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1巻
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プロローグ
高級ホテルの最上階のスイートルーム。
広々とした室内に置かれたダブルベッドの上で、私は一夜の相手――久我さんによってもたらされる強烈な快感に悶えた。
ブラジャーを外してからも、彼は性急に頂きに触れるようなことはしなかった。指の腹を使って胸の外側をいやらしくなぞる。
「んっ……」
じれったいような感覚にたまらず声を漏らす。久我さんは私の唇を奪い、柔らかい舌を口内に差し込んで私の舌を搦め取った。唇を音を立てて食まれて吸い上げられ、この先を予感させるような官能的なキスの嵐に、脳が蕩けてしまいそうになる。
長く濃厚なキスだった。久我さんは一度私の髪を撫でたあと、ベッドに手をついて体を移動させた。
真っ暗な部屋の中で、ギシッとわずかに弾むスプリングの音。シーツが擦れる音とともに、彼は探るように私の腰の括れを大きな手のひらでなぞった。
腹部になにかが近付く気配がする。熱い吐息がかかったと思った途端、柔らかく熱い舌先は、ツーッと私の腹部から胸の膨らみの下までをゆっくりと舐め上げる。けれど、決して胸の頂きには触れようとしない。さらなる刺激を待ち望むふたつのピンク色の蕾がぷっくりと膨らむ。
「……っ、意地悪しないで……」
「意地悪?」
余裕を失くしそうになる私とは対照的に、彼の声色はどこか楽しそうだ。
頂きに彼の熱い息がかかるだけで下半身が切なく疼き、膝と膝を擦り合わせて必死にそれに抗う。
「萌音、分からないから、ちゃんと言ってくれ」
久我さんは私がなにを訴えているのか知っていて、あえて羞恥心を刺激しようとしてくる。
「早く触って……ほしいです」
「ああ、ここか?」
なんの前触れもなく、彼の指先が胸の先端に触れた。
「あぁ!」
その瞬間、背中が弓なりのように反り、甲高い嬌声を上げてしまう。たっぷり焦らされた頂きは敏感になり、感度が上がっていた。
淫靡な喘ぎ声を上げた自分自身を恥じて、口元を手のひらで覆う。
「我慢しなくていい」
久我さんは私の左手を拘束するみたいに、指先を絡めてシーツに押し付ける。
「だって、恥ずかしい……」
「大丈夫だ。ここには俺しかいない」
「久我さんだから……恥ずかしいんです」
「あまり煽るな」
絡まった指に力がこもった途端、久我さんは私の乳輪を口に含み、そのまま敏感になった先端を柔らかい舌でペロリと舐め上げた。
「あっ……んんっ……」
快感が全身を突き抜け、声を我慢する余裕もない。息を吐く暇も与えられず、ふたつの先端を指と舌で器用に攻め立てられる。
舌先で弾くように舐めたり、唇に挟み強弱をつけて甘く吸い上げられたりする度に、私は熱い喘ぎを漏らしてビクビクと肌を波立たせた。
下半身が我慢できないほどに疼いて熱を帯びる。快感がくっきりとした芯を持つ。
ふいに久我さんが体勢を変え、太ももになにかが当たった。それはとても熱い、硬く反り立った彼自身だ。こんなにも私の体で欲情してくれていると知り、喜びが胸に込み上げてくる。
長い指が、ショーツのクロッチの外側をゆるゆるとなぞる。すでにぐっしょりとなっているのが自分でも分かった。
「ああっ!」
カリッと指先で敏感な部分を弾かれた瞬間、快感が脳まで突き抜けた。
その後、ショーツをはぎ取られ、脚を押し広げられる。
「ずいぶん濡れやすいんだな」
低い声で言われて、恥ずかしさに脳が痺れる。
ヌメヌメした大量の愛液を指先で掬い取られて上下に動かされ、クチュッと卑猥な音が響く。
瞬間、暗闇の中で久我さんが息を呑んだのが分かった。
彼は太ももの間に体を滑り込ませると、私の両膝をグッと広げて、その間に顔を埋めた。
「待って……。そこはダメです……。恥ずかしい……」
「大丈夫だ。じきに恥ずかしがる余裕はなくなる」
彼の熱い吐息が敏感な部分に触れた途端、ビクッと下腹が波打った。肉厚な舌の腹が、私の脚の付け根を行ったり来たりする。それは敏感な部分を避け、その周りを音を立ててちゅっちゅっと吸い上げた。
脚にピンッと力がこもる。久我さんは限界まで私を焦らしたあと、ぷっくりと膨らみ尖った秘玉を舌全体で舐め上げた。
「ああっ……!!」
あまりの快感に自然と腰が引ける。逃げようとする私の腰を抱え込んで、彼は舌先を陰核の一点に集中させて小刻みに舌を揺らした。
「あっ、ああっ……」
激しく悶える私の下半身は、自分の意思とは関係なく彼の動きに合わせて震える。
――まさかこの人とこんなことになるなんて。あのときの私は考えてもいなかった。
第一章 出会いは突然に
「いらっしゃいませ」
休日の昼下がり。店にやってきたのは、近所に住むお得意客の曽根様だった。
話を聞くと、近々娘さんの結婚式が執り行われるらしい。
「今日は結婚式に着る着物を仕立ててほしくて来たのよ」
「ご結婚おめでとうございます。以前、曽根様と一緒にご来店くださった娘さんですか?」
「そうそう。結構前なのに覚えていてくれて嬉しいわ。萌音ちゃんにお願いしに来て正解ね」
「そう言っていただけて光栄です。こちらへどうぞ」
笑顔で頭を下げ、私は曽根様を反物のあるコーナーへ案内する。
ここは、父方で代々続く老舗呉服屋だ。創業は大正時代で、今年百周年を迎える。
取り扱う着物は、カジュアルな普段着から格式の高い礼服、さらに、レンタル用まで多岐にわたる。
帯や下駄、小物等も取り扱い、お客様の好みや雰囲気に合わせて帯の色やデザインの組み合わせの提案も行っていた。
