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3巻 行き遅れ姫の出立
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朱杏との出会いは、兄の即位の少し前の事だった。
彼女は、後宮の下働きで書庫の管理をしていた。後宮の書物などは、幼い頃にほとんど読んでしまっていたのだが、たまたま調べ物があり、それに関わる文献に心当たりがあったため、立ち寄った。
雪稜が通わぬ内にいくらか書の配置も変わったらしく、探すのも手間だからと、適当に声をかけた。
いまだにあの時の朱杏の顔は忘れられない。いきなりの皇子からの声かけに、はじめは驚いて緊張していたものの、すぐにこちらの要望を理解して案内をしてくれた。
それだけでなく、関連の文献をいくつか手早く用意してくれた。
「君、すごいね」
心底感心してそう言うと。
「この書庫なら全て把握しているので」
と控えめに微笑んだ。その微笑みが可憐で、一気に心を掴まれた。
「それは助かるなぁ、これからしばらく調べ物で通うから、君に聞くよ」
本当は調べ物はこれで事足りたのだが、口が勝手に次に彼女に会いにくる口実を作っていた。
「君の名前は?」
すぐに名前を確認したが、皇子に名を覚えてもらうなど恐れ多いと、断られた。それがまた、いじらしくて色々と理由を作って会いに通った。
何度か通って、ようやく名前を聞く事ができた。
「可愛い名前だね」
そう言うと、彼女は恥ずかしそうに、「とんでもない」と微笑んだ。
通ううちに、雪稜にも少しずつ心を開いてくれた。大人しくて控えめだが、とても頭のいい娘だった。貧しい田舎出で家族を失い、後宮の下働きになったらしい。
「でも好きなものに囲まれて今は幸せなんです」
そう言って笑った。
「文字はどこで学んだんだい?」
平民の中には文字の読み書きができない者も多い。貧しい田舎であれば、子供の仕事は学ぶ事より農耕や家の手伝いである事が多いのだ。
「たまたま近所に、昔後宮の下働きだったというおばあちゃんがいたんです。時々頼まれてお世話をしていたので、その時に女にも学がいると教えてくれました。疫病で家族が死んで、村がなくなった時すぐに後宮が浮かんだのも、そのおかげです」
懐かしむようにそう言って目を伏せた。
「貧しい出自の多い下働きの中で、珍しく字が読めたのが幸いして、書庫に配属になりました。一時は身体を売ろうかとも思った身ですが、器量もよくないし良かったです」
そう言って無理に笑うのだった。
こんな娘はこの国にも沢山いるのだろうと、切なくなった。
そしてこの数年の政の荒廃具合を思った。
父はいまだ病に伏せている。長年この国の政治は父である皇帝が独裁でやってきた。父が伏せて後、今まで父に頼り切っていた官吏達は自分達で政を動かす事ができないでいる。
代わりに皇太子がやるべきであるが、後継者と目されている男はここで失格の烙印を押されたくないため、のらりくらりとその役目から逃げていた。
その時点で失格であるのだが……
兄が皇太子であれば。そう、もどかしく感じながらも悪戯に日々が過ぎていた。
朱杏のような娘をこの国に増やしてはならない。それが皇族である者の責務であるのに、あの頃の自分には何もできなかったのだ。
朱杏と出会って数ヶ月が経った頃だった。
「最近思い詰めた顔をされていますが、どうかなさいましたか?」
心配そうに朱杏が顔を覗き込んできた。
「そう見えるかい?」
「難しいお顔をなさっておいでです」
痛いところを突かれた。なるべく気づかれないようにとは思っていたが、どうやら付き合いが長くなってしまったせいか、彼女の前で少し気を抜いてしまっていたらしい。
「そう、か」
自嘲する。そろそろ潮時なのかもしれない。
じっと、朱杏を見つめた。
「差し出がましい事でしたら申し訳ありません」
見つめられた朱杏は、困惑したように視線を泳がせると、一歩引く。
反射的に手を伸ばしていた。朱安の手を引き、身体を引き寄せて口付けた。
彼女の身体に力が入ったのが、抱き寄せた手に伝わってきた。抵抗する様子がない事に内心で安堵した。
唇を離すと、その固まった細い身体を抱きしめる。
「すまない。私の事は忘れてくれ」
朱杏の耳元でそれだけ呟くと、もう一度彼女を強く抱きしめて、踵を返す。振り向く事もせずに、一気に後宮を後にした。
後宮を出て、しばらく歩く。馬車を待たせてある広場まで向かう途中、一度ピタリと止まる。何か嫌な気配を感じたのだ。
「消せ」
後ろに付く護衛に呟く。
「御意」
口の中で呟くほどに小さな声ではあったが、護衛にこちらの意図は伝わったらしい。そのまま真っ直ぐ馬車に向かって再度歩き始めると、帰路についた。
宮に戻ると、心配そうな面持ちで門前に立つ冬隼がいた。
自分をはじめ、成人した皇子は育った後宮を出て、外殿をそれぞれ与えられている。それぞれの宮はあるのだが、身の安全のため、当時はまだ皇太子でなかった兄と冬隼と、共に同じ宮で過ごしていた。
