった。
道ではない道に、泥の川ができ上がっている。
嫌なことは続く。今度は地震だった。
雨で緩んだ地盤に容赦がない。近くの土砂崩れを目にさせられた。
進む道に土砂が流れ込む。巻き込まれずに済んだが、これでは進む道を考えなくてはいけない。
ジェフリーは雨宿りを提案した。
「あの大きな木の下で少し休もう!!」
これ以上は危険だと判断し、一同揃って提案のあった木の下に移動した。
それなりに茂っているが、激しい雨を完全には防げない。幹を見て、滝にならないポイントを絞った。
髪の毛を絞るキッド。彼女はふんわりとしたボブなのだが、こう濡れてしまうと誰なのかわからない。ペシャンコで別人のような髪の毛だ。
「はぁ、何なのこれ。今日は踏んだり蹴ったりね」
キッドの横には、ホラー映画にでも出て来そうな状態になったコーディ。ローズに髪の毛を絞られていた。雑巾を絞るように、大量の雨水が滴る。
雨をしのぎながら竜次は地図を広げ、ジェフリーと話している。
「さて、ここからの道はどうしましょうか」
「少し遠回りするか、無理に崖を滑って降りるか」
「崖を滑るって、そんな無茶……あっ!」
間違いなく、二人は前の記憶を意識している。竜次は首を振って地図をたたんだ。
「嫌ですね。思い出してしまいます……」
濡れた前髪を気にしながら、竜次は土砂降りの雨を恨めしく見つめる。
ここは『あのとき』と同じ山道だ。場所もそうだが、条件も近い。無常に降る雨、揺れる山道、暗がりで明かりが限られる。ジェフリーにも思い出すものがあり、感傷に浸る。『あの日』からずいぶんの日数が経過した。
ただ、退屈していた日常を抜け出したいだけだった。目の前の理不尽を許せないと思った。『彼女』を助けてやりたいと思った。
その日常を抜け出したのはジェフリーだけではない。雨を見つめながら思い耽るジェフリーに質問をしたのは竜次だった。
「ジェフ、つまらない質問してもいいですか?」
つまらない質問と言いながら、竜次の顔は笑っていた。これだけの材料で、ジェフリーに何を聞きたいかなど想像がつく。
「あのとき、日常を捨てて、本当に良かったと思っていますか?」
予感が的中し、ジェフリーは鼻で笑った。
「その質問、兄貴にも返してやるさ」
「ははっ、これは参った。そうですね」
言うまでもなかったと、竜次はさらに笑う。だが、今度は苦笑いだった。
「私は今が好きだな。でも、昔も否定しません。それもあっての私、今があるので。でも、どうして思い出してしまうんだろう……」
「答えがわかっている質問をするのは頭が悪いな」
これにはジェフリーも呆れながらため息をついた。その呆れはいい意味だ。似ていない兄弟とは思っていたが、意外とそうでもない。
「ジェフ、変わりましたよね」
「兄貴こそ……」
兄弟は苦笑している。どうして、どうして思い出してしまうのか。
記憶を思い起こされたのは兄弟だけではなかった。
ミティアは一層強い思い入れがある。このうるさいくらいの雨。思い出は、あの時握り返してくれた左手に。
ぼうっとしているミティアにサキは声をかけた。
「僕が知らない顔をしています……」
「えっ、あ、何でもないよ? 『あれ』じゃないから……」
ミティアが言う『あれ』とは、少し前から感じるようになっためまいだ。
サキはミティアにタオルを差し出した。ちなみにサキは帽子を被っているせいで、前髪しか濡れていない。
「ミティアさん、さっきはありがとうございました」
「ううん、わたしこそ、ありがと……」
サキは渡してから、キッドにも声をかけた。
「姉さん?」
「あ、うん? どしたの」
「元気がないので……」
「そんなことないわよ。自分の心配をしなさい」
ごもっともな返しだ。サキは自分の身を案じてほしい。
この四人しか知らない雨の日の記憶がここにある。サキには踏み込めなかった。
特に踏み込まず、ローズとコーディは回収した金属について話している。
「ねぇ、ローズ。さっきの金属って目的のものだったの?」
ローズは水筒のようなボトルを見せた。中には先ほど回収した液体の金属が入っている。中身は液体の金属がドロドロと動いていた。
「わっ、これ何色かわからない色してるね」
コーディの反応を見て、ローズはボトルを閉じ、すぐにポケットに戻した。
「不純物こそあると思いますケド……まぁ、ほぼオリハルコンだとは思うデス。残りの金属は何かに加工してもいいと思いますヨ。天然なので、モノはいいと思いマス」
手応えはあるようだが、問題もあるらしい。いい話だけではなかった。
「沙蘭で調べた材料だけは揃いましたが、加工があるデス。ノイズの能力と大きな魔法の力、あと金属を加工してもらえるような『匠』の力が必要デス。何気にこれでおしまいとは行かないヨ」
まだ工程があるのだと忘れかけていた。
「ノイズって……あたしよね、やっぱり……」
ちゃっかり聞いていたキッドが、表情を歪ませる。そんな彼女を、ミティアが見上げている。気がついて、目線を合わせた。
「別に嫌ってわけじゃないのよ。親友を助けるためなら、あたしは喜んで力を貸すけど、自信がないのよね。失敗できないじゃん?」
腕を抱え、身震いする仕草。責任を背負うには重い。
その責任はサキも感じていた。気が進まないのは彼も一緒だった。
「僕よりずっと強い魔導士はいます。少なくともお師匠様の方が強力です。僕じゃいけないと思います……」
サキにしては珍しい。自分の力がないことですっかり自信をなくしてしまったのだろうか。自分は強くないと主張した。
話は広がりジェフリーが突っかかるように口を挟んだ。
「俺はそうは思わない」
真っ向からの否定だ。サキは、何となくジェフリーとぶつかってしまった。
「根拠はありますか? 僕はただの魔導士です」
喧嘩腰の発言だ。こんなぶつかりは珍しい。
「俺と、フィラノスの大図書館に行ったことは覚えてるよな?」
「もちろんです」
「お師匠さんが仕掛けた魔法を解除したのは誰だ?」
サキは指摘を受けてはっとしている。
大図書館は意図的に遮られている扉があった。扉には魔法がかけられていた。そのロックを解除したのはサキだ。術主よりも高い魔力でないと解除できないと、サキ本人が自慢気に説明していたはずだ。
「お前、とっくにお師匠さんを抜いてるんじゃないか」
何も言い返せない。疲れているせいではなく、アイラをとっくに越えていたと気付き、サキは困惑した。
「お師匠さんを越えちゃいけないことはないだろ。それだけの努力をお前はしたんだから、もっと自信を持てよ。いつもの調子はどうしたんだ?」
激励になるのだろうか。ジェフリーはサキを信頼しているからこそ、ここまで強く言える。ただ、その激励は見る者によって捉え方が違った。
ミティアには、ジェフリーが乱暴に言い寄っているように見えて仕方がなかったようだ。間に入ってサキを庇った。
「サキにはサキの思想があると思う。だから、無理強いはよくないよ。キッドもそうだけど、ダメだったら別の人に頼むか、別の道を探せばいいじゃない」
ミティアは真っすぐな目で訴えていた。その視線がジェフリーに突き刺さる。いたたまれない気持ちだった。
ジェフリーはこの状況に苛立った。ミティアの気持ちが汲み取れない。彼女は安易に『別の道』と言ったが、助からなくてもいいのだろうか。生きたいと強く願っていたのに、矛盾した。
ミティアが自分を優先しない性格なのは知っている。常に誰かを気遣っている。だが、誰のために、皆が奮起していたのかを考えてもらいたかった。
ところがジェフリーは、その説明よりも自分の感情が勝ってしまった。
「そんなにサキが大切か? サキが好きなのか?」
信じられない言葉だ。ジェフリーは自覚をしながら、言い直しも取り消しもしなかった。なぜなら、ミティアからの返事がほしかったからだ。
当然ながら、ミティアは困惑した。好きな人からの言葉の剣は、容赦なく心に突き刺さる。
「どうしてそんなことを言うの? わたしはただ……」
仲間に無理をさせたくはない。ただその思いだけで口を挟んだ。それなのに、気持ちを問われた。ミティアは涙を浮かべ、口を震わせた。
ジェフリーは俯き、返事を待たぬまま移動の提案をした。
「……出発しよう。さっきより小雨になった」
誰とも視線を合わせないまま、勝手に出発を試みようとしている。
突然生じた亀裂。ミティアは胸を押さえ、何度も瞬いていた。今にも泣き出してしまいそうだ。
サキは目の前で起きてしまった出来事に驚愕した。
「ミ、ミティアさん……」
自分からは何も慰められない。そうしてしまったら、今度はジェフリーと深い溝が生まれてしまう。いや、もしかしたら、もう遅いのかもしれない。
サキはやっとミティアのフォローをする。先ほど渡したタオルを今度は自分が手にし、ミティアの目元を整える。
「ごめんなさい。僕のせいで、ミティアさんを悲しませてしまった……」
サキは責任を感じていた。自分だけに刃が向けられているのならまだいい。サキはぼんやりと自分の『居場所』を考えていた。
「二人とも、あいつの言うことなんて気にしちゃダメだから」
キッドが渦中の二人に声をかけ、ジェフリーのあとを追った。彼女が何を考えているかなど、聞かずとも表情でわかる。
ジェフリーは黙って進んだ。竜次が呼び止める。
「あ、えっと……ジェフ?」
かまわず先に行くジェフリー。竜次はあとを追った。竜次がジェフリーの横顔に見たのは後悔だった。こういうときに優しい声をかけて、フォローすべきだろう。だが、今回は誰をフォローしたらいいものか、立場は微妙だった。医者であり、ジェフリーの兄なのだから。
「ジェフ!」
先を行くジェフリーに追いつき、やっと肩を叩けた。そこでジェフリーはやっと立ち止まる。
「さっきはごめん。今度はペースを落とすから」
「そ、そうじゃなくて、いえ、それも大切ですけど……」
小降りになったが視界は悪い。ジェフリーはランタンに火を入れて歩き出した。まるでこの場から逃げるようだ。
足場が悪く、落石や土砂に気を付ける以外、魔法での補助をしなくてよくなった。そのお陰か、少しずつサキが元気を取り戻しつつあった。だが、申し訳なさそうに一番うしろを歩いた。ずっと思い詰めている。
その前ではコーディとローズがひそひそと小声で話をしていた。
「ローズ、どう思う?」
どうせ雨の音で先頭の人には聞こえない。
「ヤキモチでしょうネ」
「やっぱそうだよね。大人じゃない」
「今回はジェフ君がいけない気がするデス……」
少なくとも、コーディとローズはサキを気の毒に思っていた。
二人の会話を聞きながら、サキは落ち込んでいた。体力は戻って来たのに、精神的な面で大きなダメージを感じる。
ミティアから荷物を返してもらい、サキは再び重たいカバンを腰に下げていた。これも足が重たい原因の一つだ。だが、そのカバンの中からも擁護の声が聞こえる。
「キミ、変なことは考えない方がいいよ」
「そうですよぉ。長く過ごしているほど起こる、事故ですのぉん……」
使い魔にもフォローされる。せっかくの厚意だが、サキは素直に受け取れない。
