白狼 白起伝

松井暁彦

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孟嘗君

 六

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 兄は田横でんおうといい、二十歳になるまで庇護下に置いてくれた。その間、兄は字の読み書きなどあらゆるものを授けてくれた。二十歳になる頃には、いよいよ書物の字など読み取れなくなったが、それでも兄が与えてくれた数多の書物の内容は一言一句、頭の中に残っており、諳んじることもできる。

ぶん。お前には家を栄えさせるだけの素質がある」と兄はいったが、田文でんぶんには兄の言葉の意図が汲み取れなかった。
 
 ある日、兄が用意した馬車でせつという城郭に向かった。景色を虚ろな眼で捉えることは叶わないが、城郭内の喧騒で殷賑ぶりはよく分かった。
 
 館へと向かい招じ入れられると、居室では一人の男が待っていた。ぼんやりとした輪郭で男が酷く肥えているのが分かる。飽食の躰。黒い醜い気が、彼の躰を覆っている。田文は視覚を充分に遣えない代わりに第六感が優れていた。視覚が徐々に失われ始めてから、人が放つ精気を捉えることができるようになった。
 
 精気―。いわば、人の心を具現化する気配。その者の心が賤しければ、賤しいほどに心は深く濃く変色していく。
 どれほど修練を積んだ道人であっても、無垢な白にはなれない。完全に無垢な者などは、この世には存在しない。だが、悲しきことに悪意の醜さに終わりはない。人は無限に卑しくなれる。眼の前の男が放つ精気は相当に穢れていた。田文が目の当たりにしたことがないほどに、男の精気は濃く深い黒。

「その眼を知っている」
 酒に灼けた、酷く人を不快にさせる、ざらついた声だった。

「父上の落とし子ですよ」
 兄が告げる。男は短く息を吐くだけだった。

「気味の悪い奴だ」
 恐らく眼のことを指したのだろう。

「何故、こいつをここに?儂にどうしろと?」
 父が兄を見た。

「父上に引き合わせる価値があると思ったからです」
 唸る声が聞こえる。

「お前、何か言いたいことでもあるか?」
 率直な疑念が脳裏を過る。斉を隆盛に導いたという、この男は何処まで物事を見据えているのだろうか。

「何故、父上は私を殺そうと?」

「しれたことだ。五月生まれの子は縁起が悪い。それにその眼だ。気味悪くてかなわん」
 実の息子にあけすけに告げる。怒りはない。心は凪いでいる。

「何故、五月生まれの子は縁起が悪いのでしょう?」

「五月生まれの子は、背丈が戸の高さになると、親を殺すという」

「我が命は天より賜りしもので、戸より賜ったものでは御座いません」

「屁理屈の多い奴だ」
 父が纏う黒気が揺れた。

「人は等しく、天から命を授かっています。父上が案じられる必要はありません。仮定の話ではありますが、もし命を戸より賜っているのならば、館の戸をうんと高くすれば良いのです。誰もその高さに届かぬように」
 田文は勝ち誇ったように笑んだ。

「つまらん」

「迷信を理路で打破したまでです」

「もういい。この話はやめだ。黄、この屁理屈たれをさがらせろ」

「お待ちください。あと一つお聞きしたいことがあります」

「何だ?」

「子の子は何でしょう」

「孫。お前はわしを馬鹿にしておるのか?」
 薄く笑んだだけで、田文は続けた。

「では、孫の孫は」

「玄孫」

「では、玄孫の孫は」
 一拍を置いて、恥じるような咳払いが鳴った。

「知らん」

「斉の宰相として、今日まで斉を支え続けた、父上の雷名は国内のみならず国外にまで轟いております。斉の三王に仕え、父上の畜財は最早一国に相当するものでしょう。ですが、兄上に父上の邸宅にお招き頂き、疑念を抱きました」

「何だ」
 声の調子で、父が大いに気色ばむのが分かる。

「父上には財もあり、人を無条件に畏怖を覚えさせるほどの燦然たる功績がおありです。しかしながらー。父上の邸宅に、一人の賢人も見受けられませんでした。しょうの門にはかならず将あり、しょうの門にはかならず相あり。という古語があります」

「何が言いたい」
 黒気が動揺を体現するように、くねりながら蠢く。

「父上は一体、何の為に蓄財なさるのでしょう?父上は継続してるやも、分からない子々孫々の為に蓄財なさるのか?父上が所有される財は、国庫の三分の一にものぼると聞きます。それほどに膨大な銭が動くことなく止まっている。銭の動きは物流。そして人の流れと一体であります。いわば、父の館は停滞の象徴。之は我が国において、損害でしかありません。己の私腹を肥やすことと、国家の安寧。果たして何方が大事とされるものなのか。父上の真意をお聞かせ願いたい」
 一瀉千里いっしゃせんりに己を捨てた父にぶつけた。父の呼吸の音だけが室内に漏れ聞こえる。

 短い嘆息の後、「やはり、あの時殺しておくべきだったな」と告げると立ち上がった。

「黄。ご苦労であった。今日より、此奴はわしの手許に置く」
 兄は安堵の息を吐き、笑いかけた。

「御意に」
 力強く兄は田文の肩を叩き退出した。

「名は何と言ったかな?」
 狭い空間で二人きりとなる。父の声には、先ほどまで含まれていた険はなかった。

「文と」

「母は息災そくさいか?」

「私が十の時に他界しました」

「そうか」
 別段興味もなさそうだった。

「文。わしの財を好きに遣っても構わん。お前がやりたいようにやってみせろ。あれほどに大口を叩いたのだ。わしを失望させるなよ」
 父の真意は測れなかった。だが、己の言葉が父の固い心を動かしたようだった。
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