白狼 白起伝

松井暁彦

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孟嘗君

 五

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 産まれつき眼が視えなかった訳ではない。漸次、歳を重ねるごとに視力は低下し、二十半ばになる頃には、この眼は闇しか捉えることができないようになった。母の産道を通り外界の大気に触れ、初めて産声を上げる頃から眸の色は灰色だったという。父には妾が数えきれないほどおり、子の数は四十を越えていた。その中でも最も賤しい身分にあったのが母親だった。
 
 母は五月五日の深更にうまやで己を生んだ。賤しい身分にある母に、目を掛ける者などおらず、母は自力で己を産み落としたのだという。
 
 十歳になるまで、昼夜問わずむしろを編み売り歩いた。得られた収入など雀の涙だったが、母子二人で支え合い、慎み深く生き抜いた。十一歳の誕生日を迎える前に、母は以前より患っていた病で死去した。癩病らいびょうだった。病は瞬く間に、母の命を蝕んだ。

「父上を頼りなさい」母の最期の言葉だった。
 父は斉の王家の血筋、田氏でんしの者で、宰相として国を支え、隆盛に導いた偉大な人だと、何度も母は語ってくれた。父のことを語る時の母は嫌いだった。まるでかつての栄耀に縋りつく、尾羽打ち枯らした貴人を想起させたのだ。
 
 母は父を頼るように告げたが知っていた。父は子である、己のことなど愛していない。存在の認知すらしていないだろう。そして、母はひた隠しにしていたが真実を知っている。父は嬰児えいじである、己を殺そうとしたことを。嫌がらせのつもりか、現在の父の愛妾が邑で己を捕まえ吐き捨てるように言った。
 
 古代から五月は物忌み月と考えられており、五月産まれの子は、身の丈が戸の高さになると親を殺すと伝わっている。ましてや、色を失くした奇異な眸である。迷信と容貌が父の強迫観念を駆り立てた。父は我が子に恩情などなく小刀を執り、産声を上げる俺を殺そうとしたのだと。母はへその緒を付けたまま、振り切るように逃げ、今の生活に落ち着いた。

「この忌子いみごめ‼」
 愛妾は、蛇蝎だかつを視るような眼だった。
 
 別段、驚きもしなかったことを覚えている。胤を撒くだけまいて、一度も子供の顔を拝みに来ないような父親である。まだ見ぬ父親像に期待もしていなかった。むしろ、そこまでかすであると、晴れるものさえあった。例え国を隆盛に導いた賢人であっても、子供達と真摯に向き合えないようであれば高が知れる。
 
 国とは人民によって成り立っている。人民が居なければ、種を撒けず、物流は動かず、軍隊は機能しない。子供には将来生産力が見込める。幾ら家柄が賤しく、貧しくとも、彼等には何かを生み出す力があるのだ。創造の前では人は等しく平等なのである。だが、何の価値もない少年の思想ほど虚しく生産性の無いものはない。母が死に活計たっきの術を持たない、己はすぐに飢えた。
 
 泥水を啜り、邑の行きかう人々から物乞いする日々。元々、躰に張り付いた余分な肉はなく、やがて躰は幽鬼のようになった。人々は一度も、己に関心など示さなかった。飢えて死ぬ子供など腐るほどいる。己はその一人に過ぎない。道端に転がる、石ころと何ら変わりはない。
 
 不明瞭な眼で、行き交う人々を眺め続けた。慈悲を与えぬ大人達に、不思議と怒りと憎しみはなかった。ただー。世界の片隅で飢え死ぬ、子供達に無慈悲な大人達になりたくはないと強く思った。
 
 死を覚悟した時、ある貴人が前を通った。良い香りがしたのを覚えている。彼は泥の中で横たわる、瀕死の己の容貌をつらつらと眺めた。

「連れていけ」
 従者に命じ、泥と糞に塗れたまま、何処かへと運ばれた。結論からいえば、彼は異母兄弟だった。異腹の兄が助けてくれたのだ。奇しくも兄によると、己の相貌と父の相貌は似通っていたらしい。
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