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1巻
1-1
しおりを挟むやっとアルバイトを終えた俺は、肌に張り付くTシャツを鬱陶しく思いながら、眩しい空を見上げた。早く家に帰らなければ、身体が溶けて地面と同化しそうだ。
近所の学校に通う大学一年生の俺、伊賀崎火澄は、アスファルトの熱で歪む先にある家を見ながら、顎先に流れた汗を拭った。
熱波が襲う夏の外から無事にオアシスである家に帰還した俺は、冷房が効いているはずのリビングに直行する。早くソファにだらしなく座って、ガチガチに冷えたアイスに齧りつきたい。あの水色の氷の板が食べたい。
暑さにやられた気怠い身体をゾンビのように引きずって、廊下の先にある扉を開けた、その時だった。
「お兄ちゃん……」
三歳離れた妹が、ソファに座って深刻な顔をしている。目にはうっすらと涙の膜が張って、今にも零れそうだ。いつもの元気で小憎らしい妹とは違う様子に、俺は驚いてソファに駆け寄った。
「おい、どうした?」
妹は俺が声をかけると同時に、目元を歪めながらうぅっと呻いた。胸元まである髪もぐちゃぐちゃに乱れている。
「……このゲーム、難し過ぎてスチル全然回収できないっ!」
妹が高らかに叫んだ言葉に、俺はふっと遠い目をした。一瞬にして現実逃避できるのは、妹と長く暮らして身に付けた特技だ。
声をかける前に、妹の手元と、目の前にあるテレビ画面を確認すべきだった。
妹が手に持っているのは、ゲーム機のコントローラー。
テレビの大画面には、イケメンたちのご尊顔がこれでもかと映し出されている。
「なんだ、ゲームのことか」
呆れた声を零しながら、妹は本当に、乙女ゲームが好きなのだからとため息が出た。
両親が共働きで不在がちのため、親代わりに家事をする俺に、妹はとても懐いてくれている。妹の趣味であるゲームの話も、日頃からよく聞いていた。
妹は生粋のゲーマーである。ゲームジャンルは、恋愛シミュレーションゲームが多い。獣人や宇宙人、現代にファンタジー、BLなんかも、なんでもござれ。
そう、妹は立派な腐女子様でもあるのだ。
BがLしている肌色多めな本を兄に勧めてくる妹に、お兄ちゃんはとても悩んだ。俺が若干引いたら、今度は肌色が少なめな健全なBLを手渡されて、手元が震えたよ。
そんなにあっけらかんと兄に趣味を晒しているのは、どうかと思う。
そして、今日も今日とて、妹の趣味に付き合う俺である。声をかけなければよかったと後悔しても遅い。
思考の海に自主的に逃避している俺をよそに、妹はどしんっと足音を立てながら、俺の目の前にやって来た。
手には可愛い女の子を中心に、イケメンが何人もゴリ押しで描かれているゲームのパッケージが見える。チェリーブラウンの髪をした可愛い女の子と目が合った。
「……」
無言で近づいてくる妹の影に、嫌な予感がする。
俺は、妹から何気なく距離を取るように後退った。距離を取ろうとする俺に対して、妹はじりっと追いつめるように近づき、静かな攻防戦が始まる。
二人とも身体の重心を下げて、微妙に距離を取り向かい合う姿は、さながら兄妹で真剣にカバディをしているように見えるかもしれない。
なんで、自宅でこんなことをしなきゃいけないんだ。
リビングに、変な緊張感が漂う。
息を詰まらせながら前方を警戒しつつ後退していた俺は、背後への注意を怠った。後ろにあったソファに足をぶつけ、勢いよく尻もちをついてしまったのだ。
妹は、しめたとばかりに、可愛いはずの顔に意地の悪い笑みを浮かべる。さらに逃げられないようにと、ひじ掛けに手をついて俺を囲い込んだ。
妹よ、お兄ちゃんはお前が怖いよ。
「……お兄ちゃん、お願いがあるの」
母親譲りの可愛い顔をしながら、俺に真剣な声でお願いがあるという妹。
嫌だ。絶対に良くないことだ。
何よりも、その手元にあるゲームが物語っている。
「私の代わりに、このゲームでスチル全回収して!」
妹の叫び声が、自宅の平和で静寂なリビングにこだました。