「黒留袖用の反物はこちらになります」
黒留袖は、既婚女性が着る最も格式の高い正礼装だ。私は反物をひとつひとつ手に取り、曽根様に説明する。
「どれも素敵ね。萌音ちゃんのおすすめはある?」
「そうですね。やや落ち着いた印象の、格式の高い柄を選ばれてはいかがでしょうか? 例えば、松竹梅や鳳凰は、慶びを表現する柄となっております」
「どれもとっても素敵ね。ただ、どれが自分に合うのか分からないわ」
「それでしたら、お顔に合わせてみませんか?」
三点の反物を前に悩む曽根様を、奥の畳のある個室へ案内した。大きな鏡の前で両肩から反物を掛け、顔映えと全体の印象を一緒に確認する。
「うん、これがいいわ!」
「とってもお似合いです」
曽根様のお眼鏡に適ったのは、鳳凰柄の反物だった。
帯は格式高いことはもちろん、軽くて結びやすい錦織の袋帯を選んだ。金糸や銀糸を使用した豪華絢爛な文様が織られ、黒留袖を一層華やかに演出してくれる。
小物類など一通り選び終えてから、私たちは個室を出た。
曽根様に飲み物の用意をしようと思っていたタイミングで、「お疲れ様でございました。お飲み物はいかがでしょうか?」とアルバイトの秋穂ちゃんが曽根様に声を掛ける。
「あらっ、嬉しい。ちょうど喉が渇いていたのよ」
「こちらの席へどうぞ」
曽根様をスマートに案内する秋穂ちゃんに、ありがとうの意味を含めて微笑んで小さく頷くと、彼女は少し照れくさそうにはにかんだ。
「萌音ちゃん、また来るわね」
「ありがとうございました。お気をつけて」
しばらくして曽根様を秋穂ちゃんとともに店の外まで見送り、深々と頭を下げる。
七月下旬。少し外に出ただけで、太陽の光に肌をジリジリと焼かれてじんわりと汗ばむ。冷房の効いた涼しい店内に戻るなり、私は秋穂ちゃんに笑顔を向けた。
「秋穂ちゃん、すごい! 飲み物を勧めるタイミング、バッチリだったね」
「ありがとうございます。いつも萌音さんがやっているのを真似してみました」
褒められたことが嬉しかったのだろう、秋穂ちゃんは分かりやすく表情を輝かせる。
「こちらこそありがとう。曽根様にも喜んでもらえたし、助かったよ」
「萌音さんのお役に立てて嬉しいです」
その健気な言葉に胸の中が温かくなる。
昨年、訳あって従業員がごっそり退職し、私だけの力ではどうすることもできず、縋るような気持ちで求人を出した。特に呉服屋は七五三や成人式など繁忙期が年に数回あり、その時期はてんやわんやで目が回るほど忙しい。
そんなときに応募してくれたのが秋穂ちゃんだった。
私のひとつ年下の二十五歳。お人形のようにぱっちりとした二重の瞳に、長くくるんっと上を向いたまつ毛。誰が見ても可愛いと言うだろう、抜群の容姿の持ち主だ。
面接のとき、祖母の影響で昔から着物が好きだったと話していた。どうやら複雑な家庭の事情があるらしく、週に二回だけアルバイトとして働いてくれている。
秋穂ちゃんと談笑していると、その穏やかな雰囲気をぶち壊すように、奥の休憩室から父の後妻である神楽由紀子が姿を現した。
派手な化粧を施した彼女は、店内を見渡して不快そうに溜息を吐く。
「まったく、今日もガラガラじゃない。やっぱり、去年の暮れに求人なんて出したのは失敗だったのよ。なにもしないで給料だけ持っていかれたら、大赤字じゃない」
確かに七月の今は閑散期で、来店するお客様は多くはない。けれど、それは毎年のことであり、今に始まったことではなかった。
継母は私の隣にいる秋穂ちゃんに目を向けて、分かりやすく顔を顰める。
「彼女に文句を言うのはやめてください。私が採用すると決めたんです。責めるなら私にしてください」
私は毅然と言い返す。
継母はそれが気に食わなかったのか、眉間に皺を寄せて私を睨み付けた。
「アンタって昔からホントに生意気な子。可愛くないのは母親似ね」
「それは今関係ありますか? そもそも、母のなにを知っているというんですか?」
「うるさいわね。口答えしないで」
彼女が息をするように嫌味を言うのは、昔からずっと変わらない。
私が五歳のときに母が亡くなり、七歳のときに父が再婚した。相手は私のひとつ下の息子を持つ、シングルマザーの由紀子だった。
継母は父の前でだけは良い顔をして、見えないところで私を目の敵にした。
実の息子である尚だけを溺愛し、私には冷たい態度で接する彼女に、疎ましがられる毎日。それでも私は持ち前の負けん気の強さで、その理不尽に耐え続けた。
高校卒業後は、理系の大学に進学するつもりで、父も私の気持ちを尊重して応援してくれた。
興味のあった医薬品メーカーに就職することを目標に、高校時代は寝る間も惜しんで勉学に勤しんだ。
けれど、それは儚い夢と散る。高二の夏に父が突然病に倒れて、他界してしまったのだ。
『呉服屋の名義も権利もすべて萌音に書き換えた。店をどうするかはお前に任せる。今まで辛い思いをさせて悪かった』
亡くなる直前、父は私に言った。私が継母から受けていた仕打ちを知っていたのだ。
葬儀が一段落したあと、継母に今後の相談をした。父の遺産とはいえ、継母が私のために高額な大学費用を捻出してくれるはずがない。
だから、奨学金を借りて大学に通いたいと頼み込んだものの、継母は『お父さんの呉服店はどうするの? アンタの代で潰すの?』などと詰め寄ってきた。
この呉服屋は、曾祖母の時代から代々続いている。幼い頃、実の両親が揃って働いていたここで、私は幸せな時間を過ごした。
お客様と笑顔で言葉を交わす母と、それを温かく見つめる父。両親が仕事をする傍ら、受付カウンターの椅子に座って脚をパタパタさせながらお絵描きをする私。
