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埋もれるほどの花びらを君に
かつてその場所には
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「さて、どうするか」
図書室の扉を閉めてすぐに、レイバックは呟いた。
「本日のご予定は」
「ポトス城の東部に白の街という場所がある。王宮内で働く侍女や官吏と、その家族が住まう小さな街だ。今日はポトスの街から商人が訪れるから、細々とした買い物を楽しもうと思っていたんだ。土産物は売っていないが、宝飾品や日用品が安価で買える」
「…では、2人で行きますか?」
「それでもいいが、アムレット殿は買い物が好きか」
「どちらかと言うと苦手です」
「俺もだ」
明日の午後には、小人族祭に参加するためにアムレットをポトスの街に連れ出す予定となっている。魔族の街に慣れるための通過点として、本日の午前中は王宮内にある白の街を訪れる予定であったのだ。ゼータは買い物を目的として、仲の良い侍女と頻繁に白の街を訪れている。外交使節団の街歩きでポトスの街を訪れたメアリも、細々とした買い物は好きそうな様子だったから、さぞかし楽しい時間になるだろうと予想をしていたのだ。しかし買い物好きの2人は図書室に籠り、残されたのは買い物に興味の薄い男2人。人のごった返す白の街を訪れたところで、果たして楽しいことがあるだろうか。
予定が狂い、レイバックは図書室前の廊下をうろうろと歩き回る。王宮内の視察は午後に予定を入れているし、魔族初心者のアムレットを兵士の訓練場に連れて行くのも敷居が高い。自室に戻り歓談に興じるのも良いが、2日半しかない貴重な時間は極力有意義に過ごしたい。
長い廊下を3往復したときに、レイバックはようやく歩みを止めた。良いことを思い付いたと笑みを浮かべ、手持つ無沙汰のアムレットを残し教会の出入り口へと向かう。そして人気のない事務室に足を踏み入れ、壁に掛かる鍵束を手に取った。
アムレットの元へと舞い戻ったレイバックは、図書室の扉脇にある鉄格子に向かった。黒い厳重な鉄格子の後ろにあるのは階段だ。上階へ続く物と、地下へ続く物。2つの階段が錆びた鉄格子の後ろに佇んでいる。レイバックは鍵束から1本の古びた鍵を選び出し、鉄格子の横につけられた錠前に差した。
「この階段の先には何があるのですか?」
「何もない」
声と共に、錠前は外される。押さえる物のなくなった鉄格子は、ぎしぎしと鈍い音を立てて開かれる。
「何もない、だが俺達にとっては意義のある場所だ。滅多なことでは立ち入りを許されぬが、特別に案内しよう」
鉄格子の先にある階段は、壁も床も天井も白塗りで統一されている。窓はなく、小さな白色灯を除けば満足な灯りもない。塵と埃に塗れた古階段も気味は悪いが、一切の装飾がない真っ新な階段というも心地の良い物ではない。夜間に一人で立ち入れば相当不気味だ。
薄く埃の積もった石造りの階段を、レイバックとアムレットは無言で上った。15段ほどの階段を何度か折り返し、アムレットが軽く息を切らしたところで、上階へと続く階段はぷつりと途切れる。先を行くレイバックは向かう先を変え、今度は長い廊下を真っ直ぐに進んでいく。
「すこぶる縁起の悪い場所、と仰いましたが、ここが一体何なのですか?」
息を弾ませたアムレットが問う。今彼の目線の先には先へ先へと続く長い廊下があった。廊下の左右にはいくつもの部屋が存在するが、本来扉があるべき場所にあるべき扉は取り付けられていない。廊下を通ると部屋の内部が丸見えなのだ。一つ出入り口を通り過ぎるたびに、アムレットは首を伸ばして部屋の内部を覗き見る。しかしどの部屋の内部にも、目ぼしい家具や調度品の類は置かれていない。階段と同様、壁も床も天井も白一色に塗られた潔白な空間が広がっているだけだ。
「ここはかつてジルバード王宮と呼ばれていた。俺が国を興す前、ジルバード王国時代に王が在していた場所だ」
「…失礼。それは、いつ頃のことでしょうか」
「1027年前だ。当時の王は名をアダルフィンという。奴隷制を採用した暴虐な王であった」
「アダルフィン王…。耳に挟んだことはある名です。つまりこの建物は、今から千年以上も前に建築された物ということでしょうか」