とりあえず妹の囲い込みから逃れた俺は、アイスに齧りつきながら問いかけた。
「このゲーム、クリア済みじゃなかったか? ハーレムエンドも回収したって言ってたよな?」
やっと、待望の冷たい氷板にありつける。妹もバニラアイスをすくったスプーンを口に突っ込んでいるが、甘いアイスと違って表情は苦々しい。
妹が手にしていた乙女ゲームは、『聖女と紋章の騎士』。
三百年に一度、魔王が復活して国が混沌に陥るという、ファンタジーの異世界が舞台だ。魔王が蘇る時、必ず『英傑』と呼ばれる者たちが現れる。魔王を討伐する役割を担う、選ばれし者たちだ。
英傑たちの特徴は、身体の一部に紋章が現れること。この英傑たちこそが、ヒロインの攻略対象者である。
対する主人公は、平民の少女。
主人公はある日、聖女の特殊能力とされている幻の魔法、聖魔法を発現する。さらに身体の一部に紋章が現れ、英傑たちが集う国立学園へ入学させられるのだ。
平民なのに高位クラスに入学した主人公は、周囲の嫉妬でいじめに遭い、様々な困難に巻き込まれる。英傑たちと愛を育みながら、それらにたくましく立ち向かっていくのだ。
さらに、英傑と聖女は魔王討伐にも参加する。魔王を倒して、世界は無事平和を取り戻す。
これが、大筋の『聖女と紋章の騎士』の流れだった。
妹はこの乙女ゲームに夢中になり、この間ゲームをクリアした嬉しさで感涙していた。堂々とこの広いリビングで、大画面のテレビの前で。
「そう、隠し攻略対象者も全部クリアしたんだけどね。実はゲームを全部クリアすると、ボーナスステージが遊べるの」
それは純粋にすごい。妹曰く、ゲームをクリアした人へのご褒美的なものらしいが、その分ハードモードに設定されているそうだ。
「でも、戦闘パートが難し過ぎて進めないの! お兄ちゃん、戦闘とか戦略とか、そういうゲーム得意でしょ?」
「まあ、確かに得意ではあるけど……」
俺はRPGとかガンアクションとか、戦闘要素が多いゲームをしているから、妹よりは慣れていると思う。そう答えた俺に、妹は期待の籠った目を向けた。
「お兄ちゃん、全スチルを回収するの手伝って! 人助けだと思って! ねっ?」
胸の前で両手を握って祈るようなポーズをした妹が、上目遣いでお願いしてくる。俺はどうしたものかと考えながら、何気なく乙女ゲームのパッケージを裏返した。
キラキラで目に眩しく、ゆめかわなデザインに、大きく書かれた見出し文字はこうだった。
『新感覚☆ 女の子も男の子も楽しめる乙女ゲームがここに爆誕!』
最近のゲーム業界は、新規ユーザー層の確保に積極的なんだろう。本格的な戦闘の要素を取り入れて、男の子でも楽しめるようにしているのか。確かに、乙女ゲームをプレイする男子もいると聞いたことがあるし、純粋に感心してしまった。
しかし、感心したからといって、当然ただとは言わせない。
「……見返りは?」
こっちは大学生の貴重な夏休みを捧げようとしているのだ。一緒に遊んでくれる彼女は、残念なことにいないけれど。
ちなみに大学の友人たちは彼女持ちで、夏休み中はその彼女と旅行に行って忙しいらしい。
数少ない俺と同じ寂しい境遇の友人は、実家に帰省中だ。遊ぶ約束はしているが、一週間はこちらに帰ってこない。花のキャンパスライフなのに……と、内心で涙が滲んだ。
妹は俺の見返りを要求する発言を聞いても、ニヤリと余裕の笑みを絶やさない。
「ポム・フルールの期間限定チョコレートパフェ!」
俺の身体が分かりやすく跳ねた。妹は俺の様子を見て、『どうだ!』 とばかりに胸を張っている。
ポム・フルールとは果物をこれでもかと使ったパフェが有名な、可愛い喫茶店だ。あそこのお店は女子ばっかりで、男子だけでは入りにくい。
友達は甘いものが好きではないし、妹が一緒に来てくれるなら付き添いという体で気兼ねなく楽しめる。しかも、限定のチョコレートパフェ。俺がチェックしていたことを、なぜ妹が知っている。
これはもうお手上げだった。
「乗った」
