1 / 36
1巻
1-1
しおりを挟む
第一章 報われない気持ち
「――どうか、誰のものにもならないで。こんな気持ちを持ってはいけないことは分かってる。だけど、好きなんだ。僕は君のことがどうしようもなく……」
今から一年ほど前、私の婚約者が寝ている妹に想いを伝えている場面を偶然覗き見てしまった。そのときの光景を思い出すと、今でも胸の奥が締めつけられるように苦しくなる。愛されているのは婚約者の私ではなく、妹だったのだと知った瞬間だった。
私の名前はアリーセ・プラーム。プラーム伯爵家の長女であり、現在十九歳。ミルキーブロンドのふんわりとした髪に、ストロベリー色の大きな瞳が印象的だとよく言われる。
私は王宮で働いているので、日頃からきっちりとした格好を心がけている。身長も周囲と比べると低いので、ヒールの高い靴を履いて誤魔化し、髪をアップにして、さらには眼鏡をかけてクールビューティーを演じているつもりだ。肌の色は白く、顔立ちは少し幼さが残るため、メイクでカバーして大人っぽく見せている。
私には物心がついた頃から婚約者がいた。彼の名前はルシアノ・ツェルナー。侯爵家の嫡男であり私より二歳年上の二十一歳。さらさらのプラチナブロンドの長い髪を後ろで一纏めにし、細身で背は高く、いつも柔らかい笑みをまとっている。
家同士の繋がりを目的とした婚約だったが、彼はいつも優しくて、そんなルシアノのことが大好きだった。たとえ政略結婚でも、きっと幸せな結婚生活を送れるのではないかと夢見るほどに。
しかし、そんな私の思いはあの日、あの瞬間に、無残にも崩れた。
当時、私は王都にある王立学園に通っていた。幼い頃から負けず嫌いなところがあり、伯爵令嬢ながら勉学にも勤しんでいたので、成績は常に上位。そのおかげで同級生だった王太子と親しくなり、卒業後はぜひ自分のもとで働いてくれないかと誘われるほどだった。
あの言葉を聞くまでは、学園を卒業したらすぐにでもルシアノのもとへ嫁ぎたいと思っていたので、王太子の誘いを一度は断った。けれど、あんな場面を見て未来が見えなくなったので、結婚を先送りにするためにも両親に就職したいと話をしてみることにした。すると、両親は殿下に仕えることは名誉なことであり、私がやりたいのであれば応援すると後押ししてくれたのだ。そのあと、ルシアノにも伝えると、「結婚は急いでいないから、アリーがやりたいのならやってみればいいよ」と優しく受け入れてくれた。
そして現在、私はこの国の王太子であるヴィム・フレイ・ザイフリートのもとで事務官として働いている。私の仕事は主に彼の執務の補佐であり、仕事中は常に傍にいる。殿下とは学園時代からの知り合いなので、それなりにうまくやれていると思う。相手は王太子なので緊張することもあるのだが、私が少しでもリラックスして仕事ができるようにと、彼は私の前では素の姿で接してくれている。
ヴィム殿下は私と同い年の十九歳で、金色の柔らかい髪に、吸い込まれそうな碧い瞳を持つ。そして、誰もが見惚れてしまう端麗な顔立ちに、すらりと伸びた手足に引き締まった体。普段から姿勢も美しく、いかにも王子然とした風貌なのだ。
一つ疑問なのは、王太子であるにもかかわらず、学生時代も今現在も婚約者候補の名前すら上がらないこと。立場がある人間なので隠しているだけだと思っていたが、不思議なほど女性の影はなかった。
「殿下、朝言われていた資料をまとめましたので、こちらに置いておきますね」
私は先ほど終わったばかりの資料の束を、彼が座る執務机の脇に置いた。
「ああ、相変わらずお前は仕事が早いな。助かるよ」
「いえ……、仕事なので当然です!」
殿下は私が作った資料に軽く目を通すと、「さすがだな」と感心したように呟く。私は当然だと答えたが、褒められると嬉しくて顔がにやけてしまいそうだ。
王立学園のカリキュラムは、勉学や貴族の作法を学ぶだけではなく、優れた生徒を見つけ出して王宮で働いてもらう目的もあった。
卒業後、私は王宮事務官の試験を受けた。難しい試験に合格しないと王宮の職に就くことはできない決まりになっていて、難関だったがなんとか合格することができた。ちなみに事務官の他にも、近衛騎士団や薬師などさまざまな部門が存在する。
王宮で働くことは名誉なことであり、優秀であるという証。だからこそ、私の両親も反対することなく快く受け入れてくれたのだろう。
自分の能力を認められることは、素直に嬉しいものだ。私は決して天才肌ではなく、努力してここまで上り詰めたからなおさら。
「話は変わるが……、今ここには俺とお前しかいない。だから『殿下』と呼ぶ必要はないと言ったはずだが?」
殿下は碧色の瞳を資料から私に移動させると、不満そうな声音を響かせた。
「お気遣い感謝いたします。しかし、私は殿下に仕える身ですし……」
不意に視線が絡み、咄嗟に言い返してしまう。もう何度も顔を合わせているのに、目が合うとドキッとしてしまうのは、彼が王太子という特別な人間だからなのだろう。
今は自身のことを『俺』と言っているが、公の場では『私』と言うし、こんなに砕けた話し方はしない。私が仕事をしやすくするために配慮してくれているようなのだが、本当にこれでいいのかと考えてしまう。
(たしかに同級生ではあったけど、相手は王太子よ。気を抜くなんて無理! 二人きりのほうが緊張するってこと、いい加減気づいてほしいものだわ……)
執務室にいるのは私と殿下だけだ。これはたまたまではなく毎日である。私が心の中で文句を言っていると、彼はふうっと息を吐き椅子から立ち上がった。その間、碧色の瞳は真っ直ぐに私だけを捉えていて、視線を逸らすこともできずそわそわとしてしまう。私が動揺していると、いつの間にか殿下は目の前に立っていた。急に距離が近くなり、鼓動が高鳴る。
「前々から思っていたんだが……。お前、目は悪くはなかったよな? どうして眼鏡なんてかけているんだ?」
「そ、それはっ……、そのほうが真面目に見えると思いまして。ちなみにこれは伊達です」
「そのいかにも真面目そうに見える服装もそれが理由というわけか」
「はいっ! 私は王宮事務官に選んでいただいた身です。それ相応の服装が好ましいですよね」
思わず自慢げに答えると、彼は目を細めて私のつま先から頭の上まで眺めた。その表情は明らかに不満そうだ。
(もしかして……なにか変?)
