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第七章 ヨハネ Johannes
Ⅲ・7月29日
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「晃平さん、さっきの話」
二階から一階へと階段を下りる。切り出したのは山﨑だった。その手には朝、遅刻をして、取りに行ったと思われる資料がある。
「それよりお前の資料って? 朝、わざわざ取りに行ったんだろ?」
「ああ、これですね。これから望月さんに見てもらいますよ」
「何の資料なんだ?」
「田邑先生のメールの履歴です。それと先生の教え子の名簿です」
いつの間に下りていたのか、いつものソファには、先客の姿があった。望月と松田だ。二人が腰掛けたソファに、自分達の居場所を奪われたような気分になるが、山﨑は臆することなく、空いた席に腰掛けている。
「晃平さんも」
仕方なく山﨑の向かいに腰を落とす。毎朝、居心地よく過ごしてきたソファを、こんなに居心地悪く感じるのは初めてだ。
「今日から宜しく頼むよ」
口火を切った望月に松田が続く。
「あの件、田村さんに了承して貰わないといけないですね。まあ、了承と言っても、事後報告になりましたけど」
悪戯に笑う松田の顔に、嫌な予感が走る。何か余計な事に巻き込もうとしているのか。
「実はですね、SNSで田村さんのアカウントを、勝手に作らせて頂きました」
勝手に作ったと言いながら、あっけらかんと話す松田に、返す言葉が見つからない。さっきも感じたが、松田には本当に役者の素質があるのでは。その場その場で、自在に変える表情と口調に、つい返す言葉を失ってしまう。
「それでですね。今、田村さんのアカウントで、"TAMATAM"にフォロー申請していまして、一応その報告です」
全く話が見えない。勝手にアカウントを作り、"TAMTAM"にフォロー申請?
一体どう言うつもりだ。
「今日の時点で、"TAMTAM"のフォロワーは、百万人を超えています」
「えっ? どういう事で?」
「ふざけた話ですよね。"TAMTAM"は、芸能人でもなんでもない。ただの連続殺人犯です。それなのにそのアカウントをフォローする人間が、百万人もいるなんて。いつから日本はこんな狂った国になったんでしょう」
松田が言わんとする事は分かる。それには同意見だ。但しそれがどうフォロー申請に繋がるのか、そこが全く見えない。
「それは分かるけど、何で晃平さんが?」
黙って聞いていた山﨑が疑問を読み取ってくれた。松田はそんな山﨑を制止するように睨んでいる。そんな松田を今度は山﨑が睨み返している。
そんな二人の姿に見かねた、望月が割って入る。
「フォロワーは百万を超えているが、逆に"TAMTAM"がフォローしているアカウントは、現時点で四人なんだ。でも"TAMTAM"がフォローするアカウントがあるなら、そこから"TAMTAM"に繋がれるかもしれない」
「そう考えたんですよ」
松田がまた自分へと戻す。役者だけではなく、主演でないと気が済まないらしい。
「捜査一課で適当なアカウントを作って、フォロー申請してみてもよかったんですが、こんなに計画性を持っている相手ですからね、簡単に見破られるかもしれない。それに今現在フォローされているうちの何人かは、明らかにタムラ姓なんです。あのタレントのタムシンもその一人なんですが」
いつかのテレビを思い出す。蕎麦を啜りながら見たワイドショー。
「そこで田村さんの名前をお借りしたんです。田村って名前に奴が食いつくかもしれない。それに挑戦的な奴の事だから、田村さんの素性、田村さんが刑事だって知ったら、食いついてくる可能性が高くなると。とりあえずこれがユーザーネームとパスワードです。名前をお借りする以上、田村さんにはアカウントにログインする権利がありますからね」
松田にメモを差し出される。
何で俺なんかを? そう抱いた疑問が一瞬にして解ける。このアカウントのために、山﨑と共に捜査本部の一員にされた。山﨑に至っては別の理由があるだろうが、ただ単に名義貸しじゃないか。それでもノーなんて、意思表示できるはずもない。
「分かりました。好きにして下さい。ただこのパスワードは必要ないです。俺がこのアカウントにログインする事はないんで」
