上 下
176 / 384
3、変革のシトリン

173、2つ目の聖印と人魚の包囲

しおりを挟む
 夜の展望露天風呂に足を踏み入れると、まるで別世界への扉が開かれるかのような幻想的な光景が広がっていた。

 船が発する光が海面を煌びやかに照らしている。頭上では星空が無数の輝きを放ち、月の光が船のライトと合わさって海面の揺らめき模様を見せている。光がなければ真っ黒で得体の知れない塊に見える海は、そうしているととても美しかった。

「……光ってる。あちらも、こちらも――とても綺麗よ! サイラス、あなたも一緒に入ります?」
 フィロシュネーは衝立の向こうで護衛と称して待機するサイラスにはしゃいだ声をかけた。
「姫? 本気で仰っているのですか?」
 返ってきたのは、低く唸るような声だった。ちょっと怖い声だ。フィロシュネーは慌てて返事をした。
「もちろん、冗談ですわ。だって、あなたがいつも子供扱いするから……どきどきしました?」 
 専属侍女のジーナが「子供扱いが目立つので、異性として意識させてみたいですよね」と提案してくれたのだ。
「……あまり不用意な発言はなさいませんように。困ります」
 ジーナが「これは失敗でしたでしょうか、すみません」と申し訳なさそうにささやいてくる。フィロシュネーは首を横に振り、「怒ってはいないと思うの」とささやき返して安心させた。
 
 空国の魔導具装置が作動して、浴槽の底が淡く発光している。光はライトブルーで、揺らめく湯に足先から順に浸かると、光に抱かれているような心地になった。潮の香りを含む風が優しく肌を撫でて、お湯の表面に揺らめきを生み出している。
 
「ねえ、それでどきどきはしましたの?」
「あまり揶揄からかうと、俺が姫の心臓に悪いことをしますよ」
「まあ……何をされるのかしら……」
「そこで嬉しそうに反応されても困ります」
 
 よく困る男だこと――専属侍女のジーナに世話されながら、フィロシュネーは上機嫌で湯を楽しんだ。
 
「そういえば、姫。人魚の本を見ていたところ、死霊が興味深いことを教えてきましたよ」
「……なあに」
 わたくしは、あなたと死霊の関係性に興味津々なのですが? という言葉を呑み込んで続きを促せば、サイラスは淡々と情報をもたらした。
「近くの島に、人魚と恋愛した男の死霊がいるというのです」
「!!」
「姫好みのお話ですね?」
「ええ、ええ。とても!」

 お兄様にお話して、その島に行ってみてはどうかしら。
 サイラスが死霊とお話できるなら、詳しく当事者に人魚との恋愛談を聞けるじゃない。人魚のことも、詳しくわかるわ。
 
「素晴らしいわサイラス。死霊くんにもお礼を伝えてちょうだい」
「伝えておきます」
 お湯をぱしゃりと跳ねて笑えば、衝立の向こうから優しいお兄さんな気配をしたサイラスの声が返ってくる。その安心感とお湯のあたたかさに、フィロシュネーはニコニコした。
 

 * * *
  
「とても良いお風呂でしたわ。あなたも入るとよいと思うの」
「では、姫をお部屋にお送りしたあとにでも」
 
 入浴を終えて部屋に戻ろうとして、フィロシュネーはぴたりと足を止めた。
 
「また落ちてる……これで2つ目?」
 部屋へ向かう通路に見覚えのあるものが落ちていた。知識神の聖印だ。

「知識神の聖印ですね。2つ目、とは何です?」
 サイラスが問いかけるので、フィロシュネーは説明した。
「知識神の聖印が落ちていて拾うのは、これが2つ目なの。最初のは、たまたまお話する用事があったのでハルシオン様に渡しましたのよ」
「ほう」
 サイラスは聖印を手に取り、珍しそうに眺めた。

「他の信徒の聖印は、あまり触れる機会がないのです」
「珍しいのね」
「そうですね……」
 
 通路で話し込んでいると、ばたばたという足音がして、空国の警備兵が走っていくのが見えた。何があったのかしら、と思っていると、紅国の騎士がサイラスを見つけて駆け寄り、報告してくる。
「人魚が再び出現して、船を囲んでいたようです。ただ、もう姿を消したようなのですが……画家の油絵具や残飯が何者かの手により海に捨てられたという声もあります」
 
 サイラスは厳しい顔をしてフィロシュネーを部屋に押し込んだ。
「船内でよからぬことが起きているようです。護衛を増やして、身の安全を第一になさってください」
「わかりましたわ」
 
 おやすみの挨拶をして扉が閉まる。サイラスは配下の騎士を連れて船の安全のために空国の警備兵に協力を申し出るようだった。

(ふうむ。ふうむ……?)
 フィロシュネーは部屋のテーブルに知識神の聖印を置き、ベッドに潜り込んだ。
 展望風呂でぽかぽかにあたたまった身体をふかふかのベッドに沈める感覚がとても気持ちいい。

