11 / 47
空と鳥と新しき怪異
第9話 朝八時の小講義室前
しおりを挟む
一
それは、生物学講義実習棟と理工学部総合研究棟を直角に結ぶ渡り廊下の、丁度直角に配置された正方形の小講義室。
屋根の三分の一を常緑樹の葉に覆われて、ひっそりと佇むその部屋は、通常講義で使用されることは殆どない。
何かの訓練講習や夜間にある大学院生の講義に使われているようだが、一般の学部生にはほとんど縁のない場所。
にも関わらず、俺は今、地面と睨めっこをしながら、その一室の周りを入念に歩いていた。
朝、八時前。
本日、水曜日の天気は曇り。空は分厚い灰色の雲に覆われている。
講義の開始は九時過ぎだというのに、何が悲しくて、その一時間も前に大学に来なければならないのか。もちろん、天神一のせいだった。否、正しくは依頼人のせいだろう。だが、お門違いだと自覚してもなお、天神のせいだと思いたかった。
眠気を垂れ流し、あくびを噛み殺すことさえしない俺の横で、一メートル九十センチを超える偉丈夫は、爽やかに微笑む。
「ふむ、今日もないようだね。良かったよ」
「なあ、こんなに連日で通う必要はあるのか? 依頼人も毎日あるとは言ってなかった。もう少し間隔を開けても良いんじゃないのか?」
不満を口にする俺に、天神はゆるりと口角を持ち上げて軽く両腕を開く。
「たしかに、君の言うことも正しい。けれども僕は、自分の目で見たものを信じる性分でね。
それに遠野先輩の報告書から考えても、一週間のうちに一回は必ず遭遇するはずなのだよ。実際の現場を見れば、新しい気付きを得られるかも知れないだろう? 僕は、その機会を逃したくないのだよ」
「そうか」
自分の目で確かめたい。知りたい。
その気持ちは十分に理解出来た。
屋根のある渡り廊下の下、天神はフリルの白傘を閉じる。
「しかし、早川は深夜のバイトもあるのだろう? 毎朝、付き合わなくとも構わないのだよ?」
「深夜バイト?」
「違うのかい? 目元に、大きなクマがいるけれども」
何を言われているのか分からないまま、自分の目元に触れた。
「……ああ、隈か。別に、問題ない」
粛然とした薄暗い渡り廊下で、彼は背筋をスッと伸ばしたまま、肩をすくめる。素っ気ない返答なのは、自覚していた。
ヘーゼルの瞳は、俺を捕らえ続けている。
「君が付き合ってくれるのは、とても嬉しい。けれども、無理をさせたいわけではないのだよ。それとも、のっぴきならない理由があって、付き合ってくれているのかな?」
俺は答えない。否。答えられない。自分でも『のっぴきならない理由』について、密かに考えあぐねいているのだから当然だろう。
もっとも、解に辿り着いたとしても口に出すつもりもなかった。
無愛想を貫く俺を気にすることのない天神は、さらりとした口調で話題を変える。
「そう言えば、彼女には連絡してくれたのだろう?」
「彼女って、藤枝さんか?」
「もちろんさ! むしろ、彼女以外に誰がいると言うのだい?」
戯けるようにいう天神を無視して、俺はスマートフォンの画面を確認する。
「藤枝さんからは、明日には合流すると返事が来てた」
「ありがとう!」
満足そうに微笑む天神に、俺は疑問をぶつけた。
「この依頼に、彼女を呼ぶ必要はあるのか?」
「論じるまでもない」
淡々とした言い様。
珍しいヘーゼルアイにはもう、俺は映っていない。
彼には見えているのだろう。俺に見えていないものが。
それを不快に思うことも、劣等感を覚えることもない。所詮、俺は名ばかりの相棒。
天神一という男には、慣れてきたはずだった。なのに先週末の一件が、心の中で尾を引いている。
相棒という割には、情報も考えも共有しない。
奔放不羈な言動。
派手な動きに、よく通る声。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはよく言ったものだ。今まで気にもしていなかった些細なことが、妙に鼻につく。
白いフリル傘や、体に馴染むスリピース。自分よりも大きな体躯に、時代遅れの七三分け。白い肌すら腹立たしい。
半ば八つ当たりだと分かっていても、小さな疑問や不満が、ゆっくりと確実に膨らんでいく。
「どうしたんだい、早川?」
それでも、人間には人間の。
天神には天神の了見がある。