「ご無事でしたか」
どうやら付いていた護衛――影の者から彼に情報が入ったらしい。自分の顔を見るなり、安心したように息を吐いた。
その顔を見て苦笑する。あまり顔色を変えず、難しい顔をしている事が多い弟だが、人一倍兄思いで心配性という可愛い一面がある。
冬隼の頭をポンと叩くと、二人で並びながら、自室に向かった。
「お前から護衛を借りておいてよかったよ」
「そのようですね。最近やけに活発ですね」
自室に入ると、当たり前のように冬隼も入室してきた。どかりと椅子に腰掛ける。
「父上の容体が芳しくないようですからね」
向かいの椅子に冬隼も腰掛ける。
「らしいな。全くそろそろいい加減にしてもらいたいな」
襟元を緩めながら、大きなため息をつく。
冬隼と、視線が合った。
「どちらにです?」
窺うような視線だった。苦笑する。
「両方だ! このまま事実上の空位が続けば、ますます国が荒れる。そしてあのボンクラに皇位が渡ってもな。自分たちの背後を気にする前に、やるべき事をやってもらいたいものだ」
背もたれに身体を預け、思案する。
「そろそろ動くしかないのかもな……」
ポツリとこぼした言葉に、冬隼がぴくりと反応した。
「動きますか?」
低く呟く。まだ少年の色を残した精悍な顔が緊張したように引き締まる。そういう反応だとは思っていたから、思わず笑いが漏れる。
相変わらず真面目で融通が利かない、でもそんなところが可愛い弟なのだ。
「お前は知らなくていい。お前に疑いが向けば、母が同じである兄上に疑いがいく。俺だけならなんとでもなる」
「ですが」
尚も食い下がろうとする冬隼に首を横に振る。
「冬、前から言っているだろう。頼む」
これ以上は取りつく島がない事を悟ったのか、冬隼は悲しげに目を伏せた。
「くれぐれも気をつけて下さい。兄上の御代には私より雪兄上の力が必要ですから」
そんな事はないのだが、まだ若い弟にそれを説明してもなかなか受け入れられないだろう。
彼は彼なりに幼い頃から努力を欠かしていないのを一番知っているのは、兄である自分達だ。
口を開きかけた時、不意に部屋の扉を叩く音が響く。冬隼が顔を上げ、小さな声で「来たか」と呟いたのが聞こえた。
「失礼いたします。殿下、駆除が完了しました」
室に入ってきたのは、よく冬隼のそばで見かける青年だ。たしか烈と言っただろうか。
弟につく不思議な影の一族の一人だ。彼らなくしては、あの熾烈な世継ぎ争いの中を自分達兄弟は生き残ってこられなかっただろう。
「何か分かったか?」
「雇われのようですね。多くは語りませんでしたし、雇い主も知らないようでした。ただ雪殿下の周囲を探るよう言われていたらしいです」
「そうか、ありがとう。引き続き頼むと伝えてくれ」
端的にそれだけ話すと、烈は部屋を後にする。
「お前にも迷惑をかけるから、そろそろ彼等も返さねばな」
烈の退室を見送って、再び冬隼に視線を戻す。
この数週間、不穏な空気を感じ取った冬隼が護衛のためにと彼らの一部を貸してくれていたのだ。
「いえ、使ってください。後宮も危険です。あまり近づかない方が」
自分が関われないのならせめてという思いがあるのだろう。
しかし冬隼の息のかかっている者を利用する事はできない。なんらかで足がついてしまったら終わりだ。彼らに頼らない方法は、それなりに確保してある。意地でも弟は巻き込まない。そう誓っているのだ。
「でも、なぜ今更、後宮の書庫なんかに出入りを?」
不思議そうに首を傾げられる。
それもそうだろう。幼い頃より自分はあの書庫に入り浸って、書物に没頭していた。十歳を超える頃には一通りの書に目を通していたのだ。冬隼はそれをよく知っている。
なぜ今更……。側から見たらたしかにそうであろう。
もしかすると、この行動こそが最近の不穏な動きの引き金だったのかもしれない。あまり後宮に寄りつかなかった者が、頻繁に出入りするようになった。相手側としては警戒をしてもおかしくない。
なんのことはない、ただ女性を口説くためであったのだが……
「もう行かないよ」
自嘲する。思い掛けず、悲しげな声音になった。
しかし、もしかすると、朱杏を巻き込みかねないのだ。それだけは絶対にできない。
冬隼の瞳が、心配そうにこちらを窺っていた。
「なかなか興味深い書を見つけてね。これが難解で、時間がかかったんだよ」
大丈夫だと笑って見せる。
「兄上に、難しい書物などあるのですか?」
意外そうに言われて、笑う。真面目な弟は、どうやらそのままの意味に受け止めたらしい。
「難しいよ、いまだ答えが出なくてね。もう少し時間をかけたかったんだが、制限時間を迎えたから、放り出してきてしまったよ。もし兄上が即位したら兄上にお願いして譲ってもらおうかな」
それまでに自分が生きていられたら、なのだが。
「そんな書物があるのですね。私もいつか読んでみたいです」
本当に興味を持ったようで、生真面目に答える弟が無性に可愛くなり、彼の頭をぐしゃりと撫でる。
「お前はいつになるのかねぇ」
それなりに寄ってくる相手がいるはずではあるが、終始彼は受け身のようだ。彼が本当に好きになっている様子はない。