なぜなら、自分にも少なからず下心があったからだ。ライバルとは言った。だが、そういう意味ではない。もう友だちとして、接してもらえないかもしれない。思い描いていたいいライバル関係ではなかった。
実際はこんなものなのかもしれない。小説や文章で恋の話は読んだことがあるが、このもどかしさが言い表せない。
この展開に関しては、完全に部外者で新参でもある恵子も興味を引いている。首を突っ込まないので心情はわからないが、きっちりと聞き耳を立てていた。圭馬同様、人間に興味があるようだ。巾着の中からちらちらとサキを見上げていた。
先頭ではちょっとした言い合いになっていた。その言い合いはジェフリーとキッドだ。だが、まともな会話になっていない。なぜなら、キッドがほとんど一方的に話しかけているだけだからだ。
「ねぇ、ちょっと!」
「あとにしてくれ」
「止まって話をしなさいよ!!」
「戻ることを優先したい」
「またそうやって逃げるの!? 本っ当にあんたの悪い癖よ!!」
キッドは言葉で噛みつく。
だが、ジェフリーは今やるべきことを優先させていた。この判断は正しいが、逃げているように見えて仕方ない。
しかも、キッドが呼び止めたのは、一度や二度ではない。それでもジェフリーは聞く耳を持たなかった。
足並みを気にしながら下山した。
レストの街に戻った頃は完全に夜になっていた。夜の山道など、想像したくない。幸いにも、誰も怪我をしていない。
何度も回り道をしたため、こんな時間になってしまった。山は天気が変わりやすいが、雨は止んでいた。そもそも、街は降っていないらしく、地面も乾いていた。これから降るかもしれない。星も月も見せまいと、暗雲が邪魔をする。
この暗雲が、まるで一行の心情のようだ。
同じ宿で同じ部屋。すでに連泊で押さえてあったため、嫌でも同じ部屋だ。顔を合わせてしまう。
ずっと俯いたままのサキ。明らかに苛立っているジェフリー。何とも言えない空気に板挟みにされている竜次。
本当なら雷の一発も落とし、𠮟ってやるべきだろう。だが、竜次はそう思いながらも叱れなかった。なぜなら、今回は各々の恋愛事情が絡むからだ。下手に怒ってしまえば、話がややこしくなる。
竜次にできる提案は、時間の経過でダメージを軽減させることだった。
「お、お風呂行きましょうか? 今日も温泉ですよ!! たくさん歩いたので、きっと気持ちいいですよ!」
気まずい空気を何とかしようと、竜次が仲を取り持って誘う。だが、ジェフリーもサキも反応は素っ気ない。
「僕はあまり濡れていませんから、お二人は先にどうぞ」
不愛想に吐き捨て、サキは早々に荷物の整理を始めた。
仕方なく、兄弟だけでタオルなどを持って退室する。
部屋を出た直後、眉間にしわを寄せたキッドが待ち伏せをしていた。彼女もタオルや着替えを持っている。
鬼のような形相とはまさにこのこと。キッドは左手を腰に当て、右手の人差し指をジェフリーに突き付けた。
「さっさと済ませたいの。ツラ貸しなさい」
喧嘩でも始まりそうな呼び出し方だ。
昨日卓球をした貸し出し部屋で話し込む。道具は借りていないから、本当に話すだけだ。扉もあって都合がいい。
なぜか竜次も同行した。
キッドは眉間のしわを緩め、竜次をまじまじと見る。
「つか、先生、何で?」
「ジェフの保護者なので……」
「保護者なら、もっとこいつのしつけをしてやってはどうですか?」
「今さら、ジェフにしつけ……」
「……」
キッドは再び眉間のしわを深める。ジェフリーにしつけなどできるものか。察しがつき、キッドは深いため息をついた。
竜次は言及をしないで、部屋の入り口に立っている。
ジェフリーは奇妙に思った。変な所で気が合う『二人』だ。これで『友人』とは信じられない。視線を合わせず、ひねくれるように口を尖らせた。
キッドはそのジェフリーに迫る。まるで噛みつきそうな勢いだ。
「あんた、どういうつもりなの!? ミティア、帰ってからずっと泣いてるんだけど?」
ミティアの話をされ、気が気でなくなった。さすがのジェフリーも、黙ってはいられない。
「ミティアは、こんな俺を嫌がるだろうな」
「当然じゃない。ヤな奴ね、あんた……」
今にも殴りかかりそうな勢いだ。キッドの目つきが鋭くなった。
「つまらないヤキモチで、みんなを乱さないでもらえる!? あたしたちの目的は何? それをわかってる!?」
キッドは腕を組んで睨みつけている。ジェフリーは何も否定できなかった。サキに嫉妬をした。これは間違いない。
「サキがミティアを好きなのは知ってる。仲良くしているのを嫌に思った」
「だからヤキモチ……嫉妬でしょ?」
「……」
否定はしない。ジェフリーはキッドの容赦ない言葉に情けなくなって来た。
「ミティアはあんたが好きなのに、どうして信じてあげないの?」
キッドが言うと迫力がある。親友を思うがため、親友の幸せを願っての苦言だ。しかもそれが、普段から毛嫌いをしているジェフリーに対してだ。
「あたしがどんなに止めても、あんたが好きなんだって!」
「……」
「ねぇ、さっさと謝ってくれない? おいしいご飯食べたくないの?」
「ごめん……」
「あ・た・し、じゃなくて!! あんた馬鹿なんじゃないの?!」
キッドはさらに激しく強調した。本当に噛みつきそうな勢いだ。だが、ジェフリーにも謝った理由がきちんとあった。
「キッドが俺を毛嫌いしてるのは知ってる。だけど、それでもこうやって声を出して注意するなんて、すごいと思う。俺も頭が冷えた。確かにみんなに迷惑をかけてすまなかったと思っている……」
ジェフリーが理由を述べただけなのに、キッドは腕を抱えてさすっている。悪寒でも訴えるようにしながらも、ゴキブリを見るような目は健在だ。この視線が突き刺さる。
「うっわ、気色悪い……」
逆にこれが自然で、これ以上の親しい仲にでもならない限り、消えないだろう。
ジェフリーはこの接し方を嫌だと思っていたが、慣れてしまった。どこか心から蔑んでいないようにも思えるし、怒っている内容は自分のためを思っているのではなかろうかと考えていた。
本当はすぐにでも謝るべきだっただろう。だが、サキが何も否定しなかったのが気になった。
時間が経過するにつれて、どんどん罪悪感が押し寄せる。こんな経験、まだ関係が浅かった頃のフィラノスであった。あのときも、自分の負の感情をミティアにぶつけてしまった。仲間との関係が険悪になってしまったのも覚えている。
ジェフリーの顔には反省の色が見えていた。
自身で過ちに気付き、反省をしている。この様子を見て、竜次はやっと諭した。
「私が言っても余計な気遣いでしょうが、傷は浅いうちにちゃんと話し合って和解するべきだと思いますよ?」
竜次一人では手に負えなかったのが正しい。気持ちが落ち着かない状態で叱っては、熱が入ってまた手を上げてしまうのではないだろうか。ここできちんと言い聞かせた。
いつまでも子どものままではない。一番いいのは問題を起こさないことだが、人は簡単には変われない。
ジェフリーはゆっくりと、絞るように言う。
「そう、だよな……」
「この年で残っている少ない友だち、なのでしょう?」
友だちと指摘され、込み上げるものがあった。ただの友だちではない。
出会った頃は、条件つきの友だちだった。しかも、期間限定の。
それからたくさんの苦楽をともにして、力を合わせて戦った仲だ。虐待され傷ついたサキの心を救った。同じ魔導士狩りを知っているゆえに、お互いの脛の傷を知る数少ない友だちである。
旅に同行する確信的な理由はサキの中になかった。ただ、人の役に立ちたい。それから、今にいたる。
ジェフリーにとってはただの友だちではない。その築かれた友情は一言では語りきれない。
「こんなつまらない意地を張って、失っていい仲じゃない……」
無意識にジェフリーの声が震えた。ただの友だちじゃない。
竜次がそっと身を引いて道を譲る。その顔は呆れているようだ。
「まだまだ子どもですね」
「兄貴も人のこと言えるのか?」
「私のことはいいでしょう? 今はジェフですよ!」
「謝りに行って来る」
言葉を交わし、ジェフリーは部屋へ戻って行った。
残された竜次は、キッドを見る。キッドは腕を組んでいたが先ほどよりも表情が和らいでいた。
「弟より親友を優先するのですね」
「むっ、竜次さんこそ、よかったんですか?」
「私はミティアさんが幸せなら、それでかまいません」
キッドは意味深な質問をした。それに対し、竜次は誤解のないようにきちんと答えている。度々受ける指摘が誤解であると主張した。
「誤解をしているようなので、きちんと言いますが、確かにミティアさんは好きですよ。あの剣士さんを前に、私をひどい人じゃないと言い張りました。彼女は純粋で、か弱い方です。なのに、ときどき、誰もが驚くような力強さを見せます。それが彼女の魅力です。過酷な運命に負けないでほしい……だから私は幸せを応援する側です」
キッドはその言葉に笑顔を見せた。
「竜次さんはミティアを幸せにする側じゃないんですね。貿易都市で、あんなに誰が見てもわかるようなアプローチしてましたから、まだ未練があるのかなって……」
キッドの中では、親友の幸せが第一。弟のサキとの絆は、まだこれからだ。もちろん考えてはいる。今は、学び、経験こそが彼のためだと思っていた。
竜次は指摘を受け、自身を哀れむように笑う。
「未練、ねぇ。あるとしたら、ミティアさんの心から笑った笑顔が、一度も私に向けられなかったことですかね」
虚しい笑みだ。自身の存在の小ささを弁えている。そんな佇まいだった。
感傷に浸る。恋人を失って半年、心の隙間が埋まることはなかった。思えば、最初からミティアの気持ちは自分に向いていなかった。それでも心のどこかで自分のものにしたい野心が芽生えていた。否定はしない。
ジェフリーの保護者という建前から、旅に同行した。医者として禁忌の魔法に興味を持った。それも建前であり、禁忌の魔法で亡くなった恋人が生き返るのでないかと利用しようとした。仲間をだまし、ミティアをだまし、自分のことだけのためを考えていた。
それが、仲間と一緒に旅をし、一つの目標に向かうことで自分の目的はどうでもよくなってしまった。
自分の私利私欲に忠実なままであれば、自分はここにはいないだろう。もしかしたら、『あちら側』の人間だった可能性もある。
竜次はキッドと二人きりであることに気が付いた。さすがに気まずい。かぶりを振り、ジェフリーの様子を見に行こうとする。
キッドは竜次を引き止めた。
「待って!」
引き止める方法があまりにも特徴的だ。キッドは手を回した。竜次に背後から抱き着く形になった。
竜次はキッドの行動に疑問を持った。縮まる距離。ふくよかな胸と、頭、おでこが背中に感じられた。
「クレア……?」
何か言いたいことがある。要件があるから引き止めたのだろうが、ここまで強く引き止めるのはなぜだろうか。話す機会を設けるべきだったのかもしれない。もしかしたら、腹の内を聞いてキッドの心情が変化したのかもしれない。
「あたし、竜次さんと友人をやめます」