そう思うと次第に不安になっていく。今日はダークブラウンの落ち着いた色のワンピースを着ているのだが、童顔の私には少し大人っぽすぎたのかもしれない。彼は表情を変えないまま私の顔に手を伸ばすと、眼鏡の縁を持ち上げて外した。
「えっ、な、なにをするのですかっ!」
慌てて眼鏡に手を伸ばそうとすると、彼はそれを遠ざけた。
「違和感しかないから、この眼鏡は必要ない。それから、その高すぎるヒールも履くな。今日、何度転びそうになった?」
「うっ……、それは」
「その地味すぎる服もお前には全然似合わないから却下だ」
全て否定されてしょんぼりと肩を落としていると、殿下は「そんな顔をするなよ」と言って私の顔を覗き込んだ。顔を上げると彼の端麗な顔がすぐ近くにあり、動揺して後退りしてしまう。高いヒールのせいでバランスを崩して転びそうになった瞬間、ふわりと受け止められた。
「本当に危なっかしい。言った傍から転ぼうとするなよ」
気づけば私は殿下の腕の中にいて、慌てて胸を押し返した。彼の温もりを感じると心臓が飛び出てしまうのではないかと思うほどドキドキし、顔の奥から沸き立つような熱を感じる。
(殿下に対して、な、なんてことをっ……!)
早く離れたいのに今度は手首を掴まれ、殿下との距離は未だに近いままだ。
「おい、また転ぶ気か? 動くな……、というか少し落ち着け」
しばらくすると頭上から呆れたような声が聞こえてくる。
「も、申し訳ありません! あの、落ち着きましたから、そろそろ離してくださいっ……」
こんな状態でいたら、いつまでたっても落ち着くことはできない。私が俯きながら答えると、「分かった」と耳元で低い声が響き、それから間もなくして殿下は静かに離れていった。ようやく彼から離れることができて安堵する反面、まだ頬の火照りは残ったままだ。
「お前ってさ、仕事はきっちりとこなすくせに、変なところが抜けているよな」
こんな出来事の直後だったため、私は言葉を詰まらせた。
「事務官に服装の決まりはないし、無理に地味な格好をする必要なんてないよ。さすがに派手なドレスを着てこられたら周りは驚くかもしれないが、仕事に支障が出なければ別に問題ない」
「それならこの服装でも問題ないですよね?」
私が文句を言うと、殿下は大袈裟にため息を吐いた。
「問題ない……? 大アリだろ。このなんの意味もない眼鏡は邪魔なだけだし、その靴は危なっかしくて気になって仕方がない。今お前が着ている服も違和感がありすぎて、俺が仕事に集中できなくなるからやめてくれ」
「それは、すべてだめってことなのでしょうか?」
「ああ、すべてだめだな。明日からは変な気を遣わず、お前らしい格好で来てくれ。また今日のような格好をしていたら、俺が用意した服に着替えてもらうから」
私は言葉には出さなかったが、『ひどい』と目で訴えた。
「そんな顔をしても無駄だ。これでもしばらくの間は我慢していたんだ。お前だって余計なことに気を取られずに気持ちよく仕事がしたいだろう?」
「それは、そうですけど……」
「だったら、明日からはその格好はしてくるなよ。ここに通いはじめた頃の格好で構わないから」
「はい……、分かりました」
私は渋々そう答えると小さく頭を下げた。たしかにこの格好は動きづらいし、自分でも違和感を持つくらい似合っていないと感じていた。そういう意味では、はっきり言ってもらえてよかったのかもしれない。
「今日はもう上がっていいぞ」
「え? でもまだ大分早い気がしますが……」
「問題ない。今日の分の仕事はもう終わっている。お前は要領がいいし、丁寧に仕事をしてくれるから助かっているよ。いつもありがとう」
「いえ、私は当然のことをしているだけで……」
突然褒められると狼狽えてしまう。殿下は思ったことをはっきりと口にするタイプであるが、褒めることも決して忘れない。だからこそ、彼のもとで仕事をすることが苦に感じないのだろう。
「謙遜する必要はない。もし早く帰ることが気になるのなら、服装選びの時間に使ってくれ」
「……分かりました、それではお先に失礼します」
私は会釈して、荷物を持ち執務室をあとにした。
(服装選び、か……。余計なことを考えすぎたってことよね。邸に戻ったら明日から着ていく服を選ばないと)
邸に帰ると、入り口に馬車が止められているのが目に入った。誰か来ているのかしら、と思いながら歩いていると、普段よりも数時間早く帰宅した私を見て、なぜか使用人たちは動揺を見せた。
「アリーセお嬢様、今日はずいぶんとお早いお戻りなのですね……」
「今日は早く仕事が終わったの。邸の前に馬車が止めてあったけど、誰かいらしているの?」
なんとなく気になり尋ねてみると、使用人は顔色を曇らせ小さく頷いた。
「……はい。ルシアノ様がいらしております」
「え? ルシが来ているの?」
今日彼が邸に来るという連絡は受けていなかったから、驚いて聞き返してしまう。しかし、使用人の動揺ぶりから、どういう状況なのかなんとなく理解できてしまった。
「ルシは今どこにいるの?」
「それは……。ニコル様の部屋にいらっしゃいます」
使用人の言葉を聞いて私は目を細めた。想像したとおりだ。
「どうして、私の婚約者がニコルの部屋にいるの?」
「先日から、ニコル様の勉強を見ていらっしゃるようでして……」
「ニコルは学園に通っているのに?」
「はい。学園の授業を終えられたあとにニコル様と一緒に邸にいらして、数時間教えていらっしゃいます」
初めて知る事実に驚きを隠せない。二人が特別な関係であるかもしれないことは知っている。しかし、私に黙って会っているとは思いもしなかった。使用人を責めるつもりはないけれど、口調が強くなってしまう。
わずかに震えている自分の掌をぎゅっと握りしめ、心を落ち着かせた。
「ごめんなさい。少し驚いてしまったの。今、ルシはニコルの部屋にいるのよね?」
「は、はい……」
「分かったわ、ありがとう」
私はそう短く告げると、階段を上がりニコルの部屋へ向かう。
(私が仕事でいない時間に、堂々と邸で逢引き……? 信じられない……)
呆れと動揺から足取りは重かった。前進するたびに心の中にもやが広がり、苛立ちや不安で心拍が徐々に速まっていく。
そんなことを考えていると、あっという間にニコルの部屋の前に辿り着いた。心を落ち着かせるために一度深呼吸をし、わずかに扉を開く。
「……僕は、やっぱり君のことが好きだよ」
「私もルシ様のことが好き。このまま時間が止まってしまえばいいのに……」
扉の隙間から聞きたくない言葉が次々と飛び込んでくる。
ニコルと私は実の姉妹ではない。私には双子の妹がいたのだが、幼い頃に不慮の事故に遭い短い生涯を終えてしまった。それがきっかけで母は極度の鬱状態になり、心配した父が妹の代わりにと養子をとることに決めた。それがニコルだった。
私とニコルは髪色だけは同じだが、それ以外はまったく違う。ニコルは一つ年下の十八歳であるが、成長期を迎えると身長は私の背丈を超え、さらには美しい容貌に変わっていった。くせのないさらりとした長い髪に、瞳はオレンジ色をしている。童顔の私とは異なり大人っぽさもあって、夜会に参加するとニコルの周りには多くの異性が集まってくる。人当たりもいいので、打ち解けやすいのだろう。ニコルを狙っている子息は少なくないはずだ。
母はニコルを死んだ妹の生まれ変わりだと信じ、過保護に可愛がりすぎた。そのせいでニコルは少し我儘な性格になってしまった。けれど、ニコルが来たことで邸には明るさと平穏が戻ったので、私はよかったと思っている。それなのに……、こんなことになるなんて。
(ニコルもルシのことが好きだったの……?)
