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第三部 四季姫革命の巻
第二十四章 春姫革命 8
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八
「何なの、こいつは……!?」
上空に浮かんでいる人影は、一つ。
何者かは分からないが、たった一人で、あの強固な結界を容易く破壊したというのか。
嫌な予感がした。とてつもなく強い敵が、春姫を狙ってきたのかもしれない。
人影は音も立てずにゆっくりと風を纏い、雪を散らして地面に降り立った。
朝が手を組んで、戦闘態勢を整える。
目の前に近寄って来たその者は、人間とは言い難かった。
強そうな鎧から覗く、筋骨隆々の肌は、緑色。頭からは二本の角を生やしている。
明らかに人外の存在だが、悪鬼や妖怪とは、また趣が異なる気がした。
「我は四鬼が一人、風鬼」
謎の侵入者が、名乗った。
「四鬼――? 遥か昔に封印されたはずの、鬼の眷属です。なぜ、この時代に……?」
朝は眉を顰めている。
鬼――。以前、榎が鬼化した時に感じた雰囲気と、似た部分はある気がする。
だが、榎たちが引き継いできた鬼の力とは、また異なるものが感じられた。
敵意と呼べるほど危険な気配は感じ取れなかったが、少なくとも、椿たちの味方ではない。
直感的に、そう悟った。
「強く気高い魂を持つ者よ、我と戦え。何者にも屈しない、不滅の魂。我の風でも吹き飛ばぬ魂の強さを見せてもらおう」
風鬼は有無を言わさず、突然攻撃を仕掛けてきた。激しい突風を巻き起こし、風の塊をいくつも飛ばしてくる。辺りに舞い散った雪が混ざり込んで、風の塊は氷の刃に変わった。
攻撃は屋敷の柱や床に突き刺さり、御簾を激しく波立たせた。鋭利な風の刃によって周囲の女中たちの肌が切り裂かれ、辺りから悲鳴が飛ぶ。
椿と春姫は、傷一つなく無事だった。顔を上げると、朝が翼を広げて庇ってくれていた。
同じく風を起こして攻撃を分散させたみたいだが、力が及ばなかったらしく、少し傷を負っている。
「僕の力では、奴の放つ風を相殺するだけで精一杯です。攻撃できる隙がない」
朝は忌々し気に、風鬼を睨み付ける。風鬼は朝など眼中にない、とでも言いたげに、無表情を貫いていた。
「邪魔をするな、弱き妖怪」
さっきよりも強い、強大な風の弾を作り上げ、風鬼は放った。
朝はその攻撃を受け止めたが、圧倒的な力に成す術もなく吹き飛ばされる。風鬼は更に、雪の中に倒れ込んだ朝の頭上に飛び上がった。その手には、風で作られた槍が握られている。
その槍が勢いよく、朝の腹部めがけて突き刺さった。
朝は激しい悲鳴を上げて、口から大量の血を吐き出す。
「朝ちゃん、しっかりして!」
椿も悲鳴を上げた。春姫はその状況を見つめて、恐怖に表情を歪めている。
「姫様、ご無事ですか!?」
椿と春姫の前に、板取と立壺が来て壁になる。
「おのれ、ここが伝師北家の邸宅と知っての狼藉か!」
槍を構えた板取が、風鬼めがけて喝を飛ばす。
だが、風鬼はどこ吹く風で、まったく相手にもしていない。
「弱き者どもに、用はないと言ったはずだ」
再び、激しい突風を巻き起こし、放ってきた。板取は風に煽られ、地面に転倒する。風鬼が素早く拳で攻撃を繰り出してきたが、素早い身のこなしで躱し、難を逃れた。
だが、攻撃を与える隙も余裕もなさそうだ。それに、うまく一撃でも与えられたとしても、それで倒せるほど弱い存在ではない。
正直、生身の人間にはとうてい、力の及ばない存在だ。
「板取! 止めよ、すぐに逃げるのよ!」
