あなたに愛や恋は求めません

灰銀猫

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1巻

1-1

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 貴族の婚姻は家同士の契約。そこに当事者の感情は必要ない。貴族は数多あまたの領民の命を預かる身で、私たちは彼らのために家同士の結びつきを強化し、優秀な子孫を残し、互いの家を繁栄に導かなければならない。それが使命であり、物心つく前から何度も言い聞かせられる貴族の基本中の基本。だから……

「私を、あなた様の妻にしてください」

 深緑色で整えられた豪奢ごうしゃながら落ち着いた執務室。しがない伯爵家の娘でしかない私が会うことが出来る最上の地位にいる目の前の御方おかたにそう願う。私の尊厳と矜持きょうじを守るために、私が貴族として私らしく生きるために。

「貴族の結婚に恋情は不要ですが、信頼関係を築く努力は必要だと思います」

 一時的な恋情に振り回されて貴族としての務めをないがしろにするなんて馬鹿げているわ。長く続く人生、そんな危ういものにすがるよりも信頼関係を築いた方がずっと利の多い人生が送れるはず。そして、この方とならそれが出来ると思った。
 それは現状をくつがえす方法を考えた末に私が希望を託した道。無礼は重々承知の上、これで不興を買っても後悔なんかしないわ。私が私らしく生きるために、これからの人生をあなどられずに送れるように、尊厳ある未来をこの手で取り戻すために。かすみのようなはかない期待を胸に抱いて私は相手の言葉を待った。


    ◆ ◆ ◆


「ハリマン様、愛しているわ」
「フィリーネ……私も愛している。ああ、隠れて会うしか出来ないなんて……」

 婚約者が急に訪ねてきたので駆けつけ、扉を叩こうとしたところに聞こえてきたのは甘く溶け切った睦言むつごと。それだけで中で誰が何をしているのか容易に察せられた。どういうことかしら、私が来るとわかっているのにこの有様。盛りのついた獣だって時と場所を選ぶでしょうに。失望よりも呆れが心を占める。ため息が出そうになるのをなんとかこらえ、一呼吸おいて側に立つ私付きの侍女のロッテを見ると彼女も眉をひそめていた。小さく頷いてそっと扉から離れた。

「ロッテ、私はお父様を呼びに行くから、あなたはお母様を呼んできてくれる?」

 応接室に声が届かない場所まで離れた私はロッテに小声で頼んだ。

「かしこまりました」
「今日は……ベルツ伯爵夫人がいらしていたわよね」
「はい。レデナー伯爵夫人もご一緒です」
「ちょうどいいわ。お二人は顔が広くてうわさ好きな方だから」

 母はお茶会の真っ最中のはず。両親にしらを切らせないためにも部外者がいるのは好都合。この機を逃すまいと足早に父の執務室に向かった。


 私はイルーゼ。このガウス伯爵家の次女で、先ほどの逢瀬おうせの片割れは私の一つ上の姉のフィリーネだ。母譲りの色の濃い金の髪に澄み渡った空のような青く大きな目、そしてほんのりと色付くつややかな唇を持ち、背が低く華奢きゃしゃな彼女は今社交界で人気のある小柄で守ってあげたくなる雰囲気を持つ令嬢の一人。愛らしいドレスをまとい朗らかに笑い踊る彼女は社交界の人気者だった。
 一方の私は、色が抜けたような白っぽい金髪とぼんやりした淡い水色の瞳。色だけなら可憐な姿を想像出来るけれど、女性としては背が高い上に父に似てきつめの顔立ちは世間で人気の可憐な令嬢たちとは正反対。性格も残念ながら可憐とは程遠く、言いたいことをはっきり言うせいで可愛げがないとも。世間では本当に姉妹なのかとか、可愛げを姉に全て持っていかれたのだと言われているくらい私と姉は似ていなかった。唯一恵まれたのは女性らしい凹凸おつとつのある身体付きだけど、年よりも上に見える顔立ちと相まって婀娜あだっぽく見え、一部では身持ちが悪いとうわさされている。
 逢瀬おうせのもう片方は私の婚約者でもあるハリマン=シリングス様。私よりも二つ上の公爵令息で、つややかで腰まで届きそうな銀髪と王族に伝わる神秘的な薄紫の瞳、優美で女性的な外見は令嬢たちの憧憬どうけいの的。男性としては背が低めだからドレスを着せたら私よりも似合いそうな線の細い美青年だ。そんな彼と婚約してから私は令嬢たちから陰口や嫌みを言われるというまったく嬉しくない状況に追いやられたけれど、それをたしなめることも守ってくれることもしない、私から見たら残念な人である。
 彼らが私の目を盗んで会っているのは知っていた。ハリマン様とは二年前に婚約したものの、初めて会った時から彼は姉ばかりを見ていたし、姉もハリマン様を気にしていた。一年ほど前からは私に隠れて会っていることも、頻繁ひんぱんに姉に贈り物をしていることも知っている。
 それでもハリマン様は一応婚約者としての務めを果たしていた。私の誕生日には贈り物を届け、夜会や茶会ではエスコートし、定期的な交流にもちゃんと顔を出す。その前後に姉と会っていたとしても、彼は婚約者としての義務は果たしている。だから私は何も言わなかったし言えなかった。
 でも、そんな二人があからさまにむつみ合っているのは看過出来ないわ。まだ一線を越えていなくてもそれと疑われる行為を認められるはずもない。子孫繁栄は貴族の大事な役目だけど、種をあちこちにばらまくことは許されないわ。たった一度の過ちが大きな禍根かこんや激しい相続争いに繋がるから。それに姉にだって婚約者がいるのだ。我が家よりも家格が上で強い力を持つ家の令息が。このまま関係が深まって純潔を散らしてしまったらとんでもない醜聞しゅうぶんになる。

