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橘 金春

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 薄暗い部屋の中、少女は虚ろな瞳で視線を彷徨わせた。

 椅子や机といった家具のないその部屋はガランとして塵一つ落ちておらず、どこか手術室のような特殊な潔癖さを感じさせた。

 ――あの男はここを『調理場』と言ってた。『ここで、これからお前を料理してやる』とも。

 男の言葉の意味はわからなかったけれど、冗談を言っているようには全く見えなかった。

 そんなことをあれこれと考えていると、カチャリと入口の方から音がして部屋の戸が開き、男が入ってきた。

 キュラキュラという音に何かと思ったらキャスター付きのワゴンのようなものを運び入れている。

 シン、と静まり返った部屋の中でカチャカチャと金属が触れ合う硬質な音がよく響く。

 男と少女の間の距離は二メートルほど。

 目を凝らして男の手元を見つめていた少女は男の手の中でキラリと光ったそれをみて思わず「ひっ」っと声を漏らした。

 男の手に握られていたのはメスのような鋭利な刃物――。

 メガネをかけた男の表情は、少女の位置からではよくわからない。
 しかし、ワゴンの上の銀色のトレイから、ハサミ、注射器、止血バンドをかわるがわる手にとっては満足そうに頷いている様子を見る限り、すこぶる上機嫌であることは間違いなさそうだ。

 それだけでも十分背筋がひやりとする光景なのに、トレーの横には大ぶりの鉈と手錠のついた鎖、大きなレンズの高そうなカメラと三脚が並べられていた。

 そんなモノ何に使うかなんて、考えたくもない。

 鼻歌交じりにごく自然に男はワゴンの上からメスを取り上げるとゆったりとした足取りで少女に近づいてきた。

 フンフンフンフン――……♪

 ――何だっけ、この曲……。よく年末に聞くクラシックの……。

 頭の中がゴチャゴチャに混乱していて、心底どうでもいい疑問が湧き上がってくるのを止められない。

 私は、どうしてここにいるんだっけ。

 縛られている手以外の、足や指先までなぜか動かないのは何でなんだっけ。

 男の手がゆっくりと伸びてきて、床の上に広がる少女の赤茶色の髪を掬い上げる。

 その瞬間、男の背後にゆらりと――陽炎のように揺れる黒い影が現れた。

 ※※※

 ぽっかりと晴れた八月の早朝。

 F市のこじんまりとしたK駅前のロータリーにある小さな交番から出てきたのは見るからに年若い巡査だった。

 あくびを噛み殺しながら引き戸を開けると、ラジオ体操すらまだ始まらない時間帯の冴えた朝の空気が流れ込んでくる。

 いつもと変わらぬ平和な日常の幕開け――だと思っていた。その、紙袋が目にとまるまでは。

 交番の入り口に駅前デパートの見慣れた紙袋が置かれていた。

「あ―ー……またかぁ?」

 のたのた、と袋の前に屈みこみながら巡査は独りごちた。

 交番勤務あるある。

 落とし物を拾ったはいいが、届け出た後のこまごまとした手続きが面倒でそのまま入り口に置き去りにしてしまうケースだ。

 紙袋の中には透明なビニールに包まれた黒っぽいものが見えた。

 爆発物や危険物でははなさそうだ――。

 少しほっとしながら、中身をよく見ようと紙袋の口を広げたその時。

 朝の爽やかな空気の中に生々しい異臭が混じる。

 嫌な予感に、額にじんわりと汗がにじむのを感じながら、巡査は紙袋の中の透明なビニールをちょいと引っ張った。

 包み方が甘かったのかビニールは軽く引いただけでズルズルとほどけて中に包まれていたものがあらわになる、と同時に先ほどから漂っていた異臭が一層濃くなった。

 ビニール越しに見えていた「黒っぽいもの」は人間の髪の毛だった。

 どんよりとした目を虚空に向けた生首――。

 ジ――、ジ、ジ、ジ。

 時刻は午前五時五十五分――一斉に鳴きだした蝉の声が巡査の悲鳴をかき消した。


 ※※※


 登山口に乗り付けた警察車両から降りた途端、熱い空気とまぜこぜになった土と緑の濃い匂いが顔に吹き付ける。

「フ――。あちぃ……たまらんな、こりゃ」

 どよんとした目。ちらほらと白髪が混じり始めた短髪の男は車両から降りるなりげんなりとした顔で独り言ちた。

 午前中とはいえ、すでに気温は三十度を超えている。

 エアコンのきいた車内から出た途端に噴き出してくる汗を拭いながらその男――十束 とつか ひとしは登山道の入り口付近を覇気のない顔で見つめている。

「意外でしたよ、十束さんが学生時代登山部だったなんて」

 そう言いながら十束に続いて車両から降りたのは二十代後半といった感じの若い刑事だった。

 十束たちの車両に続いて、次々と他の警察車両が登山口近くの駐車場に入ってくる。

「まぁ、遠い昔っちゃあ昔だな。俺が大学生の頃だからかれこれ十五年くらい前になるか」

 ――もうそんなに経つのか。時が過ぎるのは早いねぇ。

 自分で「遠い昔」と言っておきながら、こうして十五年前とさほど変わらない田舎の登山道を眺めていると記憶の彼方の学生時代がつい昨日のことのように思えてくるから不思議だ。

