もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮

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1巻

1-1

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     プロローグ


「あれはパッとしない女だから」

 バルコニー越しに聞こえた言葉に、エリーゼはハッと息を呑む。
 声を出さないよう慌てて口を押さえ、ふらつきそうになる足にぐっと力を入れる。
 そうっと、そうっと、ヒールの音を立てないように注意深く後退った。
 聞いてはいけない、違う、これは彼じゃない、オズワルドに似た声のほかの誰かだと、自分に言い聞かせながら。
 けれど、隣のバルコニーでグラス片手に語らう男性たちは、そんなエリーゼの気持ちなどお構いなしに会話を続ける。
「無口でつまらない」とか「爵位だけが取り柄」とか「地味女」とか。
 オズワルドにそっくりな声の彼は、婚約者の女性をおとしめ続ける。
 一緒にいる友人らしき人はやんわりと彼をたしなめるけれど、それがかえって気に障るのか、言葉はますます激しくなっていく。
 あと数歩下がればバルコニーから出て会場に戻れるのに。
 そうしたらもう、彼に似た声を聞かなくて済むのに。
 まるで、最後まで聞けと告げるかのように、足はそこで止まってしまう。
 そのとき、隣のバルコニーからタンッ、と何かを叩きつけたような音がした。

「もうやめろ、君の婚約者は立派な淑女じゃないか。しかも君は婿入りする身だろ? そんなことを言える立場じゃないだろうが」
「今日は来てないから大丈夫だよ。せっかく誘ってやったのに、用事があるとか言って断りやがった。あんなパッとしない女、オレだって別に連れ歩きたくもないのにさ。はあ、なんであんなのと婚約しちまったんだろ」

 オズワルドにそっくりな声の彼はさらに言葉を続ける。

「無理してあの女に笑いかけるのももう限界だよ」
「いい加減にしろよ、オズワルド! いくらなんでもひどすぎ……」

 その先は聞いていない。
 さっきまで縫いつけられたように動かなかったのが嘘みたいに、エリーゼは早足で会場の出口へ向かったから。




     第一章 ずっと、ずっと無理してた


「お嬢さま?」

 会場の外、馬車停めの近くに立っていた騎士服の男が、足音に反応して振り返る。
 後ろでひとつにまとめた黒髪が揺れて、ふわりと弧を描く。白地に紺色の刺繍ししゅうが入った騎士服が恐ろしいほど似合っている美丈夫は、エリーゼの専属護衛ルネスだ。
 ルネス・マッケンロー。代々ラクスライン公爵家に仕えてきたマッケンロー伯爵家の嫡男で、エリーゼより六つ年上の二十四歳である彼は、公爵令嬢であり、次代の女公爵となるエリーゼの専属護衛騎士だ。ふたりの主従関係はかれこれ十三年になる。
 会場から足早に出てきたエリーゼの姿を認めたルネスは、淡い緑色の目を大きく見開き、戸惑いがちに言葉を続ける。

「お嬢さま、どうされましたか? もしかして、オズワルド令息とお会いできなかったのですか?」

 怪訝な表情でルネスが問う。いつもはエリーゼを優しげに見つめる淡い緑が、心配そうに揺れている。
 無理もない、エリーゼがこの馬車を降りてルネスと別れたのはつい半刻ほど前なのだ。いくら遅れて夜会に参加したからといって、終了する時間はまだまだ先。戻ってくるには早すぎる。

