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空と鳥と新しき怪異

第9話 朝八時の小講義室前

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    一

 それは、生物学講義実習棟と理工学部総合研究棟を直角に結ぶ渡り廊下の、丁度直角に配置された正方形の小講義室。

 屋根の三分の一を常緑樹の葉に覆われて、ひっそりと佇むその部屋は、通常講義で使用されることは殆どない。
 何かの訓練講習や夜間にある大学院生の講義に使われているようだが、一般の学部生にはほとんど縁のない場所。
 にも関わらず、俺は今、地面とにらめっこをしながら、その一室の周りを入念に歩いていた。

 朝、八時前。
 本日、水曜日の天気は曇り。空は分厚い灰色の雲に覆われている。

 講義の開始は九時過ぎだというのに、何が悲しくて、その一時間も前に大学に来なければならないのか。もちろん、天神一のせいだった。否、正しくは依頼人のせいだろう。だが、お門違かどちがいだと自覚してもなお、天神のせいだと思いたかった。
 眠気を垂れ流し、あくびをみ殺すことさえしない俺の横で、一メートル九十センチを超える偉丈夫いじょうぶは、爽やかに微笑む。

「ふむ、今日もないようだね。良かったよ」
「なあ、こんなに連日で通う必要はあるのか? 依頼人も毎日あるとは言ってなかった。もう少し間隔を開けても良いんじゃないのか?」

 不満を口にする俺に、天神はゆるりと口角を持ち上げて軽く両腕を開く。

「たしかに、君の言うことも正しい。けれども僕は、自分の目で見たものを信じる性分でね。
 それに遠野先輩の報告書から考えても、一週間のうちに一回は必ず遭遇そうぐうするはずなのだよ。実際の現場を見れば、新しい気付きを得られるかも知れないだろう? 僕は、その機会を逃したくないのだよ」
「そうか」

 自分の目で確かめたい。知りたい。
 その気持ちは十分に理解出来た。
 屋根のある渡り廊下の下、天神はフリルの白傘を閉じる。

「しかし、早川は深夜のバイトもあるのだろう? 毎朝、付き合わなくとも構わないのだよ?」
「深夜バイト?」
「違うのかい? 目元に、大きなクマがいるけれども」

 何を言われているのか分からないまま、自分の目元に触れた。

「……ああ、くまか。別に、問題ない」

 粛然しゅくぜんとした薄暗い渡り廊下で、彼は背筋をスッと伸ばしたまま、肩をすくめる。素っ気ない返答なのは、自覚していた。
 ヘーゼルの瞳は、俺を捕らえ続けている。

「君が付き合ってくれるのは、とても嬉しい。けれども、無理をさせたいわけではないのだよ。それとも、のっぴきならない理由があって、付き合ってくれているのかな?」

 俺は答えない。否。答えられない。自分でも『のっぴきならない理由』について、ひそかに考えあぐねいているのだから当然だろう。
 もっとも、解に辿り着いたとしても口に出すつもりもなかった。
 無愛想ぶあいそうつらぬく俺を気にすることのない天神は、さらりとした口調で話題を変える。

「そう言えば、彼女には連絡してくれたのだろう?」
「彼女って、藤枝さんか?」
「もちろんさ! むしろ、彼女以外に誰がいると言うのだい?」

 おどけるようにいう天神を無視して、俺はスマートフォンの画面を確認する。

「藤枝さんからは、明日には合流すると返事が来てた」
「ありがとう!」

 満足そうに微笑む天神に、俺は疑問をぶつけた。

「この依頼に、彼女を呼ぶ必要はあるのか?」
「論じるまでもない」

 淡々とした言い様。
 珍しいヘーゼルアイにはもう、俺は映っていない。
 彼には見えているのだろう。俺に見えていないものが。

 それを不快に思うことも、劣等感を覚えることもない。所詮しょせん、俺は名ばかりの相棒。
 天神一という男には、慣れてきたはずだった。なのに先週末の一件が、心の中で尾を引いている。

 相棒という割には、情報も考えも共有しない。
 奔放ほんぽう不羈ふきな言動。
 派手な動きに、よく通る声。

 坊主憎けりゃ袈裟けさまで憎いとはよく言ったものだ。今まで気にもしていなかった些細ささいなことが、妙に鼻につく。
 白いフリル傘や、体に馴染むスリピース。自分よりも大きな体躯に、時代遅れの七三分け。白い肌すら腹立たしい。
 半ば八つ当たりだと分かっていても、小さな疑問や不満が、ゆっくりと確実に膨らんでいく。

「どうしたんだい、早川?」

 それでも、人間には人間の。
 天神には天神の了見がある。
 踏み込めば、痛い目にうことだって少なくない。それでも、天神に問いたいのか。否、何を問う。
 そもそも、自分は踏み込みたいと思っているのだろうか。バカバカしい。浅く狭く、上手に付き合うことこそが至上しじょう。深入りに何の得がある。

 思考が深海へと引きずり込まれていく。
 体が重い。

「早川? 大丈夫かい、早川?」

 ポンッと肩に手を置かれたことにより、意識は強制的に浮上する。

「……何でもない」
「顔色があまり良くないね。今日はもう解散しよう」
「……ああ」
「大丈夫かい?」

 何も話す気になれない俺は、心配そうに顔をのぞく男の視界を手でさえぎる。「問題ない」と言えば、スリーピースの偉丈夫はコンパスのように長い足を一歩前に踏み出して、離れた。

 靴音がカツンと廊下に響く。だが、それ以上の音は続かない。
 不思議に思って顔を上げると、天神は立ち止まって俺を見ていた。

「早川。君のこの後の予定は?」
「図書館で寝る」
「なるほど、実に君らしい」

 天神はホッとしたように笑う。

「もしも今以上に具合が悪くなるようなことがあれば、必ず連絡してくれたまえよ?」
「……ああ」
「約束してくれるね?」
「分かったから、早く行け」

 シッシッと手を払うと、天神は少し困ったように笑って、背を俺に向けた。
 コツコツと軽快に音は響いて、遠ざかっていく。
 俺は広い背が視界から消えるまで、空一面に広がる重たい灰色の雲を見上げていた。

 雨は降りそうにはない。
 アパートに帰ろうか。そう考えて重い頭を振る。朝一の講義は必修科目。万が一にでも欠席することになったら、まずい。

「やっぱり図書館で寝るのが、ベターだな」

 くたびれたジーパンからスマートフォンを取り出して、ロックを解除する。
 消音アラームを八時四十五分に設定。
 ついでにメッセージアプリを開いて、悠斗の名前を押した。

 ――図書館で寝てる。悪いが一限の始まる十分前に、メッセージを頼む。

 先ほどよりも、呼吸は苦しくない。なのに、やっぱり頭にはモヤが掛かり続けていた。向けられた敵意を考えて、ここ最近は満足に眠ることが出来ていない。思ったよりも繊細な神経をしていたことに、自分でも呆れてしまう。

「仮眠をとらないとな」

 大きな欠伸を一つした俺は、快適で安全な微睡まどろみを得るべく、図書館へ歩を進めた。
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