「十五年ったら、俺はまだ小学生でしたね……。この山、何回か登ったことがあるんすか?」

「いやー、俺の実家が割と近くてさ。大学生なんて夏休みバイト以外することないだろ? よくこれぐらいの季節に登ったもんだよ」

「……色気のない学生時代っすねえ」

 背広を脱いで肩にひっかけながら、まだ若いさかきは呆れたようにそう言った。

 F市中心部から車で四十分ほど、山岳地帯と市街地の合間に位置するH山。

 標高三百メートルほどのその山は、登山道がよく整備されており休日は都市部からの登山者で賑わうこともあるが、夏休みとはいえ平日にあたる今日は登山者の姿もちらほらと見かける程度だ。

 K駅前交番の生首遺棄事件――十束と榊は今朝がた発生した事件の調査でF市市内からこの山まで急行した。

 発端は、生首と一緒に紙袋に入ってい二枚の紙切れ。

 一枚はF市内の住所が書かれたメモで、もう一枚は観光協会がWebで公開している登山者用の簡易地図を印刷したコピー用紙。

 地図にはある地点にはっきりとマル印が打たれており、ご丁寧にも「ココです」のメッセージとマルを指す矢印まで書かれていた。

 ――まさか、こんな事件の捜査でココにくることになるとは思いもしなかったな。

 ありふれた日常のすぐ隣。平和なハイキングコースに凶悪犯罪の手がかりがあるかもしれないなどと、普通の登山客には思いもよらないことだろう。

 そんなことを考えながらふと登山道に目をやると、高校生くらいの女の子がいるのに気がついた。

 白いTシャツに学校指定のジャージだろうか。側面に白い二本線が入ったズボンを着て大ぶりのリュックを背負っている。

 ちょうど下山してきたところらしく、駐車場に停められた警察車両や大勢の警察関係者にぎょっとしたように立ちすくんでいる。

「? 先輩?」

 十束が女の子に向かってちょいちょいと手招きするのを見て榊は少々驚いた。

 女の子は恐る恐るといった様子で十束達に向かって歩いてくる。ポニーテールにした赤茶色のツヤツヤした髪が、女の子の足取りに合わせて踊るように跳ねている。

「こんにちは、暑いね。いま、下山してきたとこかな」

 少し緊張しているのか、女の子は十束の問いかけに黙ってコクンと頷いた。

「この山にはよく登っているのかな?」

「いえ、今日が初めてです」

「そうか、初めてか……ちなみにどこまで行けた?」

「ええと……ここの登山口から出発して頂上まで行って、折り返してきました」

「登山中に何か変わったことはなかった? 何か変わったモノを見かけたとか」

 急に榊が女の子との会話に割り込んできた。一見、いかにも刑事らしく真面目に質問しているようだが、どこか不真面目にテンションが高いことに十束はすぐに気がついた。

「いいえ、特に何も……初めて来たので、よくわかりません」

 女の子の回答に、うんうん、と頷いてから十束は言った。

「これからちょっと警察が捜査に入るから、しばらくここは立ち入り禁止になるからね」

「そうですか、わかりました」

「ん、じゃあ、気をつけて帰りなさい」

 十束がそう言うと、女の子はぴょこんと頭を下げて歩き出した、が、数歩歩いたところでくるりとこちらを振り返った。

「あのー、刑事さん……」

 少し戸惑ったような、何か言いたげな表情を浮かべてその子はじっと十束を見つめていたが、次の瞬間ふいににっこりと笑顔を浮かべた。

「暑い中、大変ですね。お仕事、頑張ってください」

 もう一度ぺこりとお辞儀をすると、小走りに駐車場を横切ってバス停の方へと駆けていく。

 遠くなっていく女の子の背中で後ろ髪がぴょんぴょんと元気に揺れている。

「……若いねえ。汗一つかいてなかったな」

「なあに、じじむさいこと言ってるんすか。いやぁ、すっげーカワイイ子でしたね?」

 いいもの見た、と言わんばかりに蕩けた顔をした榊に十束は冷ややかな視線を送った。

「高校生くらいの子だぞ。なんだ鼻の下伸ばしやがって」

「えー!? 先輩も見たでしょ! あんな可愛い子に頑張ってください♡ なんて言われたら、張り切るしかないでしょー!」

「……お巡りさーん、コイツロリコンでぇーす」

「ちょっやめてくださいよ! いや俺まだ二十五だし、ギリセーフじゃないっすか!? ねぇ!」

「知らねーよ。おら、さっさと先に進むぞ」

 捜査の準備が整ったのを見計らって十束と榊は登山口から目的地に向かって行動を開始した。
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