春姫も、相手の強大な力を察知したのだろう。慌てて板取を引かせようとした。
だが、板取は頑として、風鬼から目を逸らさない。
「逃げるべきは、姫様でございます。椿、姫様をどうか、安全な場所へ。この化け物は、我らが食い止める!」
「そんな、無茶よ! ただの人間が、鬼に敵うわけが……」
「我らとて、陰陽師の端くれ。主を守るためにこの力を使わずして何の意味がある!」
板取の声に応じて、傷を負った女中たちも、次々と武器を構えて庭に集まって来た。
その背中を見つめる春姫の顔が、みるみる歪む。
「何故じゃ!! 春は、お前たちにとっても厄介者であるはず。春さえいなくなれば、お前たちは好きな場所で好きに生きられるのだぞ!? それなのに、なぜ命を粗末にする?」
「好きに生きられる場所など、貴女様の側よりほかに、ございませぬ」
泣きながら喚く春姫に、板取は優しい口調で返した。
「貴女はお忘れか? 妖怪に親兄弟を殺され、お前も妖怪ではないかと疑われ、迫害されていた私を憐れみ、貴女は救ってこの屋敷に置いてくださった。貴女の側に居ることと引き換えに、居場所とお役目を与えてくださった。――まだ幼かった故、覚えておられぬかもしれませぬがな」
板取の言葉に、春姫は喉を引き攣らせた。まだ、何か言おうとしていたが、口が上手く動いていない。
「その御恩に報いるため、私は私の意志で、貴女のお側で戦うと誓ったのです。――ここにおる者たちは、皆、姫様に命を救われたものばかり。既になかったはずのこの命。姫様を守るためならば、喜んで投げ打ちましょうぞ!」
板取は咆哮にも似た声を張り上げ、風鬼に向かって突進した。女中たちも後に続く。
だが、風鬼に触れることも叶わず、鋭い風の刃を見に受け、傷つき、次々と倒れていった。
「力の差がありすぎるわ……。みんな、もう逃げて!」
まったく勝負にならない。これでは、ただの一方的な甚振りだ。
椿が春姫の代わりに叫んでも、誰も聞き入れようとはしない。
「姫様、お逃げくだされ……」
それどころか、自分たちの身よりも春姫の心配ばかりだ。
周囲に多くの人間が倒れる中、風鬼はただまっすぐ、春姫を見つめている。
待っているのだと気付いた。春姫が動き出し、戦うその時を。
女中たちが傷ついていく姿を見た春姫が、ゆっくりと立ち上がった。
腰の帯から、笛を抜き取って構えた。
「春ちゃん、何をする気……?」
「この命、削ってでも、其方たちを守る。それが、春姫に課せられた使命――」
春姫はゆっくりと、調べを奏で始めた。
美しい笛の根が周囲に響き渡る。
すると徐々に、倒れ込んでいた女中たちが意識を取り戻し始めた。
同時に、笛の調べが乱れる。春姫が血を吐いて、膝を折った。無理に力を使った反動だ。
「やめて、もう、神通力を使う力なんて、残っていないのでしょう!?」
椿は止めさせようとするが、春姫は笛を手放そうとはしない。ただ真っ直ぐに、前を見据えていた。
「春は、独りぼっちだと嘆いてばかりだった。いつも満たされず、常に孤独だと、決めつけていた。――こんなにも、春の側には多くの者たちが居るのだと、気付きもせずに……」
目に涙を溜め、呼吸を整えながら、春姫は再び、しっかりとその足で床を踏みつける。
この、身も心もボロボロの少女のどこに、こんな力が残っていたのだろう。
これが、本当の春姫の力。
決して燃え尽きない、強靭な魂。その燃える闘志が、椿の中にまで伝わって来た。
椿の目からも、涙が溢れてくる。
春姫を、止めなければいけないのに、体が動かなかった。