「……今日はもう帰るわ。この夜会に参加しようと予定を無理して調整したせいか、少し気分が悪くなってしまったの」

 一瞬、ルネスは何か言いたげに口を開きかけたが、エリーゼの顔色の悪さに言葉を呑みこみ、うなずいた。
 馬車の扉を開いて、エリーゼの乗車を補助したのち、御者に短く出発の指示を出す。それから護衛として馬車と並走すべく、さっと愛馬に跨った。
 エリーゼを乗せた馬車は、ガタンと大きく一度揺れ、それからゆっくりと走り始める。
 少しずつ、少しずつ、馬車の速度が上がっていく。
 灯りに照らし出された夜の風景が、窓の外でどんどん速さを増して流れていく。エリーゼはそれをただぼんやりと見ていた。
 そう、ぼんやりと。流れていく風景と、決して流れないまま、窓にうっすら映り続ける『地味な』自分の姿を。
 髪飾りのひとつも着けず、老婦人のようにきっちりまとめた薄紫色の髪。
 おしろいを軽く叩いただけの顔。唇に紅もささず、瞼になんの色も乗せず、淡い水色の瞳は白い肌に埋没して目立たない。淡色だらけで全体的にぼやけた印象の娘が、レース飾りのひとつもない、紺色のシンプルなドレスに身を包んでそこにいる。
 その通りね、とエリーゼは思う。
 美しく着飾った夫人や令嬢たちと比べたら、ずいぶん見劣りするだろう。十八歳の乙女とは思えないほど地味で、華やかさの欠片もない。それがエリーゼだ。

「夜会なんて、無理して行かなければよかったわ……」

 窓から見える変わりゆく景色に向かって、いや、パッとしない地味な自分に向かって、エリーゼはぽつりとつぶやいた。


 エリーゼ・ラクスラインは、エヴァンゲル王国の筆頭公爵家、ラクスライン家のひとり娘である。
 母ラウエルは、第一子エリーゼを産んだあとに体調を崩した。数年後に回復したものの、次の子を産むのは難しいと医師が判断し、結果、エリーゼは早々に公爵家の後継者になることが決定する。
 エヴァンゲル王国では女性の継承権が認められており、女性当主の存在はそう珍しくはない。
 エリーゼは五歳で後継者教育を開始し、十二歳のときに婚約者が決まった。
 それが、オズワルドだった。
 オズワルド・ゴーガン。
 ゴーガン侯爵家の三男で、家格のバランスが取れ、同じ派閥に属しており、同じ年の子がいるという理由で結ばれた、あまり政略結婚らしくない縁組だった。
 彼の父とエリーゼの父が学生時代の友人関係にあるが、互いの領地はそれなりに離れており、卒業後は社交シーズンに王都の夜会で顔を合わせる程度で、家族ぐるみで交流する程の仲ではない。
 となれば、子どものエリーゼとオズワルドに交流の機会などあるはずもなく、婚約時の顔合わせがふたりの初対面となったのである。


『きれいな髪の色だね』

 花が咲き誇る美しい庭で楽しく語らいを、と大人たちが提案し、顔合わせの場はラクスライン公爵家の庭となった。
 オズワルドはふわりと風に揺れるエリーゼの薄紫色の髪を見て、そう言って目を細めた。
 婚約者になるという男の子との顔合わせのために、精一杯のおしゃれをしていたエリーゼは、オズワルドの言葉にほんのりと頬を赤らめる。
 柔らかな薄紫色の髪はハーフアップにして編みこまれ、真っ白のレースのリボンを結んだ。
 ドレスは、エリーゼの瞳の色と同じ水色で、ウエストのリボンは鮮やかな青色。ドレスの裾と袖口には、リボンと同色の青の刺繍ししゅうが施され、さながら水の妖精のような可憐な装いであった。
 使用人たちは可愛いと言ってくれたが、今日初めて会う婚約者はどうだろうか。そんな不安が、オズワルドのひと言でするすると解けていく。