「建築で言うと1500年ほど前になる。ジルバード王国の建国時、俺はまだ生まれていない。正確な年次はわからないな」
「1500年ですか。気の遠くなるような時です」
「とは言っても、現在の聖ジルバード教会の姿は、当時のジルバード王宮の姿とは大分違う。相当改修を重ねているからな。建築物の保存を得手とする精霊族がいて、彼の魔法に掛かれば木造の建築物であっても数百年単位での使用が可能なんだ。しかし魔法は完全ではない。長期間雨風に晒されれば外壁は痛むし、虫が喰えば土台は腐る。改修の度に少しでも手入れが楽なようにと内装を変えていたら、遂にはこんな姿になってしまった」
真っ白な廊下の壁を指先でなぞり、レイバックは笑う。
ドラキス王国建国当初、言い換えればレイバックがアダルフィン旧王を打ち倒した直後。当時のジルバード王宮は、現在のポトス城王宮に近しい構造をしていた。疲弊した国庫に新たな王宮を立てる財源があるはずもなく、建国後200年ほどはジルバード王宮をそのまま王宮として使用していたのだ。国政が安定し国庫に余裕ができた頃、現在のポトス城の建設が始まった。そして現存の王宮を正式に王宮として使用し始めた後も、ジルバード王宮は取り壊されることなく、一時的な滞在地として民衆に開放されることが決まったのだ。解放直後ジルバード王宮は教会という呼び名ではなく、吹き抜けの大聖堂も存在しなかった。ただ掃除が済まされただけの、がらんどうの部屋が幾十とあっただけ。それでも全ての民が裕福とは言えなかったその頃、無料で寝泊まりができるジルバード王宮に滞在する者は後を絶たなかった。王宮の侍女による炊き出しも頻繁に行われ、地方から出てきた者や職をなくした者、家屋の崩落にあった者など、人々が次の生活を見つけるための滞在地として賑わいを見せていたのだ。
そうしていつの頃からか、ジルバード王宮の一室は大聖堂と呼ばれるようになった。その場所はかつてアダルフィン旧王の王座があった場所。ジルバード王宮の中で最も広く、最も豪華な造りをしていたその部屋を、誰ともなくが大聖堂と呼んだ。その部屋で生活の苦悩を語らえば、レイバック王は必ずやその苦悩を取り除いてくれる。神に等しい王に声の届く場所として、大聖堂と呼ばれた。
そうした呼び名が定着していたからこそ、最初の改修時ジルバード王宮の一室は大聖堂の内装に作り変えられた。大聖堂と呼ばれる一室があったから、ジルバード王宮は聖ジルバード教会と呼ばれるようになった。そして民の生活が豊かになり、聖ジルバード教会が一時滞在地としての機能を失った後は、大聖堂は図書室として使用されることとなった。これが聖ジルバード教会という呼び名の起源だ。
懐かしい記憶を辿りながらレイバックは黙々と廊下を歩き、そして長い廊下の中腹辺りへと辿り着いた。その場所にはまた階段がある。他と同じく真っ白な、上階へと続く階段だ。
「さて、また上るぞ。今度はかなり長い階段だ。頑張ってくれ」
笑顔で告げられる不吉な宣告に、アムレットは片頬を引き攣らせた。
***
長い長い階段を上った。アムレットの弱音を受け途中で何度か休憩を挟み、辿り着いた先は見晴らしの良い小部屋だ。壁の四方には縦長の窓が備え付けられ、窓の外には東西南北の景色を悠々と臨むことができる。窓と窓の間にある細い柱はやはり白塗りで、床も磨かれたような白。隙間風が入るためか、窓枠や床に埃は積もっていない。
部屋の大きさに対し、天井だけが不釣り合いに高かった。ドーム型の天井だ。天頂付近には4本の柱が組み上げられており、その真ん中に人の頭ほどの大きさの鐘が掛けられている。鐘の内部には拳大の分銅がぶら下がっているが、紐がないため鳴らすことは出来そうにない。
「ここは聖ジルバード教会最上階にあたる鐘楼だ。アダルフィン王はこの鐘楼に、お気に入りの奴隷を幽閉していたんだ。四肢を切り落とし逃げられないようにして、随分と楽しんでいたと聞く」
涼しい顔のレイバックの横で、アムレットは膝に手を付き荒い呼吸を繰り返している。
「ジルバード王宮の地下室には数多の牢があった。無礼を働いた奴隷を折檻していたんだ。今我々が通ってきた廊下脇の部屋の中には、官吏が私室として使用している場所もあった。俺がアダルフィン旧王を打ち倒した当時、どの部屋にも1人2人の奴隷が繋がれていたものだ」
