小川流2018燕改革!

「96敗」のチームを再建するために、
私たちは今、何をすべきなのか――

2018.03.30 公式 小川流2018燕改革! 第1回

いまだ記憶に新しい2017シーズンの屈辱的な戦績。ドン底まで低迷したチームを立て直すべく舞い戻った小川監督は、宮本慎也ヘッドコーチを要に据えたチーム改革を断行した。ハードワークに見られる「厳しさ」の追求は、選手達の意識をどのように変え、チームにどんな変化をもたらしているのか――。インタビュアーにライター長谷川晶一氏を迎え、小川監督のスワローズ改革に迫っていく。

(インタビュアー:長谷川晶一)

2017シーズンのスワローズに対する後悔
シニアディレクターとして「非情」になれなかった

――昨年はヤクルト球団史上ワーストとなる「シーズン96敗」を記録。この危機的状況を救うべく、4年ぶりに現場復帰した小川淳司監督がどのようにチームを立て直していくのか? 一年間、インタビューを続けることで、そのマネジメントの過程を見続けていきたいと思っています。

小川 はい、一年間どうぞよろしくお願いいたします。

――昨年までは「SD(シニアディレクター)」という立場からチームをご覧になっていました。そもそもSDというのはどのような職種なのか、教えていただけますか?

小川 アマチュア選手の調査と獲得、外国人選手の補強、二軍選手の育成、他球団選手の調査とトレード……。簡単に言えば、編成に関するすべてを担当するディレクターですね。他球団には「GM(ゼネラルマネジャー)」という職種もありますが、GMというのは予算管理も含めた全権を担当するマネージャーです。SDというのはその権限はないので、金銭管理以外の部分でのチーム編成を担当します。

――2015年から2017年までの3年間のSD時代には、どのような方針、ポリシーでチーム作りに取り組んでいたのでしょうか?

小川 これは球団の方針とも一致するのですが、強く意識していたのは「ドラフトで獲得した選手を育成強化し、常に優勝争いができるチームにする」という方針です。単年での優勝ではなく、常に優勝争いをできるチーム作り。そのためには有望選手の獲得、そして獲得後の育成が大切になります。僕自身が実際に関わるようになったのは15年のドラフト会議からですが、この年からは高校生中心のドラフト戦略に変わっていきました。

――確かに15年ドラフトでは、ドラフト2位に廣岡大志(智辯学園高校)、3位・高橋奎二(龍谷大平安高校)、4位・日隈ジュリアス(高知中央高校)、6位・渡邉大樹(専修大学松戸高校)と、高校出身選手の指名が増えましたね。

小川 15年には真中満監督の下で就任1年目での優勝を実現しました。この年は円熟期を迎えつつある川端(慎吾)、畠山(和洋)、雄平らが活躍しました。そこに山田(哲人)ら下の世代も育ちつつある。だからこそ、「次の世代の育成を」ということで、SDとしてスカウトたちに補強ポイントを伝えた上で、高校生中心の指名にしました。16年には寺島成輝(履正社高校)、17年には九州学院の村上宗隆を1位指名したのも、その流れです。

――チーム作りには「長期的展望」が必要で、それが成果となるには時間がかかるものだと思いますが、SD時代のドラフトの成果を見届ける前に監督に就任したということなのでしょうか?

小川 常に優勝争いできるチームにするためには、主力の年齢が上がってくる前に高校生を中心にした若手の育成が重要になるし、チーム編成においても常に年齢的なバランスを考えて、下の世代を鍛えていかなければならないんです。でも、結果的には昨年は主力選手が故障したのに、それを埋める選手がいなかった。それはSDとしての反省点です。チームを変えるためには非情にならなければならない。でも、僕にはそれができなかった。そこが一番の反省点です。

――「非情になれなかった」というのは、選手の移籍や解雇も含めて、大幅な「血の入れ替え」を断行できなかったという意味ですか?

小川 はい、そうです。僕もずっとヤクルトでお世話になって、現場で選手たちと近いところで仕事をしているので非情に徹することができなかった。でも、チームを変えていくためには非情にならなければいけなかった。今ではそう考えています。

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プロフィール

小川淳司
小川淳司

千葉県習志野市出身。習志野高校卒業後、中央大学に入学。1981年ドラフト4位でヤクルトに入団。1992年現役を引退すると、球団スカウトやコーチなどを経て、2010年シーズン途中に監督に就任。2014年シーズンまでチームを率いる。退任後は、2017年シーズンまでシニアディレクターを務め、2018年から再び監督となる。

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