それがせめてもの抵抗なのかは、自分でも分からない。そんなアカウントを必要としていないのは事実だ。それでも無下にメモを突っぱねるのは、やはり抵抗なのだろう。
「申し訳ない。今はこの"TAMTAM"のアカウントしか手掛かりがないんだ。あんな画像一つじゃ、男か女なのか、それさえも分からない。それなのにまだ犠牲者を出すかもしれない」
望月が申し訳なさそうに捕捉する。細やかな抵抗を読み取られたのだろうか。
「えっ? "TAMTAM"は男ですよ。そうですよね? 晃平さん」
やり取りを見守っていた山﨑が目を丸くして、"TAMTAM"の性別に反応する。確かに"TAMTAM"は男だ。女であるはずがない。
「そうだな。前にお前と話したな。"TAMTAM"は間違いなく男だって」
「どういう事ですか?」
急に驚きを露わにした松田が、前のめりになっている。
「詳しく聞かせてくれないか」望月が松田を援護する。
話の出所を追及されれば、全て正直に話さないといけないだろう。いや、ヨハネの話をすれば、全てを話さなければ、辻褄が合わなくなるかもしれない。たかだか"TAMTAM"の性別を立証するために、言いたくもない事を、全て白状させられるのか。
「蚕糸の森公園で見つかった、田村晃と田村俊明の二人は、同性愛者だったそうです。そして二人の死体には本人のものと見られる精液が付着していた。これは事実ですよね?」
「それは間違いない」
何故か代わりに話し始めた山﨑に、松田が答える。
「田村晃と田村俊明、同性愛者の二人が性的興奮を示せる相手は、男でしかありません」
「そう言う事か!」
話の出所を追及する事なく、望月は納得している。上手く躱せた事、今は山﨑に感謝だ。
「すごい情報じゃないですか。田村さんと、これから一緒に捜査するのが楽しみだなあ」
調子のいい松田に呆れた目を向ける。
捜査本部に迎え入れたのは、田村っていう名前欲しさじゃないか。ついさっきの事も忘れやがって。思わず悪態をつきそうになるのを堪える。もうそんな事はどうでもいい。
「ああ、精液で思い出しました。田村優希です。田村優希」
山﨑が田村優希の名前を口にする。
その名前にすっかり忘れていた、行き着いた考えを思い出す。
——田村優希は性行為なしに殺された。
そうだ。幾ら若いからと言って、精液が頬まで到達するのか? そんな疑問が行き着いた考えを肯定する。
「そうだ! その田村優希。田村優希の死体は、頬に精液が付着していた。そうでしたよね?」
割って入るつもりはなかったが、思い出された名前に思わず体が浮く。
「やっぱり晃平さんもそう思いましたか?」
山﨑の目配せに思わず息を呑む。山﨑も同じ考えに行き着いていたのだろうか。
「どう言う事だ? 何の事を言っているんだ?」
望月と松田は言わんとする事に、まだ気付けていない様子だ。まだ考え込む望月を他所に、松田が更に前のめりになる。
「田村優希の精液だよ。付着していた場所は頬だった。確か、頬で血液と精液が混じり合っていたって聞いたけど、間違いないよな?」
「ああ、そうだよ。それがどうしたんだ?」
松田はまだ山﨑が言わんとする事に気付けないようだ。
「もしその精液が田村優希のものだとして、頬まで飛ぶのか?」
「それはまだ田村優希が若いからとも考えられるだろ?」
「まあ、そうだけど。でも、殺された後から精液は出せないだろ。もし田村優希の精液が頬に付着したとして、その後に殺され大量の血を流したのなら、精液は血に流されるか、血の下に隠れてしまうだろ」
「まあ、そうなるな」
「でも、精液だと分かる姿で頬に付着していた。殺された後に精液が付着したと考えるのが普通じゃないか?」
「光平の言う通りだな」
黙っていた望月が重い口を開く。
「おい、葉佑。あの田村優希の頬に残されていた精液が、田村優希本人のものかどうかを確かめろ! もし田村優希のものでなければ、犯人が残していった可能性が高いだろう」
「あ、はい。すぐに確認します」
松田が慌てて立ち上がる。望月に対しての慌てぶりが、さっきホワイトボードを激しく叩いていた松田とは、別人のように思えてならない。
「田村さんも光平と同じ考えを?」
「そうですね。若いからと言って顔まで精液が飛ぶかなとは思いました。それと田村晃と田村俊明は本人の精液が残っていたので、性行為のあとに殺されたのだと思いますが、もし田村優希の精液が残されていないのであれば、田村優希は性行為なしに殺されたのでは? そんなふうに思いました」
