一筋縄ではいかない年下イケメンの甘く過激な溺愛

加地アヤメ

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1巻

1-1

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   一


 人生で大事なものってなんだと思いますか。愛ですか、それともやりがいのある仕事ですか。
 私、蔦夏凛つたかりん――三十二歳――は、お金だと思います。


「いらっしゃいませ」

 ここは繁華街にあるテナントビルの一階。この辺一帯を所有する大地主のオーナーが経営する、女性向けのセレクトショップだ。
 対象年齢は三十代以上。海外でオーナーが買い付けてきた服や、あまり取り扱いがない知る人ぞ知るデザイナーのアパレルや装飾品、バッグや財布などの小物がずらりと並び、ショーケースをいろどっている。
 今日も元気に仕事にいそしんでいる私は、来店したお客様に笑顔で対応する。

「こちら、先日入荷したばかりのバッグです。牛革を使用し、職人が一点一点手作りしているので、どれも微妙に表情が違うんです」

 牛革を丁寧になめしたハンドバッグは、形が一緒でも同じものは存在しないのだ。そして、この「職人が一点一点手作り」といううたい文句に惹かれるお客様は多い。

「そうなの……? なんだか、自分だけのものっていう特別感があっていいわね……!!」

 この年配のお客様は、うちの常連さんだ。自分でエステ店を経営しており、ハイブランドよりもうちで扱うような一点物が好きだと言ってくれる。ありがたいことに新しい商品が入荷しましたとダイレクトメールを送付すると、いつもすぐに来店してくれるのだ。
 実際に商品を手に取り、鏡で合わせている姿を笑顔で眺める。すると、鏡から私に視線を移したお客様が、満面の笑みを浮かべてバッグを差し出してきた。

「素敵ね。じゃあ、これいただくわ」
「ありがとうございます」

 ――やったー、お買い上げ~~!!
 バッグを丁寧に包んで、会計を済ませたお客様を出入り口までお見送りする。

「ありがとうございました、またのお越しをお待ちしております」

 深々とおじぎをしてお客様を見送ってから、店の中に戻った。

「ほんと、深田ふかだ様はいいお客様だなあ……」

 しみじみしながら売れたバッグの位置に別のバッグを並べていたら、バックヤードからパートの富樫とがしさんが出てきた。

「深田様、新商品入荷日に早速ご購入ですか! すごいですね」
「ねー、ほんとありがたいよ。あのバッグ、絶対深田様の好みだと思ったんだ。DMに画像貼り付けておいて良かった」

 売れたから気分も上々。そんな私に富樫さんも「本当ですね~」と同意してくれる。
 富樫さんは主婦パートさん。夕方四時まで勤務してくれている。この店は、雇われ店長の私と富樫さんや数名の女性アルバイトで回している。ちなみにオーナーはこのビルの所有者で、年中買い付けで海外を飛び回っている中年の男性だ。日本にいる時限定だが、ヘルプ要員もしてくれている。というのも、オーナーは顔もスタイルもいいイケオジなので、彼が店に出ていると女性受けが非常にいいのである。
 富樫さんがバックヤードで検品してくれた新商品を二人で棚に並べながら、話題はなぜか私の私生活に。

「蔦さん、未だに誰かとお付き合いする気、ないんですか?」
「うん、ないよ」

 けろりと答えた私に、富樫さんが、ええ……と不満げな声を上げた。

「確か前の人と別れたのって、二年くらい前でしたよね? そろそろ次に行ってもいいのでは……」
「ちょっと待って」

 富樫さんの呟きを途中でさえぎる。今のニュアンスには、もの申さずにはいられなかった。

「今の言い方だと、前の男が忘れられなくて恋愛しないみたいじゃない。そうじゃないから! 今はもう、男性になんの期待もしてないし、結婚して幸せになる未来も考えられないから、恋愛しないだけなの」