「お父様、イルーゼです。少しよろしいでしょうか?」

 重厚で細かい装飾が施された扉を叩くと、しばらくして扉が開いた。出てきたのは家令のバナンだった。白が交じるこげ茶の頭を下げると扉を押さえて私を中へと促してくれた。この部屋に入るのは気が重いわ、いつだって歓迎されないから。部屋の主は部屋の中央に置かれた重々しい執務机に向かい書類に目を通していた。私が机の前まで来ても書類から目を離さないのはいつものこと。父娘おやこだと感じるのは同じ髪色ときつめの顔立ちだけ、親愛の情はずっと一方通行だった。

「どうした?」

 父がわずらわしそうな声で尋ねてきた。兄や姉にはそんな声をかけることはないのに。でも、これもいつものことだからもう気にしなくなったわ。それよりも今は姉たちのことだ。

「お姉様のことで、少しお時間をください」
「フィリーネの?」

 姉を溺愛している父はその名を耳にしてやっと薄茶の瞳を私に向けた。あからさますぎて笑いそうになる。それくらい悟られないように出来ないのかしら。

「はい。詳しいことは後ほど。今は私と一緒に一階の応接室に来ていただけませんか?」
「応接室に? 誰か来ているのか?」
「はい。大切なお客様です」

 父がバナンの方を見ると彼は静かに首を横に振った。応接室を使っていると知らなかったらしい。ハリマン様は先触れもなく突然やってきたし、バナンは父の側にいたから気付かなかったのね。

「わかった」
「ありがとうございます」

 父が立ち上がった。断られたらどうしようかと心配だったけれど、姉の名を出したお陰ですぐに反応してくれた。私は二人の後ろを歩きながら、ようやくうれいの一つが消える予感に胸を熱くさせた。そうなったところでまた新しい問題が生じるけれど、それは後で考えればいい。少なくとも今はこの状況をなんとか変えたかった。

「きゃぁああああっ!!」
「ええっ!?」
「フィリーネ!?」

 数歩先の角を曲がれば応接室というところで女性の甲高い悲鳴がいくつか上がった。どうやらロッテがちゃんと役目を果たしてくれたみたいね。

「フィリーネ!?」
「な、何事でございますか!?」

 前を歩く父とバナンが慌てて駆け出すのを見て私も小走りで追った。数歩遅れて廊下の角を曲がると母と夫人二人が扉の前で立ちすくみ、その後ろからバナンが室内を呆然と見つめていた。父の姿は見えないわね。夫人らの後ろにはロッテが立ち、私の姿を認めると小さく頷いてくれた。私が望んでいた展開になったわ。