キッドから突き放された言葉。
竜次は背中に冷たさを感じた。いい流れかと期待した自分を嘲笑う。
「きっと、それがいいです。私はこんなにも弱くて、女々しくて……」
「違うんです。そうじゃないんですよ。馬鹿!!」
キッドの声が震えている。手も、頭も、カタカタと歯が当たる音がした。次に聞こえて来たのはすすり泣く声だった。
「親友がこんなにも恵まれて、寂しいです。あたし、このままじゃ本当に一人になっちゃう……」
いつも誰かを牽引している強いキッドではない。竜次が背中越しに感じた彼女は、脆くて弱いただの女性だった。ここは励ますべきだろうと、キッドの気持ちに向き合った。
「一人じゃないでしょう?」
竜次は回された手に自分の手を重ねた。震えが止まる。
難しく考え過ぎていた。気を遣わず、相手を尊重し、同じ目線で見つけたもの。
キッドの手を解き、向かい合った。どうしても顔を見て言いたい。
「クレア、あなたを一人にさせない。私が……絶対にさせない」
「りゅ……じ、さん?」
「私も、クレアと友人でいることをやめたい」
「……!?」
「私は、あなたが好きです。だから、友人よりも先の関係になりたい。将来を考えて、ちゃんと向き合いたいと思います」
今度は竜次の声が震えてしまった。遂に言ってしまったと、面映ゆい。
キッドは涙を浮かべ、両手で顔を覆った。頷きこそするが返事を聞いておらず、竜次はおろおろと取り乱す。
「そ、そんなに泣かれたら、私が悪いことをしたみたいじゃ……」
「あたし……その、一人じゃないってわかったら、うれしくて、その……」
キッドの涙の理由が告白ではない。もしや、告白の言葉が届いていないのだろうか。竜次は何とか落ち着かせようとあたふたしていると、背後に人の気配と視線を感じた。
ドアが微かに開かれ、ジェフリーが気まずそうに目線を逸らしている。
「あぁ……えぇ? もう、私、どうしたら……」
「悪い、邪魔をした……」
「な、何ですか? 盗み聞きですか? 悪趣味ですよ?」
わけのわからないことを言っているのは承知している。だが、竜次はとあることに気が付いた。ジェフリーは思い詰めた顔をしている。
ジェフリーはその理由を、絞り出すように言う。
「その、サキが……いないんだ。こっちには……来てないよな?」
サキがいないと聞き、キッドは顔を上げた。泣き顔を必死で隠そうとしながら目を擦っている。
「あ、あたし以外はみんなお風呂よ?」
キッドはルームキーを見せた。少なくとも女性部屋ではないはずだ。サキはそこまでデリカシーのない気質ではない。
ジェフリーは首を振って言う。
「部屋着は手をつけてなかったし、風呂も食堂にもいない」
嫌な予感がする。今はサキが心配だ。
竜次も捜索に加わった。
「フロントに聞いてみます。ジェフは中を探してください」
キッドも気持ちを切り替えた。
「あたしも探すわ!! あの子……思い詰めたらとんでもないことをしそうだから」
すでにわかりきったものなのに、急によそよそしくなった。三人は部屋を飛び出し、捜索をする。
フロントに問い合わせるも、常駐しているわけではないようだ。フロントに突っ立っているだけが仕事ではないだろう。これは仕方ない。
三人はいったんロビーで合流する。
まずはキッドから報告した。
「ぐるっと見たけどいなかったわ。あの子、どうしちゃったのかしら」
ジェフリーもロビーを見渡した。宿にはいない。だとしたら……
「まさか、あいつ……」
ガラス越しに雨を確認した。もしかしたら、外へ出たのかもしれない。
ジェフリーは駆け出した。竜次が声をかける。
「ジェフ! 外は雨ですよ?!」
「外に行く!!」
「さっきのマント……」
「いらないっ!」
ジェフリーは腰に剣を下げたままだが、他には何も持たずに外へ出て行った。
竜次とキッドはうしろ姿を見送る形になってしまった。先に動き出したのはキッドだった。
「あたし、みんなにも話してみます」
キッドが、皆がお風呂から引き上げて来る頃合を見計らう。
竜次も頷いてコートを羽織った。
「私も出ます。よかったらもう一度、中を探してください」
「お願いします。あの子がいなくなったらあたし、本当に天涯孤独になっちゃう……」
「そんなことさせない……」
つまらない意地のせいで関係が壊れた。この亀裂を修復するのは本人たちだ。だが、竜次はキッドを天涯孤独させてしまう、『最悪』の道がどうしても許せなかった。
外は山道ほどひどくはなかったが、泥水が靴を跳ねる雨だった。
賢い者が思い詰めたときする行動は、だいたいが突発的なものだ。それがいいか悪いかはまた別の話。
サキは降り頻る雨の中で自分の存在を見つめていた。足は街を出ようとしている。テレポートを使えるまでの元気はまだ戻っていない。ここを出てフィラノスから船でも頼ろうと考えていた。
考えていたのはそれだけではないが、雨に混じって涙が零れる。すすり泣く声は雨に消されていた。
使い魔は心配をし、サキに声をかけている。
「ねーねぇ、泣くくらいなら戻ろうよ」
「主ぃ……」
どうせ帰る場所なんてない。大切な友だちを嫌な気持ちにさせ、傷つけてしまった。
これ以上は、皆にも迷惑をかける。
サキは熟考した果てに、皆と別れる道を選んだ。もうじゅうぶん役に立っただろう。これから先は自分がいなくても大丈夫だ。心残りなのは、キッドと姉弟の絆を何も築けなかった。だが彼女には、きっと竜次がそばにいてくれる。
自分が欲をかいた。友だちの好きな人に、『本当』の恋愛感情を抱いてしまった。気持ちを打ち明ける勇気はない。けれど、これ以上一緒にいればいるうちに『憧れ』ではなくなってしまう。
すすり泣きながら街と外の境目の柵を越えた。この先は外の世界。夜だし、きっと目立たない。
「お前、ふざけるなっ!!」
雨音を切り裂くような声だ。
サキはそろそろ『彼』が来ると思っていた。誰にも告げず、タイミングを見計らって来たのに……と肩を落とす。
追って来たのは意地のぶつかったジェフリーだ。サキはここで振り返ってはいけないと、止めた足を再び歩ませる。地面の水を跳ねる音が追って、前に回り込まれた。
ずぶ濡れのジェフリーは、どうやってもサキを止めるつもりのようだ。
「何のつもりだ。どこへ行くんだ!?」
ジェフリーはサキの肩を掴んで問いかける。サキは答えず、睨みつけた。
「帰ろう……」
サキはかぶりを振って、手も振り払った。言いたいことを、今ここで、このタイミングで、まとまって返す。
「僕は、大切な友だちを嫌な気持ちにさせた。傷つけた。ずっと憧れていたミティアさんをそそのかそうとした。僕はミティアさんに優しくされて、いい気になっていました」
圭馬とショコラが口出しせず、黙って聞いている。こればかりは茶々を入れる余裕がない。サキは真剣だ。
ジェフリーは首を横に振った。雨を吸った前髪が飛沫を上げる。
「俺だって、お前に嫉妬した。本当に、つまらない嫉妬だ。好きな人を、俺なんかよりずっと賢くて優れているお前に取られるんじゃないかって……」
聞いてサキは一歩下がった。両手に拳を作り、前にかざす。目を瞑って息を吸い、右手だけ引いた。左拳から光が伸びる。光の剣だ。
「そうですよね。もう、僕に居場所なんてない!」
間合いを詰めて、光の剣を下から振り上げる。完全な不意打ち、足元を泥水が跳ねた。
ジェフリーが剣の鞘を動かし、ガードした。弾かれ、お互い間合いを取る。
「サキ、何のつもりだ……」
泣き顔のまま魔法の剣を握るサキ。なっていない構えが彼なりの意思表示らしい。
「これ以上迷惑をかけたくありません。ジェフリーさんやミティアさんを、もっと傷つけてしまう……」
「お前がいないと困る! 頼むから話を聞いてくれっ!!」
説得を試みるも、サキは聞く耳を持たない。雨は小降りになって来たが、彼の心の雨はまだ止まない。
サキが再び光の剣を振り上げ、仕掛けた。ジェフリーは剣を抜かず、サキの右手首を掴んだ。ジェフリーも素人ではない。
右手を掴まれ、サキは左手を振り上げる。拳がジェフリーの頬を殴った。殴ったが弱い。力なく滑り落ち、魔法も解けた。
サキは過呼吸になり、歯を食いしばる。こんな表情をするのは珍しい。
ジェフリーは手を放し、サキを解放した。
「俺にぶつけたいのはそんなモンじゃないだろ。ずっと我慢してたくせに……」
「……して……?」
サキはしゃくりあげながら。力なく両手を落とした。
「どうしていつも怒らないんですか……」
咽び泣くあまり、息苦しそうだ。こんなサキは見たことがない。
「僕は特別扱いしてもらいたいわけじゃないのに……!!」
やっと話せる。ジェフリーはサキの気持ちに正面から向き合った。
「特別扱いなんてしてない! 俺は、お前が純粋にすごい奴だと思う。だから怒れない」
褒める言葉は相変わらず嬉しいようだ。サキは微かに笑っていた。
「すごい自分であろうとした。すごくないと、居場所がないから……」
「馬鹿野郎!! いい加減、簡単なことに気付けッ!!」
度々ジェフリーが指摘する『簡単なことに気が付かない』を、ここでも持ち出した。
「お前がすごくなくても居場所はある。友だち……だから!」
ようやく目を合わせて会話をする。できれば手荒な解決はしたくない。
「でも、ただの友だちじゃない。こんなつまらない喧嘩で、失っていい友だちじゃない!!」
「そう……かも……」
サキは少し頭が冷えたのか、冷静になれている様子だ。それは、言葉に熱を帯びたジェフリーも同じだった。
「僕はずっと、ジェフリーさんを尊敬していました。強いし、リーダーシップがあるし、羨ましかった。だから、何でも持っているジェフリーさんに嫉妬しました。僕は嫌な人です。自分だけいい思いをしようとしました」
サキが心の内を懺悔した。ところが悔しいと感じていたのは、サキだけではない。
「何でもじゃないさ……どうして同じことを考えてたんだろう? 俺もお前が羨ましかった。賢いし、根性はあるし、今の自分に満足しない高みを目指し続ける。俺にないものをたくさん持っているじゃないか」
お互いの持っていないところで嫉妬が生まれた。ミティアは絡んでいたが、根本的な問題は二人がお互いを尊重しているからこそ生まれた溝だ。
サキは軽く首を振って前髪の雫を落とした。
「僕、ジェフリーさんと仲直りがしたいです。謝りたい」
「もちろん、そのつもりで俺は追い駆けて来た。ごめん……」
ジェフリーから頭を下げる。サキはジェフリーの手を握って首を振る。
「僕も意地を張ってごめんなさい、ジェフリーさん」
サキも頭を下げようとしたが、顔を上げようとしたジェフリーに頭突きをするようになってしまい、二人してクスクスと笑ってしまった。
「馬鹿みたい……」
「お前、今のわざとじゃないよな?」
「じゃあ、わざと、にします……」
雨に濡れながら、馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばす。
だがサキは、もう一つ、絶対に謝っておきたかった。苦虫を噛み潰したような顔をしながら、もう一度頭を下げる。