踏み込めば、痛い目に遭うことだって少なくない。それでも、天神に問いたいのか。否、何を問う。
そもそも、自分は踏み込みたいと思っているのだろうか。バカバカしい。浅く狭く、上手に付き合うことこそが至上。深入りに何の得がある。
思考が深海へと引きずり込まれていく。
体が重い。
「早川? 大丈夫かい、早川?」
ポンッと肩に手を置かれたことにより、意識は強制的に浮上する。
「……何でもない」
「顔色があまり良くないね。今日はもう解散しよう」
「……ああ」
「大丈夫かい?」
何も話す気になれない俺は、心配そうに顔を覗く男の視界を手で遮る。「問題ない」と言えば、スリーピースの偉丈夫はコンパスのように長い足を一歩前に踏み出して、離れた。
靴音がカツンと廊下に響く。だが、それ以上の音は続かない。
不思議に思って顔を上げると、天神は立ち止まって俺を見ていた。
「早川。君のこの後の予定は?」
「図書館で寝る」
「なるほど、実に君らしい」
天神はホッとしたように笑う。
「もしも今以上に具合が悪くなるようなことがあれば、必ず連絡してくれたまえよ?」
「……ああ」
「約束してくれるね?」
「分かったから、早く行け」
シッシッと手を払うと、天神は少し困ったように笑って、背を俺に向けた。
コツコツと軽快に音は響いて、遠ざかっていく。
俺は広い背が視界から消えるまで、空一面に広がる重たい灰色の雲を見上げていた。
雨は降りそうにはない。
アパートに帰ろうか。そう考えて重い頭を振る。朝一の講義は必修科目。万が一にでも欠席することになったら、まずい。
「やっぱり図書館で寝るのが、ベターだな」
くたびれたジーパンからスマートフォンを取り出して、ロックを解除する。
消音アラームを八時四十五分に設定。
ついでにメッセージアプリを開いて、悠斗の名前を押した。
――図書館で寝てる。悪いが一限の始まる十分前に、メッセージを頼む。
先ほどよりも、呼吸は苦しくない。なのに、やっぱり頭にはモヤが掛かり続けていた。向けられた敵意を考えて、ここ最近は満足に眠ることが出来ていない。思ったよりも繊細な神経をしていたことに、自分でも呆れてしまう。
「仮眠をとらないとな」
大きな欠伸を一つした俺は、快適で安全な微睡みを得るべく、図書館へ歩を進めた。
それは、生物学講義実習棟と理工学部総合研究棟を直角に結ぶ渡り廊下の、丁度直角に配置された正方形の小講義室。
屋根の三分の一を常緑樹の葉に覆われて、ひっそりと佇むその部屋は、通常講義で使用されることは殆どない。
何かの訓練講習や夜間にある大学院生の講義に使われているようだが、一般の学部生にはほとんど縁のない場所。
にも関わらず、俺は今、地面と睨めっこをしながら、その一室の周りを入念に歩いていた。
朝、八時前。
本日、水曜日の天気は曇り。空は分厚い灰色の雲に覆われている。
講義の開始は九時過ぎだというのに、何が悲しくて、その一時間も前に大学に来なければならないのか。もちろん、天神一のせいだった。否、正しくは依頼人のせいだろう。だが、お門違いだと自覚してもなお、天神のせいだと思いたかった。
眠気を垂れ流し、あくびを噛み殺すことさえしない俺の横で、一メートル九十センチを超える偉丈夫は、爽やかに微笑む。
「ふむ、今日もないようだね。良かったよ」
「なあ、こんなに連日で通う必要はあるのか? 依頼人も毎日あるとは言ってなかった。もう少し間隔を開けても良いんじゃないのか?」
不満を口にする俺に、天神はゆるりと口角を持ち上げて軽く両腕を開く。
「たしかに、君の言うことも正しい。けれども僕は、自分の目で見たものを信じる性分でね。
それに遠野先輩の報告書から考えても、一週間のうちに一回は必ず遭遇するはずなのだよ。実際の現場を見れば、新しい気付きを得られるかも知れないだろう? 僕は、その機会を逃したくないのだよ」
「そうか」
自分の目で確かめたい。知りたい。
その気持ちは十分に理解出来た。
屋根のある渡り廊下の下、天神はフリルの白傘を閉じる。
「しかし、早川は深夜のバイトもあるのだろう? 毎朝、付き合わなくとも構わないのだよ?」
「深夜バイト?」
「違うのかい? 目元に、大きなクマがいるけれども」
何を言われているのか分からないまま、自分の目元に触れた。