「ハリマン殿!! 何をしているのだ!?」
「フィ、フィリーネ!! これはどういうこと!?」
「あ、あのっ……これは……」
「いやぁっ!!」

 応接室に怒号と悲鳴が響いた。部屋を覗き込んだ私が見たのは、だらしなくドレスをはだけさせた姉と、目と口を見開いたまま固まっているハリマン様が抱き合う姿、そして両手を握りしめて身体を震わせる父の後ろ姿だった。きっとその顔は憤怒で赤くなっているのでしょうね。母は私の横で顔を青褪あおざめさせて今にも倒れそうだし、母の友人たちはその向こうでオロオロと居心地悪そうに、でも好奇心で目を輝かせて中を覗き込んでいる。

「ハリマン様……お姉様も。これは……どういうことでしょうか?」

 私は呆然とした表情を浮かべて、声を震わせた。

「イ、イルーゼ、これは……」
「あ、あの……」

 二人はソファに座り抱き合ったまま私たちを見上げていた。慌てているせいか姉は胸元を直すことすら失念している。父は怒りに顔を赤くしていたけれど、相手は溺愛している娘と王弟の一人息子だから何も言えないのだろう。持てる伝手つてを全て使って姉の婚約を整えたのに、当の愛娘がそれを反故ほごにしたのだから怒るに怒れないのかもしれない。
 部屋の入口にいる客人は思いがけない状況にどうなることかと固唾かたずを飲んで見守っているのに、母はそれに気付いていない。バナンですらそのことに気付かないなんて家令失格ね。私には好都合だけど。

「お姉様、ハリマン様、やはりお二人は想い合っていらっしゃったのですね」
「ま、待って……」
「いや、これは……その……」

 これだけの目撃者の前でまだしらを切れると思っているのかしら。何度もいさめ、そのたびに何もないと決して認めなかった二人。でもこれまでよ。

「イルーゼ?  どういうことだ?」

 父が少し冷静になったらしい。険しい目を私に向けている。

「どうとおっしゃられても、以前から申し上げている通りですわ。お姉様はハリマン様と想い合っていると。お二人のためにもハリマン様との婚約はお姉様にと、何度も申し上げたではありませんか。家同士の婚約なら相手が交代しても問題はありません。年齢的にもその方が妥当ですし」

 そう、家同士の婚約だから姉妹のどちらでもいいし、ハリマン様は私の二つ上で姉は一つ上、姉の婚約者は私と同じ年。年齢から言えば姉の方がハリマン様に合っている。姉は自分が婚約者より年上であることを気にしていたし、相手もそうかもしれない。それに姉と婚約者の関係は決していいものではないから代わっても問題はないはずよ。

「だが……」
「お父様、お姉様とハリマン様が想いを確かめ合っているのは今回が初めてではありませんわ」
「な!」
「イルーゼっ!!」

 父は驚きで、姉は焦りから声を上げたけれど……声を荒らげるなんて肯定しているも同然よね。

「私、これまでも何度か、お二人が抱き合っているのを見ていますから」
「……っ!」
「……本当か?」
「ええ。こんな時に冗談など言いませんわ。そうですわね……庭のにれの木陰やバラの生け垣の側の四阿あずまや、あと誰も使っていないはずの客間からお二人の声が聞こえたこともありましたわ」

 私が言葉を重ねるごとに姉とハリマン様は顔を青褪あおざめさせ、父は赤くなった。上手く隠しているつもりだったでしょうけど、まったく隠せていなかったわよ。

「だ、旦那様……」

 ここでようやく冷静になったバナンが恐る恐る父に声をかけた。バナンの視線は入口にいる二人の婦人に向けられていた。その視線に気付いた父が驚愕きょうがくの表情を一瞬だけ浮かべた。ああ、やっとお客様の存在を思い出したのね。

「こっ、これはレデナー伯爵夫人とベルツ伯爵夫人、せっかくいらしてくださったのにとんだ場面をお見せしてしまいましたな。オ、オリンダ、お客様をおもてなしせねば……!」
「そ、そうでしたわね。お二方、元のお部屋に戻りましょう」

 った表情の合間に父が険しい目を母に向けた。父に促された母は無理やり作り笑みを浮かべるとお客様を伴って部屋を出ていった。途端に安堵の空気が流れたけれど、それも一瞬だけのこと。いくら口止めしてもきっと世間に流れていくわ。

