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1巻
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プロローグ
私は冷や汗をかきながら、寝台の上で私にのしかかっている男の美貌を見上げた。
その左目を覆う眼帯すらも、男の色気を強調する小道具になっているかのようだ。
紅玉の右目が冷たい光を湛えて私を見下ろしている。
「流石は『妖精姫』だな。恐怖に慄く様すら美しい」
(心にもないことを!)
私の両手首は男の片手によりあっさり拘束され、両脚も体重をかけてのしかかられているので動かせない。
男の空いている手が、私のドレスの胸元にかかった。
この男がその気になれば、このドレスなど一瞬でボロ布と化すだろう。
怖くて怖くて涙が滲んで視界が歪んだ。
体が震えて奥歯がガチガチ音をたてそうになるのを、歯をくいしばって防いだ。
「閣下……お戯れはおよしください」
「戯れなどではない。其方に俺が買い取るだけの価値があるかどうか、確かめているだけだ」
美しい顔に嗜虐的な笑みを浮かべる男だが、そこには欲情の色は欠片もない。
(この人は、私を試しているのだ)
私は恐怖に体が震えそうになるのを堪えながら、赤い瞳を睨みつけた。
◇
「……ここでなにをしている」
その声には、怒りと侮蔑と諦め。
左目を眼帯で隠したその顔には、面倒くさいとはっきり書いてある。
「公爵閣下をお待ち申し上げておりました」
今夜は王城で大規模な夜会が開かれており、今私たちがいるのは公爵家専用の控室だ。
ただの控室だというのに、私の実家の応接室よりも広く、豪華な調度品で品よく飾られている。
「女などいらん。出ていけ」
奥の続き部屋には、公爵閣下が一晩泊まることができる寝室がある。
溜息をつき、顎をしゃくって寝室ではなく廊下へと続く方の扉を示した公爵閣下だったが、私はそれに大人しく従うわけにはいかない。
「お待ちください。私は、公爵閣下の褥に侍りに来たわけではございません」
こうやって追い払われることくらい予想していた。
歓迎なんてされるわけがないことをわかっていて、私は敢えてここに来たのだ。
鋭利な刃物のような眼光で射貫かれたくらいで、怯んでなどいられない。
ここが正念場。運命の分かれ道。
負けるわけにはいかない!
私は緊張に震える両手を握りしめ、完璧な淑女の笑みをうかべた。
私が今、対峙しているのは、テオドール・エデルマン公爵。御年二十九歳。
タータル王国の筆頭公爵家当主にして、国内屈指の魔法剣士だ。
短く整えられた鳶色の髪、切れ長の右目は紅玉のような深い紅。
左目を覆っていても隠しきれないその美貌と均整のとれた逞しい長身は、多くの貴婦人たちの視線を集めてやまない。
そんな彼にはいくつかの二つ名がある。
『氷炎公爵』というのは、氷と炎の魔法を得意としているところからついた。
それはいいのだが、次からが問題だ。
『氷血公爵』という、一つ目の二つ名をもじったこれは、あまりに冷酷で血が氷のように冷たい、という意味だ。
そして、もう一つ、 『女嫌い公爵』というのは文字通り、女性が嫌いで一切傍に寄せつけないところからそう呼ばれるようになった。
他にもあるのかもしれないが、私が知っている有名なのは以上の三つだ。
公爵という身分と優れた容貌で、社交界デビュー前から多くの注目を集めていた彼に、多くの女性たちが果敢に挑み、そして悉く玉砕した。
妖艶な美女にも可憐な乙女にも、異国の踊り子にも凛々しい女性騎士にも、どんなタイプの女性も一顧だにしない。
そんな噂、というか事実が広まり、今では公爵にどうこうしようとする女性すらいなくなった。
それはそうだ。女性たちだって、負け戦などしたくないのだ。
特に、結婚相手を探している令嬢たちは、いくら公爵本人と公爵夫人の座が魅力的でも、短い女盛りの時間を無駄にしたくないと思うのは無理もないことだ。
というわけで、最近では一夜限りの火遊びへと誘われることすらなくなったのだそうだ。
そんなことを教えてくれたのは、公爵閣下に仕える侍従なので、確かな情報だ。
「では、なにをしに来た」
凍えそうなほど冷たい声。
室内の気温が下がった気がするのは、気のせいだろうか。