「あの、ごめんなさい。僕、ミティアさんと間接キスをしちゃったんです!!」
「…………は?」
突然の追加で謝罪。ジェフリーは呆れながら何度も瞬いた。ここでようやく圭馬が口を挟んだ。
「ローズちゃんのドリンクだよ。お姉ちゃんがこの子の補助をしていたでしょ? そのときにちょっとね」
「あ、あぁ……」
あのとぼけたミティアなら、それくらいのことはしそうだと思った。もしかしたら、気を遣わずに、ごくごく自然にしていたのかもしれない。
サキは馬鹿正直にことの発端を話した。話したが、サキの補助をお願いしたのはジェフリーだ。
「そんな些細なことで目くじらを立てていたら、これから先、やっと取った宿で男女同室だって考えものじゃないか? くだらない……」
「あっ……」
意識を持ってしまったのは、サキだけのようだ。確かに、ジェフリーがくだらないと一掃する理由がわかりやすかった。
「俺はお願いしていながら、サキとミティアの距離が近いと思った。ミティアがやけに親身になっていると。でもミティアは誰が相手だろうと、そうしていたと思う。俺の心が狭かった」
長く連れ添っているのだ。
急に男女の意識を過剰にさせるなど、この先が思いやられる。
「サキも、ちょっと考えれば簡単な話じゃないか。難しいことばっかり考えてるから、そんな簡単なことがわからないんだよ」
サキはため息をついて肩を落とした。
「それ、何回言われたでしょうね……ほんと、馬鹿みたい」
いつもそうだ。簡単なことを見落とす。
「僕には足りないものがいっぱいありすぎですね。迷惑ばかりかけちゃう……」
「そんなに気になるなら、いっそ、迷惑をかけまくって感覚を麻痺させろ」
「それじゃあ、馬鹿みたいじゃないですか」
仲直りしたいと言ってお互いが歩み寄ったのに、謎の言い合いが始まった。
ふと、くだらないと思いながら言い止まる。それも一瞬で、サキから口を開いた。
「これからも、僕はここにいていいですか? 友だちでいてくれますか?」
サキからの、わかりきった質問だ。ジェフリーの口から直接聞きたい。
ジェフリーは鼻で笑い、サキの肩に手を回した。
「そんなの、決まってる。俺は一度も友だちをやめたいと思ったことはない」
「ほ、本当ですか?」
「こんなに腹の内をぶちまけて、正面からやり合っても、友だちでいたいと思った」
「それは僕も同じです」
「早く帰って、一緒に謝ろう? 美味い飯、食いたいだろ?」
「はははっ、そうですね……」
雨に濡れてびしょびしょになった服。お互いの靴もズボンも泥が跳ねている。
親友と言ったらそうかもしれないが、やはり年齢が気になった。
でも、それでも、親友なのだと思う。
ジェフリーは帰る途中でサキのことを褒める。
「お前って、優秀だよな」
「僕から言わせてみたら、ジェフリーさんも優秀だと思います。だって、僕にはない『強さ』がありますから」
サキは頷いて、あどけなさが残る笑顔を見せた。
ジェフリーは呆れるように息をつく。
「やっぱりお前は優秀だ」
「もっと褒めてもいいんですよ!」
「俺は死ぬまで友だちをやめない。今、決めたからな?」
異性だったら告白の域だろう。よくもまぁ恥ずかしいことを言えたものだ。ジェフリーは心の内をぶつけ合って、やっと『本当の友だち』になれた気がした。
サキは立ち止まり、濡れてしまった前髪を払って言う。
「それじゃあ、ジェフリーさんが死にそうになったら、助けてあげますね」
流れで言ったものだろうが、言葉が重い。ジェフリーも立ち止まって言う。
「変なこと、考えなくていいからな?」
ジェフリーが言ったのは忠告に近い。旅に関わってきた『禁忌の魔法』を思わせるものだったためだ。
サキは優秀だ。もう、ただの魔導士の器ではない。いつか、己の高まりに歯止めが利かなくなり、禁忌の領域に達してしまうのではないか。ジェフリーにはその懸念があった。
サキはジェフリーや皆と行動をともにしてよかったと思っていた。ただの優等生で、フィラノスに留まっていたら誤った道に堕ちていたかもしれない。自立することもできず、居場所もなかった。心の拠り所だったアイラはほとんど不在だった。そんな追い込まれた状態では何でも希望に見えてしまう。
もしかしたら自分は利用され、『あちら側』の人間になっていたかもしれない。
「サキ?」
「あ、いえ、そうですね……」
サキは首を振って気持ちを切り替える。とあることが心の中で定まった。
「ジェフリーさん」
「ど、どうした? 気分でも悪いか?」
先ほどの件もあり、ジェフリーはサキを過度に気遣っていた。だが、見当はずれだったようだ。
サキは眉を下げ、申し訳なさそうにしながら言う。
「僕、今まで誰かの役に立ちたいという、ぼんやりとした目標を持っていました。でも今は違います」
「どうしたんだ、急に……」
ジェフリーは、何をあらたまっているのだろうと身構えてしまった。
サキは大人びた表情を見せる。彼は十六歳、まだまだ子どもと言えばそうかもしれない。だが、この表情は己がやりたいことを見つけた決意のあらわれだった。
「僕は、自分の得意な魔法で誰かを幸せにしたい。そういう魔法があるのなら、今じゃなくても、旅の中ではなくても、いつか見つけてみたいです。それが、人のため、世界のためになるのなら、ね」
言ってからサキはあどけなさの残る笑顔を見せる。ぼんやりとした目標だったが、それが定まった。だが、大きな目標であることは間違いない。
「それまでは社会勉強です。旅の仲間としても、よろしくお願いします」
ジェフリーは手を差し出した。
「よろしく、な?」
「はい!!」
二人は握手をする。友だちとして、仲間として、ライバルとして、お互いを認め合った。その証だった。
実に男らしくて泥臭い。
二人はレストの街に戻った。
空き家の軒先で、マントを羽織った竜次が待っていた。
雨脚は弱まったが、まだまだ降っている。その中でわざわざ待っていたようだ。
「拳で喧嘩でもするなら止めようと思っていましたが、その心配は不要でしたね」
二人のやり取りを離れて眺めていただけだが、呆れている。保護者として、当然の反応だ。
「納得のいく仲直りはできましたか?」
「はいっ!!」
ずぶ濡れのサキが、ジェフリーへ視線を向ける。どうも、ジェフリーの方がひどく濡れている。サキには帽子があるのでその差はあるだろう。
出迎えてくれたのが竜次と知り、圭馬も安心して冗談を言う。
「いやー、ここでお別れなんて寂しいよね。ボク、お兄ちゃん先生ともっとえっちな話したかったし!!」
「ま、まるで私がそういうキャラみたいじゃないですか。誤解を招くので、やめてください!! ま、まったく……」
別れを惜しんでいたのは、圭馬もだった。冗談を真っ向から否定する竜次だが、最近ではすっかり『そういうキャラ』が定着してしまった気がする。ただでさえ、医者はすけべだという偏見を持たれがちだというのに。
小降りになったが、まだ雨は続いた。この様子だと、夜のうちに止むだろう。遠くの雲間から星が見える。
宿に戻ると、ロビーで女性陣が出迎えてくれた。
まずコーディが嫌味を言う。
「きらめく友情漫画でも再現できた?」
これに答えたのはジェフリーだ。
「残念ながらスポ根漫画じゃないと思う」
コーディの言い回しは面白いが、こればかりはジェフリーも苦笑いだ。
「拳で殴り合って築くのかと思った」
「コーディは何かの読み過ぎじゃないか?」
「汗と涙と生傷と雨に濡れて、いい演出。ふぅん、そうかもね……」
呆れすぎて、嘲笑が大袈裟だ。両手を広げて、ひらひらとさせている。コーディがここまでの態度を取るのは珍しい。
サキを心配する声もあった。
「あんた、何、馬鹿なこと考えてたの?! 自分がいなくなって解決するとでも思ったわけ!? あたしがどれだけ心配したと思って……」
キッドがサキを叱責する。サキはこれをうれしがった。
「姉さん、ごめんなさい……」
「あぁ、もぉこの子は……こんな奴ぶん殴ってやればいいのに!!」
キッドはまるで母親のように抱き寄せて、帽子が潰れるほど頭を撫でた。物騒な物言いだが、もちろん本気ではない。
本気ではないと承知だが、ジェフリーがその言葉を拾った。
「へなちょこのパンチなら、食らったけどな……」
「はぁっ?」
キッドはサキに確認を取る。すると、サキはこくりと小さく頷いた。
キッドはそれを確認し、ジェフリーをじっと睨む。蔑む視線が一段と鋭い。
「あたしが追加でビンタしてもいいんだけど」
「絶対兄貴より痛いから勘弁してくれ」
さすがに遠慮したい。ジェフリーは拒否をした。絶対にキッドの一撃は痛い。
さて、茶番はこれくらいにしておいて……。
迎え入れられて、いつもの和やかな空気になりつつあるが、ミティアが不安な顔をしながら座っている。彼女の隣にいたローズが、気を利かせて引き下がった。ローズの表情は笑っている。彼女は察しがいいし、空気が読める。
ジェフリーがミティアの前で頭を下げる。床には雫が落ちた。
「真っ先に謝ればよかった。山道でひどいことを言ってすまなかった。すごく嫌な気分にさせたよな……」
ジェフリーは下げた頭に柔らかい感覚を感じた。タオルがかけられている。
「うぅん……いいの。これがジェフリーの嫌な所。わたしが受け入れないといけない、汚い感情。そうだよね?」
頭が上がらない。受け入れて、学ぶという最も前向きな答えに驚いた。普通なら憤慨するだろう。だが、ミティアは人の汚い部分を知らないがゆえに、学ぶという。
サキはキッドの手を離れた。ジェフリーに同じく、ミティアに謝る。
「ジェフリーさんがあんなことを言ったのは、僕のせいです。僕がいい気になって、つまらないぶつかり合いをして……心配をかけてすいませんでした」
ミティアはサキに対しては意外な反応を示した。サキにタオルを差し出すと、少し怖い顔をした。
「ダメだよ。ずっとジェフリーと友だちでいないと、もったいないよ? みんな、偶然がきっかけで一緒に行動してるけど、もう他人なんかじゃないんだから」
「そ、そうですね……って、あれっ?」
ミティアにも怒られた。注意された程度だが、意外も意外で、サキもリアクションに困っていた。ローズに何か言われたのだろうか。彼女が怒るなど滅多に見られない。
崩れかけた仲間の関係は修復され、一層強まった。
わだかまりのなくなった食卓は一層賑やかになった。
自然の驚異に人間が踊らされている。足場の悪い山道は、登りよりも下りが怖い。
押し寄せる記憶。忘れもしない、あの日――。
うしろを見ている竜次が、足並みが揃っていないと指摘した。
「ジェフ、落ち着いて。もう少しゆっくり歩かないと」
山道に慣れていないローズとサキが遅れる。ローズはまだしも、サキは瀕死である。
ミティアはサキを気遣った。手をつなごうと差し出す。
「サキ、大丈夫?」
「すみません。でも、自分の足で歩きたいです」
サキはミティアの厚意を受け取らなかった。サキにも意地がある。荷物を任せてしまっているのに、これ以上は贅沢だ。
進む道中、いつの間にか雨脚は強まり、火の粉は気にならなくなっていた。