 既婚者である富樫さんに、こんなことを言うのは申し訳ないけれど、それが事実なのだから仕方がない。
 そうなのだ。私は、今のところ結婚する気がない。
 だからこそ、この先一人でも生きていけるように、今から計画的にお金を蓄えているのだ。
 もちろん私だって、最初からそう思って生きてきたわけじゃない。数年前、当時付き合っていた彼氏と上手くいっていた時は、このまま結婚するのかな~、なんてぼんやり考えていた。
 でもある時、その彼氏が、まったく貯金をしていないということを知ってしまった。
 年齢は私よりだいぶ上だったのにもかかわらず、貯金がゼロ。
 稼いだお金は全額趣味に使うタイプの人で、結婚の話が出た時も、結婚式や新婚旅行にかかるお金を私の貯金でどうにかしようと考えていたらしい。
 それがわかった途端、私の中で何かが切れた。
 ――こんな人と一緒になったところで、幸せになれるわけないじゃない。
 ああいうお金の使い方をしている人が、結婚をきっかけに変わるとは思えない。下手すると生活費は全額私が出すことになる。そうなったら当然仕事は辞められないし、もし子どもが生まれたとしても子育てに協力してもらえる保証はない。
 ――あ、だめ。絶対だめ。苦労する未来しか見えない。
 このあと更に彼とはもう一悶着ひともんちゃくあり、それが決定打となって絶対一緒にはなれないと決意した。そうとなれば、私の行動は早い。さっさと彼に別れを告げて、住んでいたアパートを退去した。
 彼は最初別れることを渋ったけれど、元々自由がなくなるのが不満で結婚には消極的だった。そこら辺を懇々こんこんと説明し、円満に別れることができたのはラッキーだった。
 その後、携帯電話の番号を変え、相手に場所を知られている職場はオーナーに頼み込んで別の店舗に異動させてもらうことができた。
 彼と別れることに全労力をそそいだおかげで、ほとほと疲れ切ってしまった。当時の私は三十歳。そこからまた、新たに恋愛を始めようという気力は湧かず、今に至るのであった。

「でもまだ三十二歳じゃないですか。ぜんっぜん今からでも恋愛はできますよ? 蔦さん、うちで扱っているワンピースをこんなに綺麗に着こなせちゃうくらい、細くて綺麗じゃないですか! よくお客様にも聞かれるんですよ、あの店員さんが着ているワンピースと同じものってありますか? って」
「えー。めてくれるの? ありがとう~。でも、細いのは単に、働きすぎてせてるだけじゃない?」

 なんてね? と冗談めかして言うと、富樫さんの表情が曇った。

「ええ!? それはだめですよ! 蔦さんあんまり休まないし、お昼ご飯も少ないからいつも心配してるんですよ。たまには仕事のことを忘れて、有休使ってのんびりしてくださいよ!」
「あはは、ごめんごめん。ちゃんと食べてるから心配しないで! 有休もそのうち取るつもりだし……」

 心配してくれる富樫さんには、本当に申し訳ないと思ってる。だけど、働きすぎというのは、あながち間違ってない。
 というのも、実は私、この仕事以外にも別の仕事を持っているのである。


「いらっしゃいませ。二名様ですか? どうぞこちらへ」

 昼間の仕事を終えた私が真っ直ぐ向かったのは、勤務先のオーナーが別に所有するテナントビルの地下一階にあるバー。
 店の経営者はイケオジのオーナーではなく、オーナーのお姉様だ。
 私はここで、白いシャツに黒いエプロン、黒いパンツというユニフォームに着替えて、お客様を席に案内したり、バーテンダーが作ったドリンクを運んだり、軽食を作ったりしている。
 つまり、ダブルワーク中なのだ。
 結婚を考えていた相手と別れ、未来が見えなくなった私にとって、一番頼れるのは愛ではなくお金。そのお金を稼ぐために、こうして日夜あくせく働いているのである。
 セレクトショップが終わるのが夕方六時。そこから店を閉めてバーに直行し、夜の十一時まで働いている。
 ダブルワークに慣れないうちは、正直キツくて死ぬかと思った。でも、夜の仕事に慣れてくるにつれ、雰囲気のいいバーが居心地よくなった。それもあって、ダブルワークを始めてもうじき一年半くらいになる。
 ――富樫さんに話したら絶対心配されるから、言わない……っていうか言えない。
 お客様を席に案内してカウンターに戻る。

「夏凛ちゃん、疲れてるようだったら、今日はもう上がっていいよ?」

 この店のマスター兼バーテンダーの宮地みやじさんに気を遣われてしまい、思わずギョッとする。

「えっ。私、そんなに疲れた顔してますか?」

 宮地さんに聞き返したら、違う違うと否定された。ちなみに宮地さんは四十代の既婚男性。いつも襟足えりあしで結んでいる長い黒髪がトレードマークだ。

「ただでさえ昼から働いてるのに、このところ週六で入ってるでしょう。おじさんはねえ、夏凛ちゃんの体を心配してるんだよ。今夜はお客様も少ないし、あとは僕一人でなんとかなるから。もう上がりなさい?」