 ぼんやりしていると、天蓋の内側にふわふわした死霊が見えた気がして、フィロシュネーは瞬きをした。きょろきょろと周囲を視線だけで探る――身を起こすのが、もう億劫おっくうだった。見える範囲に、死霊はいない。
(あら? 青国で見かけた、ダーウッドのお部屋の前にいた死霊じゃない? ……待ってシュネー、どうして死霊の見分けがつきますの。そもそも死霊はいますの? わたくし、夢を見ているのでは? 青国にいた死霊がどうして船にいますの? ついてきちゃった?)
 思考がふわふわして、まとまらない。眠気だ。眠気がゆらゆらと全身を心地よく包んでいるのだ。
 
「……船の中は、人が頻繁に行き来していますのよ。空国の警備兵だって、巡回していますわ。……違和感があるような……まるで、だれかが……」

 ――誰かがわざとフィロシュネーの行く先に置いているみたい。
 ほんわか、ぼんやりと違和感を口にして、フィロシュネーは眠りに落ちていった。
 
 そして、目覚めると『ラクーン・プリンセス』は物々しい雰囲気になっていた。
「船の周りがぐるりと人魚に包囲されているんです」
 朝の身支度を手伝ってくれる侍女ジーナは状況を教えてくれて、「船が沈んでしまったら、どうしましょう」と心配そうに言う。フィロシュネーは驚きつつ、バルコニーから海を見た。

「姫様、何が起きるかわかりませんから、あまり海に寄らないほうが」
「気を付けますわ――わあ、本当にいる……いっぱい」
 
 海には、人魚がいた。
 いずれも女性の上半身をしていて、胸元には布が巻かれたり貝に似た装飾品が纏われていて、髪は長い者が多く……手に槍を持っている。

「ジーナ。人魚って……槍を使いますの……?」
 御伽噺おとぎばなしにはなかった人魚の生態が明らかになった瞬間だった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

婚約破棄された令嬢が記憶を消され、それを望んだ王子は後悔することになりました

kieiku
恋愛
「では、記憶消去の魔法を執行します」 王子に婚約破棄された公爵令嬢は、王子妃教育の知識を消し去るため、10歳以降の記憶を奪われることになった。そして記憶を失い、退行した令嬢の言葉が王子を後悔に突き落とす。

【完結】いてもいなくてもいい妻のようですので 妻の座を返上いたします!

ユユ
恋愛
夫とは卒業と同時に婚姻、 1年以内に妊娠そして出産。 跡継ぎを産んで女主人以上の 役割を果たしていたし、 円満だと思っていた。 夫の本音を聞くまでは。 そして息子が他人に思えた。 いてもいなくてもいい存在?萎んだ花? 分かりました。どうぞ若い妻をお迎えください。 * 作り話です * 完結保証付き * 暇つぶしにどうぞ

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

やり直すなら、貴方とは結婚しません

わらびもち
恋愛
「君となんて結婚しなければよかったよ」 「は…………?」  夫からの辛辣な言葉に、私は一瞬息をするのも忘れてしまった。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

妹に全てを奪われた伯爵令嬢は遠い国で愛を知る

星名柚花
恋愛
魔法が使えない伯爵令嬢セレスティアには美しい双子の妹・イノーラがいる。 国一番の魔力を持つイノーラは我儘な暴君で、セレスティアから婚約者まで奪った。 「もう無理、もう耐えられない!!」 イノーラの結婚式に無理やり参列させられたセレスティアは逃亡を決意。 「セラ」という偽名を使い、遠く離れたロドリー王国で侍女として働き始めた。 そこでセラには唯一無二のとんでもない魔法が使えることが判明する。 猫になる魔法をかけられた女性不信のユリウス。 表情筋が死んでいるユリウスの弟ノエル。 溺愛してくる魔法使いのリュオン。 彼らと共に暮らしながら、幸せに満ちたセラの新しい日々が始まる―― ※他サイトにも投稿しています。

神のいとし子は追放された私でした〜異母妹を選んだ王太子様、今のお気持ちは如何ですか?〜

星河由乃(旧名:星里有乃)
恋愛
「アメリアお姉様は、私達の幸せを考えて、自ら身を引いてくださいました」 「オレは……王太子としてではなく、一人の男としてアメリアの妹、聖女レティアへの真実の愛に目覚めたのだ!」 (レティアったら、何を血迷っているの……だって貴女本当は、霊感なんてこれっぽっちも無いじゃない!)  美貌の聖女レティアとは対照的に、とにかく目立たない姉のアメリア。しかし、地味に装っているアメリアこそが、この国の神のいとし子なのだが、悪魔と契約した妹レティアはついに姉を追放してしまう。  やがて、神のいとし子の祈りが届かなくなった国は災いが増え、聖女の力を隠さなくなったアメリアに救いの手を求めるが……。 * 2023年01月15日、連載完結しました。 * ヒロインアメリアの相手役が第1章は精霊ラルド、第2章からは隣国の王子アッシュに切り替わります。最終章に該当する黄昏の章で、それぞれの関係性を決着させています。お読みくださった読者様、ありがとうございました! * 初期投稿ではショートショート作品の予定で始まった本作ですが、途中から長編版に路線を変更して完結させました。 * この作品は小説家になろうさんとアルファポリスさんに投稿しております。 * ブクマ、感想、ありがとうございます。

処理中です...