「そうよ、春は一人じゃなかった。いつも、側に、みんないてくれた。寂しいはずなかったのに、ずっと我儘ばかり言っていた。自分の体のことも、人に任せようとしてばかりで、何も見てこなかった。向き合ってこなかった。この傷も何もかも、当然の報いなのよ。だから、せめて最期くらい、みんなを助けて終わりたい。春のまま、人間のままで……」
春姫が急に苦しみだした。また、体中を邪気が取り囲みつつある。弱った春姫の体を、内側の悪鬼が食い荒らそうとしている。完全に、乗っ取るために。
「忌まわしき悪鬼の血よ。貴様の力にばかり、春の体を食わせてはおかぬ。今度は、春が貴様の血を全て搾り取ってくれるわ!」
その闇を振り払い、春姫は笛を咥えた。一気に息を吹き込み、乱れた、激しい調べを響かせる。
その調べの力を受けて、女中たちが次々と回復していった。
「傷が、癒えていく……?」
ざわめきが広がる中、事態をいち早く察した板取が、焦った声を張り上げた。
「違う、我らの負った傷を、姫様が肩代わりして下さっておるのじゃ! なりませぬぞ、姫様!」
板取が春姫に視線を向けた時には、春姫の体中から、夥しい流血が滴り落ちていた。
春姫は弱々しい呼吸を繰り返しながら、板取達に笑いかけた。
「お前たち、春より先に死んではならぬ。お前たちの最後の奉公は、春をしっかりと、看取ることじゃ」
消え入りそうな声でそう伝え、ゆっくりと、春姫は眼球を動かした。
視線の先には、大きな傷を負って倒れる朝の姿が。
「朝月夜、待たせたな。痛かったろう。――すぐに、楽にしてあげる」
「駄目、やめて……」
あんな致命傷を肩代わりしたら――。
朝も、春姫がしようとしている行動の真意に気が付いたのだろう。表情を歪めて、腹部を抑えながら起き上がった。
「僕の傷はいい、すぐに治る! だから……」
吐き出した朝の声は、春姫に届いたのだろうか。
その時にはすでに、最期の癒しの調べが響き渡っていた。
朝の傷が、あっという間に消える。
同時に、春姫の腹部から血が噴き出し、椿の目の前に倒れ込んだ。
椿は身動き一つとれず、横たわる春姫の姿を凝視していた。
「姫様、お気を確かに!!」
板取と立壺が春姫に駆け寄り、身を起こす。
「みんな、最期まで、側にいてくれて、感謝するわ……」
「最期などと仰らないで!」
か細い声が、消え入る。立壺の涙が、とめどなく溢れて春姫の顔を清める。
「何とかならぬのか、かような、終わり方など……」
「無理です。このお体では、もう……」
悲しみ、嘆く声と、すすり泣く音が止まない。
何もできずに座り込んでいた椿の手を、握るものがあった。
血にまみれた、春姫の手だ。
「椿。其方に会えて、良かった。春の本当の心、取り戻せた。皆にも、ちゃんと礼が言えた。人のまま、終わって逝ける……」
椿は、何も言えなかった。だが、椿の気持ちは全部、何も言わなくても、春姫に伝わっている気がした。
「春は、生まれ変わると、其方になれるのでしょう? ならば、何も怖くはないわ。春は、果報者……」
春姫も、全部知っている。椿との繋がりを、感じ取っている。
だからだろう。そっと、椿の手に、竹で作られた白い笛を、託してきた。
「春姫の調べ、全て、其方……に」
ゆっくり、呼吸が鎮まる。
目を閉じた春姫は、そのまま息絶えた。
今までで一番、穏やかな笑みを浮かべて。
周囲から、悲鳴や泣き声が響き渡る。
その賑やかな空間の中にいて尚、風鬼は冷静に物事を見据えていた。
「魂の光が尽きた。我の思い過ごしであったか……」
狙いの春姫が死に、興味が失せたのか、その場を去ろうと踵を返す姿が、椿の目に留まった。
その刹那。
椿の中に、熱い魂の流動が沸き上がった。全身が淡い桃色の光に包み込まれた。
「この光は!?」
「暖かい、春の日差し。これは、春姫様の……」