 宮地さんに心配そうな目をして見つめられ、なんだかお母さんに諭されているような気分になってしまった。

「うっ……わかりました……そうします……」

 来店されたばかりのお客様に水を運び、オーダーを聞いて宮地さんに伝えてから上がることにした。
 外に出ると、ひんやりした空気が顔に当たる。

「さむ……」

 今日は二人に心配されてしまった。
 自分で思っているよりも、疲れが顔に出ているのかもしれない。これは、ゆゆしき問題だ。
 ――早く家に帰って、ゆっくり湯船にかって、顔にシートマスクしよう……
 そんなことを考えながら、歩いてすぐの駅から自分の住むアパートの最寄り駅まで、電車移動した。駅から徒歩十分の二階建てのアパートが私のお城である。
 はっきり言って、かなり古い。実際、築年数もかなりいっているので家賃が安かった。
 なぜこのアパートに住んでいるのかと言うと、彼氏と別れたあと、完全に接点を絶ちたくて即入居可能な物件に飛びついたからだ。
 風呂トイレ付きの六畳1Kで、二階の真ん中の部屋。左右は年配の男性と若い男性がそれぞれ住んでいるが、幸運なことにいい人達で一安心した。住み始めたら、部屋の古さはさほど気にならなくなった。仕事ばかりしているせいで、ほとんど寝に帰るだけの部屋となっているからかもしれない。
 駅のすぐ近くにある二十四時間営業のスーパーで惣菜を買ってきたので、冷凍庫にストックしている冷凍ご飯で軽く夜食を食べることにした。もちろん、この時間まで何も食べていないわけではない。バーのバイト中、まかないでパスタだったりサンドイッチだったりを食べている。
 でも、やっぱり自分の部屋で、ほっとして食べるご飯は美味おいしい。

「うまあ……」

 スーパーで買った惣菜は、ひじきの煮物。昔はそんなに好きじゃなかったけれど、三十歳になる前くらいからめちゃめちゃ美味おいしく感じるようになった。なぜだ。
 それはまあいいとして、明日も元気に働けるように、しっかり自分をいたわろう。
 のんびり湯船にかったあと、顔にシートマスクをしてから美容液などでお手入れを済ませ、寝床に入った。時間はもう、深夜零時を過ぎている。

「おやすみなさい……」

 明日も頑張らなくちゃ……と思いながら目を閉じた私は、多分すぐ寝た。


 翌日、ぐっすり眠って回復した私がセレクトショップでの仕事にいそしんでいると、不意に店のドアが開いた。

「いらっしゃいませ」

 振り向きざまにこの台詞せりふを口にするよう、ほぼ条件反射ができあがっている。そして忘れちゃいけない笑顔も。
 来店したのは若い男性だった。背が高く、多分百八十センチは優にありそうだ。綺麗な顔立ちで、おそらく来店したのは初めてではないだろうか。その証拠に、店内をキョロキョロ見回して、どこに何があるのか確認しているようだった。

「何かお探しですか?」

 こういう場合の決まり文句。でも、本当に何かを探しているようだったので、あながち間違いではない。
 声をかけたら、一瞬その男性が「うわ、来た」と言いたげに目を細めた。こういったお客様の反応もあるあるで慣れっこである。
 ――こっちも仕事で声をかけてるだけだからね? そこんとこよく理解してね?
 心の中で悪態をついていると、男性が少し困ったように口を開いた。

「いや……知り合いへのプレゼントなんですけど、この店のものをって言われて」
「ありがとうございます! ちなみに、どういったものがよろしいなどありますでしょうか」

 念のため、その知り合いの年齢や性別を尋ねる。そこに関しては、さらっと答えてくれた。

「五十代の女性です。まあ、母ですけど」

 ――お母さんへのプレゼント? なーんだ、やるじゃん青年。

「そうでしたか……!! もしかしてお母様は、過去にこの店で商品を購入されたことがありますか?」
「ええ、多分。何が欲しいかと尋ねたら、この店に売ってるものがいい! って即答されたんですよ……まったく、そんなこと言われても俺、好みなんかわかんねえのに……」