私は混乱していた。一年前にルシアノのあの発言を聞いてから、彼のニコルへの想いは一方通行だと思い込んでいたからだ。
学園に通いはじめるまでは三人で一緒に過ごすことが多く、もともと愛想がよかったニコルはすぐにルシアノとも打ち解けて仲よくなった。とはいえ、ルシアノは私にはいつも優しく接してくれたし、婚約者としての自覚も持っているように思えた。
私だけが王立学園に通い、二人は貴族学園に通っていたので、会う時間は以前より少なくなった。しかし、休日になると必ずルシアノは邸に来てくれたし、街にも連れていってくれた。周囲にはいい婚約者に映っていたに違いない。
けれど、実際は私に隠れて妹を口説いていたのだろう。私に会いに来ることすら、彼にとっては妹に会う口実にすぎなかったのかもしれない。
私はあの日ルシアノの気持ちを知ったあとも、一時的な気の迷いかもしれないと思い、見て見ぬふりを続けてきた。三人の関係が壊れることを恐れ、認めたくなかったのだ。
しかし、実際はすでに心を通じ合わせていたという。それを知った瞬間、私の中で糸がぷつんと切れたような気がした。裏切られた怒りもあるけど、それ以上に虚しくなって、もうどうでもよくなった。
(こんなことならもっと早くに見切りをつけておくべきだった……)
私は躊躇することなく扉を大きく開け、ズカズカと部屋の中へ入っていく。案の定二人は抱き合っていて、私に気づくと驚いた顔を浮かべ慌てて離れた。
「アリー、なんでここに……」
「なんでって、それはこっちの台詞よ。私がいない間を狙ってコソコソと会っているなんて思いもしなかったわ」
ルシアノは狼狽えた様子で声をかけてきたので、私は淡々と答えた。
「お姉様! こ、これは、ルシ様に勉強を教えてもらっていただけですっ!」
今度は慌ててニコルが言い訳をはじめる。しかし、この状況で言われても説得力はない。私は目を細めて二人を交互に見つめた。
「勉強……? 『君のことが好きだ』とか『私もルシ様が好き』とか言って抱き合っておいて、よくそんなことが言えるわね。密会の間違いじゃないの?」
「そ、それはっ……」
私が一部始終を見ていたことを知ると、二人は重い表情を浮かべ押し黙った。正直なところ、私はこれ以上二人を責める気力なんてなかった。もうどうでもいい、そう思いはじめていたからだ。
「実は、以前からルシの気持ちは知っていたの。だから、隠す必要なんてないわ」
「え……?」
「一年くらい前、寝ているニコルに気持ちを伝えている場面を偶然見てしまったから」
私が静かに言うと、ルシアノは驚いた表情を見せて、ニコルは「ごめんなさい、お姉様……」と泣きそうな顔で頭を下げた。
(認めるのね……)
正直、謝られたところで私の気持ちは穏やかにはならないし、簡単に許せるほど寛大な心は持っていない。
「別にもういいわ。そんなに思い合っているのなら二人が結婚すればいいだけのことでしょ? 私はルシとの婚約を白紙に戻させてもらうから、あとは二人で好きにして」
「ま、待ってくれっ!」
私が一方的に話を進めると、ルシアノが焦った形相で反論してきた。
「私はあなたの婚約者を降りるって言っているのに、なにか不満でもあるの?」
「婚約については家同士が決めたものだ。そんな簡単には……」
「ルシが私から妹に乗り換えるのだから、家の問題はないはずよね?」
苛立っていることもあり、感情が昂りつい棘のある言葉を吐いてしまう。
「それは……」
ルシアノは言い返すことができず、苦しそうな表情を浮かべた。すると今度はニコルが口を出す。
「お姉様、そんな言い方しなくても……。酷いわっ!」
「だって本当のことじゃない。二人は私に隠れてそういう関係になってずっと騙していたくせに。本当に酷いのはどっちのほうなのかしら」
私が言い返すとニコルは言葉を詰まらせ、再び黙り込んでしまった。
「このことはどちらから両家に伝えますか? 私からでも構いませんが、その場合は二人の関係を率直に伝えます」
「アリー、待ってくれ。そんなに急に言われても困る」
「困る……? 困るってなんですか? ずっと私のことを騙し続けていたくせに、どれだけばかにすれば気が済むの? 最低ね」
自分の都合ばかりを優先しようとするルシアノに冷たい視線を向けた。この期に及んで、事実を認めようとしない態度がどうしても許せない。
「……ごめん。だけど、少しだけ待ってほしい」
「少しって、どれくらいですか? 私は浮気をするような婚約者なんていりません。今すぐにでもルシとの婚約は解消したいくらいよ。そのほうが二人にとっても好都合なはずでしょ。コソコソする必要がなくなるのだから……」
そのあとは完全にだんまりで、これ以上の進展は望めなかった。仕方なく私が折れてしばらく待つということで話はついたのだが、どんな言い訳をされようが私の気持ちは変わらないだろう。
(絶対にルシとの婚約は解消するわ……)
そう心に強く決めて部屋に戻った私は、時間とともに冷静になっていった。気持ちが落ち着いてくると、勢いであんなことを言ってしまったことを少しだけ後悔した。裏切られたことはどうやったって許せない。けれど、私がルシアノを好きだったことは事実であるし、ニコルのことは本当の妹のように思っていた。
(私たちの関係は、これからどうなってしまうんだろう……)
