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14 寄せて返す波のように

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 センリは帰宅して、すぐ横になった。
 豆大福がタオルケットに乗ってくる。

「なー」
「ごめん、マメ。今は、あそべない」

 気絶するように眠りに落ちて、嫌な記憶ばかりが夢の中でくり返される。
 田井多が未処理の仕事の束を押し付けてくるようになった頃の記憶だ。

「おい秤、これやっとけよ。俺はもう帰るから」
「え……」
「は? 先輩に逆らうわけ? 専務に言ってもいいんだぜ、秤は逆らってばかりだから試用期間で切るべきだって」

 あとひと月で試用期間が終わる。正規採用されるか否かがかかっている時期だった。センリは「わかりました」と言って受け取るしかなかった。
 一度、本当に外せない用事があって押し付けられた仕事を断ったことがある。
 次の日、針のムシロだった。

「忘れろ、忘れろ、忘れろ……」

 両手で耳をふさいで自分に言い聞かせる。
 涙が出てくる。
 漢字や言葉、忘れては困るものが記憶から零れ落ちるのに、消えてほしい嫌な記憶は頭の中にこびり付いて消えない。

「そうだ、薬、先生が、くれたもの……」

 どうしても不安なとき用に、と頓服薬とんぷくやくをもらっていた。頓服 ジアゼパムと書かれた紙袋を開けて錠剤を押し出す。
 ペットボトルの水で流し込む。

 飲んだ瞬間に効くわけではないから、待つしかない。

「なーなう」

 豆大福がセンリの腕の中に入ってくる。
 目をつむり、センリは眠っては十分くらいで目を覚ますという浅い眠りを繰り返して、気づけばチヨが帰宅していた。
 センリの部屋の扉を開けて、声をかけてくる。

「センリ、ただいま。今日はお友だちとお買い物に行ってきたんでしょう? どうだった?」
「……うん」

 起き上がるのが億劫で、横になったまま答える。
 お腹が空いたという感覚はあるが、何か食べたいという感覚はわかない。

「夕飯、食べられそうかい?」
「ううん」

 そこで意識が途切れる。
 布団がかけてあって、時計を見ると夜の八時。
 リビングからはテレビの音が聞こえてくる。

「にー」

 ご飯が欲しいときの鳴き方だ。催促されて起き上がった。短時間でも眠ることができたからか、帰宅したときよりは頭が軽い。
 お皿にカリカリを盛って、定位置に置くと一声鳴いてかぶりつく。
 リビングに顔を出すと、チヨと利男がこちらを見た。

「センリ、起きたか。ただいま」
「おかえり、じいちゃん」
「麦茶飲みなさい。寝汗かいているでしょう」
「うん」

 センリが来ることを視野に入れておいたのだろう、グラスは三人分あった。一杯だけお茶を飲み、センリはおぼつかない足取りで部屋に戻った。

 それから三日は、ほぼ眠っていた。目が覚めた時に軽く何かをつまむという状態だった。
 カーテンの隙間から入る光が目に痛い。

 深い沼に沈んでいるような気分だ。言いようのないだるさが取れなくて、体を起こせない。

 寄せて返す波のように、良くなるのと悪くなるのを繰り返していくと聞いていたけれど、今がましな状態なのかわからない。
 これよりさらに悪い状況なんてあるんだろうか。

 ピコンとスマホが鳴って、コウキからのメッセージ着信があった。
 あのあと、なんかあったら相談しあおうと言って、コウキが連絡先をくれた。

 メッセージを開くと八幡宮の写真が送られてきていた。階段下から本殿を見上げて撮ったもの。

 言葉を添えるでもなく、写真が送られてきただけ。
 言葉を選ぶのが得意ではなくて、意図せずケンカになることもあると言っていたから、あえて写真だけなのかもしれない。

 とても不器用な青年の、優しさを見た気がする。

 センリはそっと、『きれい』のスタンプを返す。
 人の顔色ばかり見て生きてきたから、ありがとうのスタンプが正解だったのか不正解だったのか、不安になる。

(僕はどうして、こんなにも人の反応が怖いんだろう。先生にも言われた。職場の人や、近所の人、関係が簡単に切れない人の顔色を特に気にするでしょうって……)

 逆に、初田はなぜ他人の顔色を気にせずいられるのか不思議になる。
 センリが風見鶏なら、初田は樹だ。
 暴風にあおられてもびくともしない。

(田井多先輩に反論しても、ろくなことにならない。だから僕は黙って従うしか……でも、従うから先輩はどんどん押し付けてくる。なんで僕が。あれは先輩が請け負っている仕事なのに)

 あまりにも苦痛で、転職を考えたことすらある。
今の職場に入ってもうすぐ二年。前職は本社が事業縮小を決定し、働いていた支店が閉店してしまった。
前回が会社都合での退職とはいえ、あまり転職歴が多いと次の職探しで不利になる。
 損得計算して、今の職場に残ることを選んだ結果がこれだ。

 暗いことばかり考えてしまう。
 五分でもいいから、散歩をすれば落ち着くかもしれない。

 沈み切った気分を変えたくて、イヤーマフをつけ、スマホだけポケットに入れて外に出た。

 九月に入ってから、まだ残暑が厳しい。
 八月中に比べれば日差しが柔らかくなってはいる。

 湿り気をおびた風が吹いている。
 うつになってから嗅覚も前より鋭くなっていて、雨の日は雨水のにおいなのか、独特のにおいを感じ取るようになった。
 見上げれば灰色の厚い雲が太陽を隠している。

 心を空模様で例えるなら、センリの心はずっとこんなふうに厚い雲に覆われているんだろう。
 ずっと止まない雨、そんな心だ。


(なにしてんだろう、僕。なにがしたいんだろう)

 最初のしずくが鼻先にあたり、次第に雨足が強くなっていく。
 皮のカバンを傘代わりに走るサラリーマンがいる。
 学生が壊れたビニール傘を片手に走っていく。

 センリは濡れるのを気にせず、空を見上げていた。

(苦しい記憶ぜんぶ、雨で流れてなくなっちゃえばいいのに)
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