『……ありがとう。あなたの銀色の髪も、とてもきれいだわ』

 エリーゼは褒められてうれしくて、でも恥ずかしくて、ついうつむいてしまった。だが、勇気を出して、か細い声でそう答えた。
 お世辞などではない。銀髪銀眼のオズワルドは中性的な容姿のほっそりとした美少年で、フリルがたっぷりついた白のドレスシャツに薄いグレーのショート丈トラウザーズを着た姿は、まるで絵本の王子さまのように見えたし、彼の銀色の髪は日の光を受けてキラキラと輝いていたのだ。
 エリーゼは胸がドキドキして、そのあともなかなかうまく会話が続けられず、ふたりの間には何度も静寂が落ちてしまう。
 だが、オズワルドが気にする様子はなかった。珍しそうに庭のあちこちに目をやっては、気ままに歩き回り、時にあれこれとエリーゼに質問したりする。それに答える形で、途切れ途切れの会話がなんとか成立していた。

『ラクスラインって筆頭公爵家なんだよね。すごいな、ボクも公爵家の婿にふさわしい人になるように頑張らないと』

 別れ際、オズワルドは少し緊張した面持ちでそう言うと、エリーゼに手を差し出す。
 その手に、エリーゼがおずおずと自分の手を乗せると、オズワルドはきゅっと握りこんで『よろしくね』と笑った。
 このときのオズワルドの笑顔が、くれた言葉が、エリーゼをずっと奮い立たせてきた。
 オズワルドがエリーゼの婿になるために頑張ると言うのなら、エリーゼもまたオズワルドの妻になるために頑張ろう。そう思って、厳しい後継者教育にいっそう身を入れた。
 愛していると、愛されていると、そう信じていたから。
 ――でも。
 夜会のバルコニーで漏れ聞こえた言葉が、頭の中で何度も何度も蘇る。

『爵位だけが取り柄の女』
『なんであんなのと婚約しちまったんだろ』
『無理してあの女に笑いかけるのももう限界』

 エリーゼは、きつく手を握りこむ。オズワルドが、そんなに自分との婚約を嫌がっていたなんて知らなかった。

「ふふ、私ったら、勘違いしていたのね。バカみたいだわ……」

 窓に映りこむもうひとりのエリーゼの姿は、移り変わる景色と違い、窓に貼りついたままそこに留まり続ける。
 まるで、エリーゼに現実を思い知らせるかのようだ。
 まったくもってオズワルドは正しい。
 彼の言ったことは間違っていない。
 エリーゼは地味で、パッとしなくて、無口で、誰の目にも留まらない、つまらない女だ。
 でも、と思う。

「そうあるよう私に望んだのは、オズワルド、あなただったのに……」

 そう、今のエリーゼを形作ったのは、まぎれもなくオズワルドなのだ。
 十四歳のとき、婚約者の交流で久しぶりに再会したエリーゼに、オズワルドは言った。

『公爵令嬢の君の前だと、なんだか気後れしてしまうな。ボクはしがない侯爵家の三男だから』

 きっと、あれが始まりだった。

『君の横にいるボクなんか、みんなには霞んで見えるのだろうね』
『オレより公爵令嬢の君の言葉のほうを聞くに決まってるよ』
『そのドレス、少し派手すぎないか? 化粧も濃すぎるよ。もっと控えめにしてくれ』 
『お前の髪色は派手で目立つから、ひとつにまとめておけよ』
『黙って後ろに控えてくれ。それとも、オレでは頼りなくて任せられないとでも言いたいのか?』
『ああ、そのパーティーは欠席だ。オレが行かないのに、お前が行く必要はないだろう』

 筆頭公爵家のひとり娘だから、みんなはエリーゼを褒めたてる。オレは侯爵家の三男だから、エリーゼと比べられて下に見られる。だから苦しい、辛い、配慮してほしい、少しでいいから立ててくれ、そう言われ、エリーゼは自分が前に出ず、オズワルドの価値を上げる努力をした。
 だが、オズワルドの悩みは終わらず、要望は果てしなく、どんどん細かくなっていく。
 それでもエリーゼは、オズワルドの希望に沿うよう頑張った。頑張って、頑張って、頑張り続けた。エリーゼのために頑張ると約束してくれた、あの日のオズワルドを守りたかった、喜ばせたかった、失望されたくなかった。
 だから、いつだって彼の望みを最優先にし、すべて彼の言う通りにした。
 おしゃれも、友だち作りも、お出かけも、夜会やお茶会、流行はやりのドレスやアクセサリーも、オズワルドが眉をひそめれば諦めたのだ。

