米澤氏:ようやく高校を卒業して、私は「イル・ボッカローネ」という、今も恵比寿にある、イタリアンの草分け的存在のお店で、修行させてもらうことになりました。実は最初、学校を卒業したての18歳では“子ども”扱いされ、受けつけてもらえませんでした。でも私は、どうしてもそこで働きたかったので、「はいそうですか」と引き下がるわけにもいかず、直談判した結果「まずは一週間様子を見よう」と言われて。そうして、この世界での最初の一歩をなんとか踏み出せました。
――ようやく踏み入ることのできた料理の世界、いかがでしたか。
米澤氏:それが私は、初っ端から「使えない人間」だったんです。やることなすこと全部ダメ。料理以前の、人としての礼儀、社会人としての言葉遣いから直される始末でした。それでも、なんとか諸先輩方のおかげで、最低限のレベルまで引き上げてもらったのですが、そこから先も、とにかくすべてが勉強の日々でした。オーダーを取るためにイタリア語を覚えないといけませんし、さらに料理の説明もお客さまにちゃんとできるよう、料理の名前はもちろん、どんな素材を使っていて、それがどんな背景を持つ料理なのかを、知っていなければなりませんでした。とにかく覚えることが山ほどあって、毎日必死でしたね。人生の中で一番勉強した時期かもしれません(笑)。
どの世界も同じかもしれませんが、ある時期においては、がむしゃらにやっていくことも必要だと思います。そして、変にお利口に指示をこなすよりも、不器用に実直に、自分の頭で考え理解しながら、基本を身につけていくことが大切なんだと思います。なまじお利口に、言われたことをそつなくこなせても、それは「作業」になってしまい、一歩外に出ればそうした「作業」で得た技術なんて一円の価値もなくなってしまうんです。不器用なほうが、学ぶことにおいては有利だと思っています。これは、今お店のスタッフにも言っていて、料理は「つくりたい」と思えば誰でも確実にできるようになる。料理ができるようになるのは料理人として当たり前。そこから先に必要なのは、そうした不器用な行動だと伝えています。
例えば、「カリフラワーを毎回同じ大きさに切れる」といったようなことのほうが、よっぽど大事なことだと思うんです。私自身、今でも心のどこかにある、自分の「器用でお調子者」な部分を常に警戒しています。
「憧れ」のようなものを感じて、とにかく追ってみることも必要だと思います。私の場合、それはお店の先輩方が、お客さまとのやり取りの中でイタリア語や英語などを流暢に話す姿でした。ですから、この時期は料理に関する知識のための勉強はもちろん、接客に必要な外国語も勉強していました。それまで自分は勉強が嫌いなんだと思い込んでいましたが、興味さえあれば自らすすんで学べるものだと、この時に実感しましたね。
恵比寿で働いていたこの頃は、右も左も分かっていない自分でしたから、たしかに大変だったと思います。でも、振り返ってみると、こういう時間こそが、今の自分の基礎になっているとわかります。正直「逃げ出したい」と思うことは何度もありましたが(笑)、「辞めたい」と思ったことは一度もありませんでした。それは、料理の現場で学べる喜びの方が圧倒的に多かったからです。「きつい」と感じた時は、常にそう考えていました。
米澤氏:そうして一人前の料理人を目指して少しずつ経験を積んで、ようやく仕事も板についてきた頃、今に繋がる大きな転機が訪れました。すでにホールでの接客を経て、厨房に入っていたのですが、お店が忙しい時は、ホールにかり出されていました。店長は、私が英語も勉強していたことを知っていたので、よく外国人のお客さまの接客担当に指名してくれていたんです。
ある日、アメリカ人の団体のお客さまの接客を担当したのですが、これがきっかけで私の目指す地点がひとつ大きく変化したんです。喜怒哀楽がはっきりとして、リアクションが面白いお客さまに、私も楽しくなってサービスをさせて頂きましたが、帰り際、私に向かって一斉に拍手してくださったんです。サービスを供する側が逆にサービスを受けてしまったかのような、なんだか不思議な気分になってしまって……。
「なんて素敵な人たちなんだろう。この人たちの住む国、アメリカで料理を作ってみたい!」と、この時はじめて、アメリカという国に対して興味が湧いたんです。当時、料理の世界で一流を目指そうと思えば、フランスやイタリアなど、ヨーロッパに留学するのが王道で、「料理でニューヨークへ」というのは一般的ではありませんでした。親を説得し、お店に説明して、とりあえずあるお金でチケットだけは購入して、とにかくできることから動いていました。