そう思うと心の中は不安でいっぱいになる。しかし、考えても答えなんて出るはずもなく、口から漏れるのはため息ばかりだ。それに、二人が思い合っていることを知ってしまった以上、私には身を引く選択肢しか残っていない。惨めな思いをしてまでルシアノに縋りたくない。一年前から彼の気持ちを知っていたこともあり、それほど落ち込むことはなかった。
それから数日がすぎた頃、大きな花束を抱えてルシアノが邸を訪れた。私との婚約を白紙に戻し、ニコルと婚約を結ぶお祝いとして持ってきたのだろう。たまたま大広間にいた私は運悪く彼と目が合ってしまう。すると、ルシアノはぱっと笑顔を浮かべた。
「ああ、アリー。遅くなってごめん」
「ニコルなら自室にいるわ」
彼の白々しい態度に呆れて、私は眉を顰めた。そんな私の表情を見てルシアノは一瞬だけ悲しそうな顔を浮かべた。
「今日はアリー、君に会いに来たんだ」
「あの話をしに来られたのですか?」
あの話というのは私たちの婚約解消の話だ。この件は保留にしてあるので、両親にはまだ伝えていない。もしかしたら、彼は今日その話をしに来たのかもしれない。
「その前にもう一度、君とちゃんと話をしたいと思って……」
「話すことなんて、もうなにもないはずです」
私はルシアノを睨みつけ、静かに答えた。
そんなとき、タイミング悪く母が通りかかった。母はルシアノを見つけると嬉しそうに近づいてくる。
「あら、ルシアノ様、いらしていたのね」
「プラーム夫人、急に訪ねてしまい申し訳ありません」
「そんなことはないわ。アリーに会いに来たのでしょ? あらまあ、素敵な花束ね。アリーの好きなピンクのバラだわ」
「はい。アリーには迷惑をかけてしまったので……。これで僕の気持ちが伝わるといいのですが」
私は二人の会話をただ眺めることしかできない。ここで取り乱したりしたら母が変に思うからだ。そんな私の気持ちとは裏腹に、二人は楽しそうで複雑な気分になる。
「そうなの? だけど、いつもよくしてくださっているのだし、気にしなくていいわ。アリーだって、もう怒っているわけではないのでしょ?」
「え……? それは……」
突然、母から話を振られて困っていると、今度はニコルがやってきた。
「ルシ様、いらしてたんですね!」
「うん……」
「わぁ、素敵なお花。お姉様、よかったですねっ!」
ニコルはなにもなかったかのように、にっこりと微笑んだ。私だけが腑に落ちない気持ちを抱き、他の三人は仲よさそうに話している。なにも事情を知らない母の態度は分かるが、ルシアノとニコルの白々しい様子に私は困惑していた。
「ニコル、邪魔しちゃだめよ。ルシアノ様はアリーに会いに来たのだから」
「分かっていますわ、お母様。私は賑やかな声が聞こえたから挨拶に来ただけです」
「そう、それならいいわ。アリーは早くルシアノ様を部屋に案内してあげなさい。いつまでもここで待たせておくのは失礼よ」
「はい……」
母に強く言われてしまい、私は渋々部屋にルシアノを招き入れた。本当は二人きりで話なんてしたくない。だから、用件だけ済ませてすぐに帰ってもらおうと考えていた。
「――どうか、誰のものにもならないで。こんな気持ちを持ってはいけないことは分かってる。だけど、好きなんだ。僕は君のことがどうしようもなく……」
今から一年ほど前、私の婚約者が寝ている妹に想いを伝えている場面を偶然覗き見てしまった。そのときの光景を思い出すと、今でも胸の奥が締めつけられるように苦しくなる。愛されているのは婚約者の私ではなく、妹だったのだと知った瞬間だった。
私の名前はアリーセ・プラーム。プラーム伯爵家の長女であり、現在十九歳。ミルキーブロンドのふんわりとした髪に、ストロベリー色の大きな瞳が印象的だとよく言われる。
私は王宮で働いているので、日頃からきっちりとした格好を心がけている。身長も周囲と比べると低いので、ヒールの高い靴を履いて誤魔化し、髪をアップにして、さらには眼鏡をかけてクールビューティーを演じているつもりだ。肌の色は白く、顔立ちは少し幼さが残るため、メイクでカバーして大人っぽく見せている。
私には物心がついた頃から婚約者がいた。彼の名前はルシアノ・ツェルナー。侯爵家の嫡男であり私より二歳年上の二十一歳。さらさらのプラチナブロンドの長い髪を後ろで一纏めにし、細身で背は高く、いつも柔らかい笑みをまとっている。
家同士の繋がりを目的とした婚約だったが、彼はいつも優しくて、そんなルシアノのことが大好きだった。たとえ政略結婚でも、きっと幸せな結婚生活を送れるのではないかと夢見るほどに。
しかし、そんな私の思いはあの日、あの瞬間に、無残にも崩れた。
当時、私は王都にある王立学園に通っていた。幼い頃から負けず嫌いなところがあり、伯爵令嬢ながら勉学にも勤しんでいたので、成績は常に上位。そのおかげで同級生だった王太子と親しくなり、卒業後はぜひ自分のもとで働いてくれないかと誘われるほどだった。
あの言葉を聞くまでは、学園を卒業したらすぐにでもルシアノのもとへ嫁ぎたいと思っていたので、王太子の誘いを一度は断った。けれど、あんな場面を見て未来が見えなくなったので、結婚を先送りにするためにも両親に就職したいと話をしてみることにした。すると、両親は殿下に仕えることは名誉なことであり、私がやりたいのであれば応援すると後押ししてくれたのだ。そのあと、ルシアノにも伝えると、「結婚は急いでいないから、アリーがやりたいのならやってみればいいよ」と優しく受け入れてくれた。