今も私の心の中には、当時の幸せな思い出が色濃く残っている。結局、私は亡き両親のために店を守る決意を固めた。大学進学を諦めて、授業が終わるとすぐに店に出て手伝うようになった。
そして、高校を卒業すると同時にこの呉服屋で働き始めたのだった。
当時は数人のベテラン従業員がいた。右も左も分からぬ私は、彼らに頭を下げて店の経営やノウハウを一通り学んだ。
父の死後も、従業員やお得意様が支えてくれたおかげでなんとか店を維持できていた。けれど、昨年従業員が一斉に退職した。原因は継母からの度重なるパワハラだ。
精神的に追い詰められ、やむなく決断したと彼らに涙ながらに打ち明けられたとき、申し訳なくて胸が張り裂けそうになった。もっと私に力があれば、従業員を守れたのに。自分の無力さを痛感した瞬間だった。
「ねえ、秋穂。あなたどうせ暇でしょ。コンビニでタバコを買ってきてちょうだいよ」
「えっと……タバコですか。買い方を教えてもらえますか?」
秋穂ちゃんが困ったように言う。
すると、継母は「信じられない!」と大げさに叫んだ。
「あなた、二十五にもなってタバコの買い方も知らないの!? 今までどうやって生きてきたのよ。もう若くないくせに、そんなことすら知らなくてどうするの?」
嘲笑うような口調の継母の姿に嫌悪感を抱く。
「ほんっとなんの役にも立たない使えない子ね! 親の顔が見てみたいわ」
「すみません……」
秋穂ちゃんは申し訳なさそうに頭を下げる。継母は知らないけれど、彼女は名家のお嬢様で相当な箱入り娘らしい。今まで家族に猛反対されて、バイトをすることすら認めてもらえなかったのだという。
身なりはきちんとしているし、知らないことは多いけれど、教養はある。一度教えた仕事はすぐに覚えて完璧にこなしてくれる優秀な人材だ。
継母に小言を言われたことで、嫌になって辞められてしまうのだけは絶対に阻止せねば。
「やめてください。タバコぐらいご自分で買いに行かれたらどうです? コンビニは歩いていけるところにありますし」
「ハァ!? こんな暑い中、あたしに行かせようって言うの!?」
「暑いのはみんな一緒です。それと、お店に部外者を連れ込むのはやめてほしいと言いましたよね」
私は奥の休憩室にいる男に聞こえないように、声を押し殺して言った。
「あたしに命令すんじゃないわよ!」
「父の遺してくれた店で好き勝手されたら困ります。あなたがプライベートでなにをしていようが構いませんが、公私混同はやめてください」
昨年、継母には彼氏ができた。人相の悪い小太りのスキンヘッドの男。名前は黒岩というらしい。竹政組に所属するヤクザの幹部だと、以前継母が自慢げに話していた。
継母はその男にベタ惚れで、最近では一緒に店にやってきては休憩室にこもり、なにやらコソコソと親密そうなやり取りをしている。
「ホント嫌な子! いいからさっさと買いに行って! いいわね!」
怒りを通り越して呆れてしまう。継母はタバコを吸わない。ということは、タバコを欲しているのは黒岩だ。どうしてこんなことまでさせられないといけないのだろうと、理不尽な要求に憤る。
「あのっ……!」
なにかを言いかけた秋穂ちゃんを、継母が鋭く睨む。
「ハァ? なによ」
「……いえ、なんでもありません」
秋穂ちゃんは言い返そうとしたけれどできなかったのだろうか、必死に耐えるように奥歯を噛みしめて俯く。
「まったく煮え切らない子ね。いいから今すぐ買ってきなさい!」
継母はヒステリックな金切り声を上げ、再び奥の休憩室に引っ込んでいく。
その背中を見送ると、「すみません」と秋穂ちゃんが謝ってきた。小動物のように可愛らしくつぶらな瞳が涙で潤んでいる。
「私のせいで萌音さんまで悪く言われてしまって……本当にすみません」
「いいの、気にしないで。むしろ謝らないといけないのは私のほう。あの人のこと、止められなくてごめんね。タバコは私が買ってくるから」
「いえ、私が――」
「大丈夫。その代わり、店番を任せてもいいかな? できるだけ早く戻ってくるね」
「……分かりました。お気をつけて」
「ありがとう。行ってきます」
秋穂ちゃんは私にとって心強い存在だ。高校卒業後、仲の良かった友達はみんな大学へ進学し、都内の一流企業に就職して疎遠になってしまった。
『店が忙しいときに自分の成人式に出る!? そんなの無理に決まってるでしょ!』
継母は私が成人式に参加することすら許してくれなかった。父が亡くなったあと、自由はなくなり、私はずっと継母という存在に縛られて生きてきた。当時の苦い記憶が蘇り、胸が痛む。
この呉服屋で働くのは、継母と私と秋穂ちゃんの三人だけ。年の近い秋穂ちゃんと仕事終わりに言葉を交わすのが、今の私にとって一番の癒しだった。
近くのコンビニでタバコを買って、来た道を引き返す。そのとき、前方から真っ白な日傘を差して歩いてきた高齢の女性に目がいった。
八十代前半だろうか。華やかな顔立ちのグレイヘアの女性は背筋をスッと伸ばし、颯爽とこちらに向かって歩を進めている。女性は準礼装として着られる訪問着を身に纏っていた。見事なほどに鮮やかな梅の柄だ。寒い中で花を咲かせることから、女性の強さを表しているという。まさに、このおばあさんにピッタリの着物だ。
あと少しですれ違うというとき、私の後方からザッザッという軽快な足音が聞こえた。
次の瞬間、黒い影が私を追い越していく。全身黒ずくめの男はなんの迷いもなくすれ違いざまにおばあさんの手提げ巾着を引ったくった。
「あっ! 泥棒!!」
おばあさんが叫ぶ。私は体勢を崩したおばあさんを咄嗟に支えて尋ねた。
「大丈夫ですか? おケガはありませんか?」
「ええ。大丈夫」