「……ああ、隈か。別に、問題ない」
粛然とした薄暗い渡り廊下で、彼は背筋をスッと伸ばしたまま、肩をすくめる。素っ気ない返答なのは、自覚していた。
ヘーゼルの瞳は、俺を捕らえ続けている。
「君が付き合ってくれるのは、とても嬉しい。けれども、無理をさせたいわけではないのだよ。それとも、のっぴきならない理由があって、付き合ってくれているのかな?」
俺は答えない。否。答えられない。自分でも『のっぴきならない理由』について、密かに考えあぐねいているのだから当然だろう。
もっとも、解に辿り着いたとしても口に出すつもりもなかった。
無愛想を貫く俺を気にすることのない天神は、さらりとした口調で話題を変える。
「そう言えば、彼女には連絡してくれたのだろう?」
「彼女って、藤枝さんか?」
「もちろんさ! むしろ、彼女以外に誰がいると言うのだい?」
戯けるようにいう天神を無視して、俺はスマートフォンの画面を確認する。
「藤枝さんからは、明日には合流すると返事が来てた」
「ありがとう!」
満足そうに微笑む天神に、俺は疑問をぶつけた。
「この依頼に、彼女を呼ぶ必要はあるのか?」
「論じるまでもない」
淡々とした言い様。
珍しいヘーゼルアイにはもう、俺は映っていない。
彼には見えているのだろう。俺に見えていないものが。
それを不快に思うことも、劣等感を覚えることもない。所詮、俺は名ばかりの相棒。
天神一という男には、慣れてきたはずだった。なのに先週末の一件が、心の中で尾を引いている。
相棒という割には、情報も考えも共有しない。
奔放不羈な言動。
派手な動きに、よく通る声。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはよく言ったものだ。今まで気にもしていなかった些細なことが、妙に鼻につく。
白いフリル傘や、体に馴染むスリピース。自分よりも大きな体躯に、時代遅れの七三分け。白い肌すら腹立たしい。
半ば八つ当たりだと分かっていても、小さな疑問や不満が、ゆっくりと確実に膨らんでいく。
「どうしたんだい、早川?」
それでも、人間には人間の。
天神には天神の了見がある。
踏み込めば、痛い目に遭うことだって少なくない。それでも、天神に問いたいのか。否、何を問う。
そもそも、自分は踏み込みたいと思っているのだろうか。バカバカしい。浅く狭く、上手に付き合うことこそが至上。深入りに何の得がある。
思考が深海へと引きずり込まれていく。
体が重い。
「早川? 大丈夫かい、早川?」
ポンッと肩に手を置かれたことにより、意識は強制的に浮上する。
「……何でもない」
「顔色があまり良くないね。今日はもう解散しよう」
「……ああ」
「大丈夫かい?」
何も話す気になれない俺は、心配そうに顔を覗く男の視界を手で遮る。「問題ない」と言えば、スリーピースの偉丈夫はコンパスのように長い足を一歩前に踏み出して、離れた。
靴音がカツンと廊下に響く。だが、それ以上の音は続かない。
不思議に思って顔を上げると、天神は立ち止まって俺を見ていた。
「早川。君のこの後の予定は?」
「図書館で寝る」
「なるほど、実に君らしい」
天神はホッとしたように笑う。
「もしも今以上に具合が悪くなるようなことがあれば、必ず連絡してくれたまえよ?」
「……ああ」
「約束してくれるね?」
「分かったから、早く行け」
シッシッと手を払うと、天神は少し困ったように笑って、背を俺に向けた。
コツコツと軽快に音は響いて、遠ざかっていく。
俺は広い背が視界から消えるまで、空一面に広がる重たい灰色の雲を見上げていた。
雨は降りそうにはない。
アパートに帰ろうか。そう考えて重い頭を振る。朝一の講義は必修科目。万が一にでも欠席することになったら、まずい。
「やっぱり図書館で寝るのが、ベターだな」
くたびれたジーパンからスマートフォンを取り出して、ロックを解除する。
消音アラームを八時四十五分に設定。
ついでにメッセージアプリを開いて、悠斗の名前を押した。
――図書館で寝てる。悪いが一限の始まる十分前に、メッセージを頼む。
先ほどよりも、呼吸は苦しくない。なのに、やっぱり頭にはモヤが掛かり続けていた。向けられた敵意を考えて、ここ最近は満足に眠ることが出来ていない。思ったよりも繊細な神経をしていたことに、自分でも呆れてしまう。