周りの声が、微かに聞こえる。
懐かしい感触。
椿の頭の中に、優しい言葉が浮かび上がって来た。
「何なの、こいつは……!?」
上空に浮かんでいる人影は、一つ。
何者かは分からないが、たった一人で、あの強固な結界を容易く破壊したというのか。
嫌な予感がした。とてつもなく強い敵が、春姫を狙ってきたのかもしれない。
人影は音も立てずにゆっくりと風を纏い、雪を散らして地面に降り立った。
朝が手を組んで、戦闘態勢を整える。
目の前に近寄って来たその者は、人間とは言い難かった。
強そうな鎧から覗く、筋骨隆々の肌は、緑色。頭からは二本の角を生やしている。
明らかに人外の存在だが、悪鬼や妖怪とは、また趣が異なる気がした。
「我は四鬼が一人、風鬼」
謎の侵入者が、名乗った。
「四鬼――? 遥か昔に封印されたはずの、鬼の眷属です。なぜ、この時代に……?」
朝は眉を顰めている。
鬼――。以前、榎が鬼化した時に感じた雰囲気と、似た部分はある気がする。
だが、榎たちが引き継いできた鬼の力とは、また異なるものが感じられた。
敵意と呼べるほど危険な気配は感じ取れなかったが、少なくとも、椿たちの味方ではない。
直感的に、そう悟った。
「強く気高い魂を持つ者よ、我と戦え。何者にも屈しない、不滅の魂。我の風でも吹き飛ばぬ魂の強さを見せてもらおう」
風鬼は有無を言わさず、突然攻撃を仕掛けてきた。激しい突風を巻き起こし、風の塊をいくつも飛ばしてくる。辺りに舞い散った雪が混ざり込んで、風の塊は氷の刃に変わった。
攻撃は屋敷の柱や床に突き刺さり、御簾を激しく波立たせた。鋭利な風の刃によって周囲の女中たちの肌が切り裂かれ、辺りから悲鳴が飛ぶ。
椿と春姫は、傷一つなく無事だった。顔を上げると、朝が翼を広げて庇ってくれていた。
同じく風を起こして攻撃を分散させたみたいだが、力が及ばなかったらしく、少し傷を負っている。
「僕の力では、奴の放つ風を相殺するだけで精一杯です。攻撃できる隙がない」
朝は忌々し気に、風鬼を睨み付ける。風鬼は朝など眼中にない、とでも言いたげに、無表情を貫いていた。
「邪魔をするな、弱き妖怪」
さっきよりも強い、強大な風の弾を作り上げ、風鬼は放った。
朝はその攻撃を受け止めたが、圧倒的な力に成す術もなく吹き飛ばされる。風鬼は更に、雪の中に倒れ込んだ朝の頭上に飛び上がった。その手には、風で作られた槍が握られている。
その槍が勢いよく、朝の腹部めがけて突き刺さった。
朝は激しい悲鳴を上げて、口から大量の血を吐き出す。
「朝ちゃん、しっかりして!」
椿も悲鳴を上げた。春姫はその状況を見つめて、恐怖に表情を歪めている。
「姫様、ご無事ですか!?」
椿と春姫の前に、板取と立壺が来て壁になる。
「おのれ、ここが伝師北家の邸宅と知っての狼藉か!」
槍を構えた板取が、風鬼めがけて喝を飛ばす。
だが、風鬼はどこ吹く風で、まったく相手にもしていない。
「弱き者どもに、用はないと言ったはずだ」
再び、激しい突風を巻き起こし、放ってきた。板取は風に煽られ、地面に転倒する。風鬼が素早く拳で攻撃を繰り出してきたが、素早い身のこなしで躱し、難を逃れた。
だが、攻撃を与える隙も余裕もなさそうだ。それに、うまく一撃でも与えられたとしても、それで倒せるほど弱い存在ではない。
正直、生身の人間にはとうてい、力の及ばない存在だ。
「板取! 止めよ、すぐに逃げるのよ!」
春姫も、相手の強大な力を察知したのだろう。慌てて板取を引かせようとした。
だが、板取は頑として、風鬼から目を逸らさない。
「逃げるべきは、姫様でございます。椿、姫様をどうか、安全な場所へ。この化け物は、我らが食い止める!」