無事を確認してホッと胸を撫で下ろす。
その後、私は駆け出して、男の背中を追いかけた。
「待ちなさい!」
走りにはそれなりに自信がある。小中高と陸上部に所属して、短距離の選手として大会によく出場していた。パンツスーツにヒール靴という悪条件ではあるものの、男に追いつけるはずだ。
太陽に熱せられたアスファルトを蹴り、全速力で駆ける。男との距離はみるみるうちに縮まっていく。
「いい加減、諦めなさい!」
「くそっ、離せ!」
後方から男の腕を掴んだ瞬間、男は勢いよく私の手を振り払った。その拍子にバランスを崩して、私は尻もちをつく。両手で支えたせいで、手のひらがアスファルトで擦れてじんわりと血が滲む。
そのとき、動揺した男の手から手提げ巾着が離れるのを私は見逃さなかった。
反射的に目の前に落ちた巾着を掴み、両腕で抱きしめる。
「これは俺のもんだ!」
男が私の胸元に手を伸ばして、ぐいっと巾着を引っ張った瞬間、突如後方からやってきた黒塗りの高級車が私たちの傍で急ブレーキをかけた。
運転席から誰かが颯爽と降りてくる。背の高い男性だった。太陽の光が逆光になって顔がよく見えない。それに気付いたひったくり犯は、敵わないと思ったのか逃げて行った。
「大丈夫か?」
低い男性の声がして、私はそっと顔を上げる。
親切な誰かが助けてくれたんだと分かり、安堵すると同時に目にじんわりと涙が浮かぶ。
さっきは勢いで男を追いかけたものの、巾着を引っ張る力強さと凶暴な声を思い出して、今さらながら恐怖を覚えた。立ち上がろうとしたものの、脚に力が入らない。
すると男性は腰の抜けた私の背中に腕を回して、ゆっくりと立ち上がらせてくれた。
「すみません、ありがとうございます」
何気なく男性のほうへ視線を送る。目が合った瞬間、息を呑んだ。
男性は、信じられないぐらい端整な顔立ちをしていた。男らしく高い鼻梁に、切れ長の瞳。薄く形のいい唇は真一文字に結ばれている。
長身の細身に纏っている上質なグレーのスーツは、間違いなくオーダーメイドだろう。ピカピカに磨き上げられたエナメルの靴は見るからに高価そうだ。
しなやかな黒髪は綺麗にセットされていて、品位溢れるその容姿に、私は息をするのも忘れて魅入ってしまう。
「あらっ、大変! ケガしてるじゃないの!」
黒塗りの車から先程のおばあさんが降りてきた。どうやら、ふたりは知り合いのようだ。
「他にケガは? ごめんなさいね。私のせいでご迷惑をおかけしちゃって。治療費をお支払いさせて」
年齢を感じさせない、ハキハキとした力のある口調だ。
「いえ! 大したケガではありませんし、大丈夫です」
治療費なんて大げさだ。軽く消毒をして絆創膏を貼れば、そのうちに治ってしまうだろう。
「そんなこと言わないで」
「本当にお気遣いなく。おばあさんにおケガがなくて本当に良かったです」
私は笑顔で返し、おばあさんに巾着を手渡す。
すると、おばあさんはジッと私の左手に視線を向けたあと、真剣な表情で尋ねた。
「失礼なことをお聞きしてしまうけど、あなたご結婚は?」
「いえ、まだですが……」
突然の質問に困惑しながらも答える。どうしてそんなことを聞くんだろう……?
すると、おばあさんはパッと表情を明るくして、パチンッと胸の前で手を叩く。
「すごいわ! これはきっと運命よ!」
言葉の意味が分からず首を傾げる私に、おばあさんはにんまりと微笑む。
「あなたは素晴らしい人よ。見ず知らずの年寄りのために、危険を冒してまで動こうとする人は稀だもの。あなたみたいに勇敢な女性はなかなかいないわ! ねっ、北斗もそう思うでしょ?」
「ええ」
北斗と呼ばれた男性は、無表情のまま心のこもらない返事をする。
「あなた、お名前は?」
「神楽萌音です」
「萌音さん、ね。私は久我和江。こっちの愛想のないのは、孫の北斗よ」
おばあさんの言葉にやれやれと溜息を吐く男性。こうやって見比べてみると、彼の顔立ちの良さはおばあさん譲りのようだ。
「治療費を受け取ってもらえないなら、せめてお食事だけでもご馳走させてもらえないかしら? あいにく私はしばらく忙しくて時間が取れないの。その代わりに孫の北斗が萌音さんをおもてなしするわ」
「……はい?」
表情は一切変えなかったものの、男性のこめかみがほんの一瞬だけピクリと反応する。わずかに見開かれた目の奥では、なにを言っているんだと呆れた様子が見て取れた。そんな男性を無視して、おばあさんはにこやかに続ける。
「だから、彼女とお食事をするの。きちんと素敵なレストランを予約して、エスコートするのよ」
だんまりを決め込む男性が気の毒で、私はすぐさま遠慮する。
「そんな! お礼なんて結構です。まだ仕事中なので、私はこれで失礼します」
「待ってちょうだい!」
頭を下げて去ろうとする私を、おばあさんが呼び止める。
「恩人にお礼のひとつもできないなんて、末代までの恥だわ……。萌音さん、お願いよ。年寄りの頼みだと思って聞いてもらえないかしら?」
潤んだ瞳で縋りつかれて、心が揺らぐ。
「ちなみに、今夜はご予定があるのかしら?」
「ありませんが……」
「お仕事は何時ぐらいに終わるの?」
「えっと、十九時には……」
「じゃあ、十九時にすぐそこにあるコンビニの駐車場で北斗を待たせておくわ。ほらっ、北斗。ぼさっとしてないで早く名刺をお渡ししなさい」
「ま、待ってください! 私、本当にそんなつもりじゃ……」
お礼に食事をご馳走になるなんておこがましい。それに、お孫さんである男性からは、私との食事に乗り気ではない雰囲気がビンビン伝わってくる。こんなにも素敵な男性だし、恋人がいるのかもしれない。ただの食事だとしても恋人に誤解されたら申し訳ないし、彼も嫌だろう。
