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1巻
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1
「……ぅうん」
意識がゆっくりと浮上する。私はまだ定まらない意識の中、薄く目を開いた。すると、見慣れない天井が視界に飛び込んでくる。
あら、ここはどこかしら……?
二、三度瞬きをして、寝返りを打った。
「……えっ!?」
その瞬間、隣に眠っている人に心臓が止まりそうなくらいに驚いた。
見慣れない天井に、隣で眠るよく見慣れた人……
「う、嘘……」
飛び込んできた視界からの情報が受け入れがたく、まだ眠気でふわふわしていた頭が弾かれたように覚醒する。
一見すると、西洋人だと見紛いそうな鼻筋がすっと通った彫りの深い顔立ち。普段はすっきりと整えられた黒色の髪が今は崩れているが、間違うはずがない。
典雅さとは彼のためにある言葉なのだと思うくらい整っていて美しい体貌……
「嘘でしょう……」
夢……? と思いながら、おそるおそる手を伸ばして彼の頬に触れてみる。そしてその頬をむにっとつねった。
「あら、痛くないわ……。よかった、夢だったのね」
嫌だ。私ったら、変な夢見ちゃった……
ホッと胸を撫で下ろして寝直そうとすると、隣で眠っていた人の手が伸びてきて私の頬を摘んだ。
「そういう時は自分の頬をつねるもんだ」
「いひゃいれす……」
「当たり前だ。夢じゃないんだからな」
彼は呆れたように黒い瞳を細めて、小さく息をついた。私は先ほど摘まれた自分の頬をさすりながら、彼の顔をまじまじと見つめる。
やっぱり何度見ても、部長よね……?
彼は杉原良平さん。私より五つ年上の三十三歳で、父が経営する化粧品メーカーの商品開発部の部長だ。
ちなみに私はそこの研究員で、商品開発部とは新商品に必要な研究開発の打ち合わせなどをよくするので、当然ながら彼とも面識はある……。が、プライベートで交流を持つほどの関わりはない。
「杉原部長ですよね……?」
「ああ」
肯定する彼の言葉に、私は一気に鼓動が速くなった。正常値を明らかに上回った気がして胸元を強く押さえる。
落ち着こう。落ち着かなきゃ……。父も常に冷静に物事を見なさいと言っていたじゃない。だから、落ち着かないと……
何度か深呼吸をして目を閉じ、けたたましい心臓を落ち着かせようと試みた。これが夢で、次に目を開けた時は自分の部屋だったらいいなと願いながら……
が、改めて目を開けてみても相変わらず見知らぬ部屋で、目の前には部長がいる。何も変わらない光景に、落ち着かせようとしたはずの心臓がまた激しく鼓動を刻む。
「嘘よ、嘘だわ……」
誰かこれは夢だと言って。お前は悪い夢を見ているんだと。誰か私を起こして……
「嘘じゃない」
どんどん血の気が引いていく私とは対照的に彼は楽しそうに笑う。そして私の乱れた髪に手を伸ばして、梳かすように指を通した。
「君が社長の娘だなんて知らなかったよ。こんな俺がお嬢様の処女をもらっちゃって、社長に殺されそうだな」
けらけらと笑う彼に私はさらに青くなった。言葉を失ったまま硬直していると、彼が顔を覗き込んでくる。
「おいおい、大丈夫か? 俺なりに優しくしたつもりではあるんだが、椿が可愛すぎたせいで、少し自制がきかなかった自覚はある……。すまなかった。体、大丈夫か? まだ痛むか?」
……あれ?
気遣わしげな彼の言葉遣いや態度に違和感を覚え、私は彼をジッと見つめた。
彼は優しい。今だって私の体を気遣ってくれている。だから優しいことには変わりはないのだが、やはり何かが違うように感じる。
どこが違うと言われると難しいんだけれど、普段の彼の口調はもっと柔らかかったはずだ。それに、一人称も『俺』ではなく『僕』だったような……
いつもと違うように感じる彼に、私はひどく混乱した。
第一、彼はとてもモテるが浮いた噂などは今まで聞いたことがない。こんなふうに恋人ではない女性と一夜を共にするようなタイプではなかったはずだ。……少なくとも、私の知る限りでは。
「ぶ、部長? あの、言葉遣いが……。それに、名前……」
椿って……
いつもは私のこと苗字で呼んでいますよね?
戸惑いを隠せずにおそるおそる違和感の正体を訊ねる。すると、彼はなんでもないような顔でこう言った。
「仕事中とプライベートでの振る舞いの差が、そんなに珍しいか? 公私を分けることは何も変なことじゃないと思うが……」
仕事中とプライベート……。た、確かにそうよね。私ったら……
見えているものがそれらを表すすべてではない。突き詰めれば色々なことを発見できるからこそ、研究は楽しい。それは、きっと人にだって言えるはずだ。それなのに、私は今まで見ていたものを彼のすべてだと決めつけていた。
知らない部分を垣間見たからって違和感があるだなんて、とても失礼だわ。
自分の浅はかさと愚かさに、ベッドの上で頭を抱えてうずくまると、背中を優しくさすってくれた。
「部長……」
「椿、本当に大丈夫か? そういえば、昨夜はめちゃくちゃ飲んでいたもんな」
「はい、大丈夫で……」
「だけど、酒を理由になかったことになんてさせないからな」
え……?
私の言葉を遮った彼の言葉にきょとんとすると、彼がニヤリと笑って私の顎をすくい上げた。
「椿は本当に可愛い。今までも仕事に真摯に向き合う君をとても好ましく思ってはいたが、昨夜の君は今まで以上に俺の心を揺さぶった。それはもう感動に打ち震えるほどに……」
「あ、あの、部長?」
「俺の隣で父親の理不尽な言葉への憤りと、仕事への熱い思いを語り、泣く君を見て、俺はなんとしてでも椿の望みを貫かせてやりたいと思ったんだ。頼む。俺に寄り添わせてくれ」
私の顎を掴み、射貫くような眼差しでそう言われ、動けなくなってしまった。
昨夜、私何したの? 何を言ったの?
えっと、昨夜は確か……
***
定時を一時間半ほど過ぎて、研究所内から人がいなくなった頃、私は使った器具を片づけていた。
ここは父が経営する化粧品メーカーの研究所だ。ここで研究員たちは基礎研究や製品開発をしている。
私は新商品に必要な新規有効成分の開発に携わっているのだが、やはりこういうものは時間がかかる。……数年かけても、それが形にならないことは珍しくない。
だからつい就業時間後も残ってやっちゃうのよね……。よくないのは分かっているんだけど……
そんなことを考えながら片づけていると、研究室のドアがコンコンとノックされた。その音に顔を上げる。
あら、誰か忘れ物かしら?
うちの研究所は、通りを隔てた斜向かいに本社ビルが建っているということもあり、たまに本社の社員が直接来ることもある。が、定時を大幅に過ぎているので、その線は薄いだろう。それにこんな時間だ。緊急ならまず内線がかかってくるはずなので、やはり研究員の誰かが忘れ物をしたのだと思う。
ノックなんてしなくても、いつものように普通に入ってくればいいのに……
そう思いながら、「どうぞ」と声をかけるとドアが開いた。そちらに視線をやると、そこには我が社の社長――私の父である兎之山崇がにこやかな表情で立っていた。
「社長、どうかされたのですか?」
なぜ、ここに?
私は目を瞬かせながら、問いかけた。
私たちは社内では親子ということを隠している。兄の彬は跡取りとして専務として、堂々と『社長の子』を名乗っているが、私はその肩書きが仕事の邪魔になると思い、母の旧姓である『羽無瀬』を名乗っている。なので、父も兄も私の意を汲んで社内で声をかけてくることはまずない。ましてや会いにくるだなんて……
驚く私を一瞥して父はソファーに腰掛ける。
「もう就業時間を過ぎているし、研究所内に誰もいないんだ。畏まる必要はない。実は、ちょっと話があってな」
「話、ですか?」
最近家に帰っていないことを叱りにきたのかしら?
私は仕事が長引くと、研究所に泊まることが多々ある。実はここの最上階を無断で改装して秘密の仮眠部屋を作っているのだ。といっても、ワンフロアをまるまる使っているので、キッチンやリビング、お風呂なども備わっている――とても快適な私だけのお城だ。
だが、それを父も兄もよく思っていない。本当はやめてほしいが、終電後に一人で夜道を歩いてほしくないので渋々黙認してくれているだけだ。なので、お小言を言いにきたのかもしれない。そう思った私はお小言が飛んでくる前に頭を下げた。
「お父様、ごめんなさい。新商品に必要な新規有効成分の開発に根を詰めていて、最近は帰れないことが多かったんです。今日は帰ります……」
「いや、そういうことじゃないんだ。もちろん業務は決められた時間内で終わらせて帰ってくるべきだが……。今日言いたいのはそういうことじゃないんだ……」
何かしら……?
なんとなく歯切れが悪い。どうしたんだろう。
父が後ろ手に持っている物が気になって覗き込むと、ごほんと咳払いをされた。
「ほら、座りなさい」
「は、はい」
促されるままにソファーに座ると、父は気まずそうに手に持っていたものをテーブルの上に置いた。
「椿。お前も、もう二十八だろう。そろそろ結婚を視野に入れてもいいんじゃないのか?」
「え?」
「こういう話は母さんや彬がいる家ではできんからな。確実に、自分が椿の相手を選ぶと息巻くに決まっている。それもあり、悪いとは思ったんだが、この時間を選ばせてもらったんだ。どうだ? 今、お付き合いしている人はいないんだろう?」
え……? えっと……
私はテーブルに置かれた明らかに見合い写真と分かるものを見ながら、言葉を詰まらせた。
「……また急にどうして?」
「急じゃない。実はずっと考えていたんだ」
見合い写真をずいっと差し出す父に気圧されながら、私はそれを手に取って、おそるおそる開いてみた。高級な台紙が使われていて、どの写真もとても気合いが入っている。が、正直なところ全員似たような顔に見えてしまった。
「私が見繕ったお前の花婿候補だ。どの相手も良家の子息で不足はないぞ。気になる人がいれば会ってみないか?」
「お父様……。私、去年大学院を卒業して就職したばかりなんですよ。まだ結婚なんて考えられません」
どういうつもりかは知らないが、こんなお節介は不要だ。
大仰な溜息をついて、見合い写真をばんっと閉じて突き返す。そんな私を見て、父は嘆息した。そして残念なものを見るような視線を向けてくる。
「誰も今すぐ結婚しろとは言ってないだろう。私だとてお前に相手がいるなら、こんなお節介を焼いたりはしない。だが、お前のことだ。放っておいたら研究三昧であっという間に三十を超えるのが容易に想像できる。それに、どうせ今まで誰とも付き合ったことすらないんだろう? 好きな人もいないんじゃないのか」
「う……。それは……」
いるわよ。気になる人くらい。
だが、それは言えないので、視線を彷徨わせた。
「ですが跡を継ぐのはお兄様ですし、何も私が結婚しなくても問題ないじゃないですか……」
私の言葉にお父様がフンッと鼻を鳴らす。
「問題大ありだ」
そう言って真っ直ぐ見据えてくる。その目が居心地悪く感じて、私は視線を下に向けた。俯くと、見合い写真が視界に入ってきてげんなりする。
私、結婚なんて……
「いつまでもおままごとのように研究なんてしていないで、早く孫の顔を見せてくれ。この中の人なら結婚後、将来的に彬の支えにもなってくれるだろう。よいこと尽くめだ」
「……おままごとってなんですか? 私はこれでも会社のためになるようにと、頑張っているのに!」
結局は会社にとって利益になる家の人と結婚して、将来跡を継ぐ兄を支えてほしいんでしょう……! そんなの、そんなの、私……
私は膝の上で拳を握り締め、父を精一杯睨みつけた。そんな私の頑なな様子に、父が小さく息をつく。
「それは分かっている……。私の言い方が悪かった。だがな、椿。我が社には優秀な研究員がほかにもいるんだ。何もお前が研究所に泊まり込んでまで頑張る必要はない。父としてお前のことが心配なだけなんだと分かってほしい。もしも椿に好きな人や付き合っている人がいるなら、私は何も言わない。真にお前を想ってくれる人なら私は家柄など気にしないから、そういう人がいるなら隠さずに教えてくれ」
とても真剣な眼差しと強い口調でそう言う父に、私はなんと返したらいいか分からず逃げるように視線を逸らした。
「椿……。よい人がいないなら、そろそろ仕事を辞めて花嫁修業でもしつつ、見合いでもしてみないか? 見合いというと椿は引いてしまうかもしれんが、こういうことは会ってみないと何も分からない。もしかしたら、椿が好きになれる人に……」
「い、嫌です! 私は絶対に辞めません! それに誰とも結婚なんてしません!」
私はこれ以上何も話したくなくて、父の言葉を遮りその場から逃げた。
***
ああ、思い出した。思い出したわ……
父の仕事を辞めろ発言と結婚への圧に腹を立てて、そのまま駅の近くにあった適当なバーに入ったのだった。
陰鬱な気持ちのままカウンターに座ると、杉原部長がいて――いつもと同じ優しい笑顔と声音で、落ち込んでいる私の話を聞いて慰めてくれた。そして、元気が出るようにと美味しいカクテルもご馳走してくれたのだ。
元々彼に淡い恋心をいだいていたこともあり、その優しさと酔いに負けて彼に泣きつき縋ってしまった、気がする。
ということは、ここは部長の部屋?
昨夜ドキドキしながら彼の部屋に足を踏み入れた記憶が蘇る。
「……私ったら」
なんてことを……!
冷静になってくると、色々思い出してきて、私はただでさえ青い顔をさらに青くさせた。
「今日は休みだし、一緒にゆっくり過ごそう」
彼はそんな私とは対照的に呑気な声を出して、床に落ちている下着を拾って穿いている。でも私は未だに布団にくるまったまま動くことができなかった。
昨夜、お酒の力があったとしても彼に『抱いて』と迫ったのは紛れもなく私の本心だ。
だからって私ったら、なんてはしたないことを……
昨夜のことを思い出してしまい、次は青かった顔にボッと火がついて、みるみるうちに赤くなっていく。
父に今まで誰とも付き合ったことがないと指摘されて、私にだって好きな人くらいいるわよとムキになっていたのだ。そのうえ、飛び込むように入ったバーに意中の人がいたものだから、つい想いを吐露してしまった。
自分のしたことがゆっくりと蘇ってくると、とてもじゃないがジッとなんてしていられない。
いくらずっと彼に憧れていたとは言え、『抱いて』ってお願いするなんて……
自分の愚かしい行動に、私は唇を噛んだ。
ああもう、私ったら最低。……部長、絶対に困ったわよね? 彼は優しいから、泣いている私を無下にできなくて受け入れてくれたけど、本心では困っているかもしれない。
でも、一夜を共にしてしまったから、迷惑だって言えないんだわ。
「あ、あの、部長。昨夜は自暴自棄になっていて、大変失礼なことをお願いして申し訳ありませんでした」
「良平」
「え?」
全部忘れてなかったことにしてほしいと言おうとした途端、彼はそう言って短く言葉を切った。
なぜ、彼の名前を告げられたのか分からずに俯きがちだった顔を上げると、強い眼差しに射貫かれる。
「なぜ謝るんだ? もう恋人同士なんだから、失礼も何もないだろう。それより名前で呼べよ。仕事中は仕方がないとしても、二人きりの時は名前で呼んでくれ」
「こ、恋人!?」
部長の言葉にびっくりしすぎて声が裏返る。彼はそんな私の肩を抱いて、ニヤリと笑った。
「さっきも言ったろ? 酒のせいでなかったことになんてさせないって」
「で、ですが、私……」
「昨夜は自暴自棄で酒に呑まれていたのかもしれないが、これからは違う。シラフでたっぷりと愛してやるよ」
え……?
普段とは違う――獲物を捕らえた肉食獣のような雰囲気で私を見つめる彼に、動けなくなってしまった。
ど、どどどういうこと……?
「さて、食事の前に風呂に入るか……」
「えっ!?」
その言葉に心臓が大きく跳ねる。
えっと……お風呂? お風呂って……
返事ができないまま顔を引き攣らせていると、彼が私の頭をくしゃっと撫でた。
「今、湯を入れてくるから、ちょっと待っていてくれ。ついでに風呂から出たら食べられるように食事の用意もしてくる。椿は体が冷えないようにベッドの中で待っているんだぞ」
彼はそう言ってベッドから降りると、クローゼットから出したシャツを私に渡し、布団をかけて体が冷えないようにしてくれる。
その心遣いを嬉しいと思うのに、私はお礼を言うことができずに、彼のシャツをぎゅっと抱き締めたまま布団の中に隠れた。
「いい子で待っているんだぞ」
彼は、そんな私に布団の上からキスを落として部屋から出て行った。
ドアが閉まる音を聞いて、私は布団から顔を出して部屋に一人になったことを確認する。それが分かると、ベッドから飛び出し床に散らばっていた下着や服を大急ぎで身につけた。
ごめんなさい、部長。色々とキャパオーバーで、今はどうしたらいいか分からないんです。一度一人で考えさせてください。
心の中で謝りながら、彼が先ほど渡してくれたシャツを畳んでベッドの上に置く。そして、ザーッというお湯の音が聞こえてきたのを確認してから、その音に紛れて玄関のドアを開け、逃げるように彼のマンションを飛び出した。
幸い、今日は土曜日だ。この二日間、ゆっくり考えよう。そして月曜日に、改めて今回の非礼を謝ればいい。
それに私だけじゃなく彼も考える時間が必要だと思う。きっと彼は真面目だから、私の願いに応じてしまった責任を取らなきゃいけないと思っているのかもしれない。
一人になって冷静になれば昨夜のことを後悔するはずだ。ううん、実はもうしているけど、言い出せないのかもしれない。なら月曜日に改めて話をして、忘れてくださいって言わなきゃ……
優しい彼を一夜の過ちで縛りつけるなんてダメだ。ちゃんとお互い忘れましょうと話をして、解放してあげなければならない。絶対そのほうがいいに決まっている。
「だから、今はごめんなさい。逃げる私を許してください」
私はぶつぶつと謝りながら大通りに出てタクシーを拾い、逃げるように家へ帰った。
***
「ただいま!」
「おかえりなさい……」
駆け込むように自宅に入りドアを閉めると、ちょうど玄関にいた義姉が目を瞬かせる。
「お義姉様、驚かせてごめんなさい。ただいま帰りました……」
少しばつが悪くて笑って誤魔化すと、彼女もニコッと微笑んでくれる。
――彼女は、兄の妻の志穂さんだ。跡継ぎである兄は、現場を知っておくために一時期、父が懇意にしている会社で一般社員として一から学ばせてもらっていたことがあった。その時に出会い、今は妻として秘書として兄を支えてくれている素敵な女性だ。
どんな時でも優しく公平で、とても綺麗な彼女は私にとっても自慢の義姉で、ひそかに目標にしていたりもする。
「椿ちゃん、昨日はどうしたの? 大丈夫だった?」
「大丈夫です。昨夜は帰らなくてごめんなさい。もしかして私を心配してここに? お兄様も一緒ですか?」
部長のところから逃げてきて、未だにドキドキとうるさい胸元を押さえながらそう問いかけると、義姉が私の背中をさすりながら頷いた。
「ええ、皆心配していたのよ。とりあえず、ここじゃなんだからリビングで話をしましょう」
そうよね……。父と言い合って一晩帰らなかったら心配するのは当たり前よね。
「心配をかけてしまって、ごめんなさい」
悪いことをしてしまったと思い謝りながらリビングへ移動する。すると、お手伝いの生嶋さんが「おかえりなさい、お嬢様」と優しい笑顔で出迎えてくれた。
そしてお茶を淹れてくれたので、それを飲みながらホッと一息つく。少し気持ちが落ち着いたのでスマートフォンの電源を入れてみると、父と兄から留守番電話が一件ずつと、メッセージアプリに『心配しているから連絡してほしい』と来ていた。
おそるおそる留守番電話を確認すると、父が昨日の件を謝り「無理強いをしないから話し合おう」と言っていた。そのとても心配している声音に、私は昨夜のことを思い出して胸がチクリと痛んだ。
「落ち着いたかしら?」
スマートフォンを握り締めながら心の中で父に謝っていると、義姉が微笑む。
「はい。ありがとうございます」
「昨夜はお義父様から椿ちゃんが研究所を飛び出したきり、家に帰ってこないからそっちに来ていないかと確認の電話があったの。それを聞いた彬がね、とても心配しちゃって……。私とお義母様は会社近くのホテルにでも泊まっているんじゃないの? って言ったんだけど、何せお義父様と喧嘩して飛び出したでしょう。だから、過保護な彬お兄様としてはとても心配だったみたい」
クスクス笑いながら話す義姉に、私はあたふたしている兄の姿を想像してしまい、一緒になって笑ってしまった。
本当に悪いことをしたわ。あとで、二人に謝らなきゃ……
「笑いごとじゃないよ」
「きゃっ!」
そんなことを考えながら義姉と一緒に笑っていると、突然頭をがしっと掴まれる。驚いて顔を上げると、そこには困り顔の兄がいた。
「お兄様……」
「本当に心配したんだよ。分かっているのかい?」
「はい。ごめんなさい。ちゃんと分かっています」
「……ぅうん」
意識がゆっくりと浮上する。私はまだ定まらない意識の中、薄く目を開いた。すると、見慣れない天井が視界に飛び込んでくる。
あら、ここはどこかしら……?
二、三度瞬きをして、寝返りを打った。
「……えっ!?」
その瞬間、隣に眠っている人に心臓が止まりそうなくらいに驚いた。
見慣れない天井に、隣で眠るよく見慣れた人……
「う、嘘……」
飛び込んできた視界からの情報が受け入れがたく、まだ眠気でふわふわしていた頭が弾かれたように覚醒する。
一見すると、西洋人だと見紛いそうな鼻筋がすっと通った彫りの深い顔立ち。普段はすっきりと整えられた黒色の髪が今は崩れているが、間違うはずがない。
典雅さとは彼のためにある言葉なのだと思うくらい整っていて美しい体貌……
「嘘でしょう……」
夢……? と思いながら、おそるおそる手を伸ばして彼の頬に触れてみる。そしてその頬をむにっとつねった。
「あら、痛くないわ……。よかった、夢だったのね」
嫌だ。私ったら、変な夢見ちゃった……
ホッと胸を撫で下ろして寝直そうとすると、隣で眠っていた人の手が伸びてきて私の頬を摘んだ。
「そういう時は自分の頬をつねるもんだ」
「いひゃいれす……」
「当たり前だ。夢じゃないんだからな」
彼は呆れたように黒い瞳を細めて、小さく息をついた。私は先ほど摘まれた自分の頬をさすりながら、彼の顔をまじまじと見つめる。
やっぱり何度見ても、部長よね……?
彼は杉原良平さん。私より五つ年上の三十三歳で、父が経営する化粧品メーカーの商品開発部の部長だ。
ちなみに私はそこの研究員で、商品開発部とは新商品に必要な研究開発の打ち合わせなどをよくするので、当然ながら彼とも面識はある……。が、プライベートで交流を持つほどの関わりはない。
「杉原部長ですよね……?」
「ああ」
肯定する彼の言葉に、私は一気に鼓動が速くなった。正常値を明らかに上回った気がして胸元を強く押さえる。
落ち着こう。落ち着かなきゃ……。父も常に冷静に物事を見なさいと言っていたじゃない。だから、落ち着かないと……
何度か深呼吸をして目を閉じ、けたたましい心臓を落ち着かせようと試みた。これが夢で、次に目を開けた時は自分の部屋だったらいいなと願いながら……
が、改めて目を開けてみても相変わらず見知らぬ部屋で、目の前には部長がいる。何も変わらない光景に、落ち着かせようとしたはずの心臓がまた激しく鼓動を刻む。
「嘘よ、嘘だわ……」
誰かこれは夢だと言って。お前は悪い夢を見ているんだと。誰か私を起こして……
「嘘じゃない」
どんどん血の気が引いていく私とは対照的に彼は楽しそうに笑う。そして私の乱れた髪に手を伸ばして、梳かすように指を通した。
「君が社長の娘だなんて知らなかったよ。こんな俺がお嬢様の処女をもらっちゃって、社長に殺されそうだな」
けらけらと笑う彼に私はさらに青くなった。言葉を失ったまま硬直していると、彼が顔を覗き込んでくる。
「おいおい、大丈夫か? 俺なりに優しくしたつもりではあるんだが、椿が可愛すぎたせいで、少し自制がきかなかった自覚はある……。すまなかった。体、大丈夫か? まだ痛むか?」
……あれ?
気遣わしげな彼の言葉遣いや態度に違和感を覚え、私は彼をジッと見つめた。
彼は優しい。今だって私の体を気遣ってくれている。だから優しいことには変わりはないのだが、やはり何かが違うように感じる。
どこが違うと言われると難しいんだけれど、普段の彼の口調はもっと柔らかかったはずだ。それに、一人称も『俺』ではなく『僕』だったような……
いつもと違うように感じる彼に、私はひどく混乱した。
第一、彼はとてもモテるが浮いた噂などは今まで聞いたことがない。こんなふうに恋人ではない女性と一夜を共にするようなタイプではなかったはずだ。……少なくとも、私の知る限りでは。
「ぶ、部長? あの、言葉遣いが……。それに、名前……」
椿って……
いつもは私のこと苗字で呼んでいますよね?
戸惑いを隠せずにおそるおそる違和感の正体を訊ねる。すると、彼はなんでもないような顔でこう言った。
「仕事中とプライベートでの振る舞いの差が、そんなに珍しいか? 公私を分けることは何も変なことじゃないと思うが……」
仕事中とプライベート……。た、確かにそうよね。私ったら……
見えているものがそれらを表すすべてではない。突き詰めれば色々なことを発見できるからこそ、研究は楽しい。それは、きっと人にだって言えるはずだ。それなのに、私は今まで見ていたものを彼のすべてだと決めつけていた。
知らない部分を垣間見たからって違和感があるだなんて、とても失礼だわ。
自分の浅はかさと愚かさに、ベッドの上で頭を抱えてうずくまると、背中を優しくさすってくれた。
「部長……」
「椿、本当に大丈夫か? そういえば、昨夜はめちゃくちゃ飲んでいたもんな」
「はい、大丈夫で……」
「だけど、酒を理由になかったことになんてさせないからな」
え……?
私の言葉を遮った彼の言葉にきょとんとすると、彼がニヤリと笑って私の顎をすくい上げた。
「椿は本当に可愛い。今までも仕事に真摯に向き合う君をとても好ましく思ってはいたが、昨夜の君は今まで以上に俺の心を揺さぶった。それはもう感動に打ち震えるほどに……」
「あ、あの、部長?」
「俺の隣で父親の理不尽な言葉への憤りと、仕事への熱い思いを語り、泣く君を見て、俺はなんとしてでも椿の望みを貫かせてやりたいと思ったんだ。頼む。俺に寄り添わせてくれ」
私の顎を掴み、射貫くような眼差しでそう言われ、動けなくなってしまった。
昨夜、私何したの? 何を言ったの?
えっと、昨夜は確か……
***
定時を一時間半ほど過ぎて、研究所内から人がいなくなった頃、私は使った器具を片づけていた。
ここは父が経営する化粧品メーカーの研究所だ。ここで研究員たちは基礎研究や製品開発をしている。
私は新商品に必要な新規有効成分の開発に携わっているのだが、やはりこういうものは時間がかかる。……数年かけても、それが形にならないことは珍しくない。
だからつい就業時間後も残ってやっちゃうのよね……。よくないのは分かっているんだけど……
そんなことを考えながら片づけていると、研究室のドアがコンコンとノックされた。その音に顔を上げる。
あら、誰か忘れ物かしら?
うちの研究所は、通りを隔てた斜向かいに本社ビルが建っているということもあり、たまに本社の社員が直接来ることもある。が、定時を大幅に過ぎているので、その線は薄いだろう。それにこんな時間だ。緊急ならまず内線がかかってくるはずなので、やはり研究員の誰かが忘れ物をしたのだと思う。
ノックなんてしなくても、いつものように普通に入ってくればいいのに……
そう思いながら、「どうぞ」と声をかけるとドアが開いた。そちらに視線をやると、そこには我が社の社長――私の父である兎之山崇がにこやかな表情で立っていた。
「社長、どうかされたのですか?」
なぜ、ここに?
私は目を瞬かせながら、問いかけた。
私たちは社内では親子ということを隠している。兄の彬は跡取りとして専務として、堂々と『社長の子』を名乗っているが、私はその肩書きが仕事の邪魔になると思い、母の旧姓である『羽無瀬』を名乗っている。なので、父も兄も私の意を汲んで社内で声をかけてくることはまずない。ましてや会いにくるだなんて……
驚く私を一瞥して父はソファーに腰掛ける。
「もう就業時間を過ぎているし、研究所内に誰もいないんだ。畏まる必要はない。実は、ちょっと話があってな」
「話、ですか?」
最近家に帰っていないことを叱りにきたのかしら?
私は仕事が長引くと、研究所に泊まることが多々ある。実はここの最上階を無断で改装して秘密の仮眠部屋を作っているのだ。といっても、ワンフロアをまるまる使っているので、キッチンやリビング、お風呂なども備わっている――とても快適な私だけのお城だ。
だが、それを父も兄もよく思っていない。本当はやめてほしいが、終電後に一人で夜道を歩いてほしくないので渋々黙認してくれているだけだ。なので、お小言を言いにきたのかもしれない。そう思った私はお小言が飛んでくる前に頭を下げた。
「お父様、ごめんなさい。新商品に必要な新規有効成分の開発に根を詰めていて、最近は帰れないことが多かったんです。今日は帰ります……」
「いや、そういうことじゃないんだ。もちろん業務は決められた時間内で終わらせて帰ってくるべきだが……。今日言いたいのはそういうことじゃないんだ……」
何かしら……?
なんとなく歯切れが悪い。どうしたんだろう。
父が後ろ手に持っている物が気になって覗き込むと、ごほんと咳払いをされた。
「ほら、座りなさい」
「は、はい」
促されるままにソファーに座ると、父は気まずそうに手に持っていたものをテーブルの上に置いた。
「椿。お前も、もう二十八だろう。そろそろ結婚を視野に入れてもいいんじゃないのか?」
「え?」
「こういう話は母さんや彬がいる家ではできんからな。確実に、自分が椿の相手を選ぶと息巻くに決まっている。それもあり、悪いとは思ったんだが、この時間を選ばせてもらったんだ。どうだ? 今、お付き合いしている人はいないんだろう?」
え……? えっと……
私はテーブルに置かれた明らかに見合い写真と分かるものを見ながら、言葉を詰まらせた。
「……また急にどうして?」
「急じゃない。実はずっと考えていたんだ」
見合い写真をずいっと差し出す父に気圧されながら、私はそれを手に取って、おそるおそる開いてみた。高級な台紙が使われていて、どの写真もとても気合いが入っている。が、正直なところ全員似たような顔に見えてしまった。
「私が見繕ったお前の花婿候補だ。どの相手も良家の子息で不足はないぞ。気になる人がいれば会ってみないか?」
「お父様……。私、去年大学院を卒業して就職したばかりなんですよ。まだ結婚なんて考えられません」
どういうつもりかは知らないが、こんなお節介は不要だ。
大仰な溜息をついて、見合い写真をばんっと閉じて突き返す。そんな私を見て、父は嘆息した。そして残念なものを見るような視線を向けてくる。
「誰も今すぐ結婚しろとは言ってないだろう。私だとてお前に相手がいるなら、こんなお節介を焼いたりはしない。だが、お前のことだ。放っておいたら研究三昧であっという間に三十を超えるのが容易に想像できる。それに、どうせ今まで誰とも付き合ったことすらないんだろう? 好きな人もいないんじゃないのか」
「う……。それは……」
いるわよ。気になる人くらい。
だが、それは言えないので、視線を彷徨わせた。
「ですが跡を継ぐのはお兄様ですし、何も私が結婚しなくても問題ないじゃないですか……」
私の言葉にお父様がフンッと鼻を鳴らす。
「問題大ありだ」
そう言って真っ直ぐ見据えてくる。その目が居心地悪く感じて、私は視線を下に向けた。俯くと、見合い写真が視界に入ってきてげんなりする。
私、結婚なんて……
「いつまでもおままごとのように研究なんてしていないで、早く孫の顔を見せてくれ。この中の人なら結婚後、将来的に彬の支えにもなってくれるだろう。よいこと尽くめだ」
「……おままごとってなんですか? 私はこれでも会社のためになるようにと、頑張っているのに!」
結局は会社にとって利益になる家の人と結婚して、将来跡を継ぐ兄を支えてほしいんでしょう……! そんなの、そんなの、私……
私は膝の上で拳を握り締め、父を精一杯睨みつけた。そんな私の頑なな様子に、父が小さく息をつく。
「それは分かっている……。私の言い方が悪かった。だがな、椿。我が社には優秀な研究員がほかにもいるんだ。何もお前が研究所に泊まり込んでまで頑張る必要はない。父としてお前のことが心配なだけなんだと分かってほしい。もしも椿に好きな人や付き合っている人がいるなら、私は何も言わない。真にお前を想ってくれる人なら私は家柄など気にしないから、そういう人がいるなら隠さずに教えてくれ」
とても真剣な眼差しと強い口調でそう言う父に、私はなんと返したらいいか分からず逃げるように視線を逸らした。
「椿……。よい人がいないなら、そろそろ仕事を辞めて花嫁修業でもしつつ、見合いでもしてみないか? 見合いというと椿は引いてしまうかもしれんが、こういうことは会ってみないと何も分からない。もしかしたら、椿が好きになれる人に……」
「い、嫌です! 私は絶対に辞めません! それに誰とも結婚なんてしません!」
私はこれ以上何も話したくなくて、父の言葉を遮りその場から逃げた。
***
ああ、思い出した。思い出したわ……
父の仕事を辞めろ発言と結婚への圧に腹を立てて、そのまま駅の近くにあった適当なバーに入ったのだった。
陰鬱な気持ちのままカウンターに座ると、杉原部長がいて――いつもと同じ優しい笑顔と声音で、落ち込んでいる私の話を聞いて慰めてくれた。そして、元気が出るようにと美味しいカクテルもご馳走してくれたのだ。
元々彼に淡い恋心をいだいていたこともあり、その優しさと酔いに負けて彼に泣きつき縋ってしまった、気がする。
ということは、ここは部長の部屋?
昨夜ドキドキしながら彼の部屋に足を踏み入れた記憶が蘇る。
「……私ったら」
なんてことを……!
冷静になってくると、色々思い出してきて、私はただでさえ青い顔をさらに青くさせた。
「今日は休みだし、一緒にゆっくり過ごそう」
彼はそんな私とは対照的に呑気な声を出して、床に落ちている下着を拾って穿いている。でも私は未だに布団にくるまったまま動くことができなかった。
昨夜、お酒の力があったとしても彼に『抱いて』と迫ったのは紛れもなく私の本心だ。
だからって私ったら、なんてはしたないことを……
昨夜のことを思い出してしまい、次は青かった顔にボッと火がついて、みるみるうちに赤くなっていく。
父に今まで誰とも付き合ったことがないと指摘されて、私にだって好きな人くらいいるわよとムキになっていたのだ。そのうえ、飛び込むように入ったバーに意中の人がいたものだから、つい想いを吐露してしまった。
自分のしたことがゆっくりと蘇ってくると、とてもじゃないがジッとなんてしていられない。
いくらずっと彼に憧れていたとは言え、『抱いて』ってお願いするなんて……
自分の愚かしい行動に、私は唇を噛んだ。
ああもう、私ったら最低。……部長、絶対に困ったわよね? 彼は優しいから、泣いている私を無下にできなくて受け入れてくれたけど、本心では困っているかもしれない。
でも、一夜を共にしてしまったから、迷惑だって言えないんだわ。
「あ、あの、部長。昨夜は自暴自棄になっていて、大変失礼なことをお願いして申し訳ありませんでした」
「良平」
「え?」
全部忘れてなかったことにしてほしいと言おうとした途端、彼はそう言って短く言葉を切った。
なぜ、彼の名前を告げられたのか分からずに俯きがちだった顔を上げると、強い眼差しに射貫かれる。
「なぜ謝るんだ? もう恋人同士なんだから、失礼も何もないだろう。それより名前で呼べよ。仕事中は仕方がないとしても、二人きりの時は名前で呼んでくれ」
「こ、恋人!?」
部長の言葉にびっくりしすぎて声が裏返る。彼はそんな私の肩を抱いて、ニヤリと笑った。
「さっきも言ったろ? 酒のせいでなかったことになんてさせないって」
「で、ですが、私……」
「昨夜は自暴自棄で酒に呑まれていたのかもしれないが、これからは違う。シラフでたっぷりと愛してやるよ」
え……?
普段とは違う――獲物を捕らえた肉食獣のような雰囲気で私を見つめる彼に、動けなくなってしまった。
ど、どどどういうこと……?
「さて、食事の前に風呂に入るか……」
「えっ!?」
その言葉に心臓が大きく跳ねる。
えっと……お風呂? お風呂って……
返事ができないまま顔を引き攣らせていると、彼が私の頭をくしゃっと撫でた。
「今、湯を入れてくるから、ちょっと待っていてくれ。ついでに風呂から出たら食べられるように食事の用意もしてくる。椿は体が冷えないようにベッドの中で待っているんだぞ」
彼はそう言ってベッドから降りると、クローゼットから出したシャツを私に渡し、布団をかけて体が冷えないようにしてくれる。
その心遣いを嬉しいと思うのに、私はお礼を言うことができずに、彼のシャツをぎゅっと抱き締めたまま布団の中に隠れた。
「いい子で待っているんだぞ」
彼は、そんな私に布団の上からキスを落として部屋から出て行った。
ドアが閉まる音を聞いて、私は布団から顔を出して部屋に一人になったことを確認する。それが分かると、ベッドから飛び出し床に散らばっていた下着や服を大急ぎで身につけた。
ごめんなさい、部長。色々とキャパオーバーで、今はどうしたらいいか分からないんです。一度一人で考えさせてください。
心の中で謝りながら、彼が先ほど渡してくれたシャツを畳んでベッドの上に置く。そして、ザーッというお湯の音が聞こえてきたのを確認してから、その音に紛れて玄関のドアを開け、逃げるように彼のマンションを飛び出した。
幸い、今日は土曜日だ。この二日間、ゆっくり考えよう。そして月曜日に、改めて今回の非礼を謝ればいい。
それに私だけじゃなく彼も考える時間が必要だと思う。きっと彼は真面目だから、私の願いに応じてしまった責任を取らなきゃいけないと思っているのかもしれない。
一人になって冷静になれば昨夜のことを後悔するはずだ。ううん、実はもうしているけど、言い出せないのかもしれない。なら月曜日に改めて話をして、忘れてくださいって言わなきゃ……
優しい彼を一夜の過ちで縛りつけるなんてダメだ。ちゃんとお互い忘れましょうと話をして、解放してあげなければならない。絶対そのほうがいいに決まっている。
「だから、今はごめんなさい。逃げる私を許してください」
私はぶつぶつと謝りながら大通りに出てタクシーを拾い、逃げるように家へ帰った。
***
「ただいま!」
「おかえりなさい……」
駆け込むように自宅に入りドアを閉めると、ちょうど玄関にいた義姉が目を瞬かせる。
「お義姉様、驚かせてごめんなさい。ただいま帰りました……」
少しばつが悪くて笑って誤魔化すと、彼女もニコッと微笑んでくれる。
――彼女は、兄の妻の志穂さんだ。跡継ぎである兄は、現場を知っておくために一時期、父が懇意にしている会社で一般社員として一から学ばせてもらっていたことがあった。その時に出会い、今は妻として秘書として兄を支えてくれている素敵な女性だ。
どんな時でも優しく公平で、とても綺麗な彼女は私にとっても自慢の義姉で、ひそかに目標にしていたりもする。
「椿ちゃん、昨日はどうしたの? 大丈夫だった?」
「大丈夫です。昨夜は帰らなくてごめんなさい。もしかして私を心配してここに? お兄様も一緒ですか?」
部長のところから逃げてきて、未だにドキドキとうるさい胸元を押さえながらそう問いかけると、義姉が私の背中をさすりながら頷いた。
「ええ、皆心配していたのよ。とりあえず、ここじゃなんだからリビングで話をしましょう」
そうよね……。父と言い合って一晩帰らなかったら心配するのは当たり前よね。
「心配をかけてしまって、ごめんなさい」
悪いことをしてしまったと思い謝りながらリビングへ移動する。すると、お手伝いの生嶋さんが「おかえりなさい、お嬢様」と優しい笑顔で出迎えてくれた。
そしてお茶を淹れてくれたので、それを飲みながらホッと一息つく。少し気持ちが落ち着いたのでスマートフォンの電源を入れてみると、父と兄から留守番電話が一件ずつと、メッセージアプリに『心配しているから連絡してほしい』と来ていた。
おそるおそる留守番電話を確認すると、父が昨日の件を謝り「無理強いをしないから話し合おう」と言っていた。そのとても心配している声音に、私は昨夜のことを思い出して胸がチクリと痛んだ。
「落ち着いたかしら?」
スマートフォンを握り締めながら心の中で父に謝っていると、義姉が微笑む。
「はい。ありがとうございます」
「昨夜はお義父様から椿ちゃんが研究所を飛び出したきり、家に帰ってこないからそっちに来ていないかと確認の電話があったの。それを聞いた彬がね、とても心配しちゃって……。私とお義母様は会社近くのホテルにでも泊まっているんじゃないの? って言ったんだけど、何せお義父様と喧嘩して飛び出したでしょう。だから、過保護な彬お兄様としてはとても心配だったみたい」
クスクス笑いながら話す義姉に、私はあたふたしている兄の姿を想像してしまい、一緒になって笑ってしまった。
本当に悪いことをしたわ。あとで、二人に謝らなきゃ……
「笑いごとじゃないよ」
「きゃっ!」
そんなことを考えながら義姉と一緒に笑っていると、突然頭をがしっと掴まれる。驚いて顔を上げると、そこには困り顔の兄がいた。
「お兄様……」
「本当に心配したんだよ。分かっているのかい?」
「はい。ごめんなさい。ちゃんと分かっています」
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