「…陰惨な過去を話すのですね」
「歴史書に書いてあることだ。隠す必要もない。それに当時の様子を記憶している者は、王宮内にも数人はいる。1027年前と聞けば遥か昔と感じるだろうが、魔族の寿命は長ければ三千年にも及ぶからな。現在王宮の侍女頭を務めるカミラという女性は、かつて奴隷としてアダルフィン旧王に囚われていた。聖ジルバード教会の外観を見ることに抵抗はないが、足を踏み入れることは未だに躊躇うと聞いたことがある。すこぶる縁起が悪い場所と言ったのは、そういうことだ」
ようやく息を整えたアムレットは、窓枠に手を置き景色を臨む。鐘楼の西側に位置する大窓からは、緑の森の向こう側にポトスの街を見下ろすことができる。鮮やかな紅色の屋根に、真っ白な塗り壁。ポトスの街並みは、青空の下によく映えていた。
「不思議な気持ちです。私にとっては史実史の一項でしかない話を、貴方は思い出話として語る。文字列でしか知らぬアダルフィン旧王の首を落とした英雄が、今私の目の前にいる。まるで御伽話の主人公と話をしている気分です」
「御伽話の主人公、か。確かにそうだ」
「不思議でいて面白い、そして同時に恐ろしくもあります。私はレイバック殿の横に並ばねばならない。私よりも遥かに長い時間、力と知識を蓄えた貴方の横に、同じ王として並ばねばならないのです」
アムレットの声は苦悩に満ちている。レイバックとアムレットは、外見の年齢でいれば丁度同じ頃。しかし一方の王はすでに千余年の時安寧に国を治め、もう一方の時期王は未だ国の導き方すら知らない。しかし彼らはほんの数年の後に同じ場所に立つ。幾百万の民を抱える大国の頂、期待と責任の上に成る国王の座に。
「考え方を変えれば良い。俺を味方につければ、一国を落とせる戦力を手に入れると同じだ。俺は理由なく他国と敵対するつもりはないし、死人を出してまで領土を広げるつもりもない。対魔族武器開発の件だって、たまたま知り得たから釘を打っただけだ。戦力が欲しいなら蓄えればいい。力に物を言わせて潰すような真似はしない。その武器により、俺の民に一人でも傷がつけば容赦はせんがな」
対魔族武器開発、レイバックの口からその言葉が飛び出した途端、アムレットは顔を俯ける。アムレットにとって耳に痛い言葉だ。自らの名の元に集う官吏が、身勝手な判断で行っていた武器開発。一歩間違えば、先代の国王らが決死の思いで築き上げたドラキス王国との繋がりを断ち切る可能性すらあった。その出来事の発端は、アムレットの魔族嫌いにある。悪びれることもなく豪語した「反魔族派」の一言は、大国との関係のみならず国家の基盤すら揺るがせた。
「アポロ王は俺との距離の取り方が上手い。先代のヨゼフ王も然りだな。国家同士の関係は最低限の友好を維持するに留め、どちらかと言えば魔族に対し非友好的な国政を一貫した。しかし国政の場を離れれば魔族に対し非常に友好的。ヨゼフは年に一度は非公式に俺の元を訪れた。ざるな男でな。毎年のように徹夜で飲み明かしたものだ。アポロ王は来国こそ少ないが、季節が変われば文を寄こす。文の内容は他愛もない雑談ばかりだが、彼との文通は中々楽しいんだ。だから俺は、アポロ王の頼みなら多少無理をしてでも聞いてやろうと思う。彼の治める国は平和であって欲しいと願う。友人だから」
それから2人は長いこと、窓の外に佇むポトスの街並みを見下ろしていた。
先黙に終止符を打った者はアムレットだ。聖ジルバード教会の上階は、滅多なことでは立ち入りを許されぬと言った。しかしレイバックは慣れた手つきで錠前に鍵を差し、鉄格子を開けた。
「レイバック様は、よくここに来られるのですか」
「そうだな。たまに来る。迷ったときに」
「千年国を治めても迷いますか」
「迷うさ。その度にここに来て過去に問う。民の幸せとは何か、正しき王とは何か。国家の進むべき道はどこにあるのか、と」
レイバックはガラス窓に左手を当てた。遠くに望むポトスの街並みに手を翳す。あの街の未来は、住まう民の暮らしは、その手のひらに守られている。
「維持費や修繕費はかかるし、掃除をする侍女には手間もかける。しかし俺の一存でこの建物を残しているんだ。俺は愚王にはなりたくないから」