だからこそ、このお誘いは断るべきだ。
高級ホテルの最上階のスイートルーム。
広々とした室内に置かれたダブルベッドの上で、私は一夜の相手――久我さんによってもたらされる強烈な快感に悶えた。
ブラジャーを外してからも、彼は性急に頂きに触れるようなことはしなかった。指の腹を使って胸の外側をいやらしくなぞる。
「んっ……」
じれったいような感覚にたまらず声を漏らす。久我さんは私の唇を奪い、柔らかい舌を口内に差し込んで私の舌を搦め取った。唇を音を立てて食まれて吸い上げられ、この先を予感させるような官能的なキスの嵐に、脳が蕩けてしまいそうになる。
長く濃厚なキスだった。久我さんは一度私の髪を撫でたあと、ベッドに手をついて体を移動させた。
真っ暗な部屋の中で、ギシッとわずかに弾むスプリングの音。シーツが擦れる音とともに、彼は探るように私の腰の括れを大きな手のひらでなぞった。
腹部になにかが近付く気配がする。熱い吐息がかかったと思った途端、柔らかく熱い舌先は、ツーッと私の腹部から胸の膨らみの下までをゆっくりと舐め上げる。けれど、決して胸の頂きには触れようとしない。さらなる刺激を待ち望むふたつのピンク色の蕾がぷっくりと膨らむ。
「……っ、意地悪しないで……」
「意地悪?」
余裕を失くしそうになる私とは対照的に、彼の声色はどこか楽しそうだ。
頂きに彼の熱い息がかかるだけで下半身が切なく疼き、膝と膝を擦り合わせて必死にそれに抗う。
「萌音、分からないから、ちゃんと言ってくれ」
久我さんは私がなにを訴えているのか知っていて、あえて羞恥心を刺激しようとしてくる。
「早く触って……ほしいです」
「ああ、ここか?」
なんの前触れもなく、彼の指先が胸の先端に触れた。
「あぁ!」
その瞬間、背中が弓なりのように反り、甲高い嬌声を上げてしまう。たっぷり焦らされた頂きは敏感になり、感度が上がっていた。
淫靡な喘ぎ声を上げた自分自身を恥じて、口元を手のひらで覆う。
「我慢しなくていい」
久我さんは私の左手を拘束するみたいに、指先を絡めてシーツに押し付ける。
「だって、恥ずかしい……」
「大丈夫だ。ここには俺しかいない」
「久我さんだから……恥ずかしいんです」
「あまり煽るな」
絡まった指に力がこもった途端、久我さんは私の乳輪を口に含み、そのまま敏感になった先端を柔らかい舌でペロリと舐め上げた。
「あっ……んんっ……」
快感が全身を突き抜け、声を我慢する余裕もない。息を吐く暇も与えられず、ふたつの先端を指と舌で器用に攻め立てられる。
舌先で弾くように舐めたり、唇に挟み強弱をつけて甘く吸い上げられたりする度に、私は熱い喘ぎを漏らしてビクビクと肌を波立たせた。
下半身が我慢できないほどに疼いて熱を帯びる。快感がくっきりとした芯を持つ。
ふいに久我さんが体勢を変え、太ももになにかが当たった。それはとても熱い、硬く反り立った彼自身だ。こんなにも私の体で欲情してくれていると知り、喜びが胸に込み上げてくる。
長い指が、ショーツのクロッチの外側をゆるゆるとなぞる。すでにぐっしょりとなっているのが自分でも分かった。
「ああっ!」
カリッと指先で敏感な部分を弾かれた瞬間、快感が脳まで突き抜けた。
その後、ショーツをはぎ取られ、脚を押し広げられる。
「ずいぶん濡れやすいんだな」
低い声で言われて、恥ずかしさに脳が痺れる。
ヌメヌメした大量の愛液を指先で掬い取られて上下に動かされ、クチュッと卑猥な音が響く。
瞬間、暗闇の中で久我さんが息を呑んだのが分かった。
彼は太ももの間に体を滑り込ませると、私の両膝をグッと広げて、その間に顔を埋めた。
「待って……。そこはダメです……。恥ずかしい……」
「大丈夫だ。じきに恥ずかしがる余裕はなくなる」
彼の熱い吐息が敏感な部分に触れた途端、ビクッと下腹が波打った。肉厚な舌の腹が、私の脚の付け根を行ったり来たりする。それは敏感な部分を避け、その周りを音を立ててちゅっちゅっと吸い上げた。
脚にピンッと力がこもる。久我さんは限界まで私を焦らしたあと、ぷっくりと膨らみ尖った秘玉を舌全体で舐め上げた。
「ああっ……!!」
あまりの快感に自然と腰が引ける。逃げようとする私の腰を抱え込んで、彼は舌先を陰核の一点に集中させて小刻みに舌を揺らした。
「あっ、ああっ……」
激しく悶える私の下半身は、自分の意思とは関係なく彼の動きに合わせて震える。
――まさかこの人とこんなことになるなんて。あのときの私は考えてもいなかった。
第一章 出会いは突然に
「いらっしゃいませ」
休日の昼下がり。店にやってきたのは、近所に住むお得意客の曽根様だった。
話を聞くと、近々娘さんの結婚式が執り行われるらしい。
「今日は結婚式に着る着物を仕立ててほしくて来たのよ」
「ご結婚おめでとうございます。以前、曽根様と一緒にご来店くださった娘さんですか?」
「そうそう。結構前なのに覚えていてくれて嬉しいわ。萌音ちゃんにお願いしに来て正解ね」
「そう言っていただけて光栄です。こちらへどうぞ」
笑顔で頭を下げ、私は曽根様を反物のあるコーナーへ案内する。
ここは、父方で代々続く老舗呉服屋だ。創業は大正時代で、今年百周年を迎える。
取り扱う着物は、カジュアルな普段着から格式の高い礼服、さらに、レンタル用まで多岐にわたる。
帯や下駄、小物等も取り扱い、お客様の好みや雰囲気に合わせて帯の色やデザインの組み合わせの提案も行っていた。
「黒留袖用の反物はこちらになります」
黒留袖は、既婚女性が着る最も格式の高い正礼装だ。私は反物をひとつひとつ手に取り、曽根様に説明する。
「どれも素敵ね。萌音ちゃんのおすすめはある?」