そんな相手が彼にできる時を兄として密かに楽しみにしているのだが。果たして自分は無事にその姿を見られるのだろか……
それからの数ヶ月。湖紅国の宮廷は目まぐるしく変化した。
まず、皇太子が地方視察の道中に事故死するという事態が起こった。
これにより、兄が皇太子に内定したのだが、それを待つようにして父である皇帝が危篤となり、そしてひと月の後に崩御した。
葬儀と共に新たな皇帝の即位の儀、朝廷の整備や調整が行われた。
自分自身も皇帝の命で宰相に就任し、それと同じくして皇位継承権を放棄した。
全てが予定通りだった。
直前の皇太子と皇帝の死ができすぎていると、まことしやかに囁かれたりもしたが、結局のところなんの証拠も出ず、ただの噂話の域を出なかった。
そしてそんな噂も、新帝即位の慶事のどさくさで、いつのまにか消えていた。
そんな混乱も落ち着いたある夕、後宮の主である皇帝の特別な許可を得て、書庫へ向かった。
朱杏と最後に会った日から、もうすぐ一年が経とうとしていた。
「お久しぶりです」
そう声をかけると、朱杏は手にしていた数冊の書物を床にばら撒いた。慌てて座り込む彼女に近づいてそれを拾い上げてやる。
朱杏は、何が起こっているのか分からないというような表情でぼんやりとその様子を眺めていた。
「覚えていたかい?」
顔を覗き込むと、ハッとしたように彼女が一歩下がる。
「もちろん、です」
消え入るような声で頷いた。どうやら随分驚かせてしまったようだ。当然だ、忘れろと言って突然姿を隠したのは自分なのだから……
「すまない、色々段取りに時間がかかって、なかなか来られなかったんだ」
つい弁明するような口調になってしまった。
本来であれば、もっと早く来るはずだったのだが、新たな朝廷にはやらなければならない事が山積しており、なかなか自分の身辺を整える準備ができなかった。
「ご無事で、何よりです。お身体を、案じておりました」
混乱している様子の中、朱杏は辿々しくそう言うと、最後は涙を浮かべて顔を覆ってしまった。
その身体をそっと引き寄せる。
「僕の妻になってほしい」
彼女の耳元で囁く。腕の中の朱杏の肩が跳ね、潤んだ瞳が驚きの色を含んでこちらを見上げてきた。
「私なんかが?」
彼女らしい言葉に、笑いが漏れた。
「そんな君がいいんだ。僕は今まで張り詰めた人生ばかりだった。きっとこれからも。だからこそ、こうして羽休めの場所が欲しいんだ。君の側は落ち着くから」
彼女の切れ長の瞳から溢れる涙を拭ってやる。
「そんな、もったいない。私にそんな大役は務まりません」
小さく首を振って、身体を離そうとするが、それを許さず、引き寄せる。
「僕にこそ君はもったいない。僕は欲張りで、汚れている。だからこそ、君のような多くを求めない穏やかな人に焦がれるんだ」
朱杏は聡い。きっとあれから自分が何をしたのか、彼女の前から突然姿を消した理由もなんとなく分かっているだろう。
だから隠す事はしたくなかった。
「僕のそばにいてくれないかな?」
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
どうやら寝入ってしまっていたようだ。両の手の下には、額縁が大切に置かれたままで、もう一度その中に描かれた愛しく恋しい人の顔を眺める。
懐かしい夢を見ていたらしい。
あの後、いくらか言葉を尽くして、そのままの君がいいと伝え続けた。
そして朱杏は首を縦に振ってくれた。すぐに子どもを授かり、幸せな日々を過ごした。この先ずっとそれが続くと疑っていなかった。
しかし……親子三人で過ごせたのはわずか二年余りだった。
別れは、突然にやってきた。
突如病に倒れた朱杏はふた月ほど寝込み、そのまま旅立ってしまったのだ。
自分の行いが彼女に跳ね返ってきたのではないか、そう思った事もあった。新たに妻を娶るという選択肢もあった。しかし、どうにもその気になれなかった。
あれから、息子の成長が何よりも楽しみだったが。
「子供は巣立つのが早いなぁ」
予想よりも随分と早かった事に、寂しさを覚える。
朱杏、君が生きていたなら、二人で酒でも飲みながら、寂しさを感じつつも息子の成長を噛みしめていたのかもしれないな。
◆
「ねぇ、雪義兄上様の奥さんてどういう人だったの?」
唐突に翠玉に問われ、冬隼は床へ入る足を止めた。
「平民出身で控えめで、物静かな人だった。聡い方で、後宮の書庫にいたのを兄上が見染めたんだ」
もう十年以上前になる。冬隼の記憶の中では、いつも控えめに雪の後ろに付いていて、物腰柔らかい穏やかな女性だったように思う。
小さな稜寧が走る後を、優しい表情で見守っている姿が、最後に冬隼が見た元気な義姉の姿であった。
「書庫で育んだ恋か。なんか物語みたいね。知的な雪義兄上様らしいわね」
ふふふと楽しそうに笑いながら、翠玉も床に入ってくる。随分と深い時間になった。そろそろ就寝せねば明日に響くだろう。
ふと、あの頃の兄とのやり取りを冬隼は思い出す。
難解な書物……お前はいつになるのかな?