(……ううん、全部ではないわ。そうよ、一度だけオズワルドの願いを断ったじゃない)

 専属騎士の姿をエリーゼは思い浮かべる。
 あれはいつだったか。そう、エリーゼとオズワルドが婚約して数年経った頃。
 エリーゼの護衛騎士のメンバーから、ルネスを外せとオズワルドが言ってきたのだ。よりによって、エリーゼが最も信頼するルネスを名指しして。
 エリーゼの護衛は交代要員を含めて五名いるが、専属として正式に定められているのは、その中でルネス・マッケンローただひとりだ。これは、ラクスライン公爵とエリーゼの、ルネスに対する信頼度の高さが関係する。
 もともとは公爵の命令で、当時十一歳のルネスが、五歳のエリーゼの従者兼護衛候補になった。
 後継者教育が始まって間もない頃で、厳しい勉強の反動なのか、エリーゼは我儘を言って周りを振り回す言動が見られていた。
 従者兼護衛候補という立場には、そんなエリーゼの気持ちをまぎらわせる役目もあったのだろう。そして、ルネスを選んだ公爵の慧眼は正しかった。
 幼いエリーゼは、父親が連れてきた年上の凛々しい少年にすぐ懐き、雛鳥ひなどりよろしくルネスのあとを追いかけるようになる。ルネスはルネスで、かまって遊んでと足に絡まるエリーゼを、面倒がることもなく笑顔で甲斐甲斐しく世話をした。
 そして間もなく、エリーゼの我儘はすとんと収まり、厳しい後継者教育に進んで取り組むようになったのである。
 幼女から少女へ、そして淑女へと成長していくエリーゼのかたわらで、ルネスも少年から青年へと変わっていく。
 その過程でルネスの立場は従者兼護衛候補から専属護衛騎士へ変化し、やがて公爵家私設騎士団の白の制服がよく似合う、エリーゼが最も信頼する騎士となる。
 その信頼厚いルネスを、オズワルドはエリーゼの護衛から外せと言い出したのだ。顔が気に入らないという、とてもくだらない理由で。

『別に護衛なんか誰でもいいだろ?』

 まるでお茶のお代わりを頼むような軽い口調で言われ、エリーゼは即座に嫌ですと答える。
 拒否など予想だにしていなかったのだろう。オズワルドは、むっと眉をひそめ、低い声で問い返す。

『……なんだと? 今、なんて言った? 嫌だって言ったのか?』

 咎めるような視線。オズワルドの指がトントンと椅子の肘置きを叩き始める。
 あからさまに不機嫌を表すその仕草に、エリーゼの胃のあたりがきゅっと痛む。
 きっとオズワルドは、エリーゼが謝ってルネスを専属から外すと言い出すのを待っている。エリーゼがオズワルドの言う通りにする、それがこのふたりの普通だからだ。でも、これは。

『……ルネスは、お父さまが直々に選んで私の専属に任命した騎士です』

 エリーゼはうなずかなかった。
 今までにない展開に、オズワルドの目がきりりと吊り上がる。

『オレが外せと言ってるんだ。なぜ婚約者に配慮しない?』
『……もし、もし、どうしてもルネスを外せと言うのなら、まずお父さまに話を通す必要があります。もちろん理由を聞かれるでしょう。先ほどの言葉を伝えればいいでしょうか。お父さまが納得しない限りルネスを専属から外す許可は下りないと思いますが、それでも言いに行ったほうがいいですか?』
『……はっ、さすが筆頭公爵家は違うな。たかが侯爵家のオレの言うことなんか聞いてられないという訳か。わかった、もういい』