「そうですか。あなたを捜査本部に迎える事が出来て嬉しいですよ」
望月の意思表示に、素直に喜びそうになったが、その目はすでに山﨑へと向けられていた。話を切り上げるための言葉だっただけかと、喜びそうになった自分を嫌悪する。
「それでだ。光平が言っていたのはそれか?」
朝、山﨑が取りに行った資料に、望月の目はすでに奪われている。山﨑はその資料を封筒から出し、テーブルへと並べ始める。
「そうです。まずこっちが田邑先生の、田邑春夫のメールの履歴です。メールの相手は”S・TAMURA”と言う人物。この”S・TAMURA”は、田邑春夫と頻繁に会っていたようです。あと、”S・TAMURA”はメールの中で、自分が神であるかのように振舞っています。それとメールの中で田邑春夫の事を先生と呼んでいます。もしかしたら教え子だったのではと思い、教え子の名簿を取り寄せました。それがこっちです」
「お前はその”S・TAMURA”が田邑春夫を殺した犯人。”TAMTAM"だと思っているんだな?」
「はい。可能性はあると」
「それで、何か分かったのか?」
「はい。まず三十年間で、田邑春夫の教え子は、全部で六百九十三人いました。その内、タムラと言う姓は二十一人でした」
「二十一人なら全員当たれる数じゃないか!」
席を外していた松田が戻り、山﨑と望月に割って入る。
「その二十一人の中で、名前のイニシャルをSに絞ると六人。さらに男だと断定していいなら、二人に絞れます」
「えっ? たったの二人? もう決まったようなものじゃないか!」
やけに簡単に見つかった糸口に、自分が手柄を取ったように、松田がテンションを上げる。だが全て山﨑の仮説でしかない。S・TAMURAが田邑春夫の教え子だったら? イニシャルがSだったら? "TAMTAM"が男だったら? そんな仮定だけで連続殺人犯だと言い切っていいものか。
「それで一つ気になる事が」
「何だ?」
その声色からも分かるほど、望月の調子は低かった。
「その二人の内の一人なんですが、田村周平。この名前に何かピンとこないですか?」
「田村周平?」
望月の表情からは、何もピンとくるものが無い事が読み取れる。
——田村周平。
声を出さずに反芻してみたが、勿論ピンとくるものはなく、松田の様子からも同じだと読み取れた。
「五年前の、あの事件の容疑者の一人ですよ」
望月の顔が一瞬にして曇る。
五年前と言えば、山﨑がまだ捜査一課にいた頃だ。きっとその頃に、二人に強い印象を残した事件があったのだろう。ただ容疑者の一人と言う事は、そいつが被疑者ではなかったのだろうか。
「その田村周平ともう一人を、とりあえず洗ってみないとな」
静かに立ち上がる望月を見上げる。心なしか肩を落としているようにも見える。山﨑もそれ以上の事は口にしなかった。
「望月さん結構、参っているんですよ」
望月の背中が見えなくなり松田が口を開く。
「そうみたいだな」
「光平が持ってくるネタに期待していたからな。その田村周平ってのが、五年前の事件とやらの容疑者だってのも、まだ裏が取れていないんだろ?」
「まあな、その辺りはこれからだ」
「だよな。その五年前の事件が、関係しているかどうかも分からないもんな」
山﨑の肩も望月同様すっかり落ちているように見えた。
ここで下手に出しゃばる必要はない。山﨑が言う五年前の事件には、何一つ心当たりがないのだから。それよりもヨハネだ。少しでも役に立てるなら。そうは思いもするが、下手に話して余計な事まで、詮索されるのは面倒だ。
「そう言えば、晃平さん。さっきの話。後でな、って言っていた、あれは?」
落ちたと思った肩はほんの数秒の事で、いつも通りの姿勢の山﨑が、目を合わせてくる。
しっかりと覚えていやがった。やはり山﨑は抜かりないし、侮れない。
「ああ、さっきの多村仁だよ。何回か見掛けた事があってな」
「どこで見掛けたんですか?」
「病院だよ。信濃町の病院。今もそこに入院している多村駿って奴がいるんだ。多村仁はその多村駿の兄貴だよ」
「兄弟? だからさっき、大ヤコブとヨハネが兄弟かって聞いたんですね」
「ああ、まさかだとは思うんだがな。でも大ヤコブとヨハネが兄弟なら、多村仁の弟、駿がヨハネなんじゃないのかって? ただ多村駿は死んでいない。殺されていないんだ」