どちらにしても、不安定な場所で雨宿りをするよりは、ここを早く離脱した方がいいだろう。先頭のジェフリーは、その考えだった。
雨脚はさらに強まり、今度は土砂降りになった。バケツをひっくり返したような雨に該当する。これ以上の強行は無理だ。ジェフリーは、竜次に再度注意を受けた。
「ジェフ!! いい加減にして。どこかで休まないと、この足場では危険です!!」
皆、マントのお陰で体や荷物は守られているが、頭はびしょ濡れだ。フードはついているが、先を急いで誰も被っていなかった。
道ではない道に、泥の川ができ上がっている。
嫌なことは続く。今度は地震だった。
雨で緩んだ地盤に容赦がない。近くの土砂崩れを目にさせられた。
進む道に土砂が流れ込む。巻き込まれずに済んだが、これでは進む道を考えなくてはいけない。
ジェフリーは雨宿りを提案した。
「あの大きな木の下で少し休もう!!」
これ以上は危険だと判断し、一同揃って提案のあった木の下に移動した。
それなりに茂っているが、激しい雨を完全には防げない。幹を見て、滝にならないポイントを絞った。
髪の毛を絞るキッド。彼女はふんわりとしたボブなのだが、こう濡れてしまうと誰なのかわからない。ペシャンコで別人のような髪の毛だ。
「はぁ、何なのこれ。今日は踏んだり蹴ったりね」
キッドの横には、ホラー映画にでも出て来そうな状態になったコーディ。ローズに髪の毛を絞られていた。雑巾を絞るように、大量の雨水が滴る。
雨をしのぎながら竜次は地図を広げ、ジェフリーと話している。
「さて、ここからの道はどうしましょうか」
「少し遠回りするか、無理に崖を滑って降りるか」
「崖を滑るって、そんな無茶……あっ!」
間違いなく、二人は前の記憶を意識している。竜次は首を振って地図をたたんだ。
「嫌ですね。思い出してしまいます……」
濡れた前髪を気にしながら、竜次は土砂降りの雨を恨めしく見つめる。
ここは『あのとき』と同じ山道だ。場所もそうだが、条件も近い。無常に降る雨、揺れる山道、暗がりで明かりが限られる。ジェフリーにも思い出すものがあり、感傷に浸る。『あの日』からずいぶんの日数が経過した。
ただ、退屈していた日常を抜け出したいだけだった。目の前の理不尽を許せないと思った。『彼女』を助けてやりたいと思った。
その日常を抜け出したのはジェフリーだけではない。雨を見つめながら思い耽るジェフリーに質問をしたのは竜次だった。
「ジェフ、つまらない質問してもいいですか?」
つまらない質問と言いながら、竜次の顔は笑っていた。これだけの材料で、ジェフリーに何を聞きたいかなど想像がつく。
「あのとき、日常を捨てて、本当に良かったと思っていますか?」
予感が的中し、ジェフリーは鼻で笑った。
「その質問、兄貴にも返してやるさ」
「ははっ、これは参った。そうですね」
言うまでもなかったと、竜次はさらに笑う。だが、今度は苦笑いだった。
「私は今が好きだな。でも、昔も否定しません。それもあっての私、今があるので。でも、どうして思い出してしまうんだろう……」
「答えがわかっている質問をするのは頭が悪いな」
これにはジェフリーも呆れながらため息をついた。その呆れはいい意味だ。似ていない兄弟とは思っていたが、意外とそうでもない。
「ジェフ、変わりましたよね」
「兄貴こそ……」
兄弟は苦笑している。どうして、どうして思い出してしまうのか。
記憶を思い起こされたのは兄弟だけではなかった。
ミティアは一層強い思い入れがある。このうるさいくらいの雨。思い出は、あの時握り返してくれた左手に。
ぼうっとしているミティアにサキは声をかけた。
「僕が知らない顔をしています……」
「えっ、あ、何でもないよ? 『あれ』じゃないから……」
ミティアが言う『あれ』とは、少し前から感じるようになっためまいだ。
サキはミティアにタオルを差し出した。ちなみにサキは帽子を被っているせいで、前髪しか濡れていない。
「ミティアさん、さっきはありがとうございました」
「ううん、わたしこそ、ありがと……」
サキは渡してから、キッドにも声をかけた。
「姉さん?」
「あ、うん? どしたの」
「元気がないので……」
「そんなことないわよ。自分の心配をしなさい」
ごもっともな返しだ。サキは自分の身を案じてほしい。
この四人しか知らない雨の日の記憶がここにある。サキには踏み込めなかった。
特に踏み込まず、ローズとコーディは回収した金属について話している。
「ねぇ、ローズ。さっきの金属って目的のものだったの?」
ローズは水筒のようなボトルを見せた。中には先ほど回収した液体の金属が入っている。中身は液体の金属がドロドロと動いていた。
「わっ、これ何色かわからない色してるね」
コーディの反応を見て、ローズはボトルを閉じ、すぐにポケットに戻した。
「不純物こそあると思いますケド……まぁ、ほぼオリハルコンだとは思うデス。残りの金属は何かに加工してもいいと思いますヨ。天然なので、モノはいいと思いマス」
手応えはあるようだが、問題もあるらしい。いい話だけではなかった。
「沙蘭で調べた材料だけは揃いましたが、加工があるデス。ノイズの能力と大きな魔法の力、あと金属を加工してもらえるような『匠』の力が必要デス。何気にこれでおしまいとは行かないヨ」
まだ工程があるのだと忘れかけていた。
「ノイズって……あたしよね、やっぱり……」
ちゃっかり聞いていたキッドが、表情を歪ませる。そんな彼女を、ミティアが見上げている。気がついて、目線を合わせた。
「別に嫌ってわけじゃないのよ。親友を助けるためなら、あたしは喜んで力を貸すけど、自信がないのよね。失敗できないじゃん?」
腕を抱え、身震いする仕草。責任を背負うには重い。
その責任はサキも感じていた。気が進まないのは彼も一緒だった。
「僕よりずっと強い魔導士はいます。少なくともお師匠様の方が強力です。僕じゃいけないと思います……」
サキにしては珍しい。自分の力がないことですっかり自信をなくしてしまったのだろうか。自分は強くないと主張した。
話は広がりジェフリーが突っかかるように口を挟んだ。
「俺はそうは思わない」
真っ向からの否定だ。サキは、何となくジェフリーとぶつかってしまった。
「根拠はありますか? 僕はただの魔導士です」
喧嘩腰の発言だ。こんなぶつかりは珍しい。
「俺と、フィラノスの大図書館に行ったことは覚えてるよな?」
「もちろんです」
「お師匠さんが仕掛けた魔法を解除したのは誰だ?」
サキは指摘を受けてはっとしている。
大図書館は意図的に遮られている扉があった。扉には魔法がかけられていた。そのロックを解除したのはサキだ。術主よりも高い魔力でないと解除できないと、サキ本人が自慢気に説明していたはずだ。
「お前、とっくにお師匠さんを抜いてるんじゃないか」
何も言い返せない。疲れているせいではなく、アイラをとっくに越えていたと気付き、サキは困惑した。
「お師匠さんを越えちゃいけないことはないだろ。それだけの努力をお前はしたんだから、もっと自信を持てよ。いつもの調子はどうしたんだ?」
激励になるのだろうか。ジェフリーはサキを信頼しているからこそ、ここまで強く言える。ただ、その激励は見る者によって捉え方が違った。
ミティアには、ジェフリーが乱暴に言い寄っているように見えて仕方がなかったようだ。間に入ってサキを庇った。
「サキにはサキの思想があると思う。だから、無理強いはよくないよ。キッドもそうだけど、ダメだったら別の人に頼むか、別の道を探せばいいじゃない」
ミティアは真っすぐな目で訴えていた。その視線がジェフリーに突き刺さる。いたたまれない気持ちだった。
ジェフリーはこの状況に苛立った。ミティアの気持ちが汲み取れない。彼女は安易に『別の道』と言ったが、助からなくてもいいのだろうか。生きたいと強く願っていたのに、矛盾した。
ミティアが自分を優先しない性格なのは知っている。常に誰かを気遣っている。だが、誰のために、皆が奮起していたのかを考えてもらいたかった。
ところがジェフリーは、その説明よりも自分の感情が勝ってしまった。
「そんなにサキが大切か? サキが好きなのか?」
信じられない言葉だ。ジェフリーは自覚をしながら、言い直しも取り消しもしなかった。なぜなら、ミティアからの返事がほしかったからだ。
当然ながら、ミティアは困惑した。好きな人からの言葉の剣は、容赦なく心に突き刺さる。
「どうしてそんなことを言うの? わたしはただ……」
仲間に無理をさせたくはない。ただその思いだけで口を挟んだ。それなのに、気持ちを問われた。ミティアは涙を浮かべ、口を震わせた。
ジェフリーは俯き、返事を待たぬまま移動の提案をした。
「……出発しよう。さっきより小雨になった」
誰とも視線を合わせないまま、勝手に出発を試みようとしている。
突然生じた亀裂。ミティアは胸を押さえ、何度も瞬いていた。今にも泣き出してしまいそうだ。
サキは目の前で起きてしまった出来事に驚愕した。
「ミ、ミティアさん……」
自分からは何も慰められない。そうしてしまったら、今度はジェフリーと深い溝が生まれてしまう。いや、もしかしたら、もう遅いのかもしれない。
サキはやっとミティアのフォローをする。先ほど渡したタオルを今度は自分が手にし、ミティアの目元を整える。
「ごめんなさい。僕のせいで、ミティアさんを悲しませてしまった……」
サキは責任を感じていた。自分だけに刃が向けられているのならまだいい。サキはぼんやりと自分の『居場所』を考えていた。
「二人とも、あいつの言うことなんて気にしちゃダメだから」
キッドが渦中の二人に声をかけ、ジェフリーのあとを追った。彼女が何を考えているかなど、聞かずとも表情でわかる。
ジェフリーは黙って進んだ。竜次が呼び止める。
「あ、えっと……ジェフ?」
かまわず先に行くジェフリー。竜次はあとを追った。竜次がジェフリーの横顔に見たのは後悔だった。こういうときに優しい声をかけて、フォローすべきだろう。だが、今回は誰をフォローしたらいいものか、立場は微妙だった。医者であり、ジェフリーの兄なのだから。
「ジェフ!」
先を行くジェフリーに追いつき、やっと肩を叩けた。そこでジェフリーはやっと立ち止まる。
「さっきはごめん。今度はペースを落とすから」
「そ、そうじゃなくて、いえ、それも大切ですけど……」
小降りになったが視界は悪い。ジェフリーはランタンに火を入れて歩き出した。まるでこの場から逃げるようだ。
足場が悪く、落石や土砂に気を付ける以外、魔法での補助をしなくてよくなった。そのお陰か、少しずつサキが元気を取り戻しつつあった。だが、申し訳なさそうに一番うしろを歩いた。ずっと思い詰めている。
その前ではコーディとローズがひそひそと小声で話をしていた。
「ローズ、どう思う?」
どうせ雨の音で先頭の人には聞こえない。
「ヤキモチでしょうネ」
「やっぱそうだよね。大人じゃない」
「今回はジェフ君がいけない気がするデス……」