「フィリーネ、服を直して部屋に戻りなさい」

 眉間にしわを深く刻みながらも父は感情を抑えてそう言った。姉に強く言えないのは昔からだ。

「お、お父様……私……」
「ああ、大丈夫だ。私に任せなさい」
「はい、お父様。ごめんなさい……」

 目を潤ませた姉は父の言葉にホッと表情をやわらげ、駆けつけた侍女に伴われて部屋を出ていった。予想通り私に謝罪の言葉はなかった。

「ハリマン殿、少しお話をお聞きしてもよろしいかな?」
「は、はい……」

 両手を握り膝の上に置いたハリマン様は俯きながらそう答えた。

「イルーゼも部屋に戻れ。このことは決して口外しないように」
「でも、お父様……」
「悪いようにはせん」

 心細そうな、今にも泣きそうな声で父を呼んだけれど返ってきたのはそれだけだった。最後に呼んだのが私なのは、ただ単に父の優先順位がそうだから。

「わかりました」

 頭を下げてから部屋を出た。ロッテがすぐに側に来てくれてそれだけで少し気が楽になる。それにしても、もっと際どい真似をしているかと思っていたけれど大したことなかったわね。でも証拠としては十分。このまま婚約を続けることは出来ないわ。
 部屋に戻るとロッテがお茶をれてくれた。彼女はお茶をれるのがとても上手で、今も琥珀色こはくいろの液体が湯気と共に私好みの優しい香りを立てていた。窓から見える景色は青空に浮かぶ白い雲。長々と悩まされた懸案が一つ動き出した今はその対比が一際美しく見えて心が躍った。

「ありがとう、ロッテ。思った以上に上手くいったわ」

 お礼を言うとロッテは薄茶色の目を伏せて茶の頭を下げた。口数も表情の変化も少ない彼女だけど、とても頼りになって実の姉よりも姉のような存在。実家の男爵家が没落して我が家で侍女として働き始めたのは四年前。最初は年が近いからと姉付きになったけれど、始終チヤホヤされたい姉は愛想がないと言って彼女を私に押し付けてきた。
 でも彼女はとても有能で機転が利いて、お茶をれるのも上手い。私はいい侍女を手に入れたと思う。これだけは姉に感謝してもいいわね。

「お父様はどうなさるかしら。私とハリマン様の婚約を白紙に戻してくれるといいのだけど……」

 私が望むのはハリマン様との婚約の解消。姉ばかりを熱く見つめるハリマン様には爪の先ほどの情もないし、姉への恋情を隠すことも出来ないなんて愚かしいとしか思えない。婚約者の姉と逢瀬おうせを繰り返す倫理観のなさも気持ちが悪いわ。

「旦那様も奥様もフィリーネお嬢様には甘くていらっしゃいます。フィリーネお嬢様がシリングス公爵令息様をお望みになれば、お嬢様の望む通りになるかと」
「そうなってほしいわ。せっかくの今日という機会、二度はないもの」

 ハリマン様が前触れもなく訪ねてくるのはわざとだと知っていた。私が支度をしている間、姉が話し相手をするふりをして逢瀬おうせを楽しんでいたのよ。卒業すれば私たちは婚姻する。この家で逢瀬おうせが出来るのはあと少しだから、禁断の想いに期間限定というスパイスも加わって二人は一層盛り上がっているように見えた。
 父に婚約者の交換を認めさせるには証拠が必要。だから両親が家にいる日を待っていた。そして今日、ハリマン様は我が家にやってきたわ。これまでは着替えにわざと時間をかけて応接間に向かっていたけれど、今日は着替えをせずに二人の元に向かったのだ。そのために油断し切り抱擁ほうようし合っていた二人をはっきりと両親に見せられたわ。

「お父様たち、どんな会話をなさっているのかしら? 気になるわ。覗きに行けたらいいのに」
「悪趣味ですよ」
「ふふ、ついでに性格が悪いのも自覚しているわ」

 笑みを浮かべてロッテを見ると、彼女は茶の眉をほんの少しひそめた。

「お嬢様の性格は悪くありません。本当に性格が悪いのはフィリーネお嬢様のような方です」
「まぁ、社交界の花をそんな風に言うと殿方に睨まれてしまうわよ」
「そんな見る目のない殿方など、気にかける価値もありません」