 そう言って不機嫌そうな顔をする男性に、おい……とこっちが困る。

「お名前を頂戴ちょうだいできれば、顧客データで過去に何を買われたか調べることができますけど。いかがいたしましょうか」

 私の提案に、男性の表情が若干緩んだ。

「そうなんだ? 一応母に確認取るか」

 男性が素早くパンツのポケットからスマホを取り出し、耳に当てた。

「あ、今いい? プレゼントの件だけど、過去の店の購入データ見てもいい? 同じもの買わないようにするからさ」

 あっという間に通話を終えた男性が、私に向き直った。

「問題ないそうなので、調べてもらっていいですか。名前はぶんや、と言います。文章の文に屋号の屋で、名前がしょうこです。漢字は……」
「あ、名字だけで大丈夫だと思います。あまりいらっしゃらない名字ですし……すぐお調べします」

 急いでカウンターに戻り、タブレットで顧客データを探る。文屋という名字には聞き覚えがあった。該当するお客様はお一人しかいない――文屋祥子ぶんやしょうこ様。
 立ち居振る舞いがすごく上品で、顔立ちの整った綺麗な女性だった。
 この人、文屋様の息子さんなのか。
 言われてみれば、目元の辺りが似ているような気がする。

「ありました。三ヶ月ほど前にスカーフとワンピースを、その後もアクセサリーを数点と、お財布を購入されていますね」
「スカーフと、財布か……」

 同じデザイナーさんのものがまだ店にあるので、よかったら参考にしますか? こちらの柄違いです、と紹介した。
 ふーん、とそれに見入っていた男性だけど、値段を見て「は!?」と目を見開いた。

「結構するな!」
「はい……一点物なので……」
「へえ……俺にはよくわからん」

 ――そのよくわからんものを売るのが私の仕事なんですけど……
 こめかみがピキッ、とうずく。でもこんなのはよくあること。
 我慢、我慢……と心で呟きながら、男性のお眼鏡にかないそうなものを探す。

「たとえば、お財布とおそろいになりそうなカードケースはいかがです? 以前ご購入された財布と同じ作家さんのものがありますよ」
「へえ。どんなの?」

 手袋をして、ショーケースの中からカードケースを取り出し、男性に手渡した。光沢こうたくのある革を使っていて、手触りがとても好きな商品だ。

「へえ……手触りがいいですね」
「ありがとうございます。他に、同じ作家さんが作ったサコッシュもございます」

 別の場所にあった、斜めがけできるタイプのシンプルな長方形の革のサコッシュ。ポケットも何もついていないけれど、ギリギリ長財布やスマホが入るくらいの大きさで、ちょっとお買い物に行く時なんかにちょうどいいと思う。
 これなんかいいんじゃないかな~、と期待をいだきつつ男性に紹介すると、案の定サコッシュに食いついた。

「……いいですね。革の手触りもいいし、大きさも手頃だし。これならもし、母が気に入らなくても俺が欲しい……」
「お色違いもありますよ。こちらがブラウンで、こっちがブラック」
「いや。さすがにいい年して母親とおそろいとか、無理」

 それもそうか。
 納得したので別のものを探す。

「でしたら……小ぶりなバッグなどはいかがですか?」

 別の作家さんが作ったものだけど、軽くて年配の女性でも持ちやすい、一枚革のバッグを紹介してみた。
 A4サイズの書類は入らないけれど、長財布なら余裕で入る大きさのトートバッグ。持ち手の長さもちょうどよくて、手に持つも良し、腕にかけても良し。更にバッグの上部にファスナーがついているので、落とした時に中身が飛び出す心配もない。
 思いつく限りの利点を挙げていくと、だんだん男性の表情に余裕が出てきた。

「なるほど。いいですね。じゃ、これに決めます」

 ――やった!

「ありがとうございます」
「それと、母へのプレゼントとは別に、こっちのサコッシュも。こっちは自分用で」

 ――意外……本当に気に入ってくれてたんだ。

「ありがとうございます。すぐにお包みしますね」

 そう言ってカウンターに戻った私は、全力で梱包作業に挑んだ。男性のものはショップの紙袋に、贈り物は箱に入れてリボンをかけた。

「お待たせいたしました。こちらお会計になります」

 バッグ二点のお買い上げで数万円の売り上げだ。男性は財布からクレジットカードを出し、それで会計を済ませた。
 ――最初は面倒くさそうな人かなって思ったけど、二つも買ってくれるなんていい人だったわ~。ありがたい~!
 内心うきうきしてるのを顔に出さないよう、レシートをお渡しした。商品の入ったショップバッグを持ってドアまで誘導する。