「やった! ありがとう、お兄ちゃん!」
そう言うや否や、妹は嬉々として凶器になりそうな分厚い攻略本を渡してきた。母譲りの可愛らしい笑顔に、俺はしょうがないなぁとため息をついたのだった。
妹も、これから部活の遠征があって忙しいだろうしな。俺も大概、妹には甘い。
それに、ゲーム自体は好きだし、夏休みはアルバイト以外に予定がない。課題も早々に終えてしまったから、暇を持て余していた。いい暇つぶしになるだろう。
喜んでソファの上を跳び跳ねながら、万歳をしている妹の姿を見てクスッと笑う。お転婆なのは本当に昔から変わらない。
俺は残るアイスに齧りつきながら、そんな和やかな夏の午後に浸っていた。
俺はこの時、知る由もなかったのだ。
『新感覚☆ 女の子も男の子も楽しめる乙女ゲームがここに爆誕!』の本当の意味を。
あれから妹は、乙女ゲームを俺に託して部活の遠征へと旅立っていった。高校生は受験勉強に部活にと、何かと忙しい。そして、父は海外に単身赴任中。母は夏期休暇を利用して父に会いに行っている。
つまり、今から自宅には、俺一人ということになる。
こんなにもゲームに適した環境があるだろうか。
自室で家庭用の小さなゲーム機の電源を起動する。滑らかな旋律が流れ出すとともに、画面にはチェリーブラウンの髪を風に靡かせる女の子、そして、その子を中心としてイケメンの顔が次々と映し出される。
妹に託された乙女ゲーム『聖女と紋章の騎士』のオープニングが始まった。
花びらが風に流れ、いかにも乙女ゲームぽい演出が入ると、画面には『Aパート』『Bパート』の二つの選択肢が表示される。
俺は迷わず『Bパート』を選んでゲームを進めた。
「へえ、主人公の絵が本当に出てこないんだな」
ゲームを進めていくうちに気が付いたのは、主人公の立ち絵が全く出てこないということ。
キャラクター同士の会話にさえ姿が出てこないあたり、とても徹底している。きっと、プレイヤーが感情移入をしやすくするためだろう。
作り込み具合に感心しながらゲームを進めていった俺は、妹が苦戦しているという戦闘パートに取りかかった。そこで、俺は見事にこのゲームにハマった。
なんだこれは、めちゃくちゃ凝ってる。
武器のカスタマイズは何百通りもあるし、装備自体もデザインがカッコイイ。ダンジョンの背景はすごく綺麗だ。戦闘シーンの音楽に至っては、重低音と爽快感を彩る旋律が絶妙にマッチして、もはや神レベル。
これは、本当に乙女ゲームなのか?
その辺に転がっているRPGよりも力が入っている。
ストーリーとは関係なく、戦闘だけ楽しめるのもよかった。魔物も中々に強いから、攻略本を片手に弱点を確認した。武器も魔法属性との相性によって、攻撃力が上がったり、特殊効果が加わったりする。ある程度魔法についても知識が必要とされるみたいだ。
敵を切るだけじゃない面白さが、なんともゲーム好きには堪らない。
さすが、『新感覚☆ 女の子も男の子も楽しめる乙女ゲーム爆誕!』と謳っているだけのことはある。男子も十分に楽しめる。
俺は戦闘パートばかりに夢中になり、ストーリー攻略はそっちのけになっていた。
スチルの一つも回収できていないし、胸キュンなシーンも一つも見ていない。妹に文句を言われそうな気がするけど、まあいいや、と半ば投げやりになった。
「主人公のレベルを上げておけば、ストーリーも攻略しやすくなるだろうし。……最悪、主人公を最強にしておいて、ストーリーだけ攻略してもらえばいいんじゃ……」
うん。もう、そうしよう。
大学の友人が帰ってくるまでの期間、俺は主人公を着々と強くしていったのだった。
そうして、アルバイト以外の全てを、妹に頼まれたゲームに費やした夏休み。
遠方の実家に帰省していた友人から、『帰ってきたから、遊ばないか?』と連絡がきた。
俺自身、ゲームに入れ込み過ぎていた自覚もあったし、久々に友人に会って大学生らしい遊びがしたかった。
俺が二つ返事で了承すると、どうせなら家に泊まらないかと友人が誘ってくれた。
