自分が過ちを犯してしまったとき、何か助言をもらうときなど、いろいろな局面において周囲から意見をもらうことがあると思います。しかし、相手の話を聞くことは聞くが、結果としては人の意見を受け入れられないという方もおられることでしょう。
結果、周囲から「他人の話を聞かない人」「言っても無駄な人」「頑固な人」「プライドが高い」「人を認められない」と言われたり、思われたりすることで、気を病んでいる人も少なくないと思います。
「人の意見を受け入れられない」ことで、周囲からどう言われようが、また自分自身でどう思おうが、一つだけ言えることがあります。それは、物事をきちんと自分で考え、物事の判断をして生活しているということです。言い換えるならば、責任転嫁しない生き方をしているということです。
「人の意見を受け入れない」というのは、一見、自己中心的で身勝手な姿として思われがちですが、別の見方をすると、実は自己中心的な姿から離れようとする「自を律していく姿」として受け止めることができるのです。
この姿は、仏教において大切にされています。なぜならば、仏教の開祖であるお釈迦さまが最後に残された教えとも言われているからです。
お釈迦さまは「自らを灯明とせよ」(自灯明)という教えを残されました。「自らを灯明とせよ」とは、「自分を照らし、拠り所としなさい」です。これは、決して「自己中心的に生きなさい」という意味ではありません。この真意は、自分の行動は自分で判断し、その結果は自分で責任をとっていくという、自を律していく「自律の教え」です。
つまり、周りからのいろいろな意見に促されたので、自分の責任ではありませんというような責任転嫁を戒めるメッセージなのです。
「人の意見を受け入れられなくなってきた」ということは、裏を返せば、責任転嫁しない生き方をしている証拠とも言えるのです。
端から見れば、それはひょっとしたら「我が道を歩む人」「自己愛が強い人」「視野の狭い人」など、否定的な意味で「自己肯定感の強い人」と思われるかもしれません。しかし、そのような周囲の声を気にする必要はありません。
「人の意見を受け入れられなくなってきた」ということを自覚し、省みること自体が、自己中心性が強くないということを証明しています。むしろ、これは自分を顧みることのできる証拠です。
おそらく、人の意見を受け入れることができない一番の理由は、その意見が自分には関係ない、必要ないと思うからだと思います。もし、そう感じるのであれば、無理に受け入れる必要はないのです。
「意見を受け入れない」ことで、無意識にも自分にとって楽な生き方を構築しているのです。無理して人の意見を受け入れてしまうと、自分にとって心地のよかった生活が崩れてしまいます。これまでの通り、納得いく判断で生活されれば問題ないのです。