もしかしたら、魔法を使って威圧しているのかもしれない。
「閣下に取引をしていただきたいのです」
それでも、怯んで俯くという選択肢は私にはない。
気力を振り絞って閣下の紅い右目を見つめた。
「それは、其方の父との取引ということか」
「いいえ、父は関係ございません。私個人との取引でございます」
私は、ここで優雅にカーテシーをした。
「テオドール・エデルマン公爵閣下。申し遅れました。私は、レティシア・マークスと申します。マークス子爵家の長女で、今年十八歳になりました。おめもじ叶いましたこと、嬉しく存じます」
「知っている。其方は有名だからな」
閣下は、ここで皮肉げに口の端を歪めた。
「『妖精姫』と呼ばれているそうだな」
誰が最初に言い出したのか知らないが、それが私の二つ名だ。
断じて私がそう名乗ったわけではない。
十六歳で社交界デビューしてから、いつの間にやらそのように呼ばれるようになってしまったのだ。
もちろん、それにも理由がある。
緩いウェーブを描く豊かな髪は艶やかなハニーブロンド。
ぱっちりとした碧の瞳、白磁のような滑らかな肌、サクランボのような唇。
小柄で華奢ながら、出るところはしっかり出ている体つき。
なにを隠そう、私は社交界随一の美少女なのだ。
自分で言うのもアレだというのはよくわかっているが、私は自分が美しいことを自覚し、それを最大限に利用しようとしている。
この容姿は、私が持つ唯一の武器だ。
「閣下のお耳にまで届いているとは、光栄ですわ」
声が震えそうなのを堪えて、刃物を突きつけるような気分でにっこりと笑って見せた。
「それで? 妖精姫が、俺とどんな取引をしたいというのだ」
よかった。少なくとも、話を聞いてくれる気はあるようだ。
「単刀直入に申し上げます」
私はエメラルドのようだと謳われる瞳に力を込めた。
「閣下に、私を買っていただきたいのです」
第一章
公爵閣下は、形のよい眉を顰めた。
「買う、とは?」
「そのままの意味ですわ。私の父に対価を支払い、私の身柄を引き取っていただきたいのです」
閣下の眉間の皺が深くなった。
「俺が女嫌いなのを知らないのか?」
「もちろん存じておりますわ。その上でお願い申し上げているのです。ご納得いただくために、まず、今の私の状況を説明させてくださいませ」
ここで『そんなのどうでもいいから出ていけ』と言われたら終わりだ。
それを防ぐため、私は閣下の返答を待たずに話し始めた。
「私の母は、私が小さいころに亡くなりました。今のマークス子爵夫人は後妻ですの。母の喪も明けぬうちにやってきて、それ以来ずっと私は目の敵にされております。私がまだ生かされているのは、この顔のおかげで高値で売れるからですわ」
貴族にとって、婚姻とは家のために結ぶものだ。
自由に恋愛をして相手を選ぶことなど普通はできない。
そこまではよくあることだとしても、私の場合はここから先が酷い。
「まだ公表されてはいないのですけど、私はもうすぐ結婚することになっております。お相手は、ドアニス男爵です」
「……ドアニス男爵だと?」
「去年、七番目だか八番目だかの奥様が亡くなられて、後添いを探していらっしゃったのだそうです」
ドアニス男爵は現在五十三歳、ブタとヒキガエルを足しっぱなしにしたような外見ながら、大きな商会を営んでいるので、下手な高位貴族などよりよほど裕福なのだ。
そして、特殊な趣味の好色漢としても知られている。
「男爵は、私が嫁いでくるのをとても楽しみにしていらっしゃいます。私のために、お衣装とかお道具とかお薬とか、たくさん準備してくださっているのだそうですわ」
どんな衣装で、どんな道具で、どんな薬なのか。
想像したらしい閣下は、眉を寄せたまま嫌悪感を表情に滲ませた。
「ドアニス男爵との婚姻から逃れるために、俺に買われたいのか」
「えぇ、その通りですわ」
「なるほどな。理解はできた。だが、だからといって、なぜ俺が其方を買わねばならないのだ」
「その点についても、これからきちんとご説明いたしますわ」
そう言われることも、もちろん想定内。
プレゼンの準備はバッチリだ。
「閣下が私を買ってくださることで得られるメリットは、主に六つございます」
私はびしっと指を立てて見せた。
六つもあるのよ? すごくない?