いつだったか兄が義姉を書物に例えた事があった。あの時は自分も若く、本当に興味深い書物があるのだと思っていたのだが。
じっと翠玉を見る。どうしたのかと、不思議そうにこちらを見上げる視線と目が合い、自然と笑みが漏れた。自分も随分と難解な書物を見つけてしまったらしい。
「たしかに答えはなかなか出ない」
はらはらと滑り落ちて頬にかかった髪を、耳にかけてやる。
「なに?」
よく分からないと言いたげに翠玉が首を傾げた。
「稜寧はお前をご所望だが、付いて教える気はあるか? 前線に出せない分、お前といてもらう方が安心ではあるのだが」
稜寧が側にいれば翠玉も無茶はしないだろう。という狙いも多少はあるのだが。
「やる気があればもちろん。でも、また私の配置は後方なのね?」
そんな気も知らず、やはり前線へ出る気だったのかと、呆れる。
「またってお前、前回は最前線だっただろうが。しかも、こちらの予想通りに湖紅と緋堯の国境線で戦が始まれば、次は同じ地に他国の将が集まってくるんだぞ。なんのための隠し球だ」
「あはは、そうだったわね~」
忘れていたとでも言うように気まずそうに笑う彼女には、やはり稜寧をつけておく方が良さそうだ。明日にでも、兄に返事をしてこようと、冬隼は心に決めたのだった。
二章
戦に向けて本格的な準備が始まると、軍議や兵の鍛錬で、翠玉も昼夜を問わず忙しく動き回る事が増えた。
この日も、訓練の後に軍議を行い、帰宅できたのは夜も深くなった頃だった。
まだまだ考える事が山積しており、頭を抱えながら自邸へ戻ると、いつもの迎えの中に交ざって、色鮮やかな衣装に身を包んだ可愛らしい女性が礼をとっていた。
年の頃は翠玉よりも少しばかり若いだろうか。よく手入れされた艶やかな黒髪に、長いまつ毛に縁取られた大きな瞳、白い肌をしたいかにも良い育ちの姫君だ。
「おかえりなさいませ、お義姉様!」
「おね?」
突然の事に、一瞬頭の中が真っ白になる。
ここ数日、激務で睡眠時間を取っていなかった上、難しい数字の羅列を追っている事が多かったせいか、ついに幻まで見るようになったのかと、いよいよ自分が心配になってきた。
「着いていたのか、早かったな」
しかし、後ろにいた冬隼にも、どうやら彼女が見えているらしい。
彼も最近、随分激務をこなしている。お互い疲れているのだなぁ~と一瞬思ったが、どうやら実物らしい。
「天候が良かったので一日早く着く事ができました」
ニコリと笑った女性は、そう言うと瞳をキラキラと輝かせて翠玉の手を取る。
「お会いできて嬉しいです。お義姉様!」
「えっと……」
説明を求めて後方の冬隼を見上げる。
「お前……やはり聞いていなかったな」
あきれたような、困ったようなため息をつかれた。
「まぁ無理もないな。三日ほど前、突然うちに逗留させて欲しいと連絡があったんだ。一応お前にも話はしたが、兵糧や武器の見積もりに唸っていたゆえ、聞いているとは思えなかったが、話せる時がそこしかなかったからな」
しかもその後の三日間、二人は色々とすれ違っていた。
彼女を迎える準備はこの家の侍従を束ねている者――桜季がやっていたし、まぁいいかと思っていた。今夜もう一度話そうと思ったがどうやら遅かった。というのが冬隼の弁明だった。
たしかに思い出してみれば、ここ数日冬隼とまともに会話できる機会がなかったのは事実だ。
「第十二皇女 、紅鈴明です」
可愛らしく小首を傾け見つめられ、翠玉はたじろぐ。
「俺の異母妹だ」
この仏頂面の夫に、こんな可愛らしい妹がいるのが、にわかに信じられない。
「翠玉です」
狼狽えながら二人の顔を見比べる。
あぁ、でもなんとなく似ている。顔の線だろうか、今まで会った冬隼の兄弟達の中で、顔立ちは一番冬隼と似ている気がした。
しかし、冬隼も女にしたらこんなに可愛らしくなるのか。それはちょっと、気持ち悪い……
そこまで考えて、冬隼の不穏な視線に気づく。どうやら翠玉がしょうもない事を考えているのを彼は察したらしい。
大きくため息を吐かれ、ここで立ち話もなんだと邸内に促される。
「我が国は鉱物が採れるが、それを精製する技術をもつ一族が曽州にいる。この一族なしでは我が国の軍事発展はない。鈴明はそこに嫁に行った」
回廊を歩きながら冬隼が簡単に説明をしてくれる。
「実際に現状を見聞きして武器の必要量や強度、今後の精製方法を考えたいと思いまして、こうして参った次第です」
「姫様が、ですか?」
可愛らしい顔からサラリと武器の精製の話が出てきて驚いたが、よくよく考えれば、自分は姫の立場で大立ち回りを繰り出す身だ、人の事は言えない。
翠玉の問いに鈴明がクスクスと笑う。
「もちろん技師達を連れてきていますから、私は夫である当主の名代としてです。彼等は城下に宿をとり留め置いていますが、私は流石に元々の身分上それができなかったので兄の宮にお世話になる事になりました。お義姉様の噂も聞いていて興味がありましたので、楽しみに参りました。想像以上に楽しそうな方で安心致しましたわ。よろしくお願いいたしますね」
