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第21話 「 コーヨーから甘えられないなら」
しおりを挟む濡れた唇が落ちてくる。
先輩の唇から、少しずつ注がれる水の冷たさは、だんだんと熱がまざってぬるくなる。そんなわけないのに、その水がとてつもなく甘く感じた。
ゆっくりしたリズムにあわせて、こくり、こくりと飲んでいく。慎重すぎて、じれったくすら感じられる速度に焦れて、こちらから口をあけて、もっと水をもらおうと、つまりは先輩を、迎え入れようとする。
その動きがわかったのか、青葉先輩は舌と一緒に残りの水を与えてくれる。
「っ、ん、ぁ」
全部は飲み切れなくて口の端から水がこぼれてしまう。それでもようやく与えられたものを全力でうけとめようとする。
いつもより湿り気を帯びた、水のせいで温度が低い舌。だけど舌を絡めとられているうちに、熱がうつるようにだんだんとあつくなっていく。冷たさが消えて、二人同じになるのが嬉しい。
ようやく同じ温度になったと思った時、先輩の顔が離れてしまう。
きっと、なんで、という顔をしてしまったと思う。そんな僕を見て、先輩はふっと目を細める。
さっき口からこぼれてしまった水を、先輩は親指で拭う。
そのまま、僕の目を見つながら、濡れた指先を、舌先で舐める。
その仕草に胸が高鳴る。口からのぞく赤い舌がさっきまで自分の舌と触れていたものだと見せられているようで、体温が一気にあがる。
楽しそうに微笑んでから、先輩はもう一度水を含んでキスをした。
さっきよりも勢いよく、水が口の中に流れ込んでる。必死にそれを飲みこんでいるうちに、先輩の舌が侵入してくる。
隙間ができないくらいに唇が重ねられる。唇だけじゃなく、ほんの少しの余白も許さないように、舌が口の中を丁寧にさぐっていく。それに進んで協力するように僕の舌はみずからの領域を受け渡す。歯列も、頬の内側も、舌のつけ根まですべて青葉先輩の舌が触っていく。
丁寧で優しい動きなのに、中をすべて知ろうと動きながら、絶対に僕のどこかに触れて、わずかな間も離れないようしてくれる。
とっくに口の中の水はなくなって、もう必要はないのに。けれど、水のかわりのようにあふれてくる唾液が、水よりももっと甘く感じて、夢中になってほしがってしまう。
気づいたら青葉先輩の背中に手を回していた。先輩の体の体温もあがっていて、すがる服越しにそれが伝わってくる。
先輩の体は完全にベッドの上に乗りあがっていて、ほとんど覆いかぶさられる形になっている。片方の手で耳朶の輪郭を確かめるように撫でながら、反対の手は脇腹から腰骨をつうっと指でたどる。微弱な刺激に身体が揺れてしまう。その間も先輩は何度も舌を絡ませる。水の代わりに、先輩自身の舌を差し出すように。
喉のほうまで奥へと差し入れられて、反射的に飲み込むように、舌を吸ってしまった。
先輩の体が、わずかに揺れる。
それでも舌は引き上げずに、そのままだった。止められないのをいいことに、しぼるように先輩の舌を吸い上げる。そこからこぼれる唾液ごと、ぎゅうっと飲むように。馬鹿の一つ覚えのようにそれを繰り返した。
もっと奥に、もっと中まで、はいってくれたらいいのに。こんなに甘いんだったら、まるごともらえたら、きっと頭がおかしくなるくらいおいしいに決まっている。
先輩の指が、耳から頬に、そして顎に移動する。ノックするように唇のきわを優しくたたかれる。なんとなく、その意図が伝わった気がした。指先の力とリズムにあわせて、やんわりと先輩の舌に歯を立てる。決して痛くならないように、子犬が甘えるよりも、ひどく弱い力で甘噛みをする。やわらかい弾力が伝わってくる。
先輩が少し笑ったのがわかる。よくできました、というように顎の下をくすぐられる。ぞくりと体に震えが走る。それでも褒められたのが嬉しくて、薄くてやわらかい感触に甘噛みする。