「まず、私を傍に置くことで、現在流れている閣下にとっては不本意であろう噂を払拭することができます」
あまりにも女性を寄せつけないので、閣下は実は男色なのではないかという噂を耳にした。
そんな噂のせいで、本当にその気がある男性が、閣下に粉をかけに来るということがあったとも聞いている。
私が傍にいたら、その噂が嘘だという証明になり、閣下にそういう目的で近づく男性はいなくなるだろう。
「二つ目に、閣下の周りの方々を安心させることができます。私が今夜この場所に来ることができたのは、前回の夜会で閣下の侍従の方に、『一夜だけでも閣下のお情けがほしい』と直談判したからです。そんな女性はもうずっと現れなかったと、とても喜ばれました。『妖精姫の名に懸けて、必ず閣下を寝台に引きずり込む』と意気込みを述べたところ、涙ながらに応援してくださいましたわ」
公爵閣下の控室に私が入れたのは、そういう下準備があった上でのことだ。
ボディチェックで刃物も毒物も隠し持っていないことをきちんと確認され、閣下に仕える侍従に扉を開けてもらって正々堂々とこの控室に足を踏み入れたのだ。
その際、アイコンタクトだけで『頑張ってください!』『全力を尽くしますわ!』というやりとりまでした。
あの侍従は、もう完全に私の味方だ。
「……あいつ……あとで締めてやる」
閣下は舌打ちをしそうな苦い顔で扉を睨んだ。
「あの方、とても閣下のことを心配してらっしゃいますわね。他にもそのような方が大勢いらっしゃるのではありませんか? 私を傍に置けば、それが一気に解消できますわ」
私の言葉に図星を指されたらしく、閣下はまた別の苦い顔になった。
「三つ目。私を買ってほしいとお願いいたしましたが、正妻になろうなどとは思っておりません。愛人で十分でございます。正式な婚姻ではございませんので、面倒な手続きもありませんし、結婚式も不要です。私の身柄を引き取ってくだされば、それで終了ですわ」
「……それでいいのか?」
普通、結婚式というのは女の子の晴れ舞台であり憧れだ。
私だってそういう気持ちはなくはないが、そんなことより大切なものがあるのだ。
「えぇ。私の家はしがない子爵家。元より閣下の正妻には不釣り合いな身分ですもの。高望みはいたしませんわ。それに、閣下が婚姻なさるとなれば、準備期間が少なくとも一年は必要でございましょう? 私、そんなに待てません。できることなら、明日にでも引き取っていただきたいくらいなのですから」
「そこまで急ぐ理由がなにかあるのか」
「現マークス子爵夫人の連れ子が私の義兄になっているのですが、あの方は私を妙な目で見るのです。ドアニス男爵との結婚が決まってからも、それは変わらなくて……あの家は私にとって危険だらけなのです」
ゲオルグという名の義兄は、私の一歳上で現在十九歳。
それなりに整った容姿で女性の扱いが上手く、多方面で遊んでいるらしい。
外の遊びだけで満足すればいいものを、私にまでちょっかいを出そうとするのだ。
あの粘つくような視線を思い出すだけで寒気がする。
「四つ目。私は安上がりな愛人になります。高価な宝石などを強請って閣下を煩わせたりはいたしません。もし私を社交の場に同伴なさる場合は、それなりのドレスなどを揃えていただく必要はございますけれど、それ以外ではメイドのお仕着せでも与えて、メイドと同じように扱ってくださって構いませんわ。私は掃除も洗濯も一通りのことはできますので、メイドの仕事も問題なくこなせるはずです」
