星渦のエンコーダー

山森むむむ

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透明な夢のスタートライン

桐崎クリスタル 練習試合 第3戦 クリスタルエンブレム

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 窓の外は夕暮れ時。

 空には淡いピンクとオレンジが混ざり合い、部屋の中にもその柔らかい光が差し込んでいる。
 ベッドにもたれかかりながら、プロ選手データベースから柳のエンブレムについての詳細を呼び出す。ARのエンブレムが浮かび上がり、クリスの手の中で光り輝いた。

 『東雲柳』のエンブレムデザインを、しばし見つめた。
 ネオトラバース選手のエンブレムは、三回目以降の試合で十分な肉体・精神・プレイ傾向のデータを吸い上げたネオトラバーススポーツビジュアル支援システムが、自動的に生成する。
 選手の電脳世界へのポジショニングとともに立体的に現れるその色と形は、選手自身の強さとメンタリティの象徴だ。

 彼のエンブレムは東雲風波紋を中心としたデザインで、繊細に絡み合った柳の枝がモチーフだ。枝は見る角度によっては翼の骨格にも見える抽象的な形状をしており、アバターが白き死神と呼ばれることとは異なる、彼自身の特性と内面の葛藤を表現している。
 柳の枝は敏捷性と戦略的な動きを象徴し、生き方と対戦スタイルの繊細さ、強さを同時に表している。美しさは洗練された技と精神性を象徴しているようだった。
 静かなる力と、それを支える堅固な意志を視覚的に描出している。

 エンブレムの上部には「Sinonome Yanagi」という名前が、エレガントなフォントで配されている。そして彼の名前の日本語「東雲柳」がその下に緩やかに現れる演出は、多面性とそのルーツを示すためのものだ。

 しかし、クリスの目にはそのエンブレムがただの記号として映ることはない。
 エンブレムの美しさの背後にある柳の苦悩、彼が「白き死神」と呼ばれることの重さを痛いほどに感じている。
 ファンやメディア、対戦相手から自然とそう呼ばれるようになった彼の異名は、柳本人が望んだわけではない。

「なんで死神なんて呼ばれてるんだろう……強いから? ……怖いから……? でもそれは、一生懸命やってるからで……」
 外側から見れば輝かしい異名も、本人にとっては重い枷。クリスはそのことを知っているため、彼の笑顔の裏に隠された真実を想像することができる。
 彼が日々過ごす世界の中で、今もどれほど孤独であるかを。その悲しさ、悔しさ、数えきれない数の怒りたちを。

「……死神なんて、柳にちっとも似合わないのに……」

 ファンが自然にそう呼んでいるのならありがたいことだと報道の彼は言う。だが穏やかな笑顔も、柔らかい物腰も、身につけてきた処世術にすぎない。本当の彼は、もっと……。
「別の言い方あるでしょ、ほんと……世間様って勝手」
 明日の学校対抗練習試合で、クリスのエンブレムが自動生成されるのだ。柳によると、同時に標準装備のアバター装備から、クリスのデータから生成されたオリジナルの装備に切り替わるらしい。
 仮想ファブリックや仮想装甲が加わり、プレイスタイルに即した姿になる。

 今までに蓄積された運動データと練習試合のデータで装備の詳細は事前に伝わっており、使用には問題ないが、そのデザインはクリスの意図が及ばない。
 ただ、ほとんどの新人選手はこの時を待ち望んでいるのだろうと思う。
 クリスの動機は、揺らぐことなく柳の存在だ。彼のことを思えばこそ、甘い鼓動が形を変え、鈍い痛みが胸いっぱいに広がってゆく。

「柳……あんた、なんで楽しそうにしていられるの……?」
 部屋の中は静かで、時折カーテンが風に揺れる音だけが聞こえる。
 クリスはふと目を閉じ、柳がどんな思いでエンブレムを見るのかを想像する。彼女自身もまた、柳と同じ道を歩むことになるかもしれないと思い至っていた。