いずれ大国を治めることとなる未来の王は、1000年もの間安寧な国を築く賢王の言葉を静かに聞いた。
図書室の扉を閉めてすぐに、レイバックは呟いた。
「本日のご予定は」
「ポトス城の東部に白の街という場所がある。王宮内で働く侍女や官吏と、その家族が住まう小さな街だ。今日はポトスの街から商人が訪れるから、細々とした買い物を楽しもうと思っていたんだ。土産物は売っていないが、宝飾品や日用品が安価で買える」
「…では、2人で行きますか?」
「それでもいいが、アムレット殿は買い物が好きか」
「どちらかと言うと苦手です」
「俺もだ」
明日の午後には、小人族祭に参加するためにアムレットをポトスの街に連れ出す予定となっている。魔族の街に慣れるための通過点として、本日の午前中は王宮内にある白の街を訪れる予定であったのだ。ゼータは買い物を目的として、仲の良い侍女と頻繁に白の街を訪れている。外交使節団の街歩きでポトスの街を訪れたメアリも、細々とした買い物は好きそうな様子だったから、さぞかし楽しい時間になるだろうと予想をしていたのだ。しかし買い物好きの2人は図書室に籠り、残されたのは買い物に興味の薄い男2人。人のごった返す白の街を訪れたところで、果たして楽しいことがあるだろうか。
予定が狂い、レイバックは図書室前の廊下をうろうろと歩き回る。王宮内の視察は午後に予定を入れているし、魔族初心者のアムレットを兵士の訓練場に連れて行くのも敷居が高い。自室に戻り歓談に興じるのも良いが、2日半しかない貴重な時間は極力有意義に過ごしたい。
長い廊下を3往復したときに、レイバックはようやく歩みを止めた。良いことを思い付いたと笑みを浮かべ、手持つ無沙汰のアムレットを残し教会の出入り口へと向かう。そして人気のない事務室に足を踏み入れ、壁に掛かる鍵束を手に取った。
アムレットの元へと舞い戻ったレイバックは、図書室の扉脇にある鉄格子に向かった。黒い厳重な鉄格子の後ろにあるのは階段だ。上階へ続く物と、地下へ続く物。2つの階段が錆びた鉄格子の後ろに佇んでいる。レイバックは鍵束から1本の古びた鍵を選び出し、鉄格子の横につけられた錠前に差した。
「この階段の先には何があるのですか?」
「何もない」
声と共に、錠前は外される。押さえる物のなくなった鉄格子は、ぎしぎしと鈍い音を立てて開かれる。
「何もない、だが俺達にとっては意義のある場所だ。滅多なことでは立ち入りを許されぬが、特別に案内しよう」
鉄格子の先にある階段は、壁も床も天井も白塗りで統一されている。窓はなく、小さな白色灯を除けば満足な灯りもない。塵と埃に塗れた古階段も気味は悪いが、一切の装飾がない真っ新な階段というも心地の良い物ではない。夜間に一人で立ち入れば相当不気味だ。
薄く埃の積もった石造りの階段を、レイバックとアムレットは無言で上った。15段ほどの階段を何度か折り返し、アムレットが軽く息を切らしたところで、上階へと続く階段はぷつりと途切れる。先を行くレイバックは向かう先を変え、今度は長い廊下を真っ直ぐに進んでいく。
「すこぶる縁起の悪い場所、と仰いましたが、ここが一体何なのですか?」
息を弾ませたアムレットが問う。今彼の目線の先には先へ先へと続く長い廊下があった。廊下の左右にはいくつもの部屋が存在するが、本来扉があるべき場所にあるべき扉は取り付けられていない。廊下を通ると部屋の内部が丸見えなのだ。一つ出入り口を通り過ぎるたびに、アムレットは首を伸ばして部屋の内部を覗き見る。しかしどの部屋の内部にも、目ぼしい家具や調度品の類は置かれていない。階段と同様、壁も床も天井も白一色に塗られた潔白な空間が広がっているだけだ。
「ここはかつてジルバード王宮と呼ばれていた。俺が国を興す前、ジルバード王国時代に王が在していた場所だ」
「…失礼。それは、いつ頃のことでしょうか」
「1027年前だ。当時の王は名をアダルフィンという。奴隷制を採用した暴虐な王であった」
「アダルフィン王…。耳に挟んだことはある名です。つまりこの建物は、今から千年以上も前に建築された物ということでしょうか」
「建築で言うと1500年ほど前になる。ジルバード王国の建国時、俺はまだ生まれていない。正確な年次はわからないな」