私は手袋を外して、閣下の前に手をかざして見せた。
私の手は貴族の令嬢の白魚のような手とはほど遠い。
小さな切り傷の痕がいくつもあり、爪も割れたまま手入れされておらず、指にはあかぎれがある。
これを見れば、私が家で冷遇されていることと、そのために家事ができることをわかってくれるだろう。
『妖精姫』などと呼ばれながら、私は見えるところだけをきれいに取り繕ったハリボテ令嬢なのだ。
「五つ目。私を引き取ってくださった後、閣下に言い寄ってくる女性がいた場合は、私が全力で追い払います。女性関係においての閣下の安寧は、私が体を張って守りますわ!」
私が傍にいることにより、閣下の女嫌いが解消されたと見て寄ってくる女性もいることだろう。
だが、それは私が許さない。
『妖精姫』とまで呼ばれるこの美貌を最大限に利用し、ちぎっては投げちぎっては投げする所存だ。
「六つ目。実際に結婚するわけではありませんが、所謂白い結婚で構いません。私から閣下に触れることはございませんし、私に触れていただく必要もございません。閨で待ち伏せするのも、今夜が最初で最後といたします。あくまでも、見せかけの愛人で構いませんわ」
ずっとしかめっ面だった閣下の右目が、どこか剣呑な光を帯びた。
「……ほぅ。白い結婚を望むと?」
「閣下にとっても、その方がいいのではありませんか? 私が見たところ、閣下は本当に女性が苦手でいらっしゃるのだと思います」
「なぜそう思う?」
「これまでも、夜会などで何度か閣下をお見かけしたことがございます。どの時も、閣下は慎重に女性を避けていらっしゃるようでした。数人でかたまっておしゃべりに興じている女性たちにも、女性の給仕にさえも、一定の距離を空けていらっしゃって……そうではございませんか?」
「……その通りだ。よくわかったな」
「わかりますわ。私も男性が苦手ですので。できることなら、私も閣下のように男性を避けたいのです。立場上、そうも言っていられないのですけれど」
ドアニス男爵との婚約はまだ公表されていないこともあり、私は夜会に参加すると多くの男に囲まれ、ひっきりなしにダンスに誘われることになる。
父であるマークス子爵は、私を利用して社交界で顔を売って甘い汁をすするのに必死だ。
私は嫌で嫌でしかたがないのだが、そんな本心を淑女の笑みの下に隠して可憐な妖精姫を演じているのだ。
「男が苦手? とてもそうは見えないが」
「そう見えないように頑張っているのです。少しでも嫌な顔をすると、翌日の食事を抜かれてしまいますから。このドレスだって、私の趣味ではございませんわ」
今夜の私のドレスは、可愛らしい薄紅色ながら胸元が大きく開いたデザインになっている。
未婚の令嬢が着るには煽情的すぎる形なのだが、それも全て多くの男性を惹きつけるための装置なのだ。
ダンスをする際、相手の男性は必ず私の胸の谷間を覗き込んでくるので、私は頭の中で相手をボコボコに殴って不快感に耐える術を身につけた。
「そうか……其方の言い分はわかった」
数秒瞑目した後、閣下は相変わらず剣呑な瞳のまま口を開いた。
「では、私を買ってくださいますか?」
返ってきたのは、その質問の答えではなかった。
おもむろに私に歩み寄ってきた閣下は、私を荷物のように抱え上げて奥の寝室に運び込んだのだ。
(え⁉ 嘘でしょ⁉ 白い結婚でいいって言ってるのに!)