 エリーゼの父に話が行くのが嫌だったのか、ただ面倒になっただけなのか、オズワルドはあっさりと前言撤回し、その件は二度と蒸し返さなかった。
 このときだけだ。六年の婚約期間中、エリーゼがオズワルドの要求を断ったのはこの一度きり。
 それ以外は、すべて求められるたびに譲ってきた。未来の夫であるオズワルドを喜ばせる、ただそのために。
 エリーゼはオズワルドが好きで、オズワルドもエリーゼが好き。
 そう信じていたからこそ、我慢していた。
 けれど違ったのだ。
 そもそも、エリーゼは好かれてさえいなかった。
 だから、オズワルドはあんな――

『無理してあの女に笑いかけるのももう……』

 もう忘れてしまいたいのに、夜会で聞こえた彼の声が何度も何度も勝手に頭の中で繰り返される。エリーゼはふるふると頭を横に振るが効果はない。
 そのとき、ガタン、と大きく馬車が揺れ、速度が落ち始める。
 ラクスライン公爵邸――正確には王都にある公爵家所有のタウンハウス――に到着したのだ。
 完全に馬車が止まると、扉が開き、手を差し出される。
 そこに立っていたのは馬から下りたルネスだ。手を借りて、ゆっくりと馬車のステップを降りたエリーゼは、エントランスに集まった使用人たちに視線を向けた。
 予想外に早い、というか早すぎるエリーゼの帰りに、出迎えた使用人たちは戸惑いを隠せない。何かあったのかと、みな気遣わしげな視線を向けている。
 その中のひとり、彼らの先頭に立っていた執事長マシューに、エリーゼは声をかけた。

「マシュー、お父さまにお話ししたいことがあるの。お時間を取ってもらえないか聞いてきてくれるかしら? できるだけ早くとお願いしてくれるとうれしいわ」
「かしこまりました」

 それからエリーゼは少し早足で自室に向かう。これから着替えをして、父アリウスの時間が取れ次第、オズワルドとの婚約について相談するつもりだ。

(本当は、部屋に閉じこもって泣きたい気分だけど……)

 なんの前触れもなくオズワルドの本音を知ってしまったエリーゼの動揺は大きく、けれど頭の中の一部はどこか冷静。ぐちゃぐちゃな気分なのに、まずは動けと自分にささやきかけてくる。

(そうよ、まだ泣いてはダメ)

 気を昂らせてはいけない、泣くのは今ではない。父との話を終え、自室に戻ってからよ、とエリーゼは自分に言い聞かせる。
 階段の踊り場で足を止め、気持ちを落ち着かせるように、エリーゼはゆっくりと息を吸って吐く。
 そんなエリーゼの少し後ろを無言で付き従うのはルネスだ。彼もまたエリーゼに合わせ、足を止めている。薄い緑の眼に、心配と気遣いの色を濃く滲ませながら。


 着替えを終える頃に侍女が来た。父アリウスは、エリーゼがマシューに頼んだ伝言を聞いてすぐに時間を作ってくれたようだ。執務室に来るように、との言葉にエリーゼはすっと背筋を伸ばし、気持ちを整える。
 執務室の扉の前に立ち、何回か深呼吸をしてノックをする。中から「入れ」とアリウスの声がした。

「話があると聞いたが」

 執務机の上に積まれた手紙や書類を端に寄せ、顔の前で手を組むアリウスは、紺色の瞳をきらりと光らせエリーゼに話を促す。
 社交シーズン以外は領地にいるアリウスは、王都滞在中は特に忙しく過ごす。議会や夜会や茶会への出席、仕事にまつわる他貴族との会合など、王都ならではの所用で予定は常に満杯だ。
 さらに用事を増やしてしまうことを申し訳ないと思いつつ、エリーゼはソファに腰を下ろし、まず時間を取ってくれたことをアリウスに感謝する。そのあと、すぐに本題――オズワルドとの婚約解消の願いを口にした。