少なくとも、コーディとローズはサキを気の毒に思っていた。
二人の会話を聞きながら、サキは落ち込んでいた。体力は戻って来たのに、精神的な面で大きなダメージを感じる。
ミティアから荷物を返してもらい、サキは再び重たいカバンを腰に下げていた。これも足が重たい原因の一つだ。だが、そのカバンの中からも擁護の声が聞こえる。
「キミ、変なことは考えない方がいいよ」
「そうですよぉ。長く過ごしているほど起こる、事故ですのぉん……」
使い魔にもフォローされる。せっかくの厚意だが、サキは素直に受け取れない。
なぜなら、自分にも少なからず下心があったからだ。ライバルとは言った。だが、そういう意味ではない。もう友だちとして、接してもらえないかもしれない。思い描いていたいいライバル関係ではなかった。
実際はこんなものなのかもしれない。小説や文章で恋の話は読んだことがあるが、このもどかしさが言い表せない。
この展開に関しては、完全に部外者で新参でもある恵子も興味を引いている。首を突っ込まないので心情はわからないが、きっちりと聞き耳を立てていた。圭馬同様、人間に興味があるようだ。巾着の中からちらちらとサキを見上げていた。
先頭ではちょっとした言い合いになっていた。その言い合いはジェフリーとキッドだ。だが、まともな会話になっていない。なぜなら、キッドがほとんど一方的に話しかけているだけだからだ。
「ねぇ、ちょっと!」
「あとにしてくれ」
「止まって話をしなさいよ!!」
「戻ることを優先したい」
「またそうやって逃げるの!? 本っ当にあんたの悪い癖よ!!」
キッドは言葉で噛みつく。
だが、ジェフリーは今やるべきことを優先させていた。この判断は正しいが、逃げているように見えて仕方ない。
しかも、キッドが呼び止めたのは、一度や二度ではない。それでもジェフリーは聞く耳を持たなかった。
足並みを気にしながら下山した。
レストの街に戻った頃は完全に夜になっていた。夜の山道など、想像したくない。幸いにも、誰も怪我をしていない。
何度も回り道をしたため、こんな時間になってしまった。山は天気が変わりやすいが、雨は止んでいた。そもそも、街は降っていないらしく、地面も乾いていた。これから降るかもしれない。星も月も見せまいと、暗雲が邪魔をする。
この暗雲が、まるで一行の心情のようだ。
同じ宿で同じ部屋。すでに連泊で押さえてあったため、嫌でも同じ部屋だ。顔を合わせてしまう。
ずっと俯いたままのサキ。明らかに苛立っているジェフリー。何とも言えない空気に板挟みにされている竜次。
本当なら雷の一発も落とし、𠮟ってやるべきだろう。だが、竜次はそう思いながらも叱れなかった。なぜなら、今回は各々の恋愛事情が絡むからだ。下手に怒ってしまえば、話がややこしくなる。
竜次にできる提案は、時間の経過でダメージを軽減させることだった。
「お、お風呂行きましょうか? 今日も温泉ですよ!! たくさん歩いたので、きっと気持ちいいですよ!」
気まずい空気を何とかしようと、竜次が仲を取り持って誘う。だが、ジェフリーもサキも反応は素っ気ない。
「僕はあまり濡れていませんから、お二人は先にどうぞ」
不愛想に吐き捨て、サキは早々に荷物の整理を始めた。
仕方なく、兄弟だけでタオルなどを持って退室する。
部屋を出た直後、眉間にしわを寄せたキッドが待ち伏せをしていた。彼女もタオルや着替えを持っている。
鬼のような形相とはまさにこのこと。キッドは左手を腰に当て、右手の人差し指をジェフリーに突き付けた。
「さっさと済ませたいの。ツラ貸しなさい」
喧嘩でも始まりそうな呼び出し方だ。
昨日卓球をした貸し出し部屋で話し込む。道具は借りていないから、本当に話すだけだ。扉もあって都合がいい。
なぜか竜次も同行した。
キッドは眉間のしわを緩め、竜次をまじまじと見る。
「つか、先生、何で?」
「ジェフの保護者なので……」
「保護者なら、もっとこいつのしつけをしてやってはどうですか?」
「今さら、ジェフにしつけ……」
「……」
キッドは再び眉間のしわを深める。ジェフリーにしつけなどできるものか。察しがつき、キッドは深いため息をついた。
竜次は言及をしないで、部屋の入り口に立っている。
ジェフリーは奇妙に思った。変な所で気が合う『二人』だ。これで『友人』とは信じられない。視線を合わせず、ひねくれるように口を尖らせた。
キッドはそのジェフリーに迫る。まるで噛みつきそうな勢いだ。
「あんた、どういうつもりなの!? ミティア、帰ってからずっと泣いてるんだけど?」
ミティアの話をされ、気が気でなくなった。さすがのジェフリーも、黙ってはいられない。
「ミティアは、こんな俺を嫌がるだろうな」
「当然じゃない。ヤな奴ね、あんた……」
今にも殴りかかりそうな勢いだ。キッドの目つきが鋭くなった。
「つまらないヤキモチで、みんなを乱さないでもらえる!? あたしたちの目的は何? それをわかってる!?」
キッドは腕を組んで睨みつけている。ジェフリーは何も否定できなかった。サキに嫉妬をした。これは間違いない。
「サキがミティアを好きなのは知ってる。仲良くしているのを嫌に思った」
「だからヤキモチ……嫉妬でしょ?」
「……」
否定はしない。ジェフリーはキッドの容赦ない言葉に情けなくなって来た。
「ミティアはあんたが好きなのに、どうして信じてあげないの?」
キッドが言うと迫力がある。親友を思うがため、親友の幸せを願っての苦言だ。しかもそれが、普段から毛嫌いをしているジェフリーに対してだ。
「あたしがどんなに止めても、あんたが好きなんだって!」
「……」
「ねぇ、さっさと謝ってくれない? おいしいご飯食べたくないの?」
「ごめん……」
「あ・た・し、じゃなくて!! あんた馬鹿なんじゃないの?!」
キッドはさらに激しく強調した。本当に噛みつきそうな勢いだ。だが、ジェフリーにも謝った理由がきちんとあった。
「キッドが俺を毛嫌いしてるのは知ってる。だけど、それでもこうやって声を出して注意するなんて、すごいと思う。俺も頭が冷えた。確かにみんなに迷惑をかけてすまなかったと思っている……」
ジェフリーが理由を述べただけなのに、キッドは腕を抱えてさすっている。悪寒でも訴えるようにしながらも、ゴキブリを見るような目は健在だ。この視線が突き刺さる。
「うっわ、気色悪い……」
逆にこれが自然で、これ以上の親しい仲にでもならない限り、消えないだろう。
ジェフリーはこの接し方を嫌だと思っていたが、慣れてしまった。どこか心から蔑んでいないようにも思えるし、怒っている内容は自分のためを思っているのではなかろうかと考えていた。
本当はすぐにでも謝るべきだっただろう。だが、サキが何も否定しなかったのが気になった。
時間が経過するにつれて、どんどん罪悪感が押し寄せる。こんな経験、まだ関係が浅かった頃のフィラノスであった。あのときも、自分の負の感情をミティアにぶつけてしまった。仲間との関係が険悪になってしまったのも覚えている。
ジェフリーの顔には反省の色が見えていた。
自身で過ちに気付き、反省をしている。この様子を見て、竜次はやっと諭した。
「私が言っても余計な気遣いでしょうが、傷は浅いうちにちゃんと話し合って和解するべきだと思いますよ?」
竜次一人では手に負えなかったのが正しい。気持ちが落ち着かない状態で叱っては、熱が入ってまた手を上げてしまうのではないだろうか。ここできちんと言い聞かせた。
いつまでも子どものままではない。一番いいのは問題を起こさないことだが、人は簡単には変われない。
ジェフリーはゆっくりと、絞るように言う。
「そう、だよな……」
「この年で残っている少ない友だち、なのでしょう?」
友だちと指摘され、込み上げるものがあった。ただの友だちではない。
出会った頃は、条件つきの友だちだった。しかも、期間限定の。
それからたくさんの苦楽をともにして、力を合わせて戦った仲だ。虐待され傷ついたサキの心を救った。同じ魔導士狩りを知っているゆえに、お互いの脛の傷を知る数少ない友だちである。
旅に同行する確信的な理由はサキの中になかった。ただ、人の役に立ちたい。それから、今にいたる。
ジェフリーにとってはただの友だちではない。その築かれた友情は一言では語りきれない。
「こんなつまらない意地を張って、失っていい仲じゃない……」
無意識にジェフリーの声が震えた。ただの友だちじゃない。
竜次がそっと身を引いて道を譲る。その顔は呆れているようだ。
「まだまだ子どもですね」
「兄貴も人のこと言えるのか?」
「私のことはいいでしょう? 今はジェフですよ!」
「謝りに行って来る」
言葉を交わし、ジェフリーは部屋へ戻って行った。
残された竜次は、キッドを見る。キッドは腕を組んでいたが先ほどよりも表情が和らいでいた。
「弟より親友を優先するのですね」
「むっ、竜次さんこそ、よかったんですか?」
「私はミティアさんが幸せなら、それでかまいません」
キッドは意味深な質問をした。それに対し、竜次は誤解のないようにきちんと答えている。度々受ける指摘が誤解であると主張した。
「誤解をしているようなので、きちんと言いますが、確かにミティアさんは好きですよ。あの剣士さんを前に、私をひどい人じゃないと言い張りました。彼女は純粋で、か弱い方です。なのに、ときどき、誰もが驚くような力強さを見せます。それが彼女の魅力です。過酷な運命に負けないでほしい……だから私は幸せを応援する側です」
キッドはその言葉に笑顔を見せた。
「竜次さんはミティアを幸せにする側じゃないんですね。貿易都市で、あんなに誰が見てもわかるようなアプローチしてましたから、まだ未練があるのかなって……」
キッドの中では、親友の幸せが第一。弟のサキとの絆は、まだこれからだ。もちろん考えてはいる。今は、学び、経験こそが彼のためだと思っていた。
竜次は指摘を受け、自身を哀れむように笑う。
「未練、ねぇ。あるとしたら、ミティアさんの心から笑った笑顔が、一度も私に向けられなかったことですかね」
虚しい笑みだ。自身の存在の小ささを弁えている。そんな佇まいだった。
感傷に浸る。恋人を失って半年、心の隙間が埋まることはなかった。思えば、最初からミティアの気持ちは自分に向いていなかった。それでも心のどこかで自分のものにしたい野心が芽生えていた。否定はしない。
ジェフリーの保護者という建前から、旅に同行した。医者として禁忌の魔法に興味を持った。それも建前であり、禁忌の魔法で亡くなった恋人が生き返るのでないかと利用しようとした。仲間をだまし、ミティアをだまし、自分のことだけのためを考えていた。
それが、仲間と一緒に旅をし、一つの目標に向かうことで自分の目的はどうでもよくなってしまった。
自分の私利私欲に忠実なままであれば、自分はここにはいないだろう。もしかしたら、『あちら側』の人間だった可能性もある。
竜次はキッドと二人きりであることに気が付いた。さすがに気まずい。かぶりを振り、ジェフリーの様子を見に行こうとする。
