上 下
147 / 152
第18章 上海

1 晋作と倉之助

しおりを挟む
 文久二(一八六二)年三月。
 晋作が上海に行く幕府使節の一行に加わるために初めて長崎の地を踏んでから、かれこれ一月余りが過ぎていた。
 どんよりとした曇り空の下で晋作は長崎奉行所西役所の近くにある船着場の石段の中ほどに腰掛けながら、妻のお雅から来た文を読んでいた。
「正月三日に御出立遊し、広東へ御出で成され候との御事、遠方へ御くろふの御事、嘸ヶ御ふじうな御事も御座候と存じ上げまいらせ候。しかしながら、 御両殿様より厚く御仕向け御左右承り、誠に有難おそれ入まいらせ候。いづれ今年には御帰りと、それのみ待入まいらせ候。何とぞはや御帰り成され候やうに暮も祈上参らせ候……」
 文には重い藩命を下され遠い異国の地へと旅立つ夫の苦労と不自由を労い、早く家に帰ってくることを切に願うお雅の気持ちが書かれている。
(お雅……気苦労をかけてすまんのう……)
 萩にいる妻は今頃どうしているだろうか、高杉家の女子としての務めを立派に果たしているだろうかと晋作は案じずにはいられない。
 またその文にはお雅の実家である井上家と晋作の二番目の妹であるお栄の嫁ぎ先である坂家でお目出度があったことや、隣家の内藤家で火事が起きるも高杉家は無事であったことなど身の回りで起きた出来事が書かれており、晋作の中で故郷を恋しく思う気持ちが益々強くなっていった。
(上海から無事帰ってくることができたら海外の話をようけしちゃるけぇ、それまで辛抱してくれろ)
 晋作がお雅の文を読み耽っていると後ろから突然男が声をかけてきた。
「よう、高杉」
 晋作に声をかけてきたその男は船着場の石段を下りて晋作の隣に腰掛ける。
「……中牟田か。まだ明るいから丸山には行かんぞ」
 晋作が自身の隣に座ってきた男を横目でちらりと見て言う。
 男の名前は中牟田倉之助といい、晋作同様幕吏の従者として上海に渡ることになっている肥前藩の侍だ。
 歳は晋作の二つ上の二十六で、晋作とは長崎にある崇福寺で知り合って以来、ちょくちょく丸山遊郭に一緒に遊びに行く仲になっていた。
「わしもまだ遊郭に繰り出すつもりはないたい。長崎の海を見とうなって散歩しとったら、たまたまお前さんの姿を見かけたんで話しかけただけばい」
 中牟田がにこっと笑う。
「そうじゃったか……」
 晋作は素っ気なく言うと続けて、
「そういえばおめぇ最近崇福寺のフルベッキの元に足繁く通っちょるそうじゃが、奴から一体何を学んじょるんじゃ? まさか耶蘇教の教えではあるまいな?」
 と尋ねた。
「そがんわけあっか! フルベッキの元に通っとっんは数学を教わっためたい! 貴様の方こそこん前崇福寺でフルベッキやウィリヤムス等メリケンの宣教師達から耶蘇教の教えを受けてたんぎゃにゃあか?」
 あらぬ疑いをかけられてむっとなった中牟田が顔を真っ赤にしながら晋作に噛みつく。
「馬鹿を言え。わしが奴等の元を訪ねたんはメリケンの政について聞く為じゃ。メリケンもこの皇国と同じように士官と土民が分かれちょるんかどうか、前からずっと気になっとんたんでな」
 晋作は中牟田の問いを軽く一蹴するとフルベッキ等とやりとりした時の事を語り始めた。
「奴らがゆうにはメリケンは士官と土民が分かれていないそうなのじゃ。一国のプレジデントから土民に帰る者もあれば、逆に土民からプレジデントになる者もある。そのええ例としてかのワシントンは始め土民であったが後にプレジデントとなり、再び土民に帰った後にまたプレジデントに返り咲いたそうじゃ。わしの幼馴染がかつてイュウロッパの政について語っとったのをただの戯言じゃ、夢物語じゃと今まで思うとったが、どうやらそれは間違いじゃったようじゃったのう……」
 昔村塾で寅次郎や利助が語っていた優れた民の中から王を選ぶというイュウロッパの政は本当のことであることを知った晋作はただただ感嘆するばかりだ。
「なるほど、確かにおもしろー仕組みばい! あとフルベッキはこの前会うた時に今メリケンは南と北に分かれて頻りに戦をしとるとゆうとったばい。丁度今支那で長毛賊が清国の政府に対して反旗を翻しているのと同じで内乱がひどーみたいじゃ」
 メリケンのおもしろき政の話に魅せられた中牟田は先程まで晋作に腹を立てていたことをすっかり忘れている。
「長毛賊か。幕吏の一行がずっと長崎に留まり続けてなかなか上海に出向しないんも、もしかしたら奴らが要因なのかもしれんのう」
 晋作が得心した顔をしながらうんうんと頷く。
「メリケンや支那みたいに内乱が起きんようにするためには、やはり長州も本格的に異人達と交易して富を蓄えるよりほか道はあるまい。薩摩や越前などはもう既に長崎の空地を買い上げてそこに国元の産物を積み込むための蔵をいくつも建て、実際に産物を蔵に積み込み異人相手に商いをし莫大な富を得とるそうじゃ。長州も薩摩や越前を見習うて上方だけでなく長崎の空地も買い上げ、国元の産物を積み込むための蔵を建てにゃあいけん。侍であっても金の事を気にしなくては外夷と渡りあうことはできんのんじゃ」
 長崎で一月もの間、日本人が異人達と商いをしている様子を何度も見た晋作は商いの大切さを改めて肌で実感していた。
「全くそん通りばい。こん皇国を外夷から守り抜けっかどうかはどいだけ異人達と商いをして富を蓄えられっか、またどいだけ異人達から優れた術を盗めれっかにかかっとっけん、いつまでも長崎で時を無駄にしとっわけにはいかんたい。幕吏の連中に早う出航に踏み切ってもらわにゃあならんばい」
 中牟田も晋作の考えに同調しているようだ。
「さてわしゃあこれから呉服屋に行って妻に送る唐物でも探しに行くとするかのう」
 晋作は石段から腰を上げるとくるりと背を向け上に上がっていく。
「暮六つごろにまた丸山で会おう、中牟田」