「1500年ですか。気の遠くなるような時です」
「とは言っても、現在の聖ジルバード教会の姿は、当時のジルバード王宮の姿とは大分違う。相当改修を重ねているからな。建築物の保存を得手とする精霊族がいて、彼の魔法に掛かれば木造の建築物であっても数百年単位での使用が可能なんだ。しかし魔法は完全ではない。長期間雨風に晒されれば外壁は痛むし、虫が喰えば土台は腐る。改修の度に少しでも手入れが楽なようにと内装を変えていたら、遂にはこんな姿になってしまった」
真っ白な廊下の壁を指先でなぞり、レイバックは笑う。
ドラキス王国建国当初、言い換えればレイバックがアダルフィン旧王を打ち倒した直後。当時のジルバード王宮は、現在のポトス城王宮に近しい構造をしていた。疲弊した国庫に新たな王宮を立てる財源があるはずもなく、建国後200年ほどはジルバード王宮をそのまま王宮として使用していたのだ。国政が安定し国庫に余裕ができた頃、現在のポトス城の建設が始まった。そして現存の王宮を正式に王宮として使用し始めた後も、ジルバード王宮は取り壊されることなく、一時的な滞在地として民衆に開放されることが決まったのだ。解放直後ジルバード王宮は教会という呼び名ではなく、吹き抜けの大聖堂も存在しなかった。ただ掃除が済まされただけの、がらんどうの部屋が幾十とあっただけ。それでも全ての民が裕福とは言えなかったその頃、無料で寝泊まりができるジルバード王宮に滞在する者は後を絶たなかった。王宮の侍女による炊き出しも頻繁に行われ、地方から出てきた者や職をなくした者、家屋の崩落にあった者など、人々が次の生活を見つけるための滞在地として賑わいを見せていたのだ。
そうしていつの頃からか、ジルバード王宮の一室は大聖堂と呼ばれるようになった。その場所はかつてアダルフィン旧王の王座があった場所。ジルバード王宮の中で最も広く、最も豪華な造りをしていたその部屋を、誰ともなくが大聖堂と呼んだ。その部屋で生活の苦悩を語らえば、レイバック王は必ずやその苦悩を取り除いてくれる。神に等しい王に声の届く場所として、大聖堂と呼ばれた。
そうした呼び名が定着していたからこそ、最初の改修時ジルバード王宮の一室は大聖堂の内装に作り変えられた。大聖堂と呼ばれる一室があったから、ジルバード王宮は聖ジルバード教会と呼ばれるようになった。そして民の生活が豊かになり、聖ジルバード教会が一時滞在地としての機能を失った後は、大聖堂は図書室として使用されることとなった。これが聖ジルバード教会という呼び名の起源だ。
懐かしい記憶を辿りながらレイバックは黙々と廊下を歩き、そして長い廊下の中腹辺りへと辿り着いた。その場所にはまた階段がある。他と同じく真っ白な、上階へと続く階段だ。
「さて、また上るぞ。今度はかなり長い階段だ。頑張ってくれ」
笑顔で告げられる不吉な宣告に、アムレットは片頬を引き攣らせた。
***
長い長い階段を上った。アムレットの弱音を受け途中で何度か休憩を挟み、辿り着いた先は見晴らしの良い小部屋だ。壁の四方には縦長の窓が備え付けられ、窓の外には東西南北の景色を悠々と臨むことができる。窓と窓の間にある細い柱はやはり白塗りで、床も磨かれたような白。隙間風が入るためか、窓枠や床に埃は積もっていない。
部屋の大きさに対し、天井だけが不釣り合いに高かった。ドーム型の天井だ。天頂付近には4本の柱が組み上げられており、その真ん中に人の頭ほどの大きさの鐘が掛けられている。鐘の内部には拳大の分銅がぶら下がっているが、紐がないため鳴らすことは出来そうにない。
「ここは聖ジルバード教会最上階にあたる鐘楼だ。アダルフィン王はこの鐘楼に、お気に入りの奴隷を幽閉していたんだ。四肢を切り落とし逃げられないようにして、随分と楽しんでいたと聞く」
涼しい顔のレイバックの横で、アムレットは膝に手を付き荒い呼吸を繰り返している。
「ジルバード王宮の地下室には数多の牢があった。無礼を働いた奴隷を折檻していたんだ。今我々が通ってきた廊下脇の部屋の中には、官吏が私室として使用している場所もあった。俺がアダルフィン旧王を打ち倒した当時、どの部屋にも1人2人の奴隷が繋がれていたものだ」
「…陰惨な過去を話すのですね」
