
日米通算4367本の安打(日本1278本、米大リーグ3089本)を積み上げたイチロー氏(マリナーズ会長付特別補佐兼インストラクター)が、史上初となる日米両方での野球殿堂入りをそれぞれ有資格1年目に成し遂げた。メジャーでは、アジアの出身選手として初の快挙。
ドジャースの大谷翔平選手が屈強な海外選手を圧倒するパワーで2年連続本塁打王に輝いた約四半世紀前の2001年、日本人初のメジャー野手となったのがイチロー氏だ。「非力な日本人はメジャーで通用しない」と言われた移籍当時の前評判を覆し、洗練された感性と抜群のスピードを武器に「走攻守」に“スモール・ベースボール”を体現。メジャーに新風を吹き込んだ「サムライ」のプレースタイルは、まさに野球殿堂にふさわしい功績といえる。
「バカ者は前に出ろ」
メジャーの野球殿堂で野手初となる満票に1票届かなかった結果に、米メディアの記者は票を投じなかった非公開の記者へかみついた。
それほどまでに、イチロー氏が刻んだ記録は偉大だったということだろう。
01年のメジャー移籍1年目から10年連続200安打をマークし、04年にシーズン最多262安打も達成。名手の称号であるゴールデングラブ賞にも10年連続で輝き、通算盗塁数も509を数える。
ただ、全米野球記者協会(BBWAA)に10年以上連続で所属する記者による得票率は99.7%。ひと足はやく選出された日本の野球殿堂入りに続き、惜しくも満票には届かなかった。
それでも、晴れやかな表情で記者会見に臨んだイチロー氏は「1票足りないというのはすごく良かったと思います。生きていく上で不完全だから進もうとできる」と笑顔で受け止めた。
1991年に愛知・愛工大名電高校からドラフト4位でオリックスへ入団。登録名を「イチロー」とした3年目に史上初のシーズン200安打以上となる210安打を放ち、大ブレーク。この年から日本球界でプレーした2000年まで7年連続で首位打者を獲得した。
95年に野茂英雄氏が日本選手のメジャー挑戦の扉を本格的にこじ開け、その後も日本の投手がメジャーデビューを飾っていった。しかし、野手はイチロー氏の移籍まで6年かかった。
野茂氏ら日本の投手がフォークという特殊な変化球や制球力で高い評価を得ていたのに対し、試合に常時出る野手は時差もある全米を移動した上で連戦続きの長丁場のシーズンを乗りきる肉体的負担や、メジャーのパワー野球に非力な体格的ハンディを懸念する厳しい意見も多かった。
イチロー氏も99年、特別に参加したマリナーズのキャンプでは思うようなプレーができなかった。デイリースポーツの当時の担当記者が19年に書いたコラムでは、当時のイチロー氏について「この2週間のキャンプ体験で残念だったのは、体調不良で出場を予定していたオープン戦4試合のうち2試合を休んだことだ。乾燥した気候のせいで、腹痛、脱水症状に苦しみ、無念のドクターストップ」との記述がある。
こうした経緯もあってか、日本球界最高峰のアベレージヒッターとして、00年オフにオリックスからポスティングシステムでマリナーズへ移籍したときの覚悟について、殿堂入りの会見ではこう語っている。
「日本の野手の評価は、僕の1年目で決まる。そういう思いを背負ってプレーした記憶がある」
体の前にスッと立てたバットをクルリと回して姿勢よく、マウンド上の投手と対峙する。卓越したバットコントロールで安打を重ね、非力とされたパワーは打ち損じのゴロも俊足を生かして内野安打にしてしまうスピードで補って余りあることを見せつけた。