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

思い出乞ひわずらい

水城真以
歴史・時代
――これは、天下人の名を継ぐはずだった者の物語―― ある日、信長の嫡男、奇妙丸と知り合った勝蔵。奇妙丸の努力家な一面に惹かれる。 一方奇妙丸も、媚びへつらわない勝蔵に特別な感情を覚える。 同じく奇妙丸のもとを出入りする勝九朗や於泉と交流し、友情をはぐくんでいくが、ある日を境にその絆が破綻してしまって――。 織田信長の嫡男・信忠と仲間たちの幼少期のお話です。以前公開していた作品が長くなってしまったので、章ごとに区切って加筆修正しながら更新していきたいと思います。

ラスト・シャーマン

長緒 鬼無里
歴史・時代
 中国でいう三国時代、倭国(日本)は、巫女の占いによって統治されていた。  しかしそれは、巫女の自己犠牲の上に成り立つ危ういものだった。  そのことに疑問を抱いた邪馬台国の皇子月読(つくよみ)は、占いに頼らない統一国家を目指し、西へと旅立つ。  一方、彼の留守中、女大王(ひめのおおきみ)となって国を守ることを決意した姪の壹与(いよ)は、占いに不可欠な霊力を失い絶望感に伏していた。  そんな彼女の前に、一人の聡明な少年が現れた。

不屈の葵

ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む! これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。 幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。 本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。 家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。 今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。 家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。 笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。 戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。 愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目! 歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』 ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!

三国志〜終焉の序曲〜

岡上 佑
歴史・時代
三国という時代の終焉。孫呉の首都、建業での三日間の攻防を細緻に描く。 咸寧六年(280年)の三月十四日。曹魏を乗っ取り、蜀漢を降した西晋は、最後に孫呉を併呑するべく、複数方面からの同時侵攻を進めていた。華々しい三国時代を飾った孫呉の首都建業は、三方から迫る晋軍に包囲されつつあった。命脈も遂に旦夕に迫り、その繁栄も終止符が打たれんとしているに見えたが。。。

北海帝国の秘密

尾瀬 有得
歴史・時代
 十一世紀初頭。  幼い頃の記憶を失っているデンマークの農場の女ヴァナは、突如としてやってきた身体が動かないほどに年老いた戦士、トルケルの側仕えとなった。  ある日の朝、ヴァナは暇つぶしにと彼の考えたという話を聞かされることになる。  それは現イングランド・デンマークの王クヌートは偽物で、本当は彼の息子であるという話だった。  本物のクヌートはどうしたのか?  なぜトルケルの子が身代わりとなったのか?  そして、引退したトルケルはなぜ農場へやってきたのか?  トルケルが与太話と嘯きつつ語る自分の半生と、クヌートの秘密。  それは決して他言のできない歴史の裏側。

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

半妖の陰陽師~鬼哭の声を聞け

斑鳩陽菜
歴史・時代
 貴族たちがこの世の春を謳歌する平安時代の王都。  妖の血を半分引く青年陰陽師・安倍晴明は、半妖であることに悩みつつ、陰陽師としての務めに励む。  そんな中、内裏では謎の幽鬼(幽霊)騒動が勃発。  その一方では、人が謎の妖に喰われ骨にされて見つかるという怪異が起きる。そしてその側には、青い彼岸花が。  晴明は解決に乗り出すのだが……。

処理中です...