そして現在、私はこの国の王太子であるヴィム・フレイ・ザイフリートのもとで事務官として働いている。私の仕事は主に彼の執務の補佐であり、仕事中は常に傍にいる。殿下とは学園時代からの知り合いなので、それなりにうまくやれていると思う。相手は王太子なので緊張することもあるのだが、私が少しでもリラックスして仕事ができるようにと、彼は私の前では素の姿で接してくれている。
ヴィム殿下は私と同い年の十九歳で、金色の柔らかい髪に、吸い込まれそうな碧い瞳を持つ。そして、誰もが見惚れてしまう端麗な顔立ちに、すらりと伸びた手足に引き締まった体。普段から姿勢も美しく、いかにも王子然とした風貌なのだ。
一つ疑問なのは、王太子であるにもかかわらず、学生時代も今現在も婚約者候補の名前すら上がらないこと。立場がある人間なので隠しているだけだと思っていたが、不思議なほど女性の影はなかった。
「殿下、朝言われていた資料をまとめましたので、こちらに置いておきますね」
私は先ほど終わったばかりの資料の束を、彼が座る執務机の脇に置いた。
「ああ、相変わらずお前は仕事が早いな。助かるよ」
「いえ……、仕事なので当然です!」
殿下は私が作った資料に軽く目を通すと、「さすがだな」と感心したように呟く。私は当然だと答えたが、褒められると嬉しくて顔がにやけてしまいそうだ。
王立学園のカリキュラムは、勉学や貴族の作法を学ぶだけではなく、優れた生徒を見つけ出して王宮で働いてもらう目的もあった。
卒業後、私は王宮事務官の試験を受けた。難しい試験に合格しないと王宮の職に就くことはできない決まりになっていて、難関だったがなんとか合格することができた。ちなみに事務官の他にも、近衛騎士団や薬師などさまざまな部門が存在する。
王宮で働くことは名誉なことであり、優秀であるという証。だからこそ、私の両親も反対することなく快く受け入れてくれたのだろう。
自分の能力を認められることは、素直に嬉しいものだ。私は決して天才肌ではなく、努力してここまで上り詰めたからなおさら。
「話は変わるが……、今ここには俺とお前しかいない。だから『殿下』と呼ぶ必要はないと言ったはずだが?」
殿下は碧色の瞳を資料から私に移動させると、不満そうな声音を響かせた。
「お気遣い感謝いたします。しかし、私は殿下に仕える身ですし……」
不意に視線が絡み、咄嗟に言い返してしまう。もう何度も顔を合わせているのに、目が合うとドキッとしてしまうのは、彼が王太子という特別な人間だからなのだろう。
今は自身のことを『俺』と言っているが、公の場では『私』と言うし、こんなに砕けた話し方はしない。私が仕事をしやすくするために配慮してくれているようなのだが、本当にこれでいいのかと考えてしまう。
(たしかに同級生ではあったけど、相手は王太子よ。気を抜くなんて無理! 二人きりのほうが緊張するってこと、いい加減気づいてほしいものだわ……)
執務室にいるのは私と殿下だけだ。これはたまたまではなく毎日である。私が心の中で文句を言っていると、彼はふうっと息を吐き椅子から立ち上がった。その間、碧色の瞳は真っ直ぐに私だけを捉えていて、視線を逸らすこともできずそわそわとしてしまう。私が動揺していると、いつの間にか殿下は目の前に立っていた。急に距離が近くなり、鼓動が高鳴る。
「前々から思っていたんだが……。お前、目は悪くはなかったよな? どうして眼鏡なんてかけているんだ?」
「そ、それはっ……、そのほうが真面目に見えると思いまして。ちなみにこれは伊達です」
「そのいかにも真面目そうに見える服装もそれが理由というわけか」
「はいっ! 私は王宮事務官に選んでいただいた身です。それ相応の服装が好ましいですよね」
思わず自慢げに答えると、彼は目を細めて私のつま先から頭の上まで眺めた。その表情は明らかに不満そうだ。
(もしかして……なにか変?)
そう思うと次第に不安になっていく。今日はダークブラウンの落ち着いた色のワンピースを着ているのだが、童顔の私には少し大人っぽすぎたのかもしれない。彼は表情を変えないまま私の顔に手を伸ばすと、眼鏡の縁を持ち上げて外した。
「えっ、な、なにをするのですかっ!」
慌てて眼鏡に手を伸ばそうとすると、彼はそれを遠ざけた。
「違和感しかないから、この眼鏡は必要ない。それから、その高すぎるヒールも履くな。今日、何度転びそうになった?」
「うっ……、それは」
「その地味すぎる服もお前には全然似合わないから却下だ」
全て否定されてしょんぼりと肩を落としていると、殿下は「そんな顔をするなよ」と言って私の顔を覗き込んだ。顔を上げると彼の端麗な顔がすぐ近くにあり、動揺して後退りしてしまう。高いヒールのせいでバランスを崩して転びそうになった瞬間、ふわりと受け止められた。
「本当に危なっかしい。言った傍から転ぼうとするなよ」
気づけば私は殿下の腕の中にいて、慌てて胸を押し返した。彼の温もりを感じると心臓が飛び出てしまうのではないかと思うほどドキドキし、顔の奥から沸き立つような熱を感じる。
(殿下に対して、な、なんてことをっ……!)