『俺の料理が目当てか?』とメッセージアプリで聞き返せば、『バレた!』という言葉と、てへっと笑う柴犬のスタンプで返事をされた。どことなく友人に似ている柴犬のスタンプに小さく笑い、荷物をまとめて自宅を出た。
友人の家に向かう途中で、何が食べたいか聞いたり、食材を多めに買い込んだりしていたら、思いのほか時間が経っていた。
「すっかり遅くなっちゃったな……」
両手にビニール袋を下げて、街灯が点灯した歩道を歩く。辺りは夜の気配が近づいてきている。足早に家路に着く人たちと一緒に、俺も住宅街を進む。友人の住んでいるアパートまで、あと数十メートルというところだった。
突然、自分を呼ぶ声が聞こえた。
「……ねえ、伊賀崎君。これからどこに行くの?」
後ろから聞こえた女性の声に、俺は驚いて振り返った。薄暗がりの中で、髪の長い女性がこちらをじっと見据えている。その顔に覚えがあって、俺は軽く目を瞠った。
確か、今から会う友人と親しい、女友達ではなかっただろうか。
大学で友人と歩いている姿を、何度か見かけたことがある。でも、以前見た時とは、明らかに様子が違うのだ。
可愛らしい雰囲気だったはずのその女性は、どこか疲れ切った様子だった。なんとなくだが、目の奥が暗いし、いつも綺麗にしているセミロングの髪もかきむしったように乱れている。
薄暗い街灯が、ドロリとした異様な暗さを帯びている彼女をより不気味にさせた。覚束ない足取りで近づいてくる彼女に、気圧されて後退った。
「……ねえ、答えてよ」
女性は目だけが変にぎらついていて、俺は薄ら寒さを感じた。
目の前の女性はこちらに聞こえるか、聞こえないかの声量でぶつぶつと話し始める。俺の反応なんて、眼中にないみたいだった。
「どう、して、何も言わないの? どうせ、これから××の部屋に行くんでしょ? 二人は仲がいいもんね。……ほんと、嫌になるくらい」
なぜ目の前の女性が、今日、俺と友人が遊ぶことを知っているのだろうか?
異様な雰囲気に言葉を紡げずにいた。彼女の質問を肯定すると、何か取返しのつかないことが起こりそうな気がしてならなかった。
質問に答えない俺に対して、彼女の眦が一層吊り上がる。
俺を睨む目が血走り、わなわなと不自然に身体が震え始める。得体の知れない恐怖を感じた。
「全部、貴方のせいよ……。貴方がいなければ、××は私のものだったのにっ!」
俺の返事を待たずに苛立たしげに叫んだ女性は、肩掛けカバンから何かを取り出した。街灯の光を、女性が手に持っているものがギラりと鈍色に反射する。
鋭く尖ったそれは、こんな住宅街の道で出すものではない――食材を切るための包丁だった。
その切っ先を俺に向けながら、女性は大きな目から涙を流して叫んだ。
「××に私は振られたの! 貴方が好きだから、付き合えないって。……男同士が付き合ったって、どうにもならないじゃない! 私のほうが彼を幸せにできる。貴方が邪魔なのよっ!」
女性の心からの金切り声が、静かな住宅街に大きく響く。髪を振り乱した彼女は、鋭利でギラつく切っ先を構え、狂気の目で俺に突進してきた。
俺は現実を受け止められずに呆気に取られていたけど、身の危険を感じてすぐに包丁を躱そうとして、そして、できなかった。
躱そうとした時に、とっさに周囲をチラリと見てしまったのだ。
俺の後ろには、ゲームをしながら歩いてくる複数の小学生がいた。
狭い住宅街の道路に、横いっぱいに広がって歩いてくる小学生たち。ここは車の交通量も少ないから、前を見ずにゲームをしていてもなんら危険ではない。普段の平穏な状況であれば。
もし、僕が彼女を躱してしまえば、強い殺意が籠ったこの刃は、勢いを殺せずにそのまま小学生たちに突進するだろう。
彼女が迫るほんの数秒の間に、俺の頭の中がフル回転してその答えを導いた。
突進してくる女性の姿が、妙にスローモーションに見えた。涙を流しながらも、不気味に口角を上げて迫る女性の顔が良く見える距離まで近づいて、次の瞬間にはドンッ、と重い衝撃が身体に伝わる。腹部に鋭い激痛が走って、深々と身体に入り込んだ。ぐじゅッという嫌な感覚が、俺の身体を苛む。