――「行動のみが現状を変える」。
米澤氏:実のところ、そこから貯金もはじめてはいたのですが、なかなかお金が溜まらず苦労しました。出発直前、ようやくかき集めても、たったの40万円。結局決めたのは飛行機のフライトだけで、あとはそのまま働く場所も、住む場所も決めずに渡米しました。この先どうなるとか「常識」で考えてたら、とてもじゃないですけど行けなかったと思います。
今、「どうしたら海外に行けますか」とアドバイスを求められることがあります。そんな時は決まって「とにかく“行く”と決めたら、それに必要なことから逆算して動いたほうがいい」と伝えています。今でも、「行動のみが現状を変える」と信じています。そして結果的にはこの選択が、今に繋がる料理人としての私の生き方を形作ることになったんです。21歳の時でした。
――アテなし、コネなし、お金なしのニューヨーク生活が始まります。
米澤氏:ニューヨークに着いてからの予定を何も決めずにいたので、とりあえず、本格的に英語を学ぼうと、まずは語学学校に通ってみました。ところが、わずか2回目の授業で、自分には難しすぎて、学校で学ぶには限界があり、体当たりで覚えていく方が早いことに気づかされました。とはいえ、とりあえず仕事をするにしても、独学で覚えた最低限の英語しか話せないし、どうしたものかと困っていましたが、たまたま居候していた先の知り合いが、現地の人気日本料理店に求人があることを教えてくれ、「これはチャンスだ」とすぐ会いに行きました。
今でも覚えていますが、お店に着くなり「これ、さばいてみて」と、鳥を一匹ぽんと目の前に差し出されました。面接から始まるとばかり思っていたので、少々驚きつつも、恵比寿時代に教えられた通りにさばいてみたら、それを見て「よし」とひと言。その日から働かせてもらえるようになりました。
――恵比寿の頃に学んだ「基本」が、身を助けました。
米澤氏:「なんだ40万円もいらなかったな」と、軽口を叩いていましたが、すぐに目が回るほどの忙しい日々が始まりました。ニューヨークタイムスで三ツ星評価を受けたレストランで働いた唯一の日本人が経営する、現地で人気の日本料理店。恵比寿時代は勉強に一所懸命でしたが、圧倒的に働いたと思えるのはこの時期でしたね。週6日働かせてもらって、残り1日の休みの日にも、直接見たり、評判を聞いたりして知ったお店に電話をかけては、「そちらでインターン(研修生)として働かせてください!」と、つたない英語でお願いしていました。
最初は、電話をかけるのにも勇気がいりましたが、だんだんそれにも慣れてきて。そんなことよりも、現地の高級レストラン・有名レストランでの現場経験が積めることの方が、遥かに刺激的だったんです。お金もなかったですし、体力的にもハードでしたが、一流のシェフの仕事を目の当たりにでき、一日の仕事の終わりには「なにか好きなものを食べろ」と、一流シェフの料理を食べさせてもらえる(厨房に立ちながらですが)……。お金では買えないものをたくさん吸収させてもらいました。「Jean-Georges」に出会ったのも、この週イチの見習い活動がきっかけでした。ニューヨークで三ツ星を獲り続け、地元有力紙からも絶賛のコメントが寄せられていた、最高級フレンチレストランです。外から眺めてもかっこよく、使われている機材や鍋ひとつとっても格好よかったのを覚えています。私はすぐに電話をかけ、インターンで働かせてもらえるようお願いしたのですが、ここでもまた恵比寿で学んだ基本が活きたんです。
インターンとしてお店に入った初日、アスパラを2ケース、またぽんと目の前に出されて「全部剥いて、切ってくれ」と言われたんです。アスパラを剥くのは、恵比寿の頃からずっとやっていて、誰よりも早く美しく下ごしらえすることには自信がありました。すぐに下ごしらえしたアスパラガスを見てもらうと、周りから「あり得ない」「早いのに綺麗だ」と、皆一様に驚いてくれました。そうやって、成果を見てもらって、また翌週もとお願いしていくうちに、少しずつ次の仕事を掴んでいきました。その後、「Jean-Georges」ブランドであるニューヨークのカジュアルラインのダイニングに雇ってもらえることになったのも、こうした基本があったからだと思います。でも、そうやって順調に経験を積んでいくかに見えた数年後、私は今まで味わったことのないピンチに見舞われたのです。