早く離れたいのに今度は手首を掴まれ、殿下との距離は未だに近いままだ。
「おい、また転ぶ気か? 動くな……、というか少し落ち着け」
しばらくすると頭上から呆れたような声が聞こえてくる。
「も、申し訳ありません! あの、落ち着きましたから、そろそろ離してくださいっ……」
こんな状態でいたら、いつまでたっても落ち着くことはできない。私が俯きながら答えると、「分かった」と耳元で低い声が響き、それから間もなくして殿下は静かに離れていった。ようやく彼から離れることができて安堵する反面、まだ頬の火照りは残ったままだ。
「お前ってさ、仕事はきっちりとこなすくせに、変なところが抜けているよな」
こんな出来事の直後だったため、私は言葉を詰まらせた。
「事務官に服装の決まりはないし、無理に地味な格好をする必要なんてないよ。さすがに派手なドレスを着てこられたら周りは驚くかもしれないが、仕事に支障が出なければ別に問題ない」
「それならこの服装でも問題ないですよね?」
私が文句を言うと、殿下は大袈裟にため息を吐いた。
「問題ない……? 大アリだろ。このなんの意味もない眼鏡は邪魔なだけだし、その靴は危なっかしくて気になって仕方がない。今お前が着ている服も違和感がありすぎて、俺が仕事に集中できなくなるからやめてくれ」
「それは、すべてだめってことなのでしょうか?」
「ああ、すべてだめだな。明日からは変な気を遣わず、お前らしい格好で来てくれ。また今日のような格好をしていたら、俺が用意した服に着替えてもらうから」
私は言葉には出さなかったが、『ひどい』と目で訴えた。
「そんな顔をしても無駄だ。これでもしばらくの間は我慢していたんだ。お前だって余計なことに気を取られずに気持ちよく仕事がしたいだろう?」
「それは、そうですけど……」
「だったら、明日からはその格好はしてくるなよ。ここに通いはじめた頃の格好で構わないから」
「はい……、分かりました」
私は渋々そう答えると小さく頭を下げた。たしかにこの格好は動きづらいし、自分でも違和感を持つくらい似合っていないと感じていた。そういう意味では、はっきり言ってもらえてよかったのかもしれない。
「今日はもう上がっていいぞ」
「え? でもまだ大分早い気がしますが……」
「問題ない。今日の分の仕事はもう終わっている。お前は要領がいいし、丁寧に仕事をしてくれるから助かっているよ。いつもありがとう」
「いえ、私は当然のことをしているだけで……」
突然褒められると狼狽えてしまう。殿下は思ったことをはっきりと口にするタイプであるが、褒めることも決して忘れない。だからこそ、彼のもとで仕事をすることが苦に感じないのだろう。
「謙遜する必要はない。もし早く帰ることが気になるのなら、服装選びの時間に使ってくれ」
「……分かりました、それではお先に失礼します」
私は会釈して、荷物を持ち執務室をあとにした。
(服装選び、か……。余計なことを考えすぎたってことよね。邸に戻ったら明日から着ていく服を選ばないと)
邸に帰ると、入り口に馬車が止められているのが目に入った。誰か来ているのかしら、と思いながら歩いていると、普段よりも数時間早く帰宅した私を見て、なぜか使用人たちは動揺を見せた。
「アリーセお嬢様、今日はずいぶんとお早いお戻りなのですね……」
「今日は早く仕事が終わったの。邸の前に馬車が止めてあったけど、誰かいらしているの?」
なんとなく気になり尋ねてみると、使用人は顔色を曇らせ小さく頷いた。
「……はい。ルシアノ様がいらしております」
「え? ルシが来ているの?」
今日彼が邸に来るという連絡は受けていなかったから、驚いて聞き返してしまう。しかし、使用人の動揺ぶりから、どういう状況なのかなんとなく理解できてしまった。
「ルシは今どこにいるの?」
「それは……。ニコル様の部屋にいらっしゃいます」
使用人の言葉を聞いて私は目を細めた。想像したとおりだ。
「どうして、私の婚約者がニコルの部屋にいるの?」
「先日から、ニコル様の勉強を見ていらっしゃるようでして……」
「ニコルは学園に通っているのに?」
「はい。学園の授業を終えられたあとにニコル様と一緒に邸にいらして、数時間教えていらっしゃいます」
初めて知る事実に驚きを隠せない。二人が特別な関係であるかもしれないことは知っている。しかし、私に黙って会っているとは思いもしなかった。使用人を責めるつもりはないけれど、口調が強くなってしまう。
わずかに震えている自分の掌をぎゅっと握りしめ、心を落ち着かせた。
「ごめんなさい。少し驚いてしまったの。今、ルシはニコルの部屋にいるのよね?」
「は、はい……」
「分かったわ、ありがとう」
私はそう短く告げると、階段を上がりニコルの部屋へ向かう。
(私が仕事でいない時間に、堂々と邸で逢引き……? 信じられない……)
呆れと動揺から足取りは重かった。前進するたびに心の中にもやが広がり、苛立ちや不安で心拍が徐々に速まっていく。
そんなことを考えていると、あっという間にニコルの部屋の前に辿り着いた。心を落ち着かせるために一度深呼吸をし、わずかに扉を開く。
「……僕は、やっぱり君のことが好きだよ」
「私もルシ様のことが好き。このまま時間が止まってしまえばいいのに……」
扉の隙間から聞きたくない言葉が次々と飛び込んでくる。
ニコルと私は実の姉妹ではない。私には双子の妹がいたのだが、幼い頃に不慮の事故に遭い短い生涯を終えてしまった。それがきっかけで母は極度の鬱状態になり、心配した父が妹の代わりにと養子をとることに決めた。それがニコルだった。
私とニコルは髪色だけは同じだが、それ以外はまったく違う。ニコルは一つ年下の十八歳であるが、成長期を迎えると身長は私の背丈を超え、さらには美しい容貌に変わっていった。くせのないさらりとした長い髪に、瞳はオレンジ色をしている。童顔の私とは異なり大人っぽさもあって、夜会に参加するとニコルの周りには多くの異性が集まってくる。人当たりもいいので、打ち解けやすいのだろう。ニコルを狙っている子息は少なくないはずだ。
母はニコルを死んだ妹の生まれ変わりだと信じ、過保護に可愛がりすぎた。そのせいでニコルは少し我儘な性格になってしまった。けれど、ニコルが来たことで邸には明るさと平穏が戻ったので、私はよかったと思っている。それなのに……、こんなことになるなんて。
(ニコルもルシのことが好きだったの……?)