湯船に浮かんだ赤い顔を思い出す。山﨑は瞬きもせず、目を見開いている。ヨハネかもしれない多村駿が死んでいない事を、どう消化すべきか、困惑した顔が窺える。
二階から一階へと階段を下りる。切り出したのは山﨑だった。その手には朝、遅刻をして、取りに行ったと思われる資料がある。
「それよりお前の資料って? 朝、わざわざ取りに行ったんだろ?」
「ああ、これですね。これから望月さんに見てもらいますよ」
「何の資料なんだ?」
「田邑先生のメールの履歴です。それと先生の教え子の名簿です」
いつの間に下りていたのか、いつものソファには、先客の姿があった。望月と松田だ。二人が腰掛けたソファに、自分達の居場所を奪われたような気分になるが、山﨑は臆することなく、空いた席に腰掛けている。
「晃平さんも」
仕方なく山﨑の向かいに腰を落とす。毎朝、居心地よく過ごしてきたソファを、こんなに居心地悪く感じるのは初めてだ。
「今日から宜しく頼むよ」
口火を切った望月に松田が続く。
「あの件、田村さんに了承して貰わないといけないですね。まあ、了承と言っても、事後報告になりましたけど」
悪戯に笑う松田の顔に、嫌な予感が走る。何か余計な事に巻き込もうとしているのか。
「実はですね、SNSで田村さんのアカウントを、勝手に作らせて頂きました」
勝手に作ったと言いながら、あっけらかんと話す松田に、返す言葉が見つからない。さっきも感じたが、松田には本当に役者の素質があるのでは。その場その場で、自在に変える表情と口調に、つい返す言葉を失ってしまう。
「それでですね。今、田村さんのアカウントで、"TAMATAM"にフォロー申請していまして、一応その報告です」
全く話が見えない。勝手にアカウントを作り、"TAMTAM"にフォロー申請?
一体どう言うつもりだ。
「今日の時点で、"TAMTAM"のフォロワーは、百万人を超えています」
「えっ? どういう事で?」
「ふざけた話ですよね。"TAMTAM"は、芸能人でもなんでもない。ただの連続殺人犯です。それなのにそのアカウントをフォローする人間が、百万人もいるなんて。いつから日本はこんな狂った国になったんでしょう」
松田が言わんとする事は分かる。それには同意見だ。但しそれがどうフォロー申請に繋がるのか、そこが全く見えない。
「それは分かるけど、何で晃平さんが?」
黙って聞いていた山﨑が疑問を読み取ってくれた。松田はそんな山﨑を制止するように睨んでいる。そんな松田を今度は山﨑が睨み返している。
そんな二人の姿に見かねた、望月が割って入る。
「フォロワーは百万を超えているが、逆に"TAMTAM"がフォローしているアカウントは、現時点で四人なんだ。でも"TAMTAM"がフォローするアカウントがあるなら、そこから"TAMTAM"に繋がれるかもしれない」
「そう考えたんですよ」
松田がまた自分へと戻す。役者だけではなく、主演でないと気が済まないらしい。
「捜査一課で適当なアカウントを作って、フォロー申請してみてもよかったんですが、こんなに計画性を持っている相手ですからね、簡単に見破られるかもしれない。それに今現在フォローされているうちの何人かは、明らかにタムラ姓なんです。あのタレントのタムシンもその一人なんですが」
いつかのテレビを思い出す。蕎麦を啜りながら見たワイドショー。
「そこで田村さんの名前をお借りしたんです。田村って名前に奴が食いつくかもしれない。それに挑戦的な奴の事だから、田村さんの素性、田村さんが刑事だって知ったら、食いついてくる可能性が高くなると。とりあえずこれがユーザーネームとパスワードです。名前をお借りする以上、田村さんにはアカウントにログインする権利がありますからね」
松田にメモを差し出される。
何で俺なんかを? そう抱いた疑問が一瞬にして解ける。このアカウントのために、山﨑と共に捜査本部の一員にされた。山﨑に至っては別の理由があるだろうが、ただ単に名義貸しじゃないか。それでもノーなんて、意思表示できるはずもない。
「分かりました。好きにして下さい。ただこのパスワードは必要ないです。俺がこのアカウントにログインする事はないんで」
それがせめてもの抵抗なのかは、自分でも分からない。そんなアカウントを必要としていないのは事実だ。それでも無下にメモを突っぱねるのは、やはり抵抗なのだろう。
「申し訳ない。今はこの"TAMTAM"のアカウントしか手掛かりがないんだ。あんな画像一つじゃ、男か女なのか、それさえも分からない。それなのにまだ犠牲者を出すかもしれない」