 白いラグの上で、クリスは膝を抱え額をつけた。

 次の試合で自分のエンブレムを得る時、それがどのような意味を持つのか。その重さを感じながら、ひたすらに考えた。
 少しだけ、怖かった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 クリスの練習試合の三回目は、松高工業高校ネオトラバース部との対抗試合で行われることになっていた。三人の選手がそれぞれ出場し、勝利の数を競うものだ。

 初心者にも関わらず一回戦の選手として出場することになったことは、クリスの選手としての成長を見越してのことであり、新しい選手の誕生を皆で祝おうという意味も込められていた。
 校内の電脳体験室にある繭の列を前に、選手とサポートメンバー、監督する教師陣がずらりと顔を揃えている。
「わあ……なんか運動部っぽい」
「クリス、一応これ、分類上は運動部」
 三人の選手とそのサポートメンバーが、クリスの初心者らしい一言と柳の指摘を聞いて笑った。

『いけークリス!』
『練習試合なんだ、リラックスしてこー!』
『桐崎さんがんばれー!』

 コクーンに入り、柳の指示を待つ。
 試合開始直前、クリスは静かに自分のコックピット、いわゆるコクーンに入り、シンクロヘルムを頭に固定した。
 このヘルムが彼女の意識を直接ゲームの電脳空間にリンクさせる。コクーンの内部は静寂に包まれ、わずかに聞こえるのは自分の呼吸と、ヘルムからの微かな電子音のみ。

 目を閉じ、クリスはデータの同期を待った。緩やかな拘束がなされたことが確認され、小さなセンサーが肉体を捉る。それはゲーム内のアバターに肉体を反映させる準備を整える。
 世界の騒がしさが明確に遠のき、自分が別の存在に変わるのを感じ始める。心臓の鼓動が速くなる。それがさらに緊張を高めていった。
 突然、柳の声がヘルムのオーディオシステムを通じて彼女の耳に届いた。
『準備はいい? クリス。 システムチェックを始めるよ』
 彼の声は落ち着いていて、それがクリスに安心感を与えた。彼はいつものように、試合に臨む彼女に最後のチェックを行っていた。
 生成途中らしく、まだ試合予定の領域にクリスは到達しない。精神が宙に浮いた状態だ。ここで浮き上がったままアバター化する。精神没入型はデータ量の多いゲームである。
「はい、準備できてます」
 クリスが返事をすると、アバターとシンクロするための最終確認が始まった。体の各部に緩やかな振動が走り、彼女は電脳世界への移行を身体全体で感じた。

『全システムがグリーン、クリス。いつでもいける』
 柳の言葉が彼女を押し出す。その言葉に力を得たクリスは、いよいよ始まる戦いに向けて心を整えた。
 視界が一瞬で変わり、試合が行われる広大なアリーナが目の前に広がる。今より彼女はただの高専生ではなく、ネオトラバース選手としての新たな自分になった。

「……えっ……」
 クリスのエンブレムが初めて立体スクリーンに映し出された瞬間、クリスの目は驚きと興奮で輝いた。
 エンブレムには白く繊細な羽根が描かれており、その輝かしいデザインが、桐崎クリスタルの性格とプレイスタイルを映し出したものだという。
 そしてその中に、柳のエンブレムと共通するモチーフがあることに気づいた。
 羽根は柳のエンブレムにも見え隠れする「柳」の翼の骨格を想起させるデザインだった。そして背景にはあの波紋が広がり、共通性を一層増し加えている。
「あ……れ?……いっしょ……?」
 クリスは柳との繋がりを感じ、心の奥でほのかな温かさを覚えた。共通点を見出したことが、意外なほどの喜びをもたらす。
 自分自身と柳が互いに影響を与え合っていることを実感し、プレイスタイルだけでなく自身の成長にも影響を与えていることを、今まさにクリスは感じ取った。
「そっ、か……」

 そして足先が宙に浮き、周囲に輝く光が集まり始めた。着用していた標準的な装甲が光の粒子へと分解されると同時に、新しいオリジナル装甲が形成されていく。
 全身至る所に走る羽根の意匠が特徴で、そのデザインは俊敏さと清廉さを象徴するようだった。そしてとても身軽に感じる。
「……あ、軽いや……本当に翼が生えたみたい!」
 各部には加速機構が組み込まれており、直感的な動きを即座に加速させることができるよう設計されていた。セラミックのような硬質なエフェクトが、領域上の光を鋭く反射している。