予想外の流れに混乱している間に、広くてふかふかの寝台の上にぽいっと放り投げられた。
そして、冒頭のシーンに戻る。
レースで飾られた薄紅色の生地が、大きな手で破れる寸前くらいまで引っ張られて、胸が零れ出そうになる。
「俺は確かに女が嫌いだが、不能なわけではない。もし俺がこのようなことをしたら、其方はどうする」
「……どうするもこうするも、黙って受け入れるだけですわ」
だって、他にどうしようもないじゃない!
「其方は男が嫌いなのだろう? 俺の愛人になったら、毎晩このような目にあわされるかもしれないぞ? それでもいいのか?」
私は全力で閣下の紅い右目を睨みつけた。
「そうなさりたいのなら、どうぞご自由に。私を買っていただいた後、どう扱うかは閣下次第ですもの」
こういう可能性だって考えなかったわけではない。
だが、それならそれで、もう一つ譲れないことがある。
「ですけれど、そうなさるのならせめて、私との間にできた子を虐げることはしないと約束してくださいませ。認知してくださらなくても結構です。最低限の衣食住を与えてくだされば、私が責任をもって育てます。閣下のお手を煩わせることはいたしません」
形のいい眉がまた顰められた。
「……俺が我が子を無体に扱うような男だと思っているのか」
「わかりませんわ。閣下とお話をするのは、今日が初めてですもの……私にとって、一番身近な男性は父です。どうしても男性は全て父のようにふるまうものだと思ってしまうのです」
私を見下ろす瞳が眇められた。
「其方は、俺が怖くないのか」
「怖いですわ。閣下がというより、男性全てが。今だって、泣き叫びたいのを必死で堪えているのです」
泣き叫んでいたら交渉が進まないし、泣く女は面倒くさいと控室から放り出されてしまうかもしれない。
そうなったら、私の今までの努力が水の泡になってしまう。
それだけは避けなければならないという一心で、男を睨み返しているのだ。
気分は大型肉食獣の牙に引き裂かれる寸前の子兎だ。
閣下は私の言葉のどこかで気分を害したらしく、私の両手首を握る手に力が加わった。
骨が軋みそうなほどの力に私は痛みで顔を歪め、閣下はそんな私にまた嗜虐的な笑みを見せた。
「俺が冷酷な『氷血公爵』と呼ばれていることは知っているだろう」
「もちろん、存じておりますわ」
「俺の愛人になどなったら、凌辱された挙句に縊り殺されるかもしれないとは思わないのか」
「もしそうなったとしても、ドアニス男爵と結婚するよりはマシです」
「ほぅ? だが、男爵のところに嫁いだら、少なくとも殺されはしないだろう?」
「ご冗談を。男爵の奥様たちは、全員嫁いで一年以内に病死や事故死をなさっておいでですのよ。その意味がおわかりでしょう?」
紅い瞳が瞬いた。
ドアニス男爵のことは閣下も知っていたようだが、その奥様たちのことまでは知らなかったようだ。
「どうせ凌辱されて殺されるのなら、ブタヒキガエルよりも見目麗しい殿方に手を下していただきたいと思うのが乙女心というものですわ。それに、私は自分の意志で閣下を選び取引をもちかけたのです。私自身の見る目のなさで死ぬ方が、父に無理やり押しつけられた相手に殺されるよりも諦めがつくというものです。そうは思われませんか?」
数秒、閣下は私の言った意味をじっくりと吟味したようだった。
そして、ゆっくりとその薄く怜悧な印象の唇が弧を描いた。
「くっ……く、くくっ……ブタヒキガエル……ふはははっ……乙女心、だと……?」
どうやら、私を寝台に組み敷いたまま笑っているようだ。
「あーはっはっはっ! 面白い! 其方のような女は、初めてだ!」