一気にそれだけ話して、よく手入れされた艶やかな手でチョンと翠玉の裾を掴んで微笑まれた。
なんとも女性らしく可愛らしい仕草に、同じ女であるはずの翠玉の胸がドキドキと高鳴った。
彼女は、後宮の下働きで書庫の管理をしていた。後宮の書物などは、幼い頃にほとんど読んでしまっていたのだが、たまたま調べ物があり、それに関わる文献に心当たりがあったため、立ち寄った。
雪稜が通わぬ内にいくらか書の配置も変わったらしく、探すのも手間だからと、適当に声をかけた。
いまだにあの時の朱杏の顔は忘れられない。いきなりの皇子からの声かけに、はじめは驚いて緊張していたものの、すぐにこちらの要望を理解して案内をしてくれた。
それだけでなく、関連の文献をいくつか手早く用意してくれた。
「君、すごいね」
心底感心してそう言うと。
「この書庫なら全て把握しているので」
と控えめに微笑んだ。その微笑みが可憐で、一気に心を掴まれた。
「それは助かるなぁ、これからしばらく調べ物で通うから、君に聞くよ」
本当は調べ物はこれで事足りたのだが、口が勝手に次に彼女に会いにくる口実を作っていた。
「君の名前は?」
すぐに名前を確認したが、皇子に名を覚えてもらうなど恐れ多いと、断られた。それがまた、いじらしくて色々と理由を作って会いに通った。
何度か通って、ようやく名前を聞く事ができた。
「可愛い名前だね」
そう言うと、彼女は恥ずかしそうに、「とんでもない」と微笑んだ。
通ううちに、雪稜にも少しずつ心を開いてくれた。大人しくて控えめだが、とても頭のいい娘だった。貧しい田舎出で家族を失い、後宮の下働きになったらしい。
「でも好きなものに囲まれて今は幸せなんです」
そう言って笑った。
「文字はどこで学んだんだい?」
平民の中には文字の読み書きができない者も多い。貧しい田舎であれば、子供の仕事は学ぶ事より農耕や家の手伝いである事が多いのだ。
「たまたま近所に、昔後宮の下働きだったというおばあちゃんがいたんです。時々頼まれてお世話をしていたので、その時に女にも学がいると教えてくれました。疫病で家族が死んで、村がなくなった時すぐに後宮が浮かんだのも、そのおかげです」
懐かしむようにそう言って目を伏せた。
「貧しい出自の多い下働きの中で、珍しく字が読めたのが幸いして、書庫に配属になりました。一時は身体を売ろうかとも思った身ですが、器量もよくないし良かったです」
そう言って無理に笑うのだった。
こんな娘はこの国にも沢山いるのだろうと、切なくなった。
そしてこの数年の政の荒廃具合を思った。
父はいまだ病に伏せている。長年この国の政治は父である皇帝が独裁でやってきた。父が伏せて後、今まで父に頼り切っていた官吏達は自分達で政を動かす事ができないでいる。
代わりに皇太子がやるべきであるが、後継者と目されている男はここで失格の烙印を押されたくないため、のらりくらりとその役目から逃げていた。
その時点で失格であるのだが……
兄が皇太子であれば。そう、もどかしく感じながらも悪戯に日々が過ぎていた。
朱杏のような娘をこの国に増やしてはならない。それが皇族である者の責務であるのに、あの頃の自分には何もできなかったのだ。
朱杏と出会って数ヶ月が経った頃だった。
「最近思い詰めた顔をされていますが、どうかなさいましたか?」
心配そうに朱杏が顔を覗き込んできた。
「そう見えるかい?」
「難しいお顔をなさっておいでです」
痛いところを突かれた。なるべく気づかれないようにとは思っていたが、どうやら付き合いが長くなってしまったせいか、彼女の前で少し気を抜いてしまっていたらしい。
「そう、か」
自嘲する。そろそろ潮時なのかもしれない。
じっと、朱杏を見つめた。
「差し出がましい事でしたら申し訳ありません」
見つめられた朱杏は、困惑したように視線を泳がせると、一歩引く。
反射的に手を伸ばしていた。朱安の手を引き、身体を引き寄せて口付けた。
彼女の身体に力が入ったのが、抱き寄せた手に伝わってきた。抵抗する様子がない事に内心で安堵した。
唇を離すと、その固まった細い身体を抱きしめる。
「すまない。私の事は忘れてくれ」
朱杏の耳元でそれだけ呟くと、もう一度彼女を強く抱きしめて、踵を返す。振り向く事もせずに、一気に後宮を後にした。
後宮を出て、しばらく歩く。馬車を待たせてある広場まで向かう途中、一度ピタリと止まる。何か嫌な気配を感じたのだ。
「消せ」
後ろに付く護衛に呟く。
「御意」
口の中で呟くほどに小さな声ではあったが、護衛にこちらの意図は伝わったらしい。そのまま真っ直ぐ馬車に向かって再度歩き始めると、帰路についた。
宮に戻ると、心配そうな面持ちで門前に立つ冬隼がいた。
自分をはじめ、成人した皇子は育った後宮を出て、外殿をそれぞれ与えられている。それぞれの宮はあるのだが、身の安全のため、当時はまだ皇太子でなかった兄と冬隼と、共に同じ宮で過ごしていた。
「ご無事でしたか」
どうやら付いていた護衛――影の者から彼に情報が入ったらしい。自分の顔を見るなり、安心したように息を吐いた。