 ロッテは辛辣しんらつだけど私が欲しい言葉をくれる。でも私は本当に性格が悪いわ。そこは自覚している。普通の令嬢ならこんな機会を利用しようなんて思わないもの。

「これを機に婚約が解消になってほしいわ。いくら一線を越えていないとはいっても密室で二人きりで抱き合っていたのだもの。しかもドレスまではだけさせて」

 家族以外の男性と二人きりになるだけで不貞だと婚約破棄されることもあるのが貴族社会。せめて侍女の一人でも付けておくべきだったのに。

「ベルツ伯爵夫人とレデナー伯爵夫人にまで見られてしまったから隠し切れないわね」
「はい。あのお二人はうわさ好きで有名です。口止めしてもどれほど効果があるか……」

 ないわね。あのお二人が黙っているなんて無理でしょうから。

「でも、よろしいのですか、お嬢様。婚約が白紙になればお嬢様の評判も……」

 ロッテが私を心配して表情をくもらせた。その気持ちが嬉しい。

「私、ハリマン様との婚約さえなくなればいいのよ」
「ですが……」
「このまま結婚したらお姉様は私が心配だと言って公爵家を訪ねてくるわ。とつぎ先で夫が姉ときなんてそんな醜聞しゅうぶんはごめんよ。それにハリマン様、お姉様こそ真実の愛だとか言って私には白い結婚を求めるかもしれないし」

 ハリマン様の何が嫌って、あの自分に酔っているところなのよね。自分は美男子だとわかってやっている仕草の一つ一つもわざとらしくてしゃくに障るし、褒めないと機嫌が悪くなるのも私の心をどこまでも冷やしてくる。今だって姉への恋情を隠しもしない。そんな男性と一生を共にするなんて……想像しただけで絶望しかないわ。

「確かにシリングス公爵令息はそんな方ですが……でもお嬢様、物語の読みすぎでは?」
「そんなことないわよ。ハリマン様ならお姉様にみさおを捧げるとか言いそうじゃない?」
「それは……」

 ほら、ロッテも否定出来ないわ。そんな気持ち悪い男性、こちらから願い下げよ。今だってエスコートで手が触れるのすら気持ち悪いと思ってしまうのだから。

「これで上手くいってくれるといいのだけど……」

 唯一の懸念があるとすれば、姉の野心的なところかしら。姉の婚約者とハリマン様では家格の上で大きな差があるから。
 姉の婚約者はゾルガー侯爵家の跡取りのフレディ様。茶色がかった黒髪と新緑色の瞳を持ち、背が高くがっしりした体格でハリマン様と対照的な外見の持ち主。無口で社交界にもあまり出ず、姉のエスコートも必要最低限で婚約者としての義務を十分に果たしているとは言い難いのだけど、それに抗議出来る力は我が家にはなかった。
 というのもゾルガー侯爵家は我が国の貴族をまとめる五侯爵家と呼ばれる五家の中の筆頭、貴族の頂点に立つ家なのだ。豊潤な資産と王家をも動かす権力を持ち、王ですらその動向を常に気にかけると言われているわ。王を支えると共に諫言かんげん出来る立場でもあり、百年ほど前には悪逆非道を重ねた王をげ替えたこともある。
 今の当主はフレディ様の叔父で、名をヴォルフ様とおっしゃる。狼の名を持つこの方とは何度かお会いしたけれど、眼光鋭くいつ見ても怒っているようにしか見えなかった。最低限のことしかお話しにならず、気難しそうな印象が強い。うわさでは国王陛下すら尊大な物言いで糾弾きゅうだんされるとか。真っ黒な髪と鮮やかな緑の瞳は百年前に我が国を恐怖におとしいれた悪虐王と同じで、の王の生まれ変わりだという人もいる。世間一般の評価は冷徹で無慈悲、人の心を持たないとの声もある。しがない伯爵家の我が家が物申すなどとんでもない話だ。姉が婚約者に選ばれたのはゾルガー家が新たにワイン事業に乗り出すため、我が家との技術提携を望まれたから。完全な政略結婚だった。
 一方のシリングス公爵家はあまり力がない。我が国では公爵家がむやみに増えるのを防ぐため公爵位は臣籍降下した王子一代限りと決められていて、子の代には侯爵家、孫の代以降は伯爵家へと降爵される。代々治める領地や産業を持つ他の貴族家と違って、王子の個人資産と王家からの下賜金を元に新たに家をおこす公爵家は、才覚がないと先細りしてしまう。