「……ぐぅっ!」
あまりに痛いと、人間って声が出なくなるんだなと、この時の俺はそんなことを考えていた。
「うわぁああーっ‼」
「きゃぁあああーっ‼」
俺がその場に倒れ込むと、静かだった住宅街に子供たちの悲鳴が一斉に轟いた。
その悲鳴で彼女は我に返ったのか、落ち窪んだ目に光が戻り、俺と目が合う。彼女は怯えるように後退り、異様に震えてその場にへたり込んだ。
子供たちの悲鳴を聞きつけた大人たちが、駆け寄ってくるのが地面すれすれの目線で見える。包丁の刺さっているであろう腹部を、鈍くしか動かない手で触った。ドロリと生暖かいものを感じた。
「火澄! おいっ! しっかりしろ!」
俺の目の前に、突然青白い友人の顔が現れる。必死に俺の名前を呼んで、血だらけなはずの俺の腹部を必死に押さえてくれているようだ。地面にはスーパーの袋の中身が転がっていた。葉野菜が袋から出て、砂利で汚れているのがぼんやりと見える。
ごめん、今日の晩御飯作れないや。
声を出そうにも、喉から空気が抜けるだけだ。誰かが警察を呼んだのか、サイレンのけたたましい音が近づいてくるのが聞こえる。
慌てる大人たち、泣きじゃくる小学生。必死に名を呼び続ける友人。だんだんと、その声や音が遠のいていく。
あれ、おかしいな。
なんだか急激に眠気が襲ってきた俺に、友人がさらに緊迫した声で何か叫んでいた。
ごめんな。
あまりにも眠くて、何を言っているのか分からないや……
友人の叫ぶ声を最後に、俺は重たい瞼を閉じた。
◇◆◇
眩しさを感じて、俺は目をぎゅっと瞑った。
頬を柔らかなものが掠めた感覚で、重たい瞼が開いていく。ぼやける視界の遠くで、水色の小さな影が動いているのが見えた。
「ここ、は……?」
囁くように小さく揺れる音が、耳に心地よい。仰向けに倒れているらしい俺の目線の上では、若芽の色をした草が揺れて、青葉の匂いが鼻を掠めていった。
見慣れない光景に頭が追い付かない。寝ぼけたまま目を擦って、身体を起こす。目線が高くなって、視界に広がったものに目を瞠る。
「……えっ?」
目の前に広がっているのは、美しく穏やかな草原だ。
清々しい爽快な香りに、風の波で頭を揺らしては戻る下草。穏やかな日差しは、風も相まって昼寝に最適だろう。
「ピロロクワーッ!」
変な鳴き声が上から聞こえたけど、あれは鳥だろうか。起きた時に見えた影は、どうやらこの鳥のものらしい。
あれ。俺は、なんでこんなところで眠っているんだっけ。
最後に肌に感じた感触は、冷たいコンクリートの地面に、変に生ぬるい、ぬめった感覚だったのに。
そう思い出した途端、ヒュッと喉で息が詰まった。
「っ⁉」
俺は確か、女性に腹を刺されたはず。思い返して、身体に一気にぞわっと悪寒が走る。俺を刺した女性の落ち窪んだ目と、重い衝撃の記憶が身体に蘇る。
思わず服の上から脇腹に手を当てた。
「……あれっ?」
あれほどの激痛に見舞われていた腹部が、痛くない。それに、俺に刺さったままのはずの包丁もどこにも見当たらない。
でも、あの一瞬にして灼熱が身体を沸騰させるような、防衛本能からの極度の興奮。その直後に襲った深く突き刺さる鋭い痛みと、粘りのある液体に触れた感触。
あれは幻なんかじゃ、なかったはずだ。
俺はゴクリと喉を鳴らしながら、恐る恐る服を捲って脇腹を露わにした。
「これ……」
俺の腹には、生々しい赤茶色の傷痕が残っていた。ちょうど、包丁の刃が縦に刺さったくらいの傷だ。あれは夢なんかじゃなくて、やはり現実だった。
だけど、それならどうして俺は生きているのだろう。
先ほどついたばかりの傷だというのに、傷口は既に塞がり、まるで古傷にも見える。
怪我をまじまじと見ていると、ふと服の裾を捲り上げている手に違和感を覚えた。いつもと感覚が違うというか、俺の手ってこんなに小さかっただろうか。
それに、しっかりと自分自身を確認すると服装が明らかにおかしい。