絶対そんなことはしないけど、もしも今、僕が思い切り噛んだら大変なことになる、そんな人体の急所。そんな敏感な部分を、先輩が明け渡してくれているようで、歓びで体が震えてしまう。夢中になって何度も先輩の舌に歯を立てる。
先輩は止めることはなく、顎の裏をくすぐるように撫でるだけで、されるがままだ。
そうやって許されていると、あさましい欲求が表に出てきて、先輩の舌を自分の喉に、奥までほしくなって、歯を立てながら、ぎゅっと吸う。
どちらのものかわからない、くぐもった息と、唾液が混ざる水音が響く。
とっくのとうに舌も、体も、同じくらい熱く火照っていて。
このまま、重ね合わせたところから、唾液が混ざるように、溶けて一緒になれたらいいのに。
その気持ちが先走って先輩の体にしがみつく。
もう、最初のひとりぼっちの怖い気持ちなんてどこかへ消えた。それよりも、持て余す衝動が焦燥感と一緒についてでてくる。
もしかしたら腕が震えていたのかもしれない。先輩はお返しのように僕の舌を一度甘噛みすると、すっと舌を引いてしまう。かわりに、触れるだけのキスを唇に、頬に、瞼に落としていく。
顔のいろんなところに唇が触れるとすこしくすぐったい。なによりひたすら優しいだけのキスは穏やかで。頭をとんとんとなだめるように撫でられる。
先走っていた衝動が落ち着いていく。先程まで存在も忘れていた呼吸を、ゆっくりとする。高ぶっていた熱がだんだんと、心地いいぬくもりの温かさになっていく。
安全な繭のなかで、たゆたうような心地。
鼻先にキスをされて、じゃれるように唇の代わりに先輩の鼻で軽くこすられる。子犬が戯れるみたいに。その仕草がおかしくて、思わず笑ってしまった。先輩もつられて笑う。
真上から優しく、でも悪戯っ子のように声をかける。
「コーヨーがしてほしいなら、一晩中でも、一日中でもキスするよ」
子どもみたいなキスを、おでこに落とされる。
恥ずかしいはずなのに、それよりも穏やかな感覚がゆったりと体に広がっていて、笑いながら答えた。
「そんなの、ご飯食べたりできないじゃないですか」
「ギネスの記録で、たしか50時間くらいキスし続けるってのがあったはず」
「それ、眠るのも難しいじゃないですか」
「始める前に栄養ドリンク飲んだほうがいいかもな」
二人あわせて噴き出して笑う。
くしゃりと頭を撫でられて「お腹減った?」と聞かれる。それに頷くと「なんか用意するか」と先輩がベッドから離れる。
不思議と、今度はさびしさを感じなかった。
「汗かいたなら着替えたほうがいいか。シャツとかってここにあるやつでいいの?」
「あー、そうです。そこのカゴにはいってるやつならなんでもいいんで」
寝ている時にかいた汗で濡れたシャツは、自覚するとべたべたしていた。
もともと宅飲みに使われやすい部屋だから、着替えを貸したりすることもある。だから雑に寝間着になるものはカゴにまとめておいてある。そこから先輩は器用に僕がよく着るシャツとスエットを取り出した。
「これでいい?」
「ありがとうございま、……」
早く着替えてしまおうと、自分のシャツの裾に手をかけたところで、気づく。
今脱いだら、先輩に身体を見られることになる。
「台所、借りてもいい?」
「あ、えっと、はい」
「さんきゅ」
そういうと先輩はくるっと背を向けて部屋のキッチンのほうに向かう。キッチンは壁に面しているから、必然的に先輩はこちらを見ることはない。
それにほっとして、それでも布団で体を隠しながら急いでシャツを脱いで新しいシャツに着替える。
布団にかくれながら、落ち着いたところで、ようやく、本当に、いまさら、じわじわと、いつもの頭の回転が戻ってきた。
そして、同時に羞恥心が戻ってくる。
さっきまで、ぼくは、なにをしていたんだ。
あんな、先輩にすがって、あまつさえ、自分から、キスをねだるような。そのうえ、抱きついて、先輩の舌に、自分で。
下がったはずの体温が、上がっていく。とくに首から上があつい。きっと今、僕の顔は真っ赤だろう。
いくら熱に浮かされていたからといったって、自分のしてしまったことが恥ずかしくてたまらない。