私は混乱していた。一年前にルシアノのあの発言を聞いてから、彼のニコルへの想いは一方通行だと思い込んでいたからだ。
学園に通いはじめるまでは三人で一緒に過ごすことが多く、もともと愛想がよかったニコルはすぐにルシアノとも打ち解けて仲よくなった。とはいえ、ルシアノは私にはいつも優しく接してくれたし、婚約者としての自覚も持っているように思えた。
私だけが王立学園に通い、二人は貴族学園に通っていたので、会う時間は以前より少なくなった。しかし、休日になると必ずルシアノは邸に来てくれたし、街にも連れていってくれた。周囲にはいい婚約者に映っていたに違いない。
けれど、実際は私に隠れて妹を口説いていたのだろう。私に会いに来ることすら、彼にとっては妹に会う口実にすぎなかったのかもしれない。
私はあの日ルシアノの気持ちを知ったあとも、一時的な気の迷いかもしれないと思い、見て見ぬふりを続けてきた。三人の関係が壊れることを恐れ、認めたくなかったのだ。
しかし、実際はすでに心を通じ合わせていたという。それを知った瞬間、私の中で糸がぷつんと切れたような気がした。裏切られた怒りもあるけど、それ以上に虚しくなって、もうどうでもよくなった。
(こんなことならもっと早くに見切りをつけておくべきだった……)
私は躊躇することなく扉を大きく開け、ズカズカと部屋の中へ入っていく。案の定二人は抱き合っていて、私に気づくと驚いた顔を浮かべ慌てて離れた。
「アリー、なんでここに……」
「なんでって、それはこっちの台詞よ。私がいない間を狙ってコソコソと会っているなんて思いもしなかったわ」
ルシアノは狼狽えた様子で声をかけてきたので、私は淡々と答えた。
「お姉様! こ、これは、ルシ様に勉強を教えてもらっていただけですっ!」
今度は慌ててニコルが言い訳をはじめる。しかし、この状況で言われても説得力はない。私は目を細めて二人を交互に見つめた。
「勉強……? 『君のことが好きだ』とか『私もルシ様が好き』とか言って抱き合っておいて、よくそんなことが言えるわね。密会の間違いじゃないの?」
「そ、それはっ……」
私が一部始終を見ていたことを知ると、二人は重い表情を浮かべ押し黙った。正直なところ、私はこれ以上二人を責める気力なんてなかった。もうどうでもいい、そう思いはじめていたからだ。
「実は、以前からルシの気持ちは知っていたの。だから、隠す必要なんてないわ」
「え……?」
「一年くらい前、寝ているニコルに気持ちを伝えている場面を偶然見てしまったから」
私が静かに言うと、ルシアノは驚いた表情を見せて、ニコルは「ごめんなさい、お姉様……」と泣きそうな顔で頭を下げた。
(認めるのね……)
正直、謝られたところで私の気持ちは穏やかにはならないし、簡単に許せるほど寛大な心は持っていない。
「別にもういいわ。そんなに思い合っているのなら二人が結婚すればいいだけのことでしょ? 私はルシとの婚約を白紙に戻させてもらうから、あとは二人で好きにして」
「ま、待ってくれっ!」
私が一方的に話を進めると、ルシアノが焦った形相で反論してきた。
「私はあなたの婚約者を降りるって言っているのに、なにか不満でもあるの?」
「婚約については家同士が決めたものだ。そんな簡単には……」
「ルシが私から妹に乗り換えるのだから、家の問題はないはずよね?」
苛立っていることもあり、感情が昂りつい棘のある言葉を吐いてしまう。
「それは……」
ルシアノは言い返すことができず、苦しそうな表情を浮かべた。すると今度はニコルが口を出す。
「お姉様、そんな言い方しなくても……。酷いわっ!」
「だって本当のことじゃない。二人は私に隠れてそういう関係になってずっと騙していたくせに。本当に酷いのはどっちのほうなのかしら」
私が言い返すとニコルは言葉を詰まらせ、再び黙り込んでしまった。
「このことはどちらから両家に伝えますか? 私からでも構いませんが、その場合は二人の関係を率直に伝えます」
「アリー、待ってくれ。そんなに急に言われても困る」
「困る……? 困るってなんですか? ずっと私のことを騙し続けていたくせに、どれだけばかにすれば気が済むの? 最低ね」
自分の都合ばかりを優先しようとするルシアノに冷たい視線を向けた。この期に及んで、事実を認めようとしない態度がどうしても許せない。
「……ごめん。だけど、少しだけ待ってほしい」
「少しって、どれくらいですか? 私は浮気をするような婚約者なんていりません。今すぐにでもルシとの婚約は解消したいくらいよ。そのほうが二人にとっても好都合なはずでしょ。コソコソする必要がなくなるのだから……」
そのあとは完全にだんまりで、これ以上の進展は望めなかった。仕方なく私が折れてしばらく待つということで話はついたのだが、どんな言い訳をされようが私の気持ちは変わらないだろう。
(絶対にルシとの婚約は解消するわ……)
そう心に強く決めて部屋に戻った私は、時間とともに冷静になっていった。気持ちが落ち着いてくると、勢いであんなことを言ってしまったことを少しだけ後悔した。裏切られたことはどうやったって許せない。けれど、私がルシアノを好きだったことは事実であるし、ニコルのことは本当の妹のように思っていた。
(私たちの関係は、これからどうなってしまうんだろう……)
そう思うと心の中は不安でいっぱいになる。しかし、考えても答えなんて出るはずもなく、口から漏れるのはため息ばかりだ。それに、二人が思い合っていることを知ってしまった以上、私には身を引く選択肢しか残っていない。惨めな思いをしてまでルシアノに縋りたくない。一年前から彼の気持ちを知っていたこともあり、それほど落ち込むことはなかった。
それから数日がすぎた頃、大きな花束を抱えてルシアノが邸を訪れた。私との婚約を白紙に戻し、ニコルと婚約を結ぶお祝いとして持ってきたのだろう。たまたま大広間にいた私は運悪く彼と目が合ってしまう。すると、ルシアノはぱっと笑顔を浮かべた。
「ああ、アリー。遅くなってごめん」
「ニコルなら自室にいるわ」
彼の白々しい態度に呆れて、私は眉を顰めた。そんな私の表情を見てルシアノは一瞬だけ悲しそうな顔を浮かべた。
「今日はアリー、君に会いに来たんだ」
「あの話をしに来られたのですか?」
あの話というのは私たちの婚約解消の話だ。この件は保留にしてあるので、両親にはまだ伝えていない。もしかしたら、彼は今日その話をしに来たのかもしれない。
「その前にもう一度、君とちゃんと話をしたいと思って……」
「話すことなんて、もうなにもないはずです」
私はルシアノを睨みつけ、静かに答えた。
そんなとき、タイミング悪く母が通りかかった。母はルシアノを見つけると嬉しそうに近づいてくる。
「あら、ルシアノ様、いらしていたのね」
「プラーム夫人、急に訪ねてしまい申し訳ありません」
「そんなことはないわ。アリーに会いに来たのでしょ? あらまあ、素敵な花束ね。アリーの好きなピンクのバラだわ」
「はい。アリーには迷惑をかけてしまったので……。これで僕の気持ちが伝わるといいのですが」
私は二人の会話をただ眺めることしかできない。ここで取り乱したりしたら母が変に思うからだ。そんな私の気持ちとは裏腹に、二人は楽しそうで複雑な気分になる。
「そうなの? だけど、いつもよくしてくださっているのだし、気にしなくていいわ。アリーだって、もう怒っているわけではないのでしょ?」
「え……? それは……」
突然、母から話を振られて困っていると、今度はニコルがやってきた。
「ルシ様、いらしてたんですね!」
「うん……」
「わぁ、素敵なお花。お姉様、よかったですねっ!」