友人の家に行った時は、Tシャツにジーンズだったはず。今着ているのは、全身黒っぽい服なのだ。襟が高い紫紺色のコートを羽織り、その長い裾で隠すように、両腰には剣が鞘に収まっている。足元もスニーカーから底の厚いブーツに変わっていた。
「なんだ、これ?」
そういえば、最近この服を見たことがあるような気がする。どこでだったかな……
状況が呑み込めない中、穏やかな空気をつんざく、甲高い悲鳴が聞こえた。
「うわぁぁぁぁーっ!」
緊迫した悲鳴を聞いて、俺の身体は反射的に走り出していた。
すぐ近くに、鬱蒼とした森が見える。悲鳴はそこから聞こえてきた。何かに突き動かされるように、俺は一目散に声がした方向へ向かう。木立の中をすり抜けて駆けていく。
なんだか、身体がとても軽い。動きも自分にしては俊敏で、地面から隆起した木の根も軽々と避けられる。
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さらに俺は、その巨大な生き物を見て驚愕した。
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懸命に魔物から目を逸らさない少年だが、グリードベアとは体格が圧倒的に違い過ぎた。少年の身体の三倍以上はある。
少年の柔らかな血肉に食い込ませんという鋭利な鉤爪は、地面を握り抉っている。四つん這いになって背中を丸めた巨体は毛羽立ち、その太い足に力を込めて少年に飛びかかる準備をしている。
凶悪な赤い瞳が、少年を得物として捉えた。涎を垂らして今にも少年に襲いかかろうと、隙を窺っている。
「まずい!」
俺は咄嗟に、少年とグリードベアの間に入った。
そうするのが当たり前だというように、両手を腹の前で交差させて素早く両腰に下げていた剣を抜いた。長剣よりやや短めの双剣が、すらりと鈍色の刀身を現したと同時に、地面を蹴ってグリードベアへと突進する。
俺は目の前のグリードベアの足めがけて、勢いよく斬りかかった。
「ギャァアアアアッーッ!」
グリードベアの苦しげな叫び声が辺りに響きわたる。痛みに混乱しているグリードベアに追い打ちをかけるため、さらに頭上へと跳躍した。ドロリとした赤い目を躊躇いなく切り裂くと、緑色の血飛沫が上がる。魔物独特の血が、鈍色の切っ先に滴った。
片目を失ったグリードベアが、痛みにその場でのたうち回る。黒色の地面に緑色が散る。
俺は後ろへ跳んで敵と距離を取り、魔力を練り上げた。どうして、魔力というものを自然に理解して、こんなにも操作できるのか全く分からない。不思議ではあるが、今は目の前の相手に集中する。
この魔法の属性は、乙女ゲームで俺が特に使っていたお気に入りだ。エフェクトがカッコいいんだ。
「『雷撃』!」
俺はそう呟いて、グリードベアへ右手に持っている剣の切っ先を向ける。剣の柄にいくつもの紫色の光が走り、ビリッと不穏な音を鳴らした。直後、眩しい紫色の一閃の雷が空気を切り裂いて、グリードベアの心臓部分を光の速さで射貫いていく。
「グギャッ!」
短い断末魔とともに、グリードベアが目を見開いたままドスンっと倒れ込む。重さで地面が鈍く揺れ、土埃が舞った。鳥たちが驚きで飛び立つ羽音がしばらく続き、やっと森の静寂が戻った。
俺は双剣を鞘に納めてから、地面に尻もちをついて呆気に取られている少年に駆け寄る。
「……君、大丈夫? 今、ポーションを出すから」
俺は腰に下げていた小さな皮製の鞄から、一本の小瓶を取り出した。緑色の液体が入った瓶のコルクを開けて少年に差し出す。ゲーム内でポーションと呼ばれている、怪我を治すための薬だ。
「……う、んっ……?」
少年は戸惑いながらも、俺の手から小瓶を受け取った。
小さく喉を鳴らして一生懸命飲み干すと、少年の全身が緑色にうっすらと光り出す。少年の顔にあった擦り傷が、柔らかな光に包まれて消えていった。
「もう、怪我はない?」
俺の問いかけに、少年はコクンっと頷いた。少年に手を差し伸べてそっと立たせる。