「今日はご来店ありがとうございました。……店に入るの、勇気がいったのではないですか?」

 買ってもらったことで少々気が緩んだ私は、あろうことか男性に質問なんかしてしまう。

「え?」

 私の顔をじっと見ながら聞き返してきた男性の反応に、やばっ、と思った。
 ――しまった。馴れ馴れしかったかな……

「申し訳ありません、あまり若い男性のお客様っていらっしゃらないので……もしかしたらそうかなと。うちは置いているものの八割くらいが女性向けなので、つい」

 男性の顔を見て反応を待っていたら、しばらく私の顔を見てから、ゆっくり照れたように口を開いた。

「ああ……まあ、確かに。最初は……、ちょっと入るのを躊躇ちゅうちょしたんですけど。でも」

 また男性がじっと私を見る。

「お姉さんがいい人だったんで、来て正解でした。久しぶりに母に感謝しましたよ」

 そして男性は、初めてにこりと微笑んだ。
 切れ長の目は、一見きつい印象を与えるけれど、笑うとめちゃくちゃキュートではないか。

「ならよかったです。きっと、お母様に喜んでもらえると思いますよ」

 そう返しながら、今のってどういう意味だろうと思う。感謝するって何に?
 ――自分用に買ったサコッシュが気に入ったってこと? まあ、あれって近所に買い物とか行くのに便利だもんね……
 そういう意味なのかな、と納得する。

「ありがとうございます。では、ぜひまたのご来店をお待ちしております」
「ども。お姉さんも仕事頑張って」

 営業スマイルで軽く会釈えしゃくをして、男性を見送った。
 接客にいい印象を持ってもらえたのなら、結果オーライだ。

「よっしゃ、今日は幸先いいわぁ」

 店に戻った私はその後も忙しく働き、その男性のことなどすっかり頭から抜け落ちてしまったのだった。


 それから数日後。
 バイト先のバーで接客をしていた時のことだ。
 スーツを着たサラリーマン風の男性三人組が入ってきた。

「いらっしゃいませ。三名様でよろしいですか?」
「はい」
「テーブル席とカウンター、どちらがよろしいですか?」

 開店してから何回転かして、今はテーブル席に二人お客様がいるだけ。好きな席が選べるのでお客様に選んでもらう。

「じゃあ……せっかくだからカウンターにするか。ここのマスターのカクテル美味うまいし、ビジュアルがいいんだよ」

 一番年配の男性がカウンターを選んだ。このお客様は見覚えがあるので、何度目かの来店だ。

「では、こちらにどうぞ」

 三人をカウンターに案内して、水を取りにカウンターへ戻ろうとしたら、手首を誰かに掴まれた。
 ――は?
 驚きの眼差しで掴んでいる男性を見上げる。スーツに身を包んでいる男性に見覚えは……ない。でも、なぜか私以上に男性の方が驚いた顔をしている。

「お姉さん、なんでここにいるの?」

 なんでってバイトだけど、と心の中で眉をひそめるが、顔には出さない。

「なんでと言われましても……ここで働いているので」
「いや、だって。この前は、セレクトショップにいたじゃん。ほら、覚えてない? 母のプレゼントを買いに来た男、いただろ?」
「……え」

 ちょっと待って。
 確かにそれは記憶にある。でも、あの時店に来た男性は、もっと目にかかるくらい前髪が長くて、黒いコートに黒っぽいシャツとデニムというラフなスタイルだった。
 それに対して今目の前にいるのは、細身のグレーのスーツを着こなす紳士だ。髪の毛だって綺麗にセットされて、涼しげな切れ長の目がはっきり見える。
 すぐに思い出せない私に、目の前の男性が苛立ったように眉根を寄せる。
 ――ん? 切れ長の目……?
 よく見れば、最後に笑った男性の顔と、目の前の人の顔が、どことなく重なって見えた。

「……あの、もしかしてお名前は……」
「文屋」
「あっ!!」

 意図せず声が出てしまい、慌てて口をつぐむ。それで私が思い出したとわかったのだろう、苛立ったような顔をしていた男性の口元が弧を描いた。

「やっと思い出したか」
「その節はありがとうございました。お母様にプレゼントは……」
「渡した渡した。すげえ喜んでたよ。もう毎日持って歩いてるらしい」

 それを聞いて心からホッとした。

「よかったです……」

 と、言ってから、文屋さんのお連れ様が二人、ずっとこっちを見ていることに気付く。

「失礼いたしました。では、どうぞごゆっくり」
「え」

 文屋さんはまだ何か話したそうにしていたけれど、勤務中に立ち話をするわけにはいかない。
 急いでカウンターに戻り、水とおしぼりの用意をしていると、すすすと近づいてきた宮地さんに声をかけられた。


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