ニコルはなにもなかったかのように、にっこりと微笑んだ。私だけが腑に落ちない気持ちを抱き、他の三人は仲よさそうに話している。なにも事情を知らない母の態度は分かるが、ルシアノとニコルの白々しい様子に私は困惑していた。
「ニコル、邪魔しちゃだめよ。ルシアノ様はアリーに会いに来たのだから」
「分かっていますわ、お母様。私は賑やかな声が聞こえたから挨拶に来ただけです」
「そう、それならいいわ。アリーは早くルシアノ様を部屋に案内してあげなさい。いつまでもここで待たせておくのは失礼よ」
「はい……」
母に強く言われてしまい、私は渋々部屋にルシアノを招き入れた。本当は二人きりで話なんてしたくない。だから、用件だけ済ませてすぐに帰ってもらおうと考えていた。
1
お気に入りに追加
3,478
あなたにおすすめの小説
義妹の嫌がらせで、子持ち男性と結婚する羽目になりました。義理の娘に嫌われることも覚悟していましたが、本当の家族を手に入れることができました。
石河 翠
ファンタジー
義母と義妹の嫌がらせにより、子持ち男性の元に嫁ぐことになった主人公。夫になる男性は、前妻が残した一人娘を可愛がっており、新しい子どもはいらないのだという。
実家を出ても、自分は家族を持つことなどできない。そう思っていた主人公だが、娘思いの男性と素直になれないわがままな義理の娘に好感を持ち、少しずつ距離を縮めていく。
そんなある日、死んだはずの前妻が屋敷に現れ、主人公を追い出そうとしてきた。前妻いわく、血の繋がった母親の方が、継母よりも価値があるのだという。主人公が言葉に詰まったその時……。
血の繋がらない母と娘が家族になるまでのお話。
この作品は、小説家になろうおよびエブリスタにも投稿しております。
扉絵は、管澤捻さまに描いていただきました。
【商業企画進行中・取り下げ予定】さようなら、私の初恋。
ごろごろみかん。
ファンタジー
結婚式の夜、私はあなたに殺された。
彼に嫌悪されているのは知っていたけど、でも、殺されるほどだとは思っていなかった。
「誰も、お前なんか必要としていない」
最期の時に言われた言葉。彼に嫌われていても、彼にほかに愛するひとがいても、私は彼の婚約者であることをやめなかった。やめられなかった。私には責務があるから。
だけどそれも、意味のないことだったのだ。
彼に殺されて、気がつけば彼と結婚する半年前に戻っていた。
なぜ時が戻ったのかは分からない。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
あなたは私をいらないと言ったけど──私も、私の人生にあなたはいらない。
私は、私の生きたいように生きます。
結婚しても別居して私は楽しくくらしたいので、どうぞ好きな女性を作ってください
シンさん
ファンタジー
サナス伯爵の娘、ニーナは隣国のアルデーテ王国の王太子との婚約が決まる。
国に行ったはいいけど、王都から程遠い別邸に放置され、1度も会いに来る事はない。
溺愛する女性がいるとの噂も!
それって最高!好きでもない男の子供をつくらなくていいかもしれないし。
それに私は、最初から別居して楽しく暮らしたかったんだから!
そんな別居願望たっぷりの伯爵令嬢と王子の恋愛ストーリー
最後まで書きあがっていますので、随時更新します。
表紙はエブリスタでBeeさんに描いて頂きました!綺麗なイラストが沢山ございます。リンク貼らせていただきました。

〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です
ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」
「では、契約結婚といたしましょう」
そうして今の夫と結婚したシドローネ。
夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。
彼には愛するひとがいる。
それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?
記憶喪失になった嫌われ悪女は心を入れ替える事にした
結城芙由奈@コミカライズ発売中
ファンタジー
池で溺れて死にかけた私は意識を取り戻した時、全ての記憶を失っていた。それと同時に自分が周囲の人々から陰で悪女と呼ばれ、嫌われている事を知る。どうせ記憶喪失になったなら今から心を入れ替えて生きていこう。そして私はさらに衝撃の事実を知る事になる―。
悪役令嬢は永眠しました
詩海猫
ファンタジー
「お前のような女との婚約は破棄だっ、ロザリンダ・ラクシエル!だがお前のような女でも使い道はある、ジルデ公との縁談を調えてやった!感謝して公との間に沢山の子を産むがいい!」
長年の婚約者であった王太子のこの言葉に気を失った公爵令嬢・ロザリンダ。
だが、次に目覚めた時のロザリンダの魂は別人だった。
ロザリンダとして目覚めた木の葉サツキは、ロザリンダの意識がショックのあまり永遠の眠りについてしまったことを知り、「なぜロザリンダはこんなに努力してるのに周りはクズばっかりなの?まかせてロザリンダ!きっちりお返ししてあげるからね!」
*思いつきでプロットなしで書き始めましたが結末は決めています。暗い展開の話を書いているとメンタルにもろに影響して生活に支障が出ることに気付きました。定期的に強気主人公を暴れさせないと(?)書き続けるのは不可能なようなのでメンタル状態に合わせて書けるものから書いていくことにします、ご了承下さいm(_ _)m
どうも、死んだはずの悪役令嬢です。
西藤島 みや
ファンタジー
ある夏の夜。公爵令嬢のアシュレイは王宮殿の舞踏会で、婚約者のルディ皇子にいつも通り罵声を浴びせられていた。
皇子の罵声のせいで、男にだらしなく浪費家と思われて王宮殿の使用人どころか通っている学園でも遠巻きにされているアシュレイ。
アシュレイの誕生日だというのに、エスコートすら放棄して、皇子づきのメイドのミュシャに気を遣うよう求めてくる皇子と取り巻き達に、呆れるばかり。
「幼馴染みだかなんだかしらないけれど、もう限界だわ。あの人達に罰があたればいいのに」
こっそり呟いた瞬間、
《願いを聞き届けてあげるよ!》
何故か全くの別人になってしまっていたアシュレイ。目の前で、アシュレイが倒れて意識不明になるのを見ることになる。
「よくも、義妹にこんなことを!皇子、婚約はなかったことにしてもらいます!」
義父と義兄はアシュレイが状況を理解する前に、アシュレイの体を持ち去ってしまう。
今までミュシャを崇めてアシュレイを冷遇してきた取り巻き達は、次々と不幸に巻き込まれてゆき…ついには、ミュシャや皇子まで…
ひたすら一人づつざまあされていくのを、呆然と見守ることになってしまった公爵令嬢と、怒り心頭の義父と義兄の物語。
はたしてアシュレイは元に戻れるのか?
剣と魔法と妖精の住む世界の、まあまあよくあるざまあメインの物語です。
ざまあが書きたかった。それだけです。
過去1ヶ月以内にノーチェの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、ノーチェのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にノーチェの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、ノーチェのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。