「そんな、無茶よ! ただの人間が、鬼に敵うわけが……」
「我らとて、陰陽師の端くれ。主を守るためにこの力を使わずして何の意味がある!」
板取の声に応じて、傷を負った女中たちも、次々と武器を構えて庭に集まって来た。
その背中を見つめる春姫の顔が、みるみる歪む。
「何故じゃ!! 春は、お前たちにとっても厄介者であるはず。春さえいなくなれば、お前たちは好きな場所で好きに生きられるのだぞ!? それなのに、なぜ命を粗末にする?」
「好きに生きられる場所など、貴女様の側よりほかに、ございませぬ」
泣きながら喚く春姫に、板取は優しい口調で返した。
「貴女はお忘れか? 妖怪に親兄弟を殺され、お前も妖怪ではないかと疑われ、迫害されていた私を憐れみ、貴女は救ってこの屋敷に置いてくださった。貴女の側に居ることと引き換えに、居場所とお役目を与えてくださった。――まだ幼かった故、覚えておられぬかもしれませぬがな」
板取の言葉に、春姫は喉を引き攣らせた。まだ、何か言おうとしていたが、口が上手く動いていない。
「その御恩に報いるため、私は私の意志で、貴女のお側で戦うと誓ったのです。――ここにおる者たちは、皆、姫様に命を救われたものばかり。既になかったはずのこの命。姫様を守るためならば、喜んで投げ打ちましょうぞ!」
板取は咆哮にも似た声を張り上げ、風鬼に向かって突進した。女中たちも後に続く。
だが、風鬼に触れることも叶わず、鋭い風の刃を見に受け、傷つき、次々と倒れていった。
「力の差がありすぎるわ……。みんな、もう逃げて!」
まったく勝負にならない。これでは、ただの一方的な甚振りだ。
椿が春姫の代わりに叫んでも、誰も聞き入れようとはしない。
「姫様、お逃げくだされ……」
それどころか、自分たちの身よりも春姫の心配ばかりだ。
周囲に多くの人間が倒れる中、風鬼はただまっすぐ、春姫を見つめている。
待っているのだと気付いた。春姫が動き出し、戦うその時を。
女中たちが傷ついていく姿を見た春姫が、ゆっくりと立ち上がった。
腰の帯から、笛を抜き取って構えた。
「春ちゃん、何をする気……?」
「この命、削ってでも、其方たちを守る。それが、春姫に課せられた使命――」
春姫はゆっくりと、調べを奏で始めた。
美しい笛の根が周囲に響き渡る。
すると徐々に、倒れ込んでいた女中たちが意識を取り戻し始めた。
同時に、笛の調べが乱れる。春姫が血を吐いて、膝を折った。無理に力を使った反動だ。
「やめて、もう、神通力を使う力なんて、残っていないのでしょう!?」
椿は止めさせようとするが、春姫は笛を手放そうとはしない。ただ真っ直ぐに、前を見据えていた。
「春は、独りぼっちだと嘆いてばかりだった。いつも満たされず、常に孤独だと、決めつけていた。――こんなにも、春の側には多くの者たちが居るのだと、気付きもせずに……」
目に涙を溜め、呼吸を整えながら、春姫は再び、しっかりとその足で床を踏みつける。
この、身も心もボロボロの少女のどこに、こんな力が残っていたのだろう。
これが、本当の春姫の力。
決して燃え尽きない、強靭な魂。その燃える闘志が、椿の中にまで伝わって来た。
椿の目からも、涙が溢れてくる。
春姫を、止めなければいけないのに、体が動かなかった。
「そうよ、春は一人じゃなかった。いつも、側に、みんないてくれた。寂しいはずなかったのに、ずっと我儘ばかり言っていた。自分の体のことも、人に任せようとしてばかりで、何も見てこなかった。向き合ってこなかった。この傷も何もかも、当然の報いなのよ。だから、せめて最期くらい、みんなを助けて終わりたい。春のまま、人間のままで……」