「そうですね。やや落ち着いた印象の、格式の高い柄を選ばれてはいかがでしょうか? 例えば、松竹梅や鳳凰は、慶びを表現する柄となっております」
「どれもとっても素敵ね。ただ、どれが自分に合うのか分からないわ」
「それでしたら、お顔に合わせてみませんか?」
三点の反物を前に悩む曽根様を、奥の畳のある個室へ案内した。大きな鏡の前で両肩から反物を掛け、顔映えと全体の印象を一緒に確認する。
「うん、これがいいわ!」
「とってもお似合いです」
曽根様のお眼鏡に適ったのは、鳳凰柄の反物だった。
帯は格式高いことはもちろん、軽くて結びやすい錦織の袋帯を選んだ。金糸や銀糸を使用した豪華絢爛な文様が織られ、黒留袖を一層華やかに演出してくれる。
小物類など一通り選び終えてから、私たちは個室を出た。
曽根様に飲み物の用意をしようと思っていたタイミングで、「お疲れ様でございました。お飲み物はいかがでしょうか?」とアルバイトの秋穂ちゃんが曽根様に声を掛ける。
「あらっ、嬉しい。ちょうど喉が渇いていたのよ」
「こちらの席へどうぞ」
曽根様をスマートに案内する秋穂ちゃんに、ありがとうの意味を含めて微笑んで小さく頷くと、彼女は少し照れくさそうにはにかんだ。
「萌音ちゃん、また来るわね」
「ありがとうございました。お気をつけて」
しばらくして曽根様を秋穂ちゃんとともに店の外まで見送り、深々と頭を下げる。
七月下旬。少し外に出ただけで、太陽の光に肌をジリジリと焼かれてじんわりと汗ばむ。冷房の効いた涼しい店内に戻るなり、私は秋穂ちゃんに笑顔を向けた。
「秋穂ちゃん、すごい! 飲み物を勧めるタイミング、バッチリだったね」
「ありがとうございます。いつも萌音さんがやっているのを真似してみました」
褒められたことが嬉しかったのだろう、秋穂ちゃんは分かりやすく表情を輝かせる。
「こちらこそありがとう。曽根様にも喜んでもらえたし、助かったよ」
「萌音さんのお役に立てて嬉しいです」
その健気な言葉に胸の中が温かくなる。
昨年、訳あって従業員がごっそり退職し、私だけの力ではどうすることもできず、縋るような気持ちで求人を出した。特に呉服屋は七五三や成人式など繁忙期が年に数回あり、その時期はてんやわんやで目が回るほど忙しい。
そんなときに応募してくれたのが秋穂ちゃんだった。
私のひとつ年下の二十五歳。お人形のようにぱっちりとした二重の瞳に、長くくるんっと上を向いたまつ毛。誰が見ても可愛いと言うだろう、抜群の容姿の持ち主だ。
面接のとき、祖母の影響で昔から着物が好きだったと話していた。どうやら複雑な家庭の事情があるらしく、週に二回だけアルバイトとして働いてくれている。
秋穂ちゃんと談笑していると、その穏やかな雰囲気をぶち壊すように、奥の休憩室から父の後妻である神楽由紀子が姿を現した。
派手な化粧を施した彼女は、店内を見渡して不快そうに溜息を吐く。
「まったく、今日もガラガラじゃない。やっぱり、去年の暮れに求人なんて出したのは失敗だったのよ。なにもしないで給料だけ持っていかれたら、大赤字じゃない」
確かに七月の今は閑散期で、来店するお客様は多くはない。けれど、それは毎年のことであり、今に始まったことではなかった。
継母は私の隣にいる秋穂ちゃんに目を向けて、分かりやすく顔を顰める。
「彼女に文句を言うのはやめてください。私が採用すると決めたんです。責めるなら私にしてください」
私は毅然と言い返す。
継母はそれが気に食わなかったのか、眉間に皺を寄せて私を睨み付けた。
「アンタって昔からホントに生意気な子。可愛くないのは母親似ね」
「それは今関係ありますか? そもそも、母のなにを知っているというんですか?」
「うるさいわね。口答えしないで」
彼女が息をするように嫌味を言うのは、昔からずっと変わらない。
私が五歳のときに母が亡くなり、七歳のときに父が再婚した。相手は私のひとつ下の息子を持つ、シングルマザーの由紀子だった。
継母は父の前でだけは良い顔をして、見えないところで私を目の敵にした。
実の息子である尚だけを溺愛し、私には冷たい態度で接する彼女に、疎ましがられる毎日。それでも私は持ち前の負けん気の強さで、その理不尽に耐え続けた。
高校卒業後は、理系の大学に進学するつもりで、父も私の気持ちを尊重して応援してくれた。
興味のあった医薬品メーカーに就職することを目標に、高校時代は寝る間も惜しんで勉学に勤しんだ。
けれど、それは儚い夢と散る。高二の夏に父が突然病に倒れて、他界してしまったのだ。
『呉服屋の名義も権利もすべて萌音に書き換えた。店をどうするかはお前に任せる。今まで辛い思いをさせて悪かった』
亡くなる直前、父は私に言った。私が継母から受けていた仕打ちを知っていたのだ。
葬儀が一段落したあと、継母に今後の相談をした。父の遺産とはいえ、継母が私のために高額な大学費用を捻出してくれるはずがない。
だから、奨学金を借りて大学に通いたいと頼み込んだものの、継母は『お父さんの呉服店はどうするの? アンタの代で潰すの?』などと詰め寄ってきた。
この呉服屋は、曾祖母の時代から代々続いている。幼い頃、実の両親が揃って働いていたここで、私は幸せな時間を過ごした。
お客様と笑顔で言葉を交わす母と、それを温かく見つめる父。両親が仕事をする傍ら、受付カウンターの椅子に座って脚をパタパタさせながらお絵描きをする私。
今も私の心の中には、当時の幸せな思い出が色濃く残っている。結局、私は亡き両親のために店を守る決意を固めた。大学進学を諦めて、授業が終わるとすぐに店に出て手伝うようになった。