「婚約解消とは……本気か?」

 娘のオズワルドへの恋情をよく知るアリウスは、当然ながらひどく驚き、あごに手を当て、何やら考え始めた。
 訪れた沈黙に、エリーゼは心の中を不安でいっぱいにしながら返答を待つ。
 だがようやく口を開いたアリウスは、意外なことにあっさりとエリーゼの婚約解消の願いを了承した。

「い、いいのですか?」
「いいも何も、エリーゼ、お前が嫌だと言ったんだろう」
「それはそうですけど……」
「もともと、この婚約に絡んだ事業や提携はない。ちょうどケスラーの息子が条件に合っていたから結んだだけの婚約だ。まあ、お前がずいぶんと惚れこんでるから、このまま結婚までいくかと思ってはいたが」

 エリーゼはその言葉に、父はオズワルドの本心を察していたと気づいた。エリーゼがオズワルドを慕っていたからずっと静観していたのだ。

「……婚姻までもう二年もないというのに申し訳ありません」
「ずっと我儘を言わずに頑張っていたお前が嫌だと言ったんだ。それに、オズワルドの態度もアレだったしな。お前がもういいと言うのなら、いいんじゃないか。ケスラーも最初は騒ぐだろうが、当人同士が願っているとわかればうなずくしかないだろう」

 アリウスの言葉を聞いていると、エリーゼは自分の盲愛に恥ずかしさしか感じない。

(私って、本当にオズワルドしか見えていなかったのね……)

 心の中で身もだえするエリーゼをよそに、アリウスは執務机の引き出しから紙を一枚取り出した。

「ちょうどと言ってはなんだが、今は社交シーズンでケスラーたちも王都に来ている。話が決まれば、すぐに手続きに入れるだろう」

 そう言ってゴーガン侯爵家への書状を書き始めたアリウスは、ふと思い出したように、そう言えばと口を開く。

「今日は、若い貴族を主体にした夜会だったな。帰ってきて急に婚約解消を言い出すとは……もしかして、そこで何かあったのか?」

 エリーゼの肩がピクリと揺れる。だが平静を装い、答える。

「……いえ、別にそういう訳ではありません。今になって、やっと現実に気がついただけです」

 前からはアリウスの圧を、背後からはルネスの視線を感じるが、エリーゼは知らぬふりを貫く。
 夜会でのことを報告しようかと思いはしたが、よくよく考えてみればなんの証拠もない話である。
 バルコニー越しに漏れ聞こえた会話、遠目に複数見えた黒い人影。
 顔も確認できていなければ、ほかに誰がいたのかもわからない。
 立ち去る直前にオズワルドという名前だけは聞いたけれど、その『オズワルド』がエリーゼの婚約者のオズワルド・ゴーガンだと証明できるものは何もない。
 たとえそのオズワルドなる人物の声が、エリーゼの知る彼のそれとそっくりだったとしても、確実な証拠として提示できる部分はひとつもないのだ。

(だからこそ、お父さまの説得に時間がかかると覚悟していたのに、こんなにあっさりお許しが出るなんて……)

 アリウスが書き終えた書状を封筒に入れる。あとは送るだけだ。

「この件が無事に片づいたら、お前の新しい婚約者を見つけねばな。心配ない、すぐ見つかるさ」
「……だといいのですけれど」
(私なんかでいいと言ってくれる方など、いるのかしら)

 オズワルドによって数年かけて傷つけられたエリーゼの自尊心は、今日の夜会の出来事で底の底まで落とされた。
 そんなエリーゼが、親の欲目満載の言葉を素直に受け取れるはずもない。
 だが、アリウスはその態度を違うふうに捉えたようで、机の上で組んだ両手にあごを乗せ、ニヤリと笑う。

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