春姫が急に苦しみだした。また、体中を邪気が取り囲みつつある。弱った春姫の体を、内側の悪鬼が食い荒らそうとしている。完全に、乗っ取るために。
「忌まわしき悪鬼の血よ。貴様の力にばかり、春の体を食わせてはおかぬ。今度は、春が貴様の血を全て搾り取ってくれるわ!」
その闇を振り払い、春姫は笛を咥えた。一気に息を吹き込み、乱れた、激しい調べを響かせる。
その調べの力を受けて、女中たちが次々と回復していった。
「傷が、癒えていく……?」
ざわめきが広がる中、事態をいち早く察した板取が、焦った声を張り上げた。
「違う、我らの負った傷を、姫様が肩代わりして下さっておるのじゃ! なりませぬぞ、姫様!」
板取が春姫に視線を向けた時には、春姫の体中から、夥しい流血が滴り落ちていた。
春姫は弱々しい呼吸を繰り返しながら、板取達に笑いかけた。
「お前たち、春より先に死んではならぬ。お前たちの最後の奉公は、春をしっかりと、看取ることじゃ」
消え入りそうな声でそう伝え、ゆっくりと、春姫は眼球を動かした。
視線の先には、大きな傷を負って倒れる朝の姿が。
「朝月夜、待たせたな。痛かったろう。――すぐに、楽にしてあげる」
「駄目、やめて……」
あんな致命傷を肩代わりしたら――。
朝も、春姫がしようとしている行動の真意に気が付いたのだろう。表情を歪めて、腹部を抑えながら起き上がった。
「僕の傷はいい、すぐに治る! だから……」
吐き出した朝の声は、春姫に届いたのだろうか。
その時にはすでに、最期の癒しの調べが響き渡っていた。
朝の傷が、あっという間に消える。
同時に、春姫の腹部から血が噴き出し、椿の目の前に倒れ込んだ。
椿は身動き一つとれず、横たわる春姫の姿を凝視していた。
「姫様、お気を確かに!!」
板取と立壺が春姫に駆け寄り、身を起こす。
「みんな、最期まで、側にいてくれて、感謝するわ……」
「最期などと仰らないで!」
か細い声が、消え入る。立壺の涙が、とめどなく溢れて春姫の顔を清める。
「何とかならぬのか、かような、終わり方など……」
「無理です。このお体では、もう……」
悲しみ、嘆く声と、すすり泣く音が止まない。
何もできずに座り込んでいた椿の手を、握るものがあった。
血にまみれた、春姫の手だ。
「椿。其方に会えて、良かった。春の本当の心、取り戻せた。皆にも、ちゃんと礼が言えた。人のまま、終わって逝ける……」
椿は、何も言えなかった。だが、椿の気持ちは全部、何も言わなくても、春姫に伝わっている気がした。
「春は、生まれ変わると、其方になれるのでしょう? ならば、何も怖くはないわ。春は、果報者……」
春姫も、全部知っている。椿との繋がりを、感じ取っている。
だからだろう。そっと、椿の手に、竹で作られた白い笛を、託してきた。
「春姫の調べ、全て、其方……に」
ゆっくり、呼吸が鎮まる。
目を閉じた春姫は、そのまま息絶えた。
今までで一番、穏やかな笑みを浮かべて。
周囲から、悲鳴や泣き声が響き渡る。
その賑やかな空間の中にいて尚、風鬼は冷静に物事を見据えていた。
「魂の光が尽きた。我の思い過ごしであったか……」
狙いの春姫が死に、興味が失せたのか、その場を去ろうと踵を返す姿が、椿の目に留まった。
その刹那。
椿の中に、熱い魂の流動が沸き上がった。全身が淡い桃色の光に包み込まれた。
「この光は!?」
「暖かい、春の日差し。これは、春姫様の……」
周りの声が、微かに聞こえる。
懐かしい感触。
椿の頭の中に、優しい言葉が浮かび上がって来た。
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