そして、高校を卒業すると同時にこの呉服屋で働き始めたのだった。
当時は数人のベテラン従業員がいた。右も左も分からぬ私は、彼らに頭を下げて店の経営やノウハウを一通り学んだ。
父の死後も、従業員やお得意様が支えてくれたおかげでなんとか店を維持できていた。けれど、昨年従業員が一斉に退職した。原因は継母からの度重なるパワハラだ。
精神的に追い詰められ、やむなく決断したと彼らに涙ながらに打ち明けられたとき、申し訳なくて胸が張り裂けそうになった。もっと私に力があれば、従業員を守れたのに。自分の無力さを痛感した瞬間だった。
「ねえ、秋穂。あなたどうせ暇でしょ。コンビニでタバコを買ってきてちょうだいよ」
「えっと……タバコですか。買い方を教えてもらえますか?」
秋穂ちゃんが困ったように言う。
すると、継母は「信じられない!」と大げさに叫んだ。
「あなた、二十五にもなってタバコの買い方も知らないの!? 今までどうやって生きてきたのよ。もう若くないくせに、そんなことすら知らなくてどうするの?」
嘲笑うような口調の継母の姿に嫌悪感を抱く。
「ほんっとなんの役にも立たない使えない子ね! 親の顔が見てみたいわ」
「すみません……」
秋穂ちゃんは申し訳なさそうに頭を下げる。継母は知らないけれど、彼女は名家のお嬢様で相当な箱入り娘らしい。今まで家族に猛反対されて、バイトをすることすら認めてもらえなかったのだという。
身なりはきちんとしているし、知らないことは多いけれど、教養はある。一度教えた仕事はすぐに覚えて完璧にこなしてくれる優秀な人材だ。
継母に小言を言われたことで、嫌になって辞められてしまうのだけは絶対に阻止せねば。
「やめてください。タバコぐらいご自分で買いに行かれたらどうです? コンビニは歩いていけるところにありますし」
「ハァ!? こんな暑い中、あたしに行かせようって言うの!?」
「暑いのはみんな一緒です。それと、お店に部外者を連れ込むのはやめてほしいと言いましたよね」
私は奥の休憩室にいる男に聞こえないように、声を押し殺して言った。
「あたしに命令すんじゃないわよ!」
「父の遺してくれた店で好き勝手されたら困ります。あなたがプライベートでなにをしていようが構いませんが、公私混同はやめてください」
昨年、継母には彼氏ができた。人相の悪い小太りのスキンヘッドの男。名前は黒岩というらしい。竹政組に所属するヤクザの幹部だと、以前継母が自慢げに話していた。
継母はその男にベタ惚れで、最近では一緒に店にやってきては休憩室にこもり、なにやらコソコソと親密そうなやり取りをしている。
「ホント嫌な子! いいからさっさと買いに行って! いいわね!」
怒りを通り越して呆れてしまう。継母はタバコを吸わない。ということは、タバコを欲しているのは黒岩だ。どうしてこんなことまでさせられないといけないのだろうと、理不尽な要求に憤る。
「あのっ……!」
なにかを言いかけた秋穂ちゃんを、継母が鋭く睨む。
「ハァ? なによ」
「……いえ、なんでもありません」
秋穂ちゃんは言い返そうとしたけれどできなかったのだろうか、必死に耐えるように奥歯を噛みしめて俯く。
「まったく煮え切らない子ね。いいから今すぐ買ってきなさい!」
継母はヒステリックな金切り声を上げ、再び奥の休憩室に引っ込んでいく。
その背中を見送ると、「すみません」と秋穂ちゃんが謝ってきた。小動物のように可愛らしくつぶらな瞳が涙で潤んでいる。
「私のせいで萌音さんまで悪く言われてしまって……本当にすみません」
「いいの、気にしないで。むしろ謝らないといけないのは私のほう。あの人のこと、止められなくてごめんね。タバコは私が買ってくるから」
「いえ、私が――」
「大丈夫。その代わり、店番を任せてもいいかな? できるだけ早く戻ってくるね」
「……分かりました。お気をつけて」
「ありがとう。行ってきます」
秋穂ちゃんは私にとって心強い存在だ。高校卒業後、仲の良かった友達はみんな大学へ進学し、都内の一流企業に就職して疎遠になってしまった。
『店が忙しいときに自分の成人式に出る!? そんなの無理に決まってるでしょ!』
継母は私が成人式に参加することすら許してくれなかった。父が亡くなったあと、自由はなくなり、私はずっと継母という存在に縛られて生きてきた。当時の苦い記憶が蘇り、胸が痛む。
この呉服屋で働くのは、継母と私と秋穂ちゃんの三人だけ。年の近い秋穂ちゃんと仕事終わりに言葉を交わすのが、今の私にとって一番の癒しだった。
近くのコンビニでタバコを買って、来た道を引き返す。そのとき、前方から真っ白な日傘を差して歩いてきた高齢の女性に目がいった。
八十代前半だろうか。華やかな顔立ちのグレイヘアの女性は背筋をスッと伸ばし、颯爽とこちらに向かって歩を進めている。女性は準礼装として着られる訪問着を身に纏っていた。見事なほどに鮮やかな梅の柄だ。寒い中で花を咲かせることから、女性の強さを表しているという。まさに、このおばあさんにピッタリの着物だ。
あと少しですれ違うというとき、私の後方からザッザッという軽快な足音が聞こえた。
次の瞬間、黒い影が私を追い越していく。全身黒ずくめの男はなんの迷いもなくすれ違いざまにおばあさんの手提げ巾着を引ったくった。
「あっ! 泥棒!!」
おばあさんが叫ぶ。私は体勢を崩したおばあさんを咄嗟に支えて尋ねた。
「大丈夫ですか? おケガはありませんか?」
「ええ。大丈夫」
無事を確認してホッと胸を撫で下ろす。
その後、私は駆け出して、男の背中を追いかけた。
「待ちなさい!」
