旧日本海軍が編成した「神風特別攻撃隊」初の攻撃から75年となった2019年10月25日、敵艦への体当たり攻撃などで命を落とした愛媛県内出身の将兵ら約90人の追悼式典が、同県西条市大町の楢本神社であった。遺族や自衛隊関係者ら約250人が黙祷を捧げた。
毎日新聞によると、兄が戦死した曽我部勲さん(89)が遺族を代表して謝辞を述べ、取材に「戦争は一つも利益がない。してはいけない」と語った。
特攻隊「神風」の名は、鎌倉時代中期、蒙古襲来(のちに元寇=げんこう=と呼ばれる)の際に吹いた激しい風にちなむ。モンゴル(蒙古)が文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)と2度にわたり来襲した際、その都度、嵐によって敵を退け、勝利したとされる。
その後、国難に際しては神が奇跡を起こして国を守るという「神風思想」が広がり、近代に至るまで大きな影響を及ぼす。神風特攻隊はその最も悲劇的な象徴といえる。
日本史の通説によれば、文永の役では敵は一日で引き返し、弘安の役では嵐によって、肥前鷹島に集結していた敵船が沈み、全滅したという。ところが、これが事実かどうかはきわめて疑わしい。
それを検証する前に、蒙古襲来に至る経緯から見ておこう。
13世紀、モンゴル高原のオノン川流域に興ったモンゴル帝国は、ユーラシア大陸で急速に勢力を拡大した。建国者チンギス・ハンの孫のフビライは中華世界の制服を目指し、モンゴル高原からの出口に25年の歳月をかけて新首都の大都(北京)を建設。1271年に国号を元と称し、1279年には南宋を滅ぼす。
経済を重視する元は、台湾海峡に面する泉州をはじめ、寧波、上海、温州、広東、杭州などに貿易を管理する市舶司を設けた。もともと遊牧民のモンゴルが、海で頼りにしたのはイスラム系商人である。アラビア人ともペルシャ人ともいわれる蒲寿庚(ほじゅこう)は、泉州の貿易を支配しただけでなく、元の海軍でも枢要な地位を占めた。
モンゴルが日本に接近した動機も、あとで述べるように、商業的な利益の追求だった可能性がある。
フビライ政権は、朝鮮半島の高麗を仲介役に立てて日本と交渉をもとうとした。いくどか使節団が送られ、使節団が携えてきた国書が九州の大宰府から鎌倉幕府と京都朝廷に転送されたが、日本側は返事を出さなかった。これまで、その書状が無礼きわまる文面のうえ、日本を脅す内容だったから、日本側の対応はやむをえなかったといわれてきた。ところが専門家によれば、じつは文面はたいへん穏やかであり、修好を求めているにすぎなかったという。
モンゴル史が専門の杉山正明氏(京都大学名誉教授)は、交渉の経緯をみても、フビライ側に初めから交戦する意思があったかどうか、はなはだ疑問という。「鎌倉幕府が大陸情勢をよく理解して冷静に対応さえしていれば、開戦は回避できたのでは」と述べる(『大モンゴルの世界』)。
モンゴルは日本に近づくことで、何を得ようとしたのだろうか。イタリアの商人マルコ・ポーロは、泉州で元寇の情報を得たと考えられているが、フビライの遠征の目的をジパング(日本)の黄金を手にするためだとしている。
一方、日本中世史が専門でくまもと文学・歴史館館長の服部英雄氏(九州大学名誉教授)によれば、フビライ遠征の狙いは、火薬の材料となる硫黄の宋への供給阻止とその確保にあったという。中国大陸には火山がほとんどないため硫黄が得にくい一方、火山国の日本では大量の硫黄が調達できた(『蒙古襲来と神風』)。
幾度かの丁寧な友好交渉をことごとく無視されたフビライ政権は1274年、ついに日本遠征を決行する。高麗に駐在するモンゴル・漢人部隊を主力に、高麗兵をも加えた軍団は合浦を出発し、対馬と壱岐を席巻したのち、10月20日、博多湾から九州に上陸した。文永の役である。