救いは青葉先輩がイやそうではなかった、ということだろうか。
いや、むしろ、最初のあの時の。
あのうれしくてたまらないというような、甘すぎる笑顔が、全部のきっかけで。
先輩は、なにがそんなにうれしかったんだろう。
「コーヨー? ベッドからでられるー?」
「っ、は、はい!」
ぐるぐる考えてたら先輩のほうは終わったみたいで、慌ててくるまってた布団をはいで外にでる。
「あ、すごい。おいしそう」
「めっちゃ簡単なやつだけどな」
リビングのローテーブルに置かれていたのは、おかゆだった。
ふわふわした卵と刻んだとネギがとろとろのお米の上にのっていて、その彩りが食欲を刺激する。
昼はあんなに食欲がなかったのに、目の前に用意されたおかゆはとんでもなくごちそうに見えた。
しかも、なにより。
「……青葉先輩、ほんとうに料理できたんですね」
「いや、これくらい誰でもできるだろ」
青葉先輩の手作り、という付加価値が、食べることをためらうほど贅沢なものに思える。このまま時間をとめて飾っておきたいくらいだ。
だけどさすがにそんなことはできないので、そちらはあきらめて食欲にしたがうことにする。
いただきます、と手を合わせ、一口すくって口に運ぶ。
「ん……おいしい、です」
「口にあったらよかった」
シンプルなおかゆだけど、お世辞抜きにおいしかった。
出汁がきちんと味付けされていて、体に染み渡るようだった。生姜もはいっていたようで、じわりと体があたたかくなる。
とろりとして食べやすい触感に、どんどん手が進む。
「あれ、でも、うちにこんな食材なんて……」
「だいたいうちにあったやつ持ってきただけだから気にすんな。出汁も小分けにされてるパックのやつだし」
「や、ちゃんと、お金払います。あ、薬と飲み物の分も……」
僕としたことが何で今まで忘れていたのか。先輩がおいしい料理を作れたのも、うちになかった薬を飲めたのも、全部先輩が用意してくれたからだ。
はっとして慌てて自分のカバンから財布を取り出そうとするのを、青葉先輩の手がやんわりと止める。
「だから平気だって、こんくらい」
「でも」
「そうだなー……気になるっていうなら……」
考えたふうにしていた先輩は、そこでにやり、とからかい顔になる。
「早く元気になってもらって、次の挑戦、できるようになってほしいかな?」
次の挑戦。
この間、先輩の部屋でしたことを思い出す。
次は三本、といっていた言葉を思い出して。
かぁっと、顔が赤くなる。
そんな様子の僕を見て、先輩は面白そうに笑う。
「やっぱ病人にこれ以上はできないし? ま、さっきあんなことしたオレがいっても説得力ないけど」
「や、それ、は……」
ついさきほどの、ベッドの上でのことをいうなら、半分以上原因は僕自身だ。先輩はわざわざつきあってくれたようなものだ。
先日のこと、さっきのこと、『次』のことを思い出したり考えたら、頭があっというまにパンクしそうになる。
「けど、やっぱ保険かけといてよかったかな」
「え?」
「電話の約束」
スマートフォンを指さされ、ふいに、約束をしたあの日のことを思い出す。
『毎日一回電話する』、その約束のとき、先輩は「保険」といっていた。
「電話しなかったら、コーヨー、オレに具合悪いの、言わなかったろ?」
図星だったので、ぐ、と唇をむすんで何も言えない。
「オレの見えないところで、必要以上にためこみすぎそうだから、電話の約束したんだよ」
先輩の口調は怒っているわけではなく、おだやかだ。
おそるおそる先輩のほうを見る。
「オレは、コーヨーに甘えられたり、頼られたら、うれしいから」
先輩はゆるりと僕のピアスを撫でる。
「それでも、コーヨーから甘えられないなら。オレが先に甘やかす、って、決めたから」
覚えといて、と耳にささやかれ、僕は、さすがにそれにはすぐにうなずくことはできず、ただ真っ赤な顔をさらした。
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