「仮眠をとらないとな」
大きな欠伸を一つした俺は、快適で安全な微睡みを得るべく、図書館へ歩を進めた。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
『量子の檻 -永遠の観測者-』
葉羽
ミステリー
【あらすじ】 天才高校生の神藤葉羽は、ある日、量子物理学者・霧島誠一教授の不可解な死亡事件に巻き込まれる。完全密室で発見された教授の遺体。そして、研究所に残された謎めいた研究ノート。
幼なじみの望月彩由美とともに真相を追う葉羽だが、事態は予想外の展開を見せ始める。二人の体に浮かび上がる不思議な模様。そして、現実世界に重なる別次元の存在。
やがて明らかになる衝撃的な真実―霧島教授の研究は、人類の存在を脅かす異次元生命体から世界を守るための「量子の檻」プロジェクトだった。
教授の死は自作自演。それは、次世代の守護者を選出するための壮大な実験だったのだ。
葉羽と彩由美は、互いへの想いと強い絆によって、人類と異次元存在の境界を守る「永遠の観測者」として選ばれる。二人の純粋な感情が、最強の量子バリアとなったのだ。
現代物理学の限界に挑戦する本格ミステリーでありながら、壮大なSFファンタジー、そしてピュアな青春ラブストーリーの要素も併せ持つ。「観測」と「愛」をテーマに、科学と感情の境界を探る新しい形の本格推理小説。
生徒会長・七原京の珈琲と推理 学園専門殺人犯Xからの手紙
須崎正太郎
ミステリー
殺人現場に残された、四十二本のカッターナイフと殺人犯Xからの手紙――
安曇学園の体育倉庫にて殺された体育教師、永谷。
現場に残されていたカッターはすべて『X』の赤文字が描かれていた。
遺体の横に残されていたのは、学園専門殺人犯Xを名乗る人物からの奇妙な手紙。
『私はこの学校の人間です。
私はこの学校の人間です。
何度も申し上げますが、私はこの学校の人間です』……
さらにXからの手紙はその後も届く。
生徒会長の七原京は、幼馴染にして副会長の高千穂翠と事件解決に乗り出すが、事件は思いがけない方向へ。
学生によって発見されたXの手紙は、SNSによって全校生徒が共有し、学園の平和は破られていく。
永谷殺害事件の真相は。
そして手紙を届ける殺人犯Xの正体と思惑は――
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
月明かりの儀式
葉羽
ミステリー
神藤葉羽と望月彩由美は、幼馴染でありながら、ある日、神秘的な洋館の探検に挑むことに決めた。洋館には、過去の住人たちの悲劇が秘められており、特に「月明かりの間」と呼ばれる部屋には不気味な伝説があった。二人はその場所で、古い肖像画や日記を通じて、禁断の儀式とそれに伴う呪いの存在を知る。
儀式を再現することで過去の住人たちを解放できるかもしれないと考えた葉羽は、仲間の彩由美と共に儀式を行うことを決意する。しかし、儀式の最中に影たちが現れ、彼らは過去の記憶を映し出しながら、真実を求めて叫ぶ。過去の住人たちの苦しみと後悔が明らかになる中、二人はその思いを受け止め、解放を目指す。
果たして、葉羽と彩由美は過去の悲劇を乗り越え、住人たちを解放することができるのか。そして、彼ら自身の運命はどうなるのか。月明かりの下で繰り広げられる、謎と感動の物語が展開されていく。
【短編】How wonderful day
吉岡有隆
ミステリー
朝起きて、美味しい飯を食べて、可愛いペットと戯れる。優しい両親が居る。今日は仕事が休み。幸せな休日だ。
※この作品は犯罪描写を含みますが、犯罪を助長する物ではございません。
就職面接の感ドコロ!?
フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。
学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。
その業務ストレスのせいだろうか。
ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる