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1巻
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しおりを挟む敗北悪役令嬢
「君との婚約は破棄させてもらうよ、ロゼッタ。半分しか血が繋がらないからと妹を虐めるような女との結婚など、冗談ではないからね」
コンラッドは冷たく吐き捨てた。
これでも幼馴染みで、小さな頃は仲良く遊んだ記憶もある。だが、ロゼッタを屋敷まで呼び出して、自分の要求を突きつける彼の灰色の目はどこまでも無感情だった。
コンラッドはバルテル男爵家の次男だ。
小さいが領地を有する由緒正しい家柄で、母親同士の仲がよかった。
二人は母親同士の口約束で生まれた時から婚約していたようなもので、ロゼッタはいずれコンラッドと結婚すると信じて疑っていなかった。
しかし、ロゼッタの母が亡くなり、父が再婚してから雲行きが怪しくなっていった。
半分血の繋がった庶子の妹――クリスティナは、父親似の銀色の髪を持つとても美しい少女だ。
それに引き換え、ロゼッタは痩せぎすの、母親譲りの赤毛の娘である。
青白い肌にはそばかすが浮いていて、十歳の頃にクリスティナが屋敷にやってきてその滑らかな白い肌を見てからは、化粧でそばかすを隠すようになった。
父はクリスティナばかりを可愛がるようになり、継母はロゼッタを避けた。
はじめは父に甘えようとしていたロゼッタだが、邪険にされることが増え、やがてありとあらゆる望みを呑みこみ、周囲の顔色をうかがうようになった。
コンラッドもクリスティナに惹かれていったが、亡きロゼッタの母との友誼を重んじる彼の母によって、ロゼッタとの婚約は継続された。
その頃は、クリスティナはコンラッドに興味がなかった。だが、コンラッドの兄が死んでバルテル男爵家の家督がコンラッドに移ると目の色を変えるようになった。
だからこそ、ロゼッタはすでに手を打っていた。
「結婚式こそまだだけど、私達はすでに教会に婚姻届を出しているわ。婚約の破棄なんてもうできないのよ、コンラッド」
自分を嫌うコンラッドと結婚しなくてはならないなんて憂鬱だったが、ロゼッタには他に居場所がない。
神の代弁者である教会での誓いは、この世界では絶対である。
それを盾にするような真似をしてでも、コンラッドとの結婚のほうが家にいるよりはましなのだ。
少なくとも亡き母との友情を大事にしてくれる、コンラッドの母親がいる。
「そのような事実はなかったことになったんだよ、ロゼッタ」
そう言うコンラッドの背後から、見覚えのある司教がするりと進み出る。
「ドミニク司教、様? どうしてここに……」
茫然としながらも、ロゼッタはもうすでに、状況をほとんど理解して青ざめていた。
ロゼッタとコンラッドの婚姻届を受理した司教、ドミニクがここにいる。
彼がコンラッドの味方として、コンラッドの隣に立っていることがどういう意味を持つのか、すでに理解できてしまっていた。
「コンラッド様より、ロゼッタ様が何か誤解をなさっていると聞きまして、その誤解を解きに参りました」
「誤解、とは……?」
「確かに私はコンラッド様とロゼッタ様の婚姻届を受け取りましたが、ついつい失念しておりまして、受理はしていなかったのでございます。ですので、お二人の結婚は成立しておりません」
クリスティナの様子が怪しいと感じてから、ロゼッタは結婚を急いだ。
コンラッドをそそのかし、今すぐに結婚しないとロゼッタがバルテル男爵家に持って嫁ぐ際の持参金がクリスティナのものになるかもしれないと囁き、急いで婚姻届を出すように仕向けた。
父はクリスティナを偏愛しているから説得力があったようで、コンラッドはまんまとその企てに乗る。
ドミニクはコンラッドとロゼッタを教会の聖堂まで案内し、神の前で誓いを立てさせたのだ。
神の前での宣誓は、紙の届けの受理の有無など凌駕する。
だが、誓いがあったことを証言する人間はロゼッタしかいない。
コンラッドとドミニクにシラを切られれば、彼女の証言などなかったことにされるだけだろう。
「神に仕える人間はもっと高潔だと思っていましたわ」
「おや? 教会に対する侮辱ですか? 司教に対する侮辱は神に対する侮辱も同然です。私はあなたを破門にも死刑にすることもできるのですから、お言葉にはお気をつけください」
黒髪の司教がにっこりと笑う。
確か枢機卿だったはずなのに神をも恐れぬドミニクのふるまいに、ロゼッタはぼんやりと思った。
この世界の神は人々との距離が近いのに、恐ろしくないのだろうか?
考えた直後に、『この世界?』とロゼッタの中に疑問が湧いたが、頭痛がして考えるのをやめた。
「僕はクリスティナと結婚する。君に虐められて傷ついた可哀想な彼女を支え生きるんだ」
「私、クリスティナを虐めてなんていないわ」
「証拠は揃っているんだ。母上も認めた証拠がね」
そう言って、コンラッドはロゼッタの前に紙の束を叩きつけた。
一枚拾い上げて読んでみるが、捏造されたものだとわかって、ロゼッタはのろのろと書類を机の上に置いた。
「……そういうこと、にするつもりなのね」
「君の父であるアウラー卿ともすでに話がついているんだ。無駄なあがきをして僕達の時間を浪費させないでくれよ、ロゼッタ」
ロゼッタは顔面蒼白でコンラッドの部屋を出た。玄関ホールにはしくしくと泣く腹違いの妹のクリスティナと、その華奢な肩を支えるコンラッドの母親のイレーネがいた。
「ロゼッタさん、何かおっしゃりたいことはありませんか?」
イレーネは険しい顔をして言った。
彼女は厳しくも、心温かい人だ。ロゼッタが母を失ったあとは本物の母親のように接してくれた。
そんな人が今、ロゼッタを親の仇を見るような目で睨みつけている。
「私はクリスティナを虐めてなどいません」
ロゼッタは半ば諦めつつ、うつろな顔で繰り返した。当然、その言葉が信じられることはない。
「この期に及んでも認めないだなんて……ヒルダが天界で泣いていることでしょう」
ロゼッタの母親の名を引き合いに出してイレーネは嘆いた。
胸がずきりと痛んで、ロゼッタは言ったところで詮ない言葉を口にした。
「お義母様……いえ、イレーネ様はコンラッドがクリスティナと結婚したいがために証拠を捏造したとは思わないのですね」
「息子はそのような邪悪な真似をする人間ではないわ!! なんという侮辱……っ、これまであなたのことを本当の娘のように大切にしてきたというのに……!!」
イレーネがロゼッタを憎々しげに睨んだ。いくらロゼッタを本当の娘のように思っていたと口先では言おうとも、可愛い可愛い本当の息子と比べるまでもないということだ。
「お姉さま。せめて、最後に一度だけでもいいわ。謝ってください!」
クリスティナはしゃくりあげながら涙ながらに訴えた。
「このままじゃお姉さまの邪悪な魂は地下の世界に堕ちてしまうわ。わたし、お姉さまの魂を救ってさしあげたいの……!」
「まあ、クリスティナはなんて心の優しい子なの」
騙されているイレーネが涙ぐむ。
それに応えるように、クリスティナが涙で濡れた顔で健げそうに微笑んだ。
ロゼッタは喜劇を見るような心地でそれを眺める。
もしも神がすべてを見ているのなら、魂が地下に堕ちるのはロゼッタではなく、泣き真似をしているクリスティナだろう。
ロゼッタに濡れ衣を着せたコンラッドも、泣き真似をするクリスティナも、神に仕えているはずのドミニクでさえ、自分の所業によって魂が死後、汚泥に塗れるだろうとは誰も思っていない。
これが滑稽な喜劇でなくて、なんなのか。
「神がすべてをご覧になっていたとしたら、地下に堕ちるのはあなた達よ、クリスティナ」
「クリスティナが庶子だからといって、言っていいことと悪いことがありますよ、ロゼッタ!」
イレーネが口角に泡をして叫んだ。
ロゼッタはクリスティナが庶子だからそう言ったわけではない。
大方イレーネは、庶子だからという理由でロゼッタがクリスティナを虐めてきたとでも吹きこまれているのだろう。その誤解を解く気も失せ、ロゼッタはドレスの裾をつまんでお辞儀をすると、声を荒らげるイレーネを黙殺して馬車に乗り、屋敷に戻った。
○ ● ○
あれから、屋敷に戻ったロゼッタは父から叱責を受けた。
ロゼッタがコンラッドをしっかりと引きつけられなかったせいで、クリスティナの興味がコンラッドに向いてしまった、と。
美しく可愛らしいクリスティナにはもっといい縁談があったのに、ロゼッタのせいで計画が台なしになったと嘆く父の叱責を、ロゼッタは無気力に受け入れた。
それから、ロゼッタは新しい縁談が決まった。
四十二歳の大金持ちの新興貴族との縁談だ。
貴族の令嬢ならみんな泣いて嫌がる、平民あがりの金にものを言わせて貴族になった年老いた男との結婚である。新興貴族は由緒正しい貴族の血を欲し、旧貴族は金を欲しているので、ままこのような婚姻が成立する。
ロゼッタに拒否する権利などあるわけがない。
見送りもなく、ロゼッタは馬車にわずかな荷物とともに詰めこまれて売られていった。
新郎となる男のいるビエルサ領のシェルツという町に到着して間もなく、教会に連れていかれる。
コンラッドと婚姻届を出した時のように、書類を用意する格落ちの司祭の姿だけがあった。
今回はその時とは違い、夫となる男の姿すらない。すでに夫となる男の名前が署名された婚姻届に自分の名前を書き加えて、神に誓いの言葉を一人で口にするだけ。
これで倍以上も年上の男との婚姻が成立してしまった。
とはいえ、司教の小細工で簡単に反故にできる程度の書類と誓いだと、すでにロゼッタは知っている。結婚した実感もない。
ただ紙ペラ一枚に、ロゼッタ・シャインと夫の苗字が書かれているだけ。
これが物語なら、こうして名前が変わる前に白馬の王子様の助けの手が伸びてもいいところだ。
――物語なら?
自分で自分の思考の意味がわからず、ロゼッタはずきずきと痛むこめかみをさすった。
「ロゼッタ様、長旅でお疲れのところに教会までご足労いただき、申し訳ございません。簡易的な式となってしまったことを、旦那様はロゼッタ様にお詫びしたいと仰せでした。せめて教会には足を運ぶ予定だったのですが、事情があって出向くことができず――」
「ご事情があるのなら仕方のないことだわ」
ロゼッタは乾いた笑みを浮かべて言った。
馬車の斜め向かいに座るのは、ビエルサ領に到着したロゼッタを出迎えた時に執事だと名乗った、灰色の髪を撫でつけた老人のヴェルナーだ。彼は恐縮した様子でロゼッタに頭を下げた。
「ロゼッタ様のお心をお慰めするため、旦那様はお詫びの贈り物をしたいと仰せでした。なんでも好きなものをお求めください」
「……なんでも?」
初めて、ロゼッタの心臓がことりと音を立てた。
馬車の窓の外を見ると、王都から離れているにもかかわらず、王都と同等か、それ以上に賑わった町並みが広がっている。
ビエルサ領は海を隔てて大国であるレガリア帝国と隣り合っており、貿易が盛んで数多くの珍しい品が入ってくると聞いた覚えがある。
「金に糸目は付けずともよい、というお言葉を賜っております」
ドクン、とロゼッタの心臓が高鳴りはじめる。
父の再婚相手であるパトリツィアは、元々父の恋人だったという。
それなのに、親に決められた政略でロゼッタの母と結婚することとなった。ロゼッタの母が亡くなると、父は意気揚々とパトリツィアを妻に迎え、愛する女との間に生まれた愛する子である可愛らしいクリスティナのために、ロゼッタを嫡子の部屋から追い出した。元々あまり裕福でもない子爵家で、なんでも欲しいものを買ってもらえるクリスティナと自分の立場は違うのだと、嫌でも思い知らされてきた。
ドレスも、靴も、ぬいぐるみも、リボンも、ロゼッタが欲しいものは何一つ手に入らなかった。
だが、父親よりも年上の金持ちと結婚したから、これからは欲しいものがなんでも手に入るのだ。
己の若さと瑞々しい肉体を犠牲にして――犠牲に値するだけのものが、欲しい。
「……ドレスが、欲しいわ」
「かしこまりました。ビエルサで一番腕のいい仕立屋を手配いたします」
「靴も、欲しいわ。でも、それはドレスに合わせたほうがいいわね。宝石、そう、宝石が欲しいわ。宝石にドレスを合わせたいから、宝石商を先に呼んでちょうだい」
「かしこまりました。宝石商をまず手配いたします」
ロゼッタは高揚感に頬を紅潮させる。
虚しい昂ぶりであることは、心のどこかで気づいていたけれど、構わなかった。
金以外にはもう、ロゼッタの手元には何もないのだから。
夫ははるかに年上だ。順当に行けば、ロゼッタが若いうちに死ぬ。そうなれば、レガリア帝国との貿易によって築いたという莫大な富だけがロゼッタの手に残るだろう。
もしかしたら、ロゼッタの本当の人生はそこからはじまるのかもしれない。
今、この時を耐えさえすれば、いずれ何も我慢しなくてよい人生が訪れる。
もし運がよければ、かなり短い期間で望みのままに生きられるようになるかもしれない。
だがそれさえも、幻想だったとロゼッタはすぐに思い知ることとなった。
「――あの子どもは、誰?」
馬車で到着したのは、それはそれは大きな、帝国風の優美な建築様式の美しい屋敷だ。
ロゼッタの生家であるアウラー子爵家の屋敷の四倍くらい大きな建物に、十倍以上はあるだろう広い敷地が広がっている。
その敷地の中で、ボール遊びをしている少女がいた。
「ステラお嬢様でございます」
「ステ、ラ?」
ズキリ、と頭が痛むロゼッタに気づかぬ様子で、ヴェルナーは早口に言う。
「最近見つかった、旦那様の娘でございます。長年行方知れずとなっていたのでございますが――そのために、おそらく見合いの釣書にはステラお嬢様のことは書かれていなかったかと」
恐る恐るといった雰囲気なのは、子連れの男との結婚がロゼッタにとってひどく不利益であることを、ヴェルナーも理解しているからだろう。
独身の男との結婚なら、男が亡くなったあとはその財産は妻のものとなる。
だが子どもがいる男との結婚なら、その財産はすべて家督を継ぐ子どもが相続する。
その子どもが実子なら母親の面倒を見る義務があるし、情もある。
だが、再婚した妻であるロゼッタの面倒を、縁もゆかりもない子どもが見る理由も義務も、どこにもないのだ。
ロゼッタはすべてを失うことになるかもしれない。
我慢をやめ、自由を手に入れるどころの話ではなかった。
「子どもがいる方と結婚する際には、婚前契約を結ぶものよ。でも、そんなものを結んだ覚えなどないわ。こんなの、騙し討ちよ」
「旦那様にはもちろん、ロゼッタ様と契約を結ぶ意思がございます」
ヴェルナーの言葉にロゼッタはからからに乾いた笑みを浮かべた。
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「実は、いずれ見つかるだろうステラお嬢様の後ろ盾となってくださる方を見つけるために、旦那様はロゼッタ様との結婚を望まれたのです。旦那様は重い病を患っておられまして――余命幾ばくもないのです」
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ヴェルナーはそんなことを言われるなど思いも寄らなかったという顔をする。
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ロゼッタには継子を養育する義務がある。子どもが成人するまでシャイン男爵家に縛りつけられることになる。
あの子どもはどう見積もっても十歳にも届かないだろう。少なくとも八年、ロゼッタはこの家に拘束されることが決定した。
そう扱っていいかどうかなど、一度も意思を確認してもらえなかった。
「あはは、はははは、はははははは!」
「ロ、ロゼッタ様……?」
哄笑するロゼッタに、ヴェルナーが怯えたようにその顔を覗きこむ。
そんな彼にロゼッタはにっこりと微笑んでみせた。
「私が弱いから、誰も私の意思など確認してくれなかったのよね?」
「た、確かにこれまではご意思を確認する機会はございませんでしたが、これからはロゼッタ様のご意向をなんなりとうかがわせていただきます」
ロゼッタはヴェルナーの言葉を流して遠くにいるステラを見やった。
「あの子は私よりももっと弱い立場ね」
ぽつりと呟くと、ステラに向かって歩いていく。
「ロゼッタ様! どうか、お気を確かに」
ヴェルナーの焦った声が追ってくる。ロゼッタはそれを黙殺した。
すべてが親の言いなりだったこれまでとは違う。結婚した以上、ロゼッタにはほんの少しの自由がある。この自由を最大限に行使してやると、心に決めた。
まずはステラに挨拶をしよう。
彼女に、これから自分に待ち受ける運命を予感させるために。
突如現れた継母が、どういうふるまいをすれば継子を萎縮させられるか、その権利を実質的に奪い、持ち物をすべて取り上げることができるのか、ロゼッタは実体験で熟知している。
近づくと、ステラのみすぼらしさがよくわかり、ロゼッタは怯んだ。
日に焼けて荒れた肌、気味の悪いほど痩せ細った体に、荒れた藁色の髪。
哀れな子。愛されてこなかったのがよくわかる姿。
まるで過去の自分自身のようで、ロゼッタは怯んで口にしかけていた言葉を一度飲みこんだ。
「……藁?」
ステラの髪色を藁のようだと思った。
どこかで聞いた覚えのある響きに、ロゼッタの歩みが鈍くなる。
頭がズキズキと痛んだ。ステラに近づくほどにひどくなる痛みに、だが足を止めようとは思わなかった。のろのろと歩くロゼッタにヴェルナーが追いついて、その肩を掴んだ。
「落ち着いてくださいませ、ロゼッタ様! これからすべてご説明させていただきますので――」
「ヴェルナーさん? その人は誰ですか?」
近づくロゼッタとヴェルナーに気づかないはずもない。
ステラがボール遊びをやめ、不思議そうにロゼッタ達を見上げた。
鈴を転がすような可愛らしいその声に、ロゼッタははっきりと聞き覚えがあった。
ヴェルナーが止めるよりも前に、ロゼッタは頭痛のあまりのひどさと既視感に、自分で足を止める。
「このお方は、そのですね」
ヴェルナーが言いにくそうに口ごもる。
今しがた、ステラへの敵対心を示したロゼッタが新しい母親だとは紹介できなかったのだろう。
ヴェルナーをきょとんと見上げていたステラは、やがてその視線をロゼッタに向けた。
紺色の瞳の中に、黄金の星の輝きがある。
その瞬間、ロゼッタの頭の中に記憶があふれた。
「ステラ……星女神の乙女」
「おとめ? ……キャアッ!?」
ふらりと倒れたロゼッタの姿に、ステラが悲鳴をあげた。
「ヴェルナーさん! この人倒れちゃった! どうしよう!? わたしのせい!?」
「ステラ様のせいではございません。疲れておいでなのです。誰か! 手を貸してくれ!!」
ロゼッタは頭の中にあふれる怒濤の記憶に脳を焼かれるような痛みを味わいながら、意識を薄れさせていった。
薄れゆく意識の中で、ロゼッタは気がついた。
ステラはロゼッタが前世大好きだった乙女ゲーム、『星女神の乙女と星の騎士たち』のヒロインだ。