望月が申し訳なさそうに捕捉する。細やかな抵抗を読み取られたのだろうか。
「えっ? "TAMTAM"は男ですよ。そうですよね? 晃平さん」
やり取りを見守っていた山﨑が目を丸くして、"TAMTAM"の性別に反応する。確かに"TAMTAM"は男だ。女であるはずがない。
「そうだな。前にお前と話したな。"TAMTAM"は間違いなく男だって」
「どういう事ですか?」
急に驚きを露わにした松田が、前のめりになっている。
「詳しく聞かせてくれないか」望月が松田を援護する。
話の出所を追及されれば、全て正直に話さないといけないだろう。いや、ヨハネの話をすれば、全てを話さなければ、辻褄が合わなくなるかもしれない。たかだか"TAMTAM"の性別を立証するために、言いたくもない事を、全て白状させられるのか。
「蚕糸の森公園で見つかった、田村晃と田村俊明の二人は、同性愛者だったそうです。そして二人の死体には本人のものと見られる精液が付着していた。これは事実ですよね?」
「それは間違いない」
何故か代わりに話し始めた山﨑に、松田が答える。
「田村晃と田村俊明、同性愛者の二人が性的興奮を示せる相手は、男でしかありません」
「そう言う事か!」
話の出所を追及する事なく、望月は納得している。上手く躱せた事、今は山﨑に感謝だ。
「すごい情報じゃないですか。田村さんと、これから一緒に捜査するのが楽しみだなあ」
調子のいい松田に呆れた目を向ける。
捜査本部に迎え入れたのは、田村っていう名前欲しさじゃないか。ついさっきの事も忘れやがって。思わず悪態をつきそうになるのを堪える。もうそんな事はどうでもいい。
「ああ、精液で思い出しました。田村優希です。田村優希」
山﨑が田村優希の名前を口にする。
その名前にすっかり忘れていた、行き着いた考えを思い出す。
——田村優希は性行為なしに殺された。
そうだ。幾ら若いからと言って、精液が頬まで到達するのか? そんな疑問が行き着いた考えを肯定する。
「そうだ! その田村優希。田村優希の死体は、頬に精液が付着していた。そうでしたよね?」
割って入るつもりはなかったが、思い出された名前に思わず体が浮く。
「やっぱり晃平さんもそう思いましたか?」
山﨑の目配せに思わず息を呑む。山﨑も同じ考えに行き着いていたのだろうか。
「どう言う事だ? 何の事を言っているんだ?」
望月と松田は言わんとする事に、まだ気付けていない様子だ。まだ考え込む望月を他所に、松田が更に前のめりになる。
「田村優希の精液だよ。付着していた場所は頬だった。確か、頬で血液と精液が混じり合っていたって聞いたけど、間違いないよな?」
「ああ、そうだよ。それがどうしたんだ?」
松田はまだ山﨑が言わんとする事に気付けないようだ。
「もしその精液が田村優希のものだとして、頬まで飛ぶのか?」
「それはまだ田村優希が若いからとも考えられるだろ?」
「まあ、そうだけど。でも、殺された後から精液は出せないだろ。もし田村優希の精液が頬に付着したとして、その後に殺され大量の血を流したのなら、精液は血に流されるか、血の下に隠れてしまうだろ」
「まあ、そうなるな」
「でも、精液だと分かる姿で頬に付着していた。殺された後に精液が付着したと考えるのが普通じゃないか?」
「光平の言う通りだな」
黙っていた望月が重い口を開く。
「おい、葉佑。あの田村優希の頬に残されていた精液が、田村優希本人のものかどうかを確かめろ! もし田村優希のものでなければ、犯人が残していった可能性が高いだろう」
「あ、はい。すぐに確認します」
松田が慌てて立ち上がる。望月に対しての慌てぶりが、さっきホワイトボードを激しく叩いていた松田とは、別人のように思えてならない。
「田村さんも光平と同じ考えを?」
「そうですね。若いからと言って顔まで精液が飛ぶかなとは思いました。それと田村晃と田村俊明は本人の精液が残っていたので、性行為のあとに殺されたのだと思いますが、もし田村優希の精液が残されていないのであれば、田村優希は性行為なしに殺されたのでは? そんなふうに思いました」
「そうですか。あなたを捜査本部に迎える事が出来て嬉しいですよ」
望月の意思表示に、素直に喜びそうになったが、その目はすでに山﨑へと向けられていた。話を切り上げるための言葉だっただけかと、喜びそうになった自分を嫌悪する。