立ち上がった少年は俺よりも少し背が高い。日差しを浴びてふわりと揺れる黄金の髪を見上げ、なぜか既視感を覚えて内心で首を傾げた。
「助けてくれて、ありがとう」
少年は落ち着きのある、ほんの少し高い声で俺へお礼を述べる。
目元を柔らかく細め、優しく微笑むあどけない顔を見た瞬間、はっとした。
この笑顔を、俺は知っている。
風にふわっと揺れる、毛先の跳ねた少し癖のある金色の髪。トロリとした蜜を思わせる、琥珀色の瞳。幼さが残るが、凛々しく整った顔立ち。
春の陽だまりが優しく包み込んでくれるような、眩しくも優しい笑顔。
おいおい、嘘だろ。
「勇、者……」
「えっ?」
見覚えがあって、当たり前だ。
俺の呟きに、こてんっと顔を傾けた目の前の少年は、『聖女と紋章の騎士』の攻略対象者の一人――勇者、その人だった。
呆気に取られたままの俺に、勇者は首を傾げる。
「……ユウ? 違うよ。オレの名前はソレイユ。えっと……、ソルって呼んで? ところで、君は?」
少年が名乗った名前は、やはりあの乙女ゲームの攻略対象者、勇者と同じ名前だ。推測が確信へと変わった衝撃をなんとか受け止めつつ、俺も自分の名前を伝える。
「……俺は、ヒズミ」
ゲームでは、貴族しか家名がないという設定だったはず。ソルも名前しか言っていないから、俺も合わせることにした。
俺が名乗ると、ソルは何度も確かめるように小さく口にして一つ頷いた。
「……ヒズミ。綺麗な名前だね。この辺りでは聞かない響きだし、その格好……。もしかして冒険者?」
ソルは、チラリと俺の胸元を見た。俺の胸元には細い銀色のチェーンに、長方形の小さな薄い金属が付いている。これは冒険者ギルドで発行される身分証明書だ。
おそらく、これを見てソルは俺を冒険者だと判断したのだろう。
「ああ、そうだ」
ゲーム内でも冒険者ギルドで身分を登録していたから、あながち間違いじゃない。
俺が肯定すると、ソルは目を輝かせて俺を見つめた。
「すごい。その歳で一人で旅をしているなんてっ!」
ソルの言葉に、今度は俺が首を傾げる番だった。俺は、ソルよりもだいぶ年上の十九歳だ。一人で旅をすることは、至って普通である。
「俺はソルよりも、だいぶ年上だと思うぞ?」
俺がそう答えると、ソルは訝しげに顔を覗き込んだ。頭の先からつま先まで、じっくりと首を動かして俺を観察する。そして、また首を傾げている。
「……ヒズミは、どう考えてもオレと同い年か、年下くらいにしか見えないけど?」
「えっ?」
詳しく聞けば、ソルはまだ十三歳だそうだ。いやいや、さすがに俺と同い年に見えるはずがない。たとえ、ソルが俺よりも身長が高いとしても。
「とりあえず、軽い怪我は治ったと思うけど、念のため医者に診てもらったほうがいい。町までの道が分かるなら、俺も一緒に連れて行ってくれないか?」
人の命が危険に晒されている場面を目撃して、急遽はせ参じた俺だが、頭の中は絶賛混乱中だ。一度、自分自身に何が起こっているのか、安全な場所で確認したほうがいいだろう。
それに、町に行けばここが本当にゲームの中なのか、それとも現実なのか分かるはずだ。
「うん。分かった」
素直に頷いたソルが、こっちだよ、と俺の手を引いて歩き出す。前を歩くソルの背中を見ながら、未来の勇者をまじまじと観察した。
それにしても、少年期の勇者はとても可愛らしい美少年だ。
毛先が跳ねている髪がひょこりと動いて、ヒヨコみたいだとほのぼのする。まだ成長途中だからか、どこかほっそりとした身体だが、これから鍛えればカッコイイ男性に成長するだろう。
というか、イケメンに成長することが確定事項なんだけどな。
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どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
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