キッドは竜次を引き止めた。
「待って!」
引き止める方法があまりにも特徴的だ。キッドは手を回した。竜次に背後から抱き着く形になった。
竜次はキッドの行動に疑問を持った。縮まる距離。ふくよかな胸と、頭、おでこが背中に感じられた。
「クレア……?」
何か言いたいことがある。要件があるから引き止めたのだろうが、ここまで強く引き止めるのはなぜだろうか。話す機会を設けるべきだったのかもしれない。もしかしたら、腹の内を聞いてキッドの心情が変化したのかもしれない。
「あたし、竜次さんと友人をやめます」
キッドから突き放された言葉。
竜次は背中に冷たさを感じた。いい流れかと期待した自分を嘲笑う。
「きっと、それがいいです。私はこんなにも弱くて、女々しくて……」
「違うんです。そうじゃないんですよ。馬鹿!!」
キッドの声が震えている。手も、頭も、カタカタと歯が当たる音がした。次に聞こえて来たのはすすり泣く声だった。
「親友がこんなにも恵まれて、寂しいです。あたし、このままじゃ本当に一人になっちゃう……」
いつも誰かを牽引している強いキッドではない。竜次が背中越しに感じた彼女は、脆くて弱いただの女性だった。ここは励ますべきだろうと、キッドの気持ちに向き合った。
「一人じゃないでしょう?」
竜次は回された手に自分の手を重ねた。震えが止まる。
難しく考え過ぎていた。気を遣わず、相手を尊重し、同じ目線で見つけたもの。
キッドの手を解き、向かい合った。どうしても顔を見て言いたい。
「クレア、あなたを一人にさせない。私が……絶対にさせない」
「りゅ……じ、さん?」
「私も、クレアと友人でいることをやめたい」
「……!?」
「私は、あなたが好きです。だから、友人よりも先の関係になりたい。将来を考えて、ちゃんと向き合いたいと思います」
今度は竜次の声が震えてしまった。遂に言ってしまったと、面映ゆい。
キッドは涙を浮かべ、両手で顔を覆った。頷きこそするが返事を聞いておらず、竜次はおろおろと取り乱す。
「そ、そんなに泣かれたら、私が悪いことをしたみたいじゃ……」
「あたし……その、一人じゃないってわかったら、うれしくて、その……」
キッドの涙の理由が告白ではない。もしや、告白の言葉が届いていないのだろうか。竜次は何とか落ち着かせようとあたふたしていると、背後に人の気配と視線を感じた。
ドアが微かに開かれ、ジェフリーが気まずそうに目線を逸らしている。
「あぁ……えぇ? もう、私、どうしたら……」
「悪い、邪魔をした……」
「な、何ですか? 盗み聞きですか? 悪趣味ですよ?」
わけのわからないことを言っているのは承知している。だが、竜次はとあることに気が付いた。ジェフリーは思い詰めた顔をしている。
ジェフリーはその理由を、絞り出すように言う。
「その、サキが……いないんだ。こっちには……来てないよな?」
サキがいないと聞き、キッドは顔を上げた。泣き顔を必死で隠そうとしながら目を擦っている。
「あ、あたし以外はみんなお風呂よ?」
キッドはルームキーを見せた。少なくとも女性部屋ではないはずだ。サキはそこまでデリカシーのない気質ではない。
ジェフリーは首を振って言う。
「部屋着は手をつけてなかったし、風呂も食堂にもいない」
嫌な予感がする。今はサキが心配だ。
竜次も捜索に加わった。
「フロントに聞いてみます。ジェフは中を探してください」
キッドも気持ちを切り替えた。
「あたしも探すわ!! あの子……思い詰めたらとんでもないことをしそうだから」
すでにわかりきったものなのに、急によそよそしくなった。三人は部屋を飛び出し、捜索をする。
フロントに問い合わせるも、常駐しているわけではないようだ。フロントに突っ立っているだけが仕事ではないだろう。これは仕方ない。
三人はいったんロビーで合流する。
まずはキッドから報告した。
「ぐるっと見たけどいなかったわ。あの子、どうしちゃったのかしら」
ジェフリーもロビーを見渡した。宿にはいない。だとしたら……
「まさか、あいつ……」
ガラス越しに雨を確認した。もしかしたら、外へ出たのかもしれない。
ジェフリーは駆け出した。竜次が声をかける。
「ジェフ! 外は雨ですよ?!」
「外に行く!!」
「さっきのマント……」
「いらないっ!」
ジェフリーは腰に剣を下げたままだが、他には何も持たずに外へ出て行った。
竜次とキッドはうしろ姿を見送る形になってしまった。先に動き出したのはキッドだった。
「あたし、みんなにも話してみます」
キッドが、皆がお風呂から引き上げて来る頃合を見計らう。
竜次も頷いてコートを羽織った。
「私も出ます。よかったらもう一度、中を探してください」
「お願いします。あの子がいなくなったらあたし、本当に天涯孤独になっちゃう……」
「そんなことさせない……」
つまらない意地のせいで関係が壊れた。この亀裂を修復するのは本人たちだ。だが、竜次はキッドを天涯孤独させてしまう、『最悪』の道がどうしても許せなかった。
外は山道ほどひどくはなかったが、泥水が靴を跳ねる雨だった。
賢い者が思い詰めたときする行動は、だいたいが突発的なものだ。それがいいか悪いかはまた別の話。
サキは降り頻る雨の中で自分の存在を見つめていた。足は街を出ようとしている。テレポートを使えるまでの元気はまだ戻っていない。ここを出てフィラノスから船でも頼ろうと考えていた。
考えていたのはそれだけではないが、雨に混じって涙が零れる。すすり泣く声は雨に消されていた。
使い魔は心配をし、サキに声をかけている。
「ねーねぇ、泣くくらいなら戻ろうよ」
「主ぃ……」
どうせ帰る場所なんてない。大切な友だちを嫌な気持ちにさせ、傷つけてしまった。
これ以上は、皆にも迷惑をかける。
サキは熟考した果てに、皆と別れる道を選んだ。もうじゅうぶん役に立っただろう。これから先は自分がいなくても大丈夫だ。心残りなのは、キッドと姉弟の絆を何も築けなかった。だが彼女には、きっと竜次がそばにいてくれる。
自分が欲をかいた。友だちの好きな人に、『本当』の恋愛感情を抱いてしまった。気持ちを打ち明ける勇気はない。けれど、これ以上一緒にいればいるうちに『憧れ』ではなくなってしまう。
すすり泣きながら街と外の境目の柵を越えた。この先は外の世界。夜だし、きっと目立たない。
「お前、ふざけるなっ!!」
雨音を切り裂くような声だ。
サキはそろそろ『彼』が来ると思っていた。誰にも告げず、タイミングを見計らって来たのに……と肩を落とす。
追って来たのは意地のぶつかったジェフリーだ。サキはここで振り返ってはいけないと、止めた足を再び歩ませる。地面の水を跳ねる音が追って、前に回り込まれた。
ずぶ濡れのジェフリーは、どうやってもサキを止めるつもりのようだ。
「何のつもりだ。どこへ行くんだ!?」
ジェフリーはサキの肩を掴んで問いかける。サキは答えず、睨みつけた。
「帰ろう……」
サキはかぶりを振って、手も振り払った。言いたいことを、今ここで、このタイミングで、まとまって返す。
「僕は、大切な友だちを嫌な気持ちにさせた。傷つけた。ずっと憧れていたミティアさんをそそのかそうとした。僕はミティアさんに優しくされて、いい気になっていました」
圭馬とショコラが口出しせず、黙って聞いている。こればかりは茶々を入れる余裕がない。サキは真剣だ。
ジェフリーは首を横に振った。雨を吸った前髪が飛沫を上げる。
「俺だって、お前に嫉妬した。本当に、つまらない嫉妬だ。好きな人を、俺なんかよりずっと賢くて優れているお前に取られるんじゃないかって……」
聞いてサキは一歩下がった。両手に拳を作り、前にかざす。目を瞑って息を吸い、右手だけ引いた。左拳から光が伸びる。光の剣だ。
「そうですよね。もう、僕に居場所なんてない!」
間合いを詰めて、光の剣を下から振り上げる。完全な不意打ち、足元を泥水が跳ねた。
ジェフリーが剣の鞘を動かし、ガードした。弾かれ、お互い間合いを取る。
「サキ、何のつもりだ……」
泣き顔のまま魔法の剣を握るサキ。なっていない構えが彼なりの意思表示らしい。
「これ以上迷惑をかけたくありません。ジェフリーさんやミティアさんを、もっと傷つけてしまう……」
「お前がいないと困る! 頼むから話を聞いてくれっ!!」
説得を試みるも、サキは聞く耳を持たない。雨は小降りになって来たが、彼の心の雨はまだ止まない。
サキが再び光の剣を振り上げ、仕掛けた。ジェフリーは剣を抜かず、サキの右手首を掴んだ。ジェフリーも素人ではない。
右手を掴まれ、サキは左手を振り上げる。拳がジェフリーの頬を殴った。殴ったが弱い。力なく滑り落ち、魔法も解けた。
サキは過呼吸になり、歯を食いしばる。こんな表情をするのは珍しい。
ジェフリーは手を放し、サキを解放した。
「俺にぶつけたいのはそんなモンじゃないだろ。ずっと我慢してたくせに……」
「……して……?」
サキはしゃくりあげながら。力なく両手を落とした。
「どうしていつも怒らないんですか……」
咽び泣くあまり、息苦しそうだ。こんなサキは見たことがない。
「僕は特別扱いしてもらいたいわけじゃないのに……!!」
やっと話せる。ジェフリーはサキの気持ちに正面から向き合った。
「特別扱いなんてしてない! 俺は、お前が純粋にすごい奴だと思う。だから怒れない」
褒める言葉は相変わらず嬉しいようだ。サキは微かに笑っていた。
「すごい自分であろうとした。すごくないと、居場所がないから……」
「馬鹿野郎!! いい加減、簡単なことに気付けッ!!」
度々ジェフリーが指摘する『簡単なことに気が付かない』を、ここでも持ち出した。
「お前がすごくなくても居場所はある。友だち……だから!」
ようやく目を合わせて会話をする。できれば手荒な解決はしたくない。
「でも、ただの友だちじゃない。こんなつまらない喧嘩で、失っていい友だちじゃない!!」
「そう……かも……」
サキは少し頭が冷えたのか、冷静になれている様子だ。それは、言葉に熱を帯びたジェフリーも同じだった。
「僕はずっと、ジェフリーさんを尊敬していました。強いし、リーダーシップがあるし、羨ましかった。だから、何でも持っているジェフリーさんに嫉妬しました。僕は嫌な人です。自分だけいい思いをしようとしました」
サキが心の内を懺悔した。ところが悔しいと感じていたのは、サキだけではない。
「何でもじゃないさ……どうして同じことを考えてたんだろう? 俺もお前が羨ましかった。賢いし、根性はあるし、今の自分に満足しない高みを目指し続ける。俺にないものをたくさん持っているじゃないか」
お互いの持っていないところで嫉妬が生まれた。ミティアは絡んでいたが、根本的な問題は二人がお互いを尊重しているからこそ生まれた溝だ。
サキは軽く首を振って前髪の雫を落とした。
「僕、ジェフリーさんと仲直りがしたいです。謝りたい」
「もちろん、そのつもりで俺は追い駆けて来た。ごめん……」
ジェフリーから頭を下げる。サキはジェフリーの手を握って首を振る。