『……おめでとう、クリス。これで君も一人前のネオトラバース選手だ。今日の試合で全力を出し切って、大会に向けて更に強くなろう』
 外の世界の喧騒が戻ってきても、今のクリスにはそれが遠い音楽のように聞こえるだけだった。

 生成が完了すると、新しい装甲を身にまとった姿で再び戦場に立つ。応援する両校のモニターから歓声が上がる。拍手が沸き起こり、クリスは照れながら手を振った。
 長い髪はヘアアクセサリーでまとめ上げられている。そして全てが軽い。一歩進むごとに、新しくなった体に胸が高鳴った。
 その現実世界で言うところの心臓部には大きな石が埋まっている。

 対戦相手の選手が長い拍手を終え、クリスに目配せした。試合開始の合図と受け取り、軽やかにスタートラインに足先を合わせる。
 鹿のような靴音に、なんの違和感もなかった。シンデレラのガラスの靴のように。魔法使いの、杖のように。

 ああ、なんて軽い身体。
 そうか、柳はこんな感覚で、電脳世界を走っていたんだ。それはどれだけ……楽しいことなのだろう。鼓動を抑え、試合開始の瞬間を待つ。今の緊張感と興奮を、全てこの脚を動かす力にする。
──絶対に、絶対に、勝つ。

 静寂はつかの間で、試合開始の電子音が鳴り響く。全ての不安を振り払い、勝利を目指して前進を始めた。
『視界内のビーコンと音で指示する! 何も考えずに正面、最大出力!』
「うん!」
 柳の指示は明快だった。全てを今はクリスの脚力と精神力にゆだねている。クリスはその号令を嬉しく思った。足は見る間に加速していき、あっという間に白いベーシックな練習試合用領域を駆け抜けていけた。

 ゴールゲートへ向けて駆け抜ける。装甲の機構からもたらされる追加の加速力を、今クリスは完全に活かせていた。
 自分の新しい姿に心から満足していた。眼差しは自信に満ち、新しい力によってプレイスタイルがさらに洗練されたことを感じていた。
 周囲の部活仲間を始めとする観客もまたその変化に驚嘆し、背中を追う目が一層熱を帯びていた。

『やりますね、でも……こちらも負けたくないですから!』
 対戦相手の松高工業高校の選手は堅実ながらも攻撃的なスタイルで近隣校に知られており、クリスは技術と戦略に警戒を怠らなかった。
 彼らの妨害ギミックは視界内の物質を複製することで顕現する。加えてこの領域は大きさ・高さ様々なブロックが群れをなして浮くCG然としたグラフィックとギミックだった。
 当然、彼らの打ち出してくる妨害行為もこの視界から生成される故、ブロック状のものである。

 障害物が出現し、それを避けながら速度を保つことが求められる。これまでの練習で培った足を活かし、障害物を操り利用しながら相手選手の妨害を次々と抜き去っていった。

 しかし速度に差をつけたギミックが視界を遮ろうとする。今までの妨害ブロックはブラフだった。
 柳は一瞬、クリス自身の判断力と自分の指示のどちらが早いかをはかりかねたようで、僅かに指示が遅れていた。
『クリ……』
「跳べる!」
 その瞬間の対応は二度の練習試合と厳しい鍛錬を経て得たものであり、その成果がこの場で存分に発揮されていることを、彼女自身も実感していた。
 身体は伸び上がり、力強く立方体を超えて着地することができた。

『すげー!』
『勝てるんじゃない?!』
 観客席からはクリスの名前を呼ぶ声が飛び交い、それがクリスにに更なる力を与えていた。

 一瞬たりとも足を緩めることなく、初戦を飾るべくゴールに向かって駆け抜けていく。気持ちがいい、気持ちがいい! こんな世界があったなんて!
 昨日、あれほど考えていたことが嘘みたいに感じる。気持ちがいい! いつまでも走っていたい!
 あのゴールゲートを貫いてみたい。あれを過ぎてもずっと、ずっと……!

