白狼 白起伝

松井暁彦

文字の大きさ
66 / 336
孟嘗君

 五

しおりを挟む
 産まれつき眼が視えなかった訳ではない。漸次、歳を重ねるごとに視力は低下し、二十半ばになる頃には、この眼は闇しか捉えることができないようになった。母の産道を通り外界の大気に触れ、初めて産声を上げる頃から眸の色は灰色だったという。父には妾が数えきれないほどおり、子の数は四十を越えていた。その中でも最も賤しい身分にあったのが母親だった。
 
 母は五月五日の深更にうまやで己を生んだ。賤しい身分にある母に、目を掛ける者などおらず、母は自力で己を産み落としたのだという。
 
 十歳になるまで、昼夜問わずむしろを編み売り歩いた。得られた収入など雀の涙だったが、母子二人で支え合い、慎み深く生き抜いた。十一歳の誕生日を迎える前に、母は以前より患っていた病で死去した。癩病らいびょうだった。病は瞬く間に、母の命を蝕んだ。

「父上を頼りなさい」母の最期の言葉だった。
 父は斉の王家の血筋、田氏でんしの者で、宰相として国を支え、隆盛に導いた偉大な人だと、何度も母は語ってくれた。父のことを語る時の母は嫌いだった。まるでかつての栄耀に縋りつく、尾羽打ち枯らした貴人を想起させたのだ。
 
 母は父を頼るように告げたが知っていた。父は子である、己のことなど愛していない。存在の認知すらしていないだろう。そして、母はひた隠しにしていたが真実を知っている。父は嬰児えいじである、己を殺そうとしたことを。嫌がらせのつもりか、現在の父の愛妾が邑で己を捕まえ吐き捨てるように言った。
 
 古代から五月は物忌み月と考えられており、五月産まれの子は、身の丈が戸の高さになると親を殺すと伝わっている。ましてや、色を失くした奇異な眸である。迷信と容貌が父の強迫観念を駆り立てた。父は我が子に恩情などなく小刀を執り、産声を上げる俺を殺そうとしたのだと。母はへその緒を付けたまま、振り切るように逃げ、今の生活に落ち着いた。

「この忌子いみごめ‼」
 愛妾は、蛇蝎だかつを視るような眼だった。
 
 別段、驚きもしなかったことを覚えている。胤を撒くだけまいて、一度も子供の顔を拝みに来ないような父親である。まだ見ぬ父親像に期待もしていなかった。むしろ、そこまでかすであると、晴れるものさえあった。例え国を隆盛に導いた賢人であっても、子供達と真摯に向き合えないようであれば高が知れる。
 
 国とは人民によって成り立っている。人民が居なければ、種を撒けず、物流は動かず、軍隊は機能しない。子供には将来生産力が見込める。幾ら家柄が賤しく、貧しくとも、彼等には何かを生み出す力があるのだ。創造の前では人は等しく平等なのである。だが、何の価値もない少年の思想ほど虚しく生産性の無いものはない。母が死に活計たっきの術を持たない、己はすぐに飢えた。
 
 泥水を啜り、邑の行きかう人々から物乞いする日々。元々、躰に張り付いた余分な肉はなく、やがて躰は幽鬼のようになった。人々は一度も、己に関心など示さなかった。飢えて死ぬ子供など腐るほどいる。己はその一人に過ぎない。道端に転がる、石ころと何ら変わりはない。
 
 不明瞭な眼で、行き交う人々を眺め続けた。慈悲を与えぬ大人達に、不思議と怒りと憎しみはなかった。ただー。世界の片隅で飢え死ぬ、子供達に無慈悲な大人達になりたくはないと強く思った。
 
 死を覚悟した時、ある貴人が前を通った。良い香りがしたのを覚えている。彼は泥の中で横たわる、瀕死の己の容貌をつらつらと眺めた。

「連れていけ」
 従者に命じ、泥と糞に塗れたまま、何処かへと運ばれた。結論からいえば、彼は異母兄弟だった。異腹の兄が助けてくれたのだ。奇しくも兄によると、己の相貌と父の相貌は似通っていたらしい。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

大東亜戦争を有利に

ゆみすけ
歴史・時代
 日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

対ソ戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。 前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。 未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!? 小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!

処理中です...