走りにはそれなりに自信がある。小中高と陸上部に所属して、短距離の選手として大会によく出場していた。パンツスーツにヒール靴という悪条件ではあるものの、男に追いつけるはずだ。
太陽に熱せられたアスファルトを蹴り、全速力で駆ける。男との距離はみるみるうちに縮まっていく。
「いい加減、諦めなさい!」
「くそっ、離せ!」
後方から男の腕を掴んだ瞬間、男は勢いよく私の手を振り払った。その拍子にバランスを崩して、私は尻もちをつく。両手で支えたせいで、手のひらがアスファルトで擦れてじんわりと血が滲む。
そのとき、動揺した男の手から手提げ巾着が離れるのを私は見逃さなかった。
反射的に目の前に落ちた巾着を掴み、両腕で抱きしめる。
「これは俺のもんだ!」
男が私の胸元に手を伸ばして、ぐいっと巾着を引っ張った瞬間、突如後方からやってきた黒塗りの高級車が私たちの傍で急ブレーキをかけた。
運転席から誰かが颯爽と降りてくる。背の高い男性だった。太陽の光が逆光になって顔がよく見えない。それに気付いたひったくり犯は、敵わないと思ったのか逃げて行った。
「大丈夫か?」
低い男性の声がして、私はそっと顔を上げる。
親切な誰かが助けてくれたんだと分かり、安堵すると同時に目にじんわりと涙が浮かぶ。
さっきは勢いで男を追いかけたものの、巾着を引っ張る力強さと凶暴な声を思い出して、今さらながら恐怖を覚えた。立ち上がろうとしたものの、脚に力が入らない。
すると男性は腰の抜けた私の背中に腕を回して、ゆっくりと立ち上がらせてくれた。
「すみません、ありがとうございます」
何気なく男性のほうへ視線を送る。目が合った瞬間、息を呑んだ。
男性は、信じられないぐらい端整な顔立ちをしていた。男らしく高い鼻梁に、切れ長の瞳。薄く形のいい唇は真一文字に結ばれている。
長身の細身に纏っている上質なグレーのスーツは、間違いなくオーダーメイドだろう。ピカピカに磨き上げられたエナメルの靴は見るからに高価そうだ。
しなやかな黒髪は綺麗にセットされていて、品位溢れるその容姿に、私は息をするのも忘れて魅入ってしまう。
「あらっ、大変! ケガしてるじゃないの!」
黒塗りの車から先程のおばあさんが降りてきた。どうやら、ふたりは知り合いのようだ。
「他にケガは? ごめんなさいね。私のせいでご迷惑をおかけしちゃって。治療費をお支払いさせて」
年齢を感じさせない、ハキハキとした力のある口調だ。
「いえ! 大したケガではありませんし、大丈夫です」
治療費なんて大げさだ。軽く消毒をして絆創膏を貼れば、そのうちに治ってしまうだろう。
「そんなこと言わないで」
「本当にお気遣いなく。おばあさんにおケガがなくて本当に良かったです」
私は笑顔で返し、おばあさんに巾着を手渡す。
すると、おばあさんはジッと私の左手に視線を向けたあと、真剣な表情で尋ねた。
「失礼なことをお聞きしてしまうけど、あなたご結婚は?」
「いえ、まだですが……」
突然の質問に困惑しながらも答える。どうしてそんなことを聞くんだろう……?
すると、おばあさんはパッと表情を明るくして、パチンッと胸の前で手を叩く。
「すごいわ! これはきっと運命よ!」
言葉の意味が分からず首を傾げる私に、おばあさんはにんまりと微笑む。
「あなたは素晴らしい人よ。見ず知らずの年寄りのために、危険を冒してまで動こうとする人は稀だもの。あなたみたいに勇敢な女性はなかなかいないわ! ねっ、北斗もそう思うでしょ?」
「ええ」
北斗と呼ばれた男性は、無表情のまま心のこもらない返事をする。
「あなた、お名前は?」
「神楽萌音です」
「萌音さん、ね。私は久我和江。こっちの愛想のないのは、孫の北斗よ」
おばあさんの言葉にやれやれと溜息を吐く男性。こうやって見比べてみると、彼の顔立ちの良さはおばあさん譲りのようだ。
「治療費を受け取ってもらえないなら、せめてお食事だけでもご馳走させてもらえないかしら? あいにく私はしばらく忙しくて時間が取れないの。その代わりに孫の北斗が萌音さんをおもてなしするわ」
「……はい?」
表情は一切変えなかったものの、男性のこめかみがほんの一瞬だけピクリと反応する。わずかに見開かれた目の奥では、なにを言っているんだと呆れた様子が見て取れた。そんな男性を無視して、おばあさんはにこやかに続ける。
「だから、彼女とお食事をするの。きちんと素敵なレストランを予約して、エスコートするのよ」
だんまりを決め込む男性が気の毒で、私はすぐさま遠慮する。
「そんな! お礼なんて結構です。まだ仕事中なので、私はこれで失礼します」
「待ってちょうだい!」
頭を下げて去ろうとする私を、おばあさんが呼び止める。
「恩人にお礼のひとつもできないなんて、末代までの恥だわ……。萌音さん、お願いよ。年寄りの頼みだと思って聞いてもらえないかしら?」
潤んだ瞳で縋りつかれて、心が揺らぐ。
「ちなみに、今夜はご予定があるのかしら?」
「ありませんが……」
「お仕事は何時ぐらいに終わるの?」
「えっと、十九時には……」
「じゃあ、十九時にすぐそこにあるコンビニの駐車場で北斗を待たせておくわ。ほらっ、北斗。ぼさっとしてないで早く名刺をお渡ししなさい」
「ま、待ってください! 私、本当にそんなつもりじゃ……」
お礼に食事をご馳走になるなんておこがましい。それに、お孫さんである男性からは、私との食事に乗り気ではない雰囲気がビンビン伝わってくる。こんなにも素敵な男性だし、恋人がいるのかもしれない。ただの食事だとしても恋人に誤解されたら申し訳ないし、彼も嫌だろう。
だからこそ、このお誘いは断るべきだ。
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