江川氏:学校にはいろいろなバックグランドを持った幅広い年齢層の学生が集まっていたので、いつでもチャレンジは出来るんだという、いい刺激になりましたね。
一方で、学生の年齢層は広かったものの、外国人はそんなに多くはなく「言葉の壁」には苦労しました。1年近く暮らしていましたし、現地で生活するには支障のない英語力でしたが、専門学校での授業となると話は別でした。
実習の方は、「見よう見まね」で何とかなったのですが、講義の方はテキストがないので、専門用語が聞き取れなければ、すぐにアウト……。
何を言っているのか分からず苦労しました。同じ外国人のクラスメートだったフランス人の(女の子)と、授業を録音してあとで聞き返してみたり、なんとか授業についていこうと必死でした。
学校側から「授業の録音は禁止」と言われたときは、どうしようと思いましたが、その子とわからないところを補い合い、励まし合いながら、なんとか無事に卒業できました。
――いよいよ特殊メイクアーティストの道がスタートして……
江川氏:……という風に順調にはいかず、最初はすぐに仕事があるわけではありませんでした。当時も今も作品集(ポートフォリオ)を作って、自分で売り込み活動をするのが当たり前の世界。特殊な世界で、さらに外国人ですから、じっと黙ったままでは、仕事を得ることは出来ません。映画会社勤務だった夫も、この世界とはまったく無関係ですし、それを頼りにしたくはありませんでした。
電話がダメなら直談判「熱意だけは誰にも負けない」と、あちこちのスタジオや個人の工房に乗り込みました(笑)。見た目も幼く、ティーンエイジャーズと呼ばれていた私たちでしたが、特殊メイクの世界に当時、女性が少なかったのもあって、珍しがられ、無給の実習生として「そこで好きなモノ作っていいよ」と。そこからキャリアがスタートしました。
スプラッター映画をつくるスタジオでしたが、なんの期待もされていなかった自由な身分で、私は映画を見て前から作ってみたかった『E.T』の指を作ったりしていました(笑)。なにげなく作っていた「作品」を見ていただき「やっぱり日本人は手先が器用だね。そんなの出来るんなら、これやってみる?」という風に、少しずつ認められ正式に採用されました。それからは、同じような仲間から情報をもらい「メタルストーム」「砂の惑星・デューン」「ゴーストバスターズ」「キャプテンEO」など次々とプロジェクトに参加させて頂きました。
SFXが伸びていたころで、全米から、のちに有名になるさまざまな人たちが集まっていた活気のある時代でした。仕事が認められて、そこから次の仕事を呼ぶような感じで、いろいろなスタジオで仕事をさせて頂きました。「呼ばれれば、そこで精一杯やりきる」もう、夢中で仕事に励みました。
アメリカには6年半いましたが、最後の1年は、私が特殊メイクの仕事を始めるきっかけになった映画、あの狼男の変身をクリエイトしたリック・ベイカー氏の工房で仕事をさせてもらいました。念願かなって、天にも昇るような気持ちでしたね。
江川氏:夫の帰国とともに日本に戻ってきたのが、1986年。アメリカで学んだ特殊メイクの技術を「手に職」とし、日本でも活かしたいと、夫の職場でもあった日活に紹介してもらい、交渉を重ねてスタジオの一角を借りることが出来ました。こうして『メイクアップディメンションズ』は、なんとか船出することができました。
三国連太郎さんの映画『親鸞・ 白い道』で生首を作ったのが、日本での最初の仕事でした。作品の出来は、今思うと「そのときのベストはこれだったんだなぁ」という出来でしたね。
そのあとは、ご自身も特殊メイクの世界に興味を持っておられた伊丹十三監督とのお仕事で『マルサの女2』の特殊メイクのお仕事。特殊メイクと言っても、ホラー映画とは異なり、役者さんのキャラクターを作るという仕事で、「(特殊メイクを)やっているかどうか分からない、すごさを見せない」ものでした。
今でも「明らかに、特殊メイクと分かる仕事」は数えるほどで、ほとんどは「見せない」仕事です。坊主の企画も、うまくいけば本当に役者さんが頭を丸めたんだとと思って頂けます。見えないことが成果になる。試行錯誤した成果が、映像で見えないことで報われる仕事なんです。
その後、日本映画界を代表する「巨匠」と呼ばれる方から、新進気鋭の監督の作品まで、あらゆる映画、テレビ、CM作品の特殊メイクを担当させていただくようになりました。北野武さんのように、実際に特殊メイク体験していただく過程で、お仕事をご一緒させていただくようになった方もたくさんいます。
――衝撃的な転機から、地道に……今も特殊メイクのパイオニアとして走り続けられています。
江川氏:はじめは、「実験工房」と呼ばれていました(笑)。でも、自分がこれだと思ったものに、少しでも手応えを感じることが出来れば、あとは静かにやり続けるのみだと思っています。
実は日本に帰国したのち、再び2年間、夫の仕事で再度渡米していたのですが、帰国後にバブル崩壊で、仕事が激減したこともありました。その時も「やっていれば、なにかが変わる」「くよくよしている暇があったら前に進む」と、動くことをやめませんでした。父方の祖母から受け継いだ、小さい頃からずっと持っている性格ですね。目の前のことはすべて、次の道へのステップだと思って楽しんできました。「いずれ血となり肉となる日は、必ず来る」と思っています。
――そうして、また自ら上げたハードルを飛び越えていかれるんですね。
江川氏:今年(2016年)の11月で35周年を迎えますが、新たな挑戦、ステージ……。
中国で60話くらいある大河ドラマのお仕事が始まっています。私は、新しい取り組みにワクワクしていて、最近はいくつかの単語も覚えて、通訳無しで現地のメイクの子たちとご飯を食べにいったりするんですよ(笑)。
新しいところに飛び込んでいくのは、今でもワクワクしちゃうんです。国が違えば勝手が違うし、逆にクリエイトに携わる人間同士の共通項も見えてくる。それに彼・彼女たちから学ぶことも多いんです。
これは私が講師を務めている東京ビジュアルアーツの生徒にも、会社のスタッフにもいつも言っているんです「クオリティを下げてしまえば、すぐにライバルに追いつかれてしまうよ」って。違う国の未来のライバル、とっても楽しいですよ。
次の40年、50年と今後の大きな「使命」や「展望」みたいなものは描ききれていませんが、これからもこんな風にノーテンキに楽しみながら、ハードルを跳び超え続けていきたいですね。