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第18章 上海

1 晋作と倉之助

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 文久二(一八六二)年三月。
 晋作が上海に行く幕府使節の一行に加わるために初めて長崎の地を踏んでから、かれこれ一月余りが過ぎていた。
 どんよりとした曇り空の下で晋作は長崎奉行所西役所の近くにある船着場の石段の中ほどに腰掛けながら、妻のお雅から来た文を読んでいた。
「正月三日に御出立遊し、広東へ御出で成され候との御事、遠方へ御くろふの御事、嘸ヶ御ふじうな御事も御座候と存じ上げまいらせ候。しかしながら、 御両殿様より厚く御仕向け御左右承り、誠に有難おそれ入まいらせ候。いづれ今年には御帰りと、それのみ待入まいらせ候。何とぞはや御帰り成され候やうに暮も祈上参らせ候……」
 文には重い藩命を下され遠い異国の地へと旅立つ夫の苦労と不自由を労い、早く家に帰ってくることを切に願うお雅の気持ちが書かれている。
(お雅……気苦労をかけてすまんのう……)
 萩にいる妻は今頃どうしているだろうか、高杉家の女子としての務めを立派に果たしているだろうかと晋作は案じずにはいられない。
 またその文にはお雅の実家である井上家と晋作の二番目の妹であるお栄の嫁ぎ先である坂家でお目出度があったことや、隣家の内藤家で火事が起きるも高杉家は無事であったことなど身の回りで起きた出来事が書かれており、晋作の中で故郷を恋しく思う気持ちが益々強くなっていった。
(上海から無事帰ってくることができたら海外の話をようけしちゃるけぇ、それまで辛抱してくれろ)
 晋作がお雅の文を読み耽っていると後ろから突然男が声をかけてきた。
「よう、高杉」
 晋作に声をかけてきたその男は船着場の石段を下りて晋作の隣に腰掛ける。
「……中牟田か。まだ明るいから丸山には行かんぞ」
 晋作が自身の隣に座ってきた男を横目でちらりと見て言う。
 男の名前は中牟田倉之助といい、晋作同様幕吏の従者として上海に渡ることになっている肥前藩の侍だ。
 歳は晋作の二つ上の二十六で、晋作とは長崎にある崇福寺で知り合って以来、ちょくちょく丸山遊郭に一緒に遊びに行く仲になっていた。
「わしもまだ遊郭に繰り出すつもりはないたい。長崎の海を見とうなって散歩しとったら、たまたまお前さんの姿を見かけたんで話しかけただけばい」
 中牟田がにこっと笑う。
「そうじゃったか……」
 晋作は素っ気なく言うと続けて、
「そういえばおめぇ最近崇福寺のフルベッキの元に足繁く通っちょるそうじゃが、奴から一体何を学んじょるんじゃ? まさか耶蘇教の教えではあるまいな?」
 と尋ねた。
「そがんわけあっか! フルベッキの元に通っとっんは数学を教わっためたい! 貴様の方こそこん前崇福寺でフルベッキやウィリヤムス等メリケンの宣教師達から耶蘇教の教えを受けてたんぎゃにゃあか?」
 あらぬ疑いをかけられてむっとなった中牟田が顔を真っ赤にしながら晋作に噛みつく。
「馬鹿を言え。わしが奴等の元を訪ねたんはメリケンの政について聞く為じゃ。メリケンもこの皇国と同じように士官と土民が分かれちょるんかどうか、前からずっと気になっとんたんでな」
 晋作は中牟田の問いを軽く一蹴するとフルベッキ等とやりとりした時の事を語り始めた。
「奴らがゆうにはメリケンは士官と土民が分かれていないそうなのじゃ。一国のプレジデントから土民に帰る者もあれば、逆に土民からプレジデントになる者もある。そのええ例としてかのワシントンは始め土民であったが後にプレジデントとなり、再び土民に帰った後にまたプレジデントに返り咲いたそうじゃ。わしの幼馴染がかつてイュウロッパの政について語っとったのをただの戯言じゃ、夢物語じゃと今まで思うとったが、どうやらそれは間違いじゃったようじゃったのう……」
 昔村塾で寅次郎や利助が語っていた優れた民の中から王を選ぶというイュウロッパの政は本当のことであることを知った晋作はただただ感嘆するばかりだ。
「なるほど、確かにおもしろー仕組みばい! あとフルベッキはこの前会うた時に今メリケンは南と北に分かれて頻りに戦をしとるとゆうとったばい。丁度今支那で長毛賊が清国の政府に対して反旗を翻しているのと同じで内乱がひどーみたいじゃ」
 メリケンのおもしろき政の話に魅せられた中牟田は先程まで晋作に腹を立てていたことをすっかり忘れている。
「長毛賊か。幕吏の一行がずっと長崎に留まり続けてなかなか上海に出向しないんも、もしかしたら奴らが要因なのかもしれんのう」
 晋作が得心した顔をしながらうんうんと頷く。
「メリケンや支那みたいに内乱が起きんようにするためには、やはり長州も本格的に異人達と交易して富を蓄えるよりほか道はあるまい。薩摩や越前などはもう既に長崎の空地を買い上げてそこに国元の産物を積み込むための蔵をいくつも建て、実際に産物を蔵に積み込み異人相手に商いをし莫大な富を得とるそうじゃ。長州も薩摩や越前を見習うて上方だけでなく長崎の空地も買い上げ、国元の産物を積み込むための蔵を建てにゃあいけん。侍であっても金の事を気にしなくては外夷と渡りあうことはできんのんじゃ」
 長崎で一月もの間、日本人が異人達と商いをしている様子を何度も見た晋作は商いの大切さを改めて肌で実感していた。
「全くそん通りばい。こん皇国を外夷から守り抜けっかどうかはどいだけ異人達と商いをして富を蓄えられっか、またどいだけ異人達から優れた術を盗めれっかにかかっとっけん、いつまでも長崎で時を無駄にしとっわけにはいかんたい。幕吏の連中に早う出航に踏み切ってもらわにゃあならんばい」
 中牟田も晋作の考えに同調しているようだ。
「さてわしゃあこれから呉服屋に行って妻に送る唐物でも探しに行くとするかのう」
 晋作は石段から腰を上げるとくるりと背を向け上に上がっていく。
「暮六つごろにまた丸山で会おう、中牟田」


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