その顔を見て苦笑する。あまり顔色を変えず、難しい顔をしている事が多い弟だが、人一倍兄思いで心配性という可愛い一面がある。
冬隼の頭をポンと叩くと、二人で並びながら、自室に向かった。
「お前から護衛を借りておいてよかったよ」
「そのようですね。最近やけに活発ですね」
自室に入ると、当たり前のように冬隼も入室してきた。どかりと椅子に腰掛ける。
「父上の容体が芳しくないようですからね」
向かいの椅子に冬隼も腰掛ける。
「らしいな。全くそろそろいい加減にしてもらいたいな」
襟元を緩めながら、大きなため息をつく。
冬隼と、視線が合った。
「どちらにです?」
窺うような視線だった。苦笑する。
「両方だ! このまま事実上の空位が続けば、ますます国が荒れる。そしてあのボンクラに皇位が渡ってもな。自分たちの背後を気にする前に、やるべき事をやってもらいたいものだ」
背もたれに身体を預け、思案する。
「そろそろ動くしかないのかもな……」
ポツリとこぼした言葉に、冬隼がぴくりと反応した。
「動きますか?」
低く呟く。まだ少年の色を残した精悍な顔が緊張したように引き締まる。そういう反応だとは思っていたから、思わず笑いが漏れる。
相変わらず真面目で融通が利かない、でもそんなところが可愛い弟なのだ。
「お前は知らなくていい。お前に疑いが向けば、母が同じである兄上に疑いがいく。俺だけならなんとでもなる」
「ですが」
尚も食い下がろうとする冬隼に首を横に振る。
「冬、前から言っているだろう。頼む」
これ以上は取りつく島がない事を悟ったのか、冬隼は悲しげに目を伏せた。
「くれぐれも気をつけて下さい。兄上の御代には私より雪兄上の力が必要ですから」
そんな事はないのだが、まだ若い弟にそれを説明してもなかなか受け入れられないだろう。
彼は彼なりに幼い頃から努力を欠かしていないのを一番知っているのは、兄である自分達だ。
口を開きかけた時、不意に部屋の扉を叩く音が響く。冬隼が顔を上げ、小さな声で「来たか」と呟いたのが聞こえた。
「失礼いたします。殿下、駆除が完了しました」
室に入ってきたのは、よく冬隼のそばで見かける青年だ。たしか烈と言っただろうか。
弟につく不思議な影の一族の一人だ。彼らなくしては、あの熾烈な世継ぎ争いの中を自分達兄弟は生き残ってこられなかっただろう。
「何か分かったか?」
「雇われのようですね。多くは語りませんでしたし、雇い主も知らないようでした。ただ雪殿下の周囲を探るよう言われていたらしいです」
「そうか、ありがとう。引き続き頼むと伝えてくれ」
端的にそれだけ話すと、烈は部屋を後にする。
「お前にも迷惑をかけるから、そろそろ彼等も返さねばな」
烈の退室を見送って、再び冬隼に視線を戻す。
この数週間、不穏な空気を感じ取った冬隼が護衛のためにと彼らの一部を貸してくれていたのだ。
「いえ、使ってください。後宮も危険です。あまり近づかない方が」
自分が関われないのならせめてという思いがあるのだろう。
しかし冬隼の息のかかっている者を利用する事はできない。なんらかで足がついてしまったら終わりだ。彼らに頼らない方法は、それなりに確保してある。意地でも弟は巻き込まない。そう誓っているのだ。
「でも、なぜ今更、後宮の書庫なんかに出入りを?」
不思議そうに首を傾げられる。
それもそうだろう。幼い頃より自分はあの書庫に入り浸って、書物に没頭していた。十歳を超える頃には一通りの書に目を通していたのだ。冬隼はそれをよく知っている。
なぜ今更……。側から見たらたしかにそうであろう。
もしかすると、この行動こそが最近の不穏な動きの引き金だったのかもしれない。あまり後宮に寄りつかなかった者が、頻繁に出入りするようになった。相手側としては警戒をしてもおかしくない。
なんのことはない、ただ女性を口説くためであったのだが……
「もう行かないよ」
自嘲する。思い掛けず、悲しげな声音になった。
しかし、もしかすると、朱杏を巻き込みかねないのだ。それだけは絶対にできない。
冬隼の瞳が、心配そうにこちらを窺っていた。
「なかなか興味深い書を見つけてね。これが難解で、時間がかかったんだよ」
大丈夫だと笑って見せる。
「兄上に、難しい書物などあるのですか?」
意外そうに言われて、笑う。真面目な弟は、どうやらそのままの意味に受け止めたらしい。
「難しいよ、いまだ答えが出なくてね。もう少し時間をかけたかったんだが、制限時間を迎えたから、放り出してきてしまったよ。もし兄上が即位したら兄上にお願いして譲ってもらおうかな」
それまでに自分が生きていられたら、なのだが。
「そんな書物があるのですね。私もいつか読んでみたいです」
本当に興味を持ったようで、生真面目に答える弟が無性に可愛くなり、彼の頭をぐしゃりと撫でる。
「お前はいつになるのかねぇ」
それなりに寄ってくる相手がいるはずではあるが、終始彼は受け身のようだ。彼が本当に好きになっている様子はない。