「それでだ。光平が言っていたのはそれか?」
朝、山﨑が取りに行った資料に、望月の目はすでに奪われている。山﨑はその資料を封筒から出し、テーブルへと並べ始める。
「そうです。まずこっちが田邑先生の、田邑春夫のメールの履歴です。メールの相手は”S・TAMURA”と言う人物。この”S・TAMURA”は、田邑春夫と頻繁に会っていたようです。あと、”S・TAMURA”はメールの中で、自分が神であるかのように振舞っています。それとメールの中で田邑春夫の事を先生と呼んでいます。もしかしたら教え子だったのではと思い、教え子の名簿を取り寄せました。それがこっちです」
「お前はその”S・TAMURA”が田邑春夫を殺した犯人。”TAMTAM"だと思っているんだな?」
「はい。可能性はあると」
「それで、何か分かったのか?」
「はい。まず三十年間で、田邑春夫の教え子は、全部で六百九十三人いました。その内、タムラと言う姓は二十一人でした」
「二十一人なら全員当たれる数じゃないか!」
席を外していた松田が戻り、山﨑と望月に割って入る。
「その二十一人の中で、名前のイニシャルをSに絞ると六人。さらに男だと断定していいなら、二人に絞れます」
「えっ? たったの二人? もう決まったようなものじゃないか!」
やけに簡単に見つかった糸口に、自分が手柄を取ったように、松田がテンションを上げる。だが全て山﨑の仮説でしかない。S・TAMURAが田邑春夫の教え子だったら? イニシャルがSだったら? "TAMTAM"が男だったら? そんな仮定だけで連続殺人犯だと言い切っていいものか。
「それで一つ気になる事が」
「何だ?」
その声色からも分かるほど、望月の調子は低かった。
「その二人の内の一人なんですが、田村周平。この名前に何かピンとこないですか?」
「田村周平?」
望月の表情からは、何もピンとくるものが無い事が読み取れる。
——田村周平。
声を出さずに反芻してみたが、勿論ピンとくるものはなく、松田の様子からも同じだと読み取れた。
「五年前の、あの事件の容疑者の一人ですよ」
望月の顔が一瞬にして曇る。
五年前と言えば、山﨑がまだ捜査一課にいた頃だ。きっとその頃に、二人に強い印象を残した事件があったのだろう。ただ容疑者の一人と言う事は、そいつが被疑者ではなかったのだろうか。
「その田村周平ともう一人を、とりあえず洗ってみないとな」
静かに立ち上がる望月を見上げる。心なしか肩を落としているようにも見える。山﨑もそれ以上の事は口にしなかった。
「望月さん結構、参っているんですよ」
望月の背中が見えなくなり松田が口を開く。
「そうみたいだな」
「光平が持ってくるネタに期待していたからな。その田村周平ってのが、五年前の事件とやらの容疑者だってのも、まだ裏が取れていないんだろ?」
「まあな、その辺りはこれからだ」
「だよな。その五年前の事件が、関係しているかどうかも分からないもんな」
山﨑の肩も望月同様すっかり落ちているように見えた。
ここで下手に出しゃばる必要はない。山﨑が言う五年前の事件には、何一つ心当たりがないのだから。それよりもヨハネだ。少しでも役に立てるなら。そうは思いもするが、下手に話して余計な事まで、詮索されるのは面倒だ。
「そう言えば、晃平さん。さっきの話。後でな、って言っていた、あれは?」
落ちたと思った肩はほんの数秒の事で、いつも通りの姿勢の山﨑が、目を合わせてくる。
しっかりと覚えていやがった。やはり山﨑は抜かりないし、侮れない。
「ああ、さっきの多村仁だよ。何回か見掛けた事があってな」
「どこで見掛けたんですか?」
「病院だよ。信濃町の病院。今もそこに入院している多村駿って奴がいるんだ。多村仁はその多村駿の兄貴だよ」
「兄弟? だからさっき、大ヤコブとヨハネが兄弟かって聞いたんですね」
「ああ、まさかだとは思うんだがな。でも大ヤコブとヨハネが兄弟なら、多村仁の弟、駿がヨハネなんじゃないのかって? ただ多村駿は死んでいない。殺されていないんだ」
湯船に浮かんだ赤い顔を思い出す。山﨑は瞬きもせず、目を見開いている。ヨハネかもしれない多村駿が死んでいない事を、どう消化すべきか、困惑した顔が窺える。
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