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夢の章

4.匂いと香り

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 あかりが静と出会ってから三日が経過した。
 その間意外なことに静の方からトークアプリで話しかけてくれて、おはようやおやすみなどのたわいない挨拶をすることができた。
 その会話の中で、転入先で勉強についていけるか少し不安だという情報を得て、静と初デート、と言っていいのかわからないが、例のファストフード店で勉強会をすることになった。

「ええと、一応勉強は普段からするようにしてるので、なんとかなると思います。頑張ります」
「ごめん。よろしくお願いします」

 あかりの知る静は、地元でも祖父母の家に越してからも、勉強を見てくれる人がいなかった。
 かといってまったくできない訳でもなく、こちらの静も同じように可もなく不可もなくというゲームの初期パラメータ通りの印象だ。
 今でさえ最高に素敵だというのに、ここから学年一位が余裕になったり運動神経抜群になったり、大人も感服する包容力を持ったりするのだから恐ろしい。高校生で伸びしろしかないなんて、さすが主人公に選ばれた人間だ。

 ちなみに静を引き取ってくれた叔父も勉強を教えるタイプの人間ではない。むしろ苦手な家事を静に丸投げしてその他も基本放置という状態のはずである。
 ゆくゆくはそちらもサポートしていきたいとあかりは思っていた。

「あ、そうだ。始める前にこれ、ありがとう」

 静が鞄から見覚えのあるタオルハンカチを取り出す。ちゃんと洗濯したから、と言われて受け取ったそれは、いつもと違う匂いがした。

「こ、こちらの方こそ、ありがとうございました。とても助かりました」

 同じく返さなければと急いで洗濯し、アイロンまでかけた静のハンカチを渡す。こくりと頷いてポケットにしまう静は、まだどのような態度で接すればいいかわからないあかりとは比べものにならないほど落ち着いている。

(普通に生活してる。ゲームじゃ、ないみたい)

 ゲームでは省略されていた部分。洗濯してご飯を食べてお風呂に入って歯磨きをする。
 そんな現実のような暮らしが垣間見えて、あかりは少し戸惑った。
 この世界では、静は静という人間として生きている。そんな当たり前のことに今さら気がついた。

(私の現実が、ゲームの世界と繋がったってことで良いのかな)

 静と会ってからも、あかりの生活は変わらない。
 母は仕事に行くし学校に行けば友達もいる。テレビの内容も同じだしあかりは相変わらずゲームの静が好きだ。

 ただそこに本物の静が現れた。
 トークアプリでやりとりできるし、会って触れることもできる。
 それだけがおかしい。
 夢から覚めない。

 静とどうして会えたのか。
 静はいつか消えてしまうのか。

 考えるのが怖くて、あかりは隣にいる静に笑顔を向けた。

「それじゃ、一年の時の復習からしましょうか。苦手な教科はーー」








 英語が終わって、数学。
 教科書を真ん中に置いて説明していた英語とは違い、数学は教科書もノートも静が見やすいように置いてある。わからないところがあったら教えるというスタイルに変更して、あかりも自分の前に問題集を広げていた。

 周りの音がざわざわと遠くに聞こえる店内で、あかりは真剣に問題を解く静の横顔をそっと眺めた。
 なんて格好いいのだろうと、感嘆のため息がこぼれる。ゲームのグラフィックでは表現しきれなかった姿を独り占めできるなんて、同じ主人公ファンに知られたら抹殺されてしまいそうだ。

「あかり、ここ教えて」
「は、はいっ!」

 ぼんやりしていたあかりは、静に話しかけられ慌てて寄せられたノートを覗き込む。
 そこには男の子にしては綺麗な字が少し右上がりに並んでいて、また一つ新しいことを知れたと嬉しくなった。

(はっ!だめだめ、真面目にやらないと呆れられちゃう)

 ここはこの公式を、とできるだけわかりやすく説明することに集中する。
 こうして知力パラメータを上げていけば術を覚える速度も早くなり、弱点を狙って戦闘を有利に進めることができるのだ。ゲームの時のようにパラメータが視覚的に見えるわけではないのでどの程度効果があるかはわからないけれど。

「ありがとう、わかりやすかった」
「そうですか? それなら良かったです」

 静にそう言われて、すぐにあかりの心は喜びでいっぱいになる。
 母と自分のために頑張っていたことが好きな人の役に立つなんて、今までコツコツとやってきた甲斐があった。

