
私も小学生の頃に夢中になった「ファミコン」「スーパーファミコン」を世に送り出した任天堂。今は家庭用ゲーム機「スイッチ」で、私の子どもたちの心をとらえて離しません。時代を超えてムーブメントをつくり続ける。これは当たり前のことではないでしょう。
任天堂は、今でこそ世界でも有数のゲーム機器、ゲームソフトメーカーとして知られていますが、もともとは「花札」や「かるた」の製造を行っていました。そこから事業の大転換を図ったのが、任天堂の3代目社長を務めた山内溥です。
山内は22歳の若さで家業を継いで社長に就任。従来のビジネスモデルから脱却を図るべく、試行錯誤を繰り返しました。ゲーム事業に参入したのは、山内が50代のときのことです。
いかにして時代を予見したのか。事業戦略の立て方について取材で聞かれると、山内はいつも「運がよかっただけ」と答えています。
「われわれが今日あるのは、こうなるはずだという見通しを持ってやってきた結果ではない」
確かに山内は、50代での飛躍に至るまで、数々の失敗を経験してきました。それでも懲りずに挑戦し続けるスピリッツは、どこから生まれたのでしょうか。
・22歳――家業を継いで社長になる
山内は昭和2(1927)年、任天堂の創業者・山内房治郎の曾孫として、京都に生まれました。父が愛人と駆け落ちして失踪したため、祖父母に育てられたそうです。
当時の任天堂は、花札やトランプの製造販売を行う、従業員100人程度の会社です。幼少期の山内は友達から「花札のボン」とからかわれるのが、たまらなく嫌だったとか。というのも、花札は家庭の娯楽として楽しまれていたものの、「アウトローな世界で興じるもの」というイメージがまだまだ強かったからです。
山内に人生の転機が訪れたのは、早稲田大学専門部法律科に入学した翌年のこと。祖父が倒れてしまうと、山内は腹をくくります。決断の瞬間をこう振り返っています。
「ほかに誰も家業を継ぐ者がいない。私が継がなければ、会社の従業員も手張りの職人も路頭に迷うことになる。会社を継ぐ意思は薄かったが、私がやらなければ、やる人がいない。私はこれを運命だと思った」
挑戦した理由はほかにもあります。2代目社長の祖父が経営から離れたことで、周囲から「任天堂はもう終わりだ」と言われたことが、山内の闘争心をかき立てました。
「そこまで言われては、このまま引き下がるわけにはいかない」
大海に飛び出すことを決意した山内。大学を中退し、22歳の若さで社長に就きました。多難な人生の始まりです。
・31歳――「ディズニー・トランプ」で大ヒットを飛ばす
のちに「ファミコン」で世界を驚かす山内が大きな改革に乗り出したのは、社長に就任して、わずか3年目のことです。
京都市内に分散していた製造場を集約して、本社工場を建設。日本で初めてプラスティック製トランプの製造に踏み切りました。