「僕も意地を張ってごめんなさい、ジェフリーさん」
サキも頭を下げようとしたが、顔を上げようとしたジェフリーに頭突きをするようになってしまい、二人してクスクスと笑ってしまった。
「馬鹿みたい……」
「お前、今のわざとじゃないよな?」
「じゃあ、わざと、にします……」
雨に濡れながら、馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばす。
だがサキは、もう一つ、絶対に謝っておきたかった。苦虫を噛み潰したような顔をしながら、もう一度頭を下げる。
「あの、ごめんなさい。僕、ミティアさんと間接キスをしちゃったんです!!」
「…………は?」
突然の追加で謝罪。ジェフリーは呆れながら何度も瞬いた。ここでようやく圭馬が口を挟んだ。
「ローズちゃんのドリンクだよ。お姉ちゃんがこの子の補助をしていたでしょ? そのときにちょっとね」
「あ、あぁ……」
あのとぼけたミティアなら、それくらいのことはしそうだと思った。もしかしたら、気を遣わずに、ごくごく自然にしていたのかもしれない。
サキは馬鹿正直にことの発端を話した。話したが、サキの補助をお願いしたのはジェフリーだ。
「そんな些細なことで目くじらを立てていたら、これから先、やっと取った宿で男女同室だって考えものじゃないか? くだらない……」
「あっ……」
意識を持ってしまったのは、サキだけのようだ。確かに、ジェフリーがくだらないと一掃する理由がわかりやすかった。
「俺はお願いしていながら、サキとミティアの距離が近いと思った。ミティアがやけに親身になっていると。でもミティアは誰が相手だろうと、そうしていたと思う。俺の心が狭かった」
長く連れ添っているのだ。
急に男女の意識を過剰にさせるなど、この先が思いやられる。
「サキも、ちょっと考えれば簡単な話じゃないか。難しいことばっかり考えてるから、そんな簡単なことがわからないんだよ」
サキはため息をついて肩を落とした。
「それ、何回言われたでしょうね……ほんと、馬鹿みたい」
いつもそうだ。簡単なことを見落とす。
「僕には足りないものがいっぱいありすぎですね。迷惑ばかりかけちゃう……」
「そんなに気になるなら、いっそ、迷惑をかけまくって感覚を麻痺させろ」
「それじゃあ、馬鹿みたいじゃないですか」
仲直りしたいと言ってお互いが歩み寄ったのに、謎の言い合いが始まった。
ふと、くだらないと思いながら言い止まる。それも一瞬で、サキから口を開いた。
「これからも、僕はここにいていいですか? 友だちでいてくれますか?」
サキからの、わかりきった質問だ。ジェフリーの口から直接聞きたい。
ジェフリーは鼻で笑い、サキの肩に手を回した。
「そんなの、決まってる。俺は一度も友だちをやめたいと思ったことはない」
「ほ、本当ですか?」
「こんなに腹の内をぶちまけて、正面からやり合っても、友だちでいたいと思った」
「それは僕も同じです」
「早く帰って、一緒に謝ろう? 美味い飯、食いたいだろ?」
「はははっ、そうですね……」
雨に濡れてびしょびしょになった服。お互いの靴もズボンも泥が跳ねている。
親友と言ったらそうかもしれないが、やはり年齢が気になった。
でも、それでも、親友なのだと思う。
ジェフリーは帰る途中でサキのことを褒める。
「お前って、優秀だよな」
「僕から言わせてみたら、ジェフリーさんも優秀だと思います。だって、僕にはない『強さ』がありますから」
サキは頷いて、あどけなさが残る笑顔を見せた。
ジェフリーは呆れるように息をつく。
「やっぱりお前は優秀だ」
「もっと褒めてもいいんですよ!」
「俺は死ぬまで友だちをやめない。今、決めたからな?」
異性だったら告白の域だろう。よくもまぁ恥ずかしいことを言えたものだ。ジェフリーは心の内をぶつけ合って、やっと『本当の友だち』になれた気がした。
サキは立ち止まり、濡れてしまった前髪を払って言う。
「それじゃあ、ジェフリーさんが死にそうになったら、助けてあげますね」
流れで言ったものだろうが、言葉が重い。ジェフリーも立ち止まって言う。
「変なこと、考えなくていいからな?」
ジェフリーが言ったのは忠告に近い。旅に関わってきた『禁忌の魔法』を思わせるものだったためだ。
サキは優秀だ。もう、ただの魔導士の器ではない。いつか、己の高まりに歯止めが利かなくなり、禁忌の領域に達してしまうのではないか。ジェフリーにはその懸念があった。
サキはジェフリーや皆と行動をともにしてよかったと思っていた。ただの優等生で、フィラノスに留まっていたら誤った道に堕ちていたかもしれない。自立することもできず、居場所もなかった。心の拠り所だったアイラはほとんど不在だった。そんな追い込まれた状態では何でも希望に見えてしまう。
もしかしたら自分は利用され、『あちら側』の人間になっていたかもしれない。
「サキ?」
「あ、いえ、そうですね……」
サキは首を振って気持ちを切り替える。とあることが心の中で定まった。
「ジェフリーさん」
「ど、どうした? 気分でも悪いか?」
先ほどの件もあり、ジェフリーはサキを過度に気遣っていた。だが、見当はずれだったようだ。
サキは眉を下げ、申し訳なさそうにしながら言う。
「僕、今まで誰かの役に立ちたいという、ぼんやりとした目標を持っていました。でも今は違います」
「どうしたんだ、急に……」
ジェフリーは、何をあらたまっているのだろうと身構えてしまった。
サキは大人びた表情を見せる。彼は十六歳、まだまだ子どもと言えばそうかもしれない。だが、この表情は己がやりたいことを見つけた決意のあらわれだった。
「僕は、自分の得意な魔法で誰かを幸せにしたい。そういう魔法があるのなら、今じゃなくても、旅の中ではなくても、いつか見つけてみたいです。それが、人のため、世界のためになるのなら、ね」
言ってからサキはあどけなさの残る笑顔を見せる。ぼんやりとした目標だったが、それが定まった。だが、大きな目標であることは間違いない。
「それまでは社会勉強です。旅の仲間としても、よろしくお願いします」
ジェフリーは手を差し出した。
「よろしく、な?」
「はい!!」
二人は握手をする。友だちとして、仲間として、ライバルとして、お互いを認め合った。その証だった。
実に男らしくて泥臭い。
二人はレストの街に戻った。
空き家の軒先で、マントを羽織った竜次が待っていた。
雨脚は弱まったが、まだまだ降っている。その中でわざわざ待っていたようだ。
「拳で喧嘩でもするなら止めようと思っていましたが、その心配は不要でしたね」
二人のやり取りを離れて眺めていただけだが、呆れている。保護者として、当然の反応だ。
「納得のいく仲直りはできましたか?」
「はいっ!!」
ずぶ濡れのサキが、ジェフリーへ視線を向ける。どうも、ジェフリーの方がひどく濡れている。サキには帽子があるのでその差はあるだろう。
出迎えてくれたのが竜次と知り、圭馬も安心して冗談を言う。
「いやー、ここでお別れなんて寂しいよね。ボク、お兄ちゃん先生ともっとえっちな話したかったし!!」
「ま、まるで私がそういうキャラみたいじゃないですか。誤解を招くので、やめてください!! ま、まったく……」
別れを惜しんでいたのは、圭馬もだった。冗談を真っ向から否定する竜次だが、最近ではすっかり『そういうキャラ』が定着してしまった気がする。ただでさえ、医者はすけべだという偏見を持たれがちだというのに。
小降りになったが、まだ雨は続いた。この様子だと、夜のうちに止むだろう。遠くの雲間から星が見える。
宿に戻ると、ロビーで女性陣が出迎えてくれた。
まずコーディが嫌味を言う。
「きらめく友情漫画でも再現できた?」
これに答えたのはジェフリーだ。
「残念ながらスポ根漫画じゃないと思う」
コーディの言い回しは面白いが、こればかりはジェフリーも苦笑いだ。
「拳で殴り合って築くのかと思った」
「コーディは何かの読み過ぎじゃないか?」
「汗と涙と生傷と雨に濡れて、いい演出。ふぅん、そうかもね……」
呆れすぎて、嘲笑が大袈裟だ。両手を広げて、ひらひらとさせている。コーディがここまでの態度を取るのは珍しい。
サキを心配する声もあった。
「あんた、何、馬鹿なこと考えてたの?! 自分がいなくなって解決するとでも思ったわけ!? あたしがどれだけ心配したと思って……」
キッドがサキを叱責する。サキはこれをうれしがった。
「姉さん、ごめんなさい……」
「あぁ、もぉこの子は……こんな奴ぶん殴ってやればいいのに!!」
キッドはまるで母親のように抱き寄せて、帽子が潰れるほど頭を撫でた。物騒な物言いだが、もちろん本気ではない。
本気ではないと承知だが、ジェフリーがその言葉を拾った。
「へなちょこのパンチなら、食らったけどな……」
「はぁっ?」
キッドはサキに確認を取る。すると、サキはこくりと小さく頷いた。
キッドはそれを確認し、ジェフリーをじっと睨む。蔑む視線が一段と鋭い。
「あたしが追加でビンタしてもいいんだけど」
「絶対兄貴より痛いから勘弁してくれ」
さすがに遠慮したい。ジェフリーは拒否をした。絶対にキッドの一撃は痛い。
さて、茶番はこれくらいにしておいて……。
迎え入れられて、いつもの和やかな空気になりつつあるが、ミティアが不安な顔をしながら座っている。彼女の隣にいたローズが、気を利かせて引き下がった。ローズの表情は笑っている。彼女は察しがいいし、空気が読める。
ジェフリーがミティアの前で頭を下げる。床には雫が落ちた。
「真っ先に謝ればよかった。山道でひどいことを言ってすまなかった。すごく嫌な気分にさせたよな……」
ジェフリーは下げた頭に柔らかい感覚を感じた。タオルがかけられている。
「うぅん……いいの。これがジェフリーの嫌な所。わたしが受け入れないといけない、汚い感情。そうだよね?」
頭が上がらない。受け入れて、学ぶという最も前向きな答えに驚いた。普通なら憤慨するだろう。だが、ミティアは人の汚い部分を知らないがゆえに、学ぶという。
サキはキッドの手を離れた。ジェフリーに同じく、ミティアに謝る。
「ジェフリーさんがあんなことを言ったのは、僕のせいです。僕がいい気になって、つまらないぶつかり合いをして……心配をかけてすいませんでした」
ミティアはサキに対しては意外な反応を示した。サキにタオルを差し出すと、少し怖い顔をした。
「ダメだよ。ずっとジェフリーと友だちでいないと、もったいないよ? みんな、偶然がきっかけで一緒に行動してるけど、もう他人なんかじゃないんだから」
「そ、そうですね……って、あれっ?」
ミティアにも怒られた。注意された程度だが、意外も意外で、サキもリアクションに困っていた。ローズに何か言われたのだろうか。彼女が怒るなど滅多に見られない。
崩れかけた仲間の関係は修復され、一層強まった。
わだかまりのなくなった食卓は一層賑やかになった。
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