 ついにまにまと笑顔を抑えきれないでいると、問題を解き終わった静が不意にあかりの髪をすくい取った。

「……!?」
「あかりの髪、甘い匂いがする」

 そう言って、感触を確かめるように指の間にあるあかりの髪を軽くさする。
 男と違ってやわらかいんだね、と無表情で言う静に、あかりはただ固まることしかできない。

 甘い匂い、とは?
 そういえばつい先ほど問題の解き方を教える時に顔を近づけたかもしれない。その時に香りがわかるくらい寄ってしまったのだろうか。
 確かに好きな人には近づきたいと思うものだけれど静とはまだそんな段階でもなく、決して下心があった訳ではないのでどうかお許しください、と心の中に勝手に言い訳が並んでいく。

 さらに静がその甘い匂いというものを不快に思ったかどうかが、非常に重要な問題だった。
 無表情の中に嫌がる気配がないか探したいけれど、あかりには髪を触られた状態で好きな人を見つめることは難しかった。

「あれ、あかり?」

 そんなはたから見れば反応のないあかりの顔を覗き込む静。あかりは心臓がきゅっとして、慌てて顔を逸らし忘れていた呼吸を思い出す。

「しゃ、シャンプーの、香りだと、オモイマス」
「ああ、そっかシャンプー……。良い香り」

 男が使うのと違うんだね、と言いながら髪を軽くいじってから優しく離し、静はまた勉強に戻った。

 きっと、静は何も考えていないのだろう。少なくともあかりをからかってやろうだとか、恥ずかしがらせたいだとか、そういう意地悪ではない。
 だからこそ無意識で女の子の心を翻弄する静に、嬉しい反面他の女の子にもこういうことをするのだろうかという心配が湧き上がる。

 ゲームでもリンクイベント中、これを言われたらそういう意味でも主人公に好感を持つだろうなという選択肢が用意されていて、今やっているのは恋愛のゲームだったっけと思うことがあった。
 作品内でリンク相手以外との描写はなかったけれど、きっと静を想う人はいただろう。静が気がつかなかっただけで。

(静くん、さっきみたいなの、他の女の子にはしちゃダメですよ)

 機会を邪魔したくないと思っていた心が、簡単にてのひらを返す。
 ゲームの主人公に浮気こそさせなかったものの、一周につき一人とはお付き合いをさせていた。もちろんその時だって静のことが好きだと思っていたけれど、そうして誰かと幸せになる姿を見るのも好きだった。
 それなのに、どうして嫉妬のような気持ちを抱いてしまうのだろうか。

 知りたいような、知らないままでいたいような。
 あかりはその乱れた心の内を隠して、奥へとしまい込んだ。


◇◇◇


 家に帰ってきたあかりは、すでに仕事へ出かけた母の『今日もおいしかった、ごちそうさま!」と書かれたメモと空の弁当箱に笑みを零した。
 離婚して仕事が忙しくなり、生活リズムがなかなか合わず寂しい思いをしたこともある。
 今だって寂しくないとは言わないけれど、母が何のために仕事を頑張っているのか理解できるくらいには大人に近づいた。

 一人で食べるための晩ご飯を作る。
 明日のお弁当に入れるメインにもなるので多めに用意し、保存容器に詰めた。
 夜勤が明けると休みをもらえる母が買い物を担当してくれるおかげで、一週間の半ば頃の冷蔵庫は二人暮らしとは思えないほど充実する。それを次の母の休みまで保たせるために、あかりはできるだけ保存の利くものを作る必要があった。

 洗濯はお互いが休みの時にまとめてする。
少し溜まってきた洗濯カゴを横目に風呂に入り、ゆったり浸かりながら持ち込んだスマホでゲームのサイトを検索する。

(知力パラメータはともかく、他のパラメータではどうしたらいいのか調べておこう)

 筋力パラメータは戦闘パートの体力と物理攻撃力、防御力、速度に影響する。上げるならスポーツや体力を使うような場所へ出かける。
 精神力パラメータはイベント時の選択肢の追加によるリンク相手への好感度上昇と戦闘での術防御力、状態異常回避率に影響する。上げるなら映画を観るか本を読む、それかアルバイトをする。
 魅力パラメータは新たなリンク相手との出会いと状態異常付与率、獲得経験値や獲得金額上昇に影響する。上げるなら雑誌を読んだり服を買う。毎日の風呂も効果がある。

 ただあかりが思うに、現実だからこそ影響し合うパラメータがありそうだ。外見が整っている人はもちろん、スポーツができる人や頼りがいがある人、優しい人もそれだけで人を惹きつける。
 ここで言う人間力というのは見た目や中身の総合だから、もしかしたらゲームとは違う上がり方をするかもしれない。

 風呂から上がってケアをして、予習復習をすれば夜やることはお終いだ。
 あかりは次に静を遊びに誘う口実を考えているうちに、眠りについた。
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