「ベルツ伯爵夫人とレデナー伯爵夫人を巻き込んだけど……足りなかったかしら」
「まさか? 普通はそれで十分でございますよ」
「そうよね。でもあのお二人はお母様とお親しいから……」

 クッションを抱きしめる腕に力が入った。普通ならあれで十分だけど、この家では姉の言うことが優先されてしまう。姉が泣きついたら両親は必死にお二人の口止めに走るかもしれない。

「もっと、慎重に見極めるべきだったかしら。卒業が近いからと焦ってしまったわね」

 思ったほど際どいことはしていなかったのも残念だったわ。今更ながらに詰めが甘かったかと不安が込み上げてきた。さっきまでの晴れ晴れとした気持ちに灰色の厚い雲が広がっていく。

「はぁ……いっそゾルガー侯爵家から婚約を破棄してくださらないかしら。そうしたらお姉様はハリマン様を選ぶしかなくなるのに」

 あちらだって貞操観念の緩い相手との婚姻など言語道断のはずよ。

「でも、それではイルーゼ様の婚約が……イルーゼ様にはなんの瑕疵かしもありませんのに」
「ハリマン様とお姉様にあなどられて一生を終える方がごめんだわ。それくらいなら結婚相手の年が離れていようが見た目が美しくなかろうが、そっちの方がずっといいもの」

 見た目のせいで可愛げがないだの男好きだのと言われているけれど、姉のようにあちこちの令息と必要以上に親しくなりたいなんて思わないわ。相手の年齢や美醜よりも貴族としての価値観を持つかを重視したい。

「イルーゼ様、何があっても私はイルーゼ様の味方です」

 ロッテがそう言ってくれたお陰で少しだけ気が楽になったけれど、嫌な予感をぬぐい去ることは出来そうになかった。


    ◆ ◆ ◆


 父に呼ばれたのは夕食前だった。外はゆるゆると空がオレンジ色に染まり始め、夜の近付きを感じさせる。バナンに先導されて父の執務室に入ると既に母と姉が執務室の一角にある二人掛けのソファに座っていた。その向かい側の一人掛けのソファには父が座っている。父が目で右側にあるソファを示したので腰を下ろした。姉はハンカチを目元に当てて泣いている様子に見えた。でも頬もハンカチも濡れているようには見えないわ。お得意の泣き真似かしら。

「イルーゼ、どういうつもりだ?」

 不機嫌さを隠しもせず、眉間にしわを寄せて父がそう問うてきた。どうして私が責められるのかしら。

「どういうつもりとは、どういう意味でしょうか?」
「わざわざベルツ夫人とレデナー夫人まで呼ぶ必要はなかっただろう?」

 ああ、あのお二人の対応に手を焼いているのね。うわさ話が生き甲斐がいのような方ですものね、母もその一人だけど。自分がうわさされる側に回った気分はどんなものかしら。

「お呼びしてなどおりませんわ。私はロッテに、応接室にいるお客様をお母様はご存じですかと、そう伺うようにお願いしただけですもの」
「何故そんなことを言った? お前があんなことを言わなければオリンダも夫人らを連れて応接室に向かわなかったのだ」

 なるほど、母があの二人を連れていったのは私のせいだと言いたいのね。でもそれは無理があるわ。

「私はハリマン様が来ていらっしゃると伺って応接室に向かいました。ですが扉越しに聞こえてきたのは熱烈に愛を交わし合う言葉でした。私の婚約者であるハリマン様がそんなことをするはずがありません。ですから私は確認のためお母様にお尋ねしたのです。家政はお母様の役目ですから」

 私がそう答えると父は母に厳しい視線を向け、母は顔を強張らせて口を引き結んだ。姉は相変わらずハンカチを目元に当てているので表情がはっきりしない。姉がハリマン様に会いに行かなければ、もしくは百歩譲って挨拶だけで終わらせていたらなんの問題もなかったのにね。

「それにハリマン様もどうかと思いますわ。最近は先触れもなくいらっしゃるんですもの」
「何?」
「最近はずっとそうですわ。いくら公爵家の方とはいえ、基本的な礼儀は守ってくださらないと困ります。私にだって予定がありますから」

 もうすぐ卒業だけど暇なわけではない。シリングス公爵家の夫人教育もあるし、卒業後を見据えた人脈作りも最終段階で、お茶会の誘いも多いのだ。

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