そんな相手が彼にできる時を兄として密かに楽しみにしているのだが。果たして自分は無事にその姿を見られるのだろか……
それからの数ヶ月。湖紅国の宮廷は目まぐるしく変化した。
まず、皇太子が地方視察の道中に事故死するという事態が起こった。
これにより、兄が皇太子に内定したのだが、それを待つようにして父である皇帝が危篤となり、そしてひと月の後に崩御した。
葬儀と共に新たな皇帝の即位の儀、朝廷の整備や調整が行われた。
自分自身も皇帝の命で宰相に就任し、それと同じくして皇位継承権を放棄した。
全てが予定通りだった。
直前の皇太子と皇帝の死ができすぎていると、まことしやかに囁かれたりもしたが、結局のところなんの証拠も出ず、ただの噂話の域を出なかった。
そしてそんな噂も、新帝即位の慶事のどさくさで、いつのまにか消えていた。
そんな混乱も落ち着いたある夕、後宮の主である皇帝の特別な許可を得て、書庫へ向かった。
朱杏と最後に会った日から、もうすぐ一年が経とうとしていた。
「お久しぶりです」
そう声をかけると、朱杏は手にしていた数冊の書物を床にばら撒いた。慌てて座り込む彼女に近づいてそれを拾い上げてやる。
朱杏は、何が起こっているのか分からないというような表情でぼんやりとその様子を眺めていた。
「覚えていたかい?」
顔を覗き込むと、ハッとしたように彼女が一歩下がる。
「もちろん、です」
消え入るような声で頷いた。どうやら随分驚かせてしまったようだ。当然だ、忘れろと言って突然姿を隠したのは自分なのだから……
「すまない、色々段取りに時間がかかって、なかなか来られなかったんだ」
つい弁明するような口調になってしまった。
本来であれば、もっと早く来るはずだったのだが、新たな朝廷にはやらなければならない事が山積しており、なかなか自分の身辺を整える準備ができなかった。
「ご無事で、何よりです。お身体を、案じておりました」
混乱している様子の中、朱杏は辿々しくそう言うと、最後は涙を浮かべて顔を覆ってしまった。
その身体をそっと引き寄せる。
「僕の妻になってほしい」
彼女の耳元で囁く。腕の中の朱杏の肩が跳ね、潤んだ瞳が驚きの色を含んでこちらを見上げてきた。
「私なんかが?」
彼女らしい言葉に、笑いが漏れた。
「そんな君がいいんだ。僕は今まで張り詰めた人生ばかりだった。きっとこれからも。だからこそ、こうして羽休めの場所が欲しいんだ。君の側は落ち着くから」
彼女の切れ長の瞳から溢れる涙を拭ってやる。
「そんな、もったいない。私にそんな大役は務まりません」
小さく首を振って、身体を離そうとするが、それを許さず、引き寄せる。
「僕にこそ君はもったいない。僕は欲張りで、汚れている。だからこそ、君のような多くを求めない穏やかな人に焦がれるんだ」
朱杏は聡い。きっとあれから自分が何をしたのか、彼女の前から突然姿を消した理由もなんとなく分かっているだろう。
だから隠す事はしたくなかった。
「僕のそばにいてくれないかな?」
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
どうやら寝入ってしまっていたようだ。両の手の下には、額縁が大切に置かれたままで、もう一度その中に描かれた愛しく恋しい人の顔を眺める。
懐かしい夢を見ていたらしい。
あの後、いくらか言葉を尽くして、そのままの君がいいと伝え続けた。
そして朱杏は首を縦に振ってくれた。すぐに子どもを授かり、幸せな日々を過ごした。この先ずっとそれが続くと疑っていなかった。
しかし……親子三人で過ごせたのはわずか二年余りだった。
別れは、突然にやってきた。
突如病に倒れた朱杏はふた月ほど寝込み、そのまま旅立ってしまったのだ。
自分の行いが彼女に跳ね返ってきたのではないか、そう思った事もあった。新たに妻を娶るという選択肢もあった。しかし、どうにもその気になれなかった。
あれから、息子の成長が何よりも楽しみだったが。
「子供は巣立つのが早いなぁ」
予想よりも随分と早かった事に、寂しさを覚える。
朱杏、君が生きていたなら、二人で酒でも飲みながら、寂しさを感じつつも息子の成長を噛みしめていたのかもしれないな。
◆
「ねぇ、雪義兄上様の奥さんてどういう人だったの?」
唐突に翠玉に問われ、冬隼は床へ入る足を止めた。
「平民出身で控えめで、物静かな人だった。聡い方で、後宮の書庫にいたのを兄上が見染めたんだ」
もう十年以上前になる。冬隼の記憶の中では、いつも控えめに雪の後ろに付いていて、物腰柔らかい穏やかな女性だったように思う。
小さな稜寧が走る後を、優しい表情で見守っている姿が、最後に冬隼が見た元気な義姉の姿であった。
「書庫で育んだ恋か。なんか物語みたいね。知的な雪義兄上様らしいわね」
ふふふと楽しそうに笑いながら、翠玉も床に入ってくる。随分と深い時間になった。そろそろ就寝せねば明日に響くだろう。
ふと、あの頃の兄とのやり取りを冬隼は思い出す。
難解な書物……お前はいつになるのかな?