 この瞬間、クリスタルは真のネオトラバース選手としての自分を確信していた。純なる速さへの、一直線な希望。
『クリス、いい調子!』
「ん……ッこのまま!」
 試合がクライマックスに近づく中で対戦相手の先を走り続けていたが、突然の障害がクリスを襲った。

「ぅあッ!?」
 コースの一部が予期せず変形し、新たな障害物が現れたのだ。
 相手選手の妨害だが、クリスは夢中になるあまり予測が遅れ、一瞬で反応を迫られた。ブロックが群れをなして視界に広がる。今度は跳躍で乗り切れるものではない。
 もしもこのまま先程のような跳躍をすれば、即時に小さなブロックの数々に巻き込まれ、ダメージを負った身体はフロアに叩きつけられるだろう。

『回避! 右旋回!』
 柳の声が鋭く響く。
 高速で進んでいたため突然現れたそれを避けるのが難しく、緊急回避行動を取る必要があった。
 装甲の加速機構を全力で使用し、ぶつかる直前にシャープな方向転換を試みた。避けられはしたが装甲の一部がわずかに損傷し、その影響で加速機構が一時的に不安定になった。

「あっぶな……!」
 クリスは心を落ち着かせて状況を評価し、一瞬の判断でマニュアル操作に切り替えた。
 この迅速な対応によって大きなコースアウトを回避できたが、このトラブルにより若干のタイムロスが発生し、相手選手が追い上げる隙を与えてしまった。

『落ち着いて。大丈夫だから……』
「ん!」
 クリスは安定を取り戻すために一時的に速度を落とし、深呼吸を繰り返しながら落ち着きを取り戻した。
 そして自分の技術と冷静さを信じ、再びレースに集中する。大丈夫だ、柳がついていてくれる。トラブルを乗り越えることがさらなる自信を与え、最後の直線での猛追を可能にした。
『勝てる! 勝つんだクリス!』
「うん! 絶対勝つ!」
 今わかった。私は走れる。相手よりもずっと速く走れる! 再び加速し、損傷した装甲を気にしながらも、ゴールに向けて力強く進んでいった。

 損傷した装甲部分を補うために、動きと緊急回避のスキルを駆使する。
『負けんなクリスー!』
『桐崎先輩!』
『走れー!』
 アバターとモニター観戦が入り混じった高専の観客席からはクリスの名前を呼ぶ声が再び高まり、その声援が心に勇気を与えていた。勝てる、勝てる勝てる勝てる! もう少し!

 松高工業の選手が負けじと迫ってきていたが、クリスは彼女独自の戦略で対抗した。
 コースの複雑なカーブを利用し、加速機構を使って短い距離で大きなアドバンテージを築く。そのスピードは数瞬の後、もはや勝利を確実にするほどのリードを確保させていた。
 風を切るようにゴールゲート下のラインを駆け抜け、その瞬間、大観衆から爆発的な歓声が上がった。

『やったー! おめでとう桐崎!』
『すごい、勝っちゃった! 初心者なのに!』
『もう初心者卒業でいいんじゃねえ?! やったぜクリス!』
『一回戦、松高に勝ったー!』

 クリスはこの試合で見事な勝利を収め、自らの力を証明したのだ。疲労と興奮で膝をつきながらも、笑顔を浮かべてみせる。
「……ふ……っ、はあ、はあ……!」
 遅れてゴールした相手選手が歩み寄り、クリスの視線にあわせて片膝を立て、握手をかわす。
『……すごい。ありがとうございます。いい試合にしてくれて』
「あ……本当に、いいえ、こちらこそ……!」

 柳からの通信が入った。
『素晴らしい走りだった、クリス。君の成長が本当に嬉しいよ』
「ありがとう、柳。あんたがいたからこそ、ここまで来れたんだよ……!」

 未来ノ島高等専門学校の仲間たちも彼女を祝福し、この成功を自分たちの誇りと感じていた。クリスの鮮やかな勝利は、これから部がさらなる高みを目指すための強い推進力となった。
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