星をモチーフにした物語。ステラはラテン語で星を意味する。
ゲームでは名前は自由に変更できたけれど、もしも固定の名前がついていたなら、いかにもヒロインにつけられそうな名前だ。
一番大好きな、推しヒロインだった。
だがそれよりも衝撃的だったのは、ロゼッタもまたゲームに登場していたモブの一人だったこと。
ヒロインを虐待して『藁色の髪のみすぼらしい小娘』と言って貶していた、大嫌いな継母役だったことだ。
ゲーム知識の答え合わせ
ロゼッタが目を覚ましたのは暗い部屋の中だった。
嗅ぎ慣れない匂いで見知らぬ部屋にいることに気づく。
「お目覚めですか?」
「あなたは……?」
「ロゼッタ様にお仕えすることとなりました、メイドのマヌエラと申します」
薄暗い部屋の中に控えていたメイドが、ロゼッタのいるベッドに近づいてくる。
切れ長の目をした、ひっつめた黒髪の女性だ。
「ロゼッタ様、お倒れになったことを覚えておいでですか? 医者によると、過労であろうとのことです。執事のヴェルナーの判断で、治療師による回復魔法をかけております。お加減はいかがでしょうか? 必要であれば医者を呼んでまいります」
「医者はいいわ。それより水をくれる? 今は何時頃なのかしら」
「もうしばらくすれば終星の鐘の時刻でございます」
「道理でお腹が空いているわけだわ」
「ただいま、食事を温め直してまいります」
マヌエラはキビキビとした動作で頭を下げる。その背中を見送り、ロゼッタは窓を見やった。
夜なのに、窓の外が煌々と明るくて、窓際に飾られた一輪だけの質素なコスモスが輝いて見える。
「綺麗な星明かりだわ……」
その明るさの正体は星なのだと、ロゼッタは半ば確信して呟くとベッドから起き上がった。
彼女の荷物はベッドの側に置かれていた。その中からなけなしの替えのドレスを引っ張り出し、知らぬ間に着替えさせられていた夜着を脱いで着替えていく。
これまで貴族の令嬢であるにもかかわらず一人で着替えるなんて恥ずかしいことだと思っていた。
ロゼッタの手元にあるのは地味で簡素なドレスだから、着替えようと思えばいつでも一人でできたのに、意地悪なメイドが部屋に来てくれない時にはロゼッタは着替えもままならず、部屋から出られない時もあったのだ。
だが、今のロゼッタはそれどころではなかった。
今すぐに、思い出した記憶について確かめたいことがある。
走馬灯のように駆け巡った記憶。前世だと思っているけれど、自分のことというより、前世で言うところの映画を一本見たような気分だ。
それでも、ままならない社会人生活の中で押しつぶされそうだった気持ちを、明るく可愛らしいヒロインにゲームを通じて救われたことだけはまざまざと思い出せる。
救われたのに、死んでしまった。
辛く苦しいだけの会社はもうやめようと、逃げることも勇気だと思わせてくれたのに。そう決意した日の夜に眠ったまま、もう二度と目覚めることができなかった。
「ロゼッタ様、何をなさっているのですか?」
「行きたいところがあるから着替えているのよ」
食事を手に戻ってきたマヌエラが驚いたように声をあげるが、ロゼッタは事もなげに応えた。
「もう夜でございますよ? お倒れになったばかりですし、お体のためにもあまり動かれないほうが――」
「どうしても教会に行きたいのよ。引き留めないでちょうだい」
「教会に……」
強く止める口調だったマヌエラが、はたと気まずげな顔をした。
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