「歴史書に書いてあることだ。隠す必要もない。それに当時の様子を記憶している者は、王宮内にも数人はいる。1027年前と聞けば遥か昔と感じるだろうが、魔族の寿命は長ければ三千年にも及ぶからな。現在王宮の侍女頭を務めるカミラという女性は、かつて奴隷としてアダルフィン旧王に囚われていた。聖ジルバード教会の外観を見ることに抵抗はないが、足を踏み入れることは未だに躊躇うと聞いたことがある。すこぶる縁起が悪い場所と言ったのは、そういうことだ」
ようやく息を整えたアムレットは、窓枠に手を置き景色を臨む。鐘楼の西側に位置する大窓からは、緑の森の向こう側にポトスの街を見下ろすことができる。鮮やかな紅色の屋根に、真っ白な塗り壁。ポトスの街並みは、青空の下によく映えていた。
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「御伽話の主人公、か。確かにそうだ」
「不思議でいて面白い、そして同時に恐ろしくもあります。私はレイバック殿の横に並ばねばならない。私よりも遥かに長い時間、力と知識を蓄えた貴方の横に、同じ王として並ばねばならないのです」
アムレットの声は苦悩に満ちている。レイバックとアムレットは、外見の年齢でいれば丁度同じ頃。しかし一方の王はすでに千余年の時安寧に国を治め、もう一方の時期王は未だ国の導き方すら知らない。しかし彼らはほんの数年の後に同じ場所に立つ。幾百万の民を抱える大国の頂、期待と責任の上に成る国王の座に。
「考え方を変えれば良い。俺を味方につければ、一国を落とせる戦力を手に入れると同じだ。俺は理由なく他国と敵対するつもりはないし、死人を出してまで領土を広げるつもりもない。対魔族武器開発の件だって、たまたま知り得たから釘を打っただけだ。戦力が欲しいなら蓄えればいい。力に物を言わせて潰すような真似はしない。その武器により、俺の民に一人でも傷がつけば容赦はせんがな」
対魔族武器開発、レイバックの口からその言葉が飛び出した途端、アムレットは顔を俯ける。アムレットにとって耳に痛い言葉だ。自らの名の元に集う官吏が、身勝手な判断で行っていた武器開発。一歩間違えば、先代の国王らが決死の思いで築き上げたドラキス王国との繋がりを断ち切る可能性すらあった。その出来事の発端は、アムレットの魔族嫌いにある。悪びれることもなく豪語した「反魔族派」の一言は、大国との関係のみならず国家の基盤すら揺るがせた。
「アポロ王は俺との距離の取り方が上手い。先代のヨゼフ王も然りだな。国家同士の関係は最低限の友好を維持するに留め、どちらかと言えば魔族に対し非友好的な国政を一貫した。しかし国政の場を離れれば魔族に対し非常に友好的。ヨゼフは年に一度は非公式に俺の元を訪れた。ざるな男でな。毎年のように徹夜で飲み明かしたものだ。アポロ王は来国こそ少ないが、季節が変われば文を寄こす。文の内容は他愛もない雑談ばかりだが、彼との文通は中々楽しいんだ。だから俺は、アポロ王の頼みなら多少無理をしてでも聞いてやろうと思う。彼の治める国は平和であって欲しいと願う。友人だから」
それから2人は長いこと、窓の外に佇むポトスの街並みを見下ろしていた。
先黙に終止符を打った者はアムレットだ。聖ジルバード教会の上階は、滅多なことでは立ち入りを許されぬと言った。しかしレイバックは慣れた手つきで錠前に鍵を差し、鉄格子を開けた。
「レイバック様は、よくここに来られるのですか」
「そうだな。たまに来る。迷ったときに」
「千年国を治めても迷いますか」
「迷うさ。その度にここに来て過去に問う。民の幸せとは何か、正しき王とは何か。国家の進むべき道はどこにあるのか、と」
レイバックはガラス窓に左手を当てた。遠くに望むポトスの街並みに手を翳す。あの街の未来は、住まう民の暮らしは、その手のひらに守られている。
「維持費や修繕費はかかるし、掃除をする侍女には手間もかける。しかし俺の一存でこの建物を残しているんだ。俺は愚王にはなりたくないから」
いずれ大国を治めることとなる未来の王は、1000年もの間安寧な国を築く賢王の言葉を静かに聞いた。
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