いつだったか兄が義姉を書物に例えた事があった。あの時は自分も若く、本当に興味深い書物があるのだと思っていたのだが。
じっと翠玉を見る。どうしたのかと、不思議そうにこちらを見上げる視線と目が合い、自然と笑みが漏れた。自分も随分と難解な書物を見つけてしまったらしい。
「たしかに答えはなかなか出ない」
はらはらと滑り落ちて頬にかかった髪を、耳にかけてやる。
「なに?」
よく分からないと言いたげに翠玉が首を傾げた。
「稜寧はお前をご所望だが、付いて教える気はあるか? 前線に出せない分、お前といてもらう方が安心ではあるのだが」
稜寧が側にいれば翠玉も無茶はしないだろう。という狙いも多少はあるのだが。
「やる気があればもちろん。でも、また私の配置は後方なのね?」
そんな気も知らず、やはり前線へ出る気だったのかと、呆れる。
「またってお前、前回は最前線だっただろうが。しかも、こちらの予想通りに湖紅と緋堯の国境線で戦が始まれば、次は同じ地に他国の将が集まってくるんだぞ。なんのための隠し球だ」
「あはは、そうだったわね~」
忘れていたとでも言うように気まずそうに笑う彼女には、やはり稜寧をつけておく方が良さそうだ。明日にでも、兄に返事をしてこようと、冬隼は心に決めたのだった。
二章
戦に向けて本格的な準備が始まると、軍議や兵の鍛錬で、翠玉も昼夜を問わず忙しく動き回る事が増えた。
この日も、訓練の後に軍議を行い、帰宅できたのは夜も深くなった頃だった。
まだまだ考える事が山積しており、頭を抱えながら自邸へ戻ると、いつもの迎えの中に交ざって、色鮮やかな衣装に身を包んだ可愛らしい女性が礼をとっていた。
年の頃は翠玉よりも少しばかり若いだろうか。よく手入れされた艶やかな黒髪に、長いまつ毛に縁取られた大きな瞳、白い肌をしたいかにも良い育ちの姫君だ。
「おかえりなさいませ、お義姉様!」
「おね?」
突然の事に、一瞬頭の中が真っ白になる。
ここ数日、激務で睡眠時間を取っていなかった上、難しい数字の羅列を追っている事が多かったせいか、ついに幻まで見るようになったのかと、いよいよ自分が心配になってきた。
「着いていたのか、早かったな」
しかし、後ろにいた冬隼にも、どうやら彼女が見えているらしい。
彼も最近、随分激務をこなしている。お互い疲れているのだなぁ~と一瞬思ったが、どうやら実物らしい。
「天候が良かったので一日早く着く事ができました」
ニコリと笑った女性は、そう言うと瞳をキラキラと輝かせて翠玉の手を取る。
「お会いできて嬉しいです。お義姉様!」
「えっと……」
説明を求めて後方の冬隼を見上げる。
「お前……やはり聞いていなかったな」
あきれたような、困ったようなため息をつかれた。
「まぁ無理もないな。三日ほど前、突然うちに逗留させて欲しいと連絡があったんだ。一応お前にも話はしたが、兵糧や武器の見積もりに唸っていたゆえ、聞いているとは思えなかったが、話せる時がそこしかなかったからな」
しかもその後の三日間、二人は色々とすれ違っていた。
彼女を迎える準備はこの家の侍従を束ねている者――桜季がやっていたし、まぁいいかと思っていた。今夜もう一度話そうと思ったがどうやら遅かった。というのが冬隼の弁明だった。
たしかに思い出してみれば、ここ数日冬隼とまともに会話できる機会がなかったのは事実だ。
「第十二皇女 、紅鈴明です」
可愛らしく小首を傾け見つめられ、翠玉はたじろぐ。
「俺の異母妹だ」
この仏頂面の夫に、こんな可愛らしい妹がいるのが、にわかに信じられない。
「翠玉です」
狼狽えながら二人の顔を見比べる。
あぁ、でもなんとなく似ている。顔の線だろうか、今まで会った冬隼の兄弟達の中で、顔立ちは一番冬隼と似ている気がした。
しかし、冬隼も女にしたらこんなに可愛らしくなるのか。それはちょっと、気持ち悪い……
そこまで考えて、冬隼の不穏な視線に気づく。どうやら翠玉がしょうもない事を考えているのを彼は察したらしい。
大きくため息を吐かれ、ここで立ち話もなんだと邸内に促される。
「我が国は鉱物が採れるが、それを精製する技術をもつ一族が曽州にいる。この一族なしでは我が国の軍事発展はない。鈴明はそこに嫁に行った」
回廊を歩きながら冬隼が簡単に説明をしてくれる。
「実際に現状を見聞きして武器の必要量や強度、今後の精製方法を考えたいと思いまして、こうして参った次第です」
「姫様が、ですか?」
可愛らしい顔からサラリと武器の精製の話が出てきて驚いたが、よくよく考えれば、自分は姫の立場で大立ち回りを繰り出す身だ、人の事は言えない。
翠玉の問いに鈴明がクスクスと笑う。
「もちろん技師達を連れてきていますから、私は夫である当主の名代としてです。彼等は城下に宿をとり留め置いていますが、私は流石に元々の身分上それができなかったので兄の宮にお世話になる事になりました。お義姉様の噂も聞いていて興味がありましたので、楽しみに参りました。想像以上に楽しそうな方で安心致しましたわ。よろしくお願いいたしますね」
一気にそれだけ話して、よく手入れされた艶やかな手でチョンと翠玉の裾を掴んで微笑まれた。
なんとも女性らしく可愛らしい仕草に、同じ女であるはずの翠玉の胸がドキドキと高鳴った。
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