呆気にとられる私の拘束を解き、閣下は腹を抱えて笑い出した。
私にはなにが面白いのだかよくわからないが、とにかく手首の痛みから解放されたのはありがたい。
「まさか妖精姫が、このように強かな女だったとは! 変態オヤジのおもちゃになって死なせるには惜しい! それくらいなら、俺がもらった方がマシというものだ」
私はがばっと上体を起こした。
「閣下⁉ ということは、取引成立ということでよろしいのですか⁉」
「その通りだ! 其方は俺が買い取ろうではないか!」
私が淑女の仮面を放り投げて渾身のガッツポーズを決めている間に、閣下は寝台の脇の台に置かれていたベルをチリンチリンと鳴らした。
それを待ち構えていたらしく、すぐに私を控室に入れてくれた侍従が顔を出した。
「カルロス! この女を愛人として囲うことにしたぞ!」
「だ、旦那様ぁ!」
カルロスというらしい侍従の顔が喜びに輝いた。
「詳しい話は後だ。今は、成すべきことがある」
閣下は私をひょいっと抱き上げて立たせ、ドレスと髪を検分した。
「うん、そう乱れてはいないな。夜会に戻るぞ」
「夜会に? なにをなさるのですか?」
「ダンスに決まっているだろう。其方が俺のものになったということを対外的に示すには、今夜の夜会は最適だ。二曲連続で踊るぞ。できるな?」
二曲以上連続で踊るのは、夫婦か婚約者同士だけというのが暗黙の了解になっている。
私たちが今夜そんなことをしたら、話題を一気に席巻することになるだろう。
流石は筆頭公爵家の当主。社交界のことをよくわかっている。
「もちろんできますわ!」
「では、身形を整えろ。すぐに行くぞ」
私は喜びに頬を緩めながら、いそいそと鏡の前で髪とドレスを整えた。
幸い、髪型もそれほど崩れていない。
強引に引っ張られたドレスの胸元も無事だ。
髪飾りの位置などを手早く直し、閣下に向き合った。
「其方はこの瞬間から、俺の愛人だ。其方の身は髪の一本まで俺のものだ。誰にも触れさせることは許さない。いいな」
「はい、閣下。よろしくお願いいたします。私をお買い上げいただいたこと、決して後悔はさせませんわ」
私は差し出された手をとり、飛び上がって喜びたいのを堪えながら淑女の笑みをうかべて見せた。
公爵閣下は夜会に顔を出すには出すが、最低限の挨拶だけしてすぐに控室に引き籠るというのが社交界の常識だった。
それなのに、今夜は一度姿を消した閣下が再び会場に戻ってきた。
それだけでも異例だというのに、更に女性をエスコートしているではないか。
更に更に、その女性というのが今話題の『妖精姫』だというのだから、会場の視線が一気に集まったのも無理はない。
堂々と歩く閣下の横で、私も柔らかい笑みをうかべたまましっかりと前を向いて歩いた。
私はもう公爵閣下の愛人なのだ。
どれだけの視線に晒されようと、俯くわけにはいかない。
ダンスホールの中央あたりにさしかかったところで、ちょうど奏でられていたワルツが終わり、次の曲へ移り変わった。
「踊っていただけますか。俺の妖精姫」
「はい、喜んで」
私は冷や汗をかきながら、寝台の上で私にのしかかっている男の美貌を見上げた。
その左目を覆う眼帯すらも、男の色気を強調する小道具になっているかのようだ。
紅玉の右目が冷たい光を湛えて私を見下ろしている。
「流石は『妖精姫』だな。恐怖に慄く様すら美しい」
(心にもないことを!)
私の両手首は男の片手によりあっさり拘束され、両脚も体重をかけてのしかかられているので動かせない。
男の空いている手が、私のドレスの胸元にかかった。
この男がその気になれば、このドレスなど一瞬でボロ布と化すだろう。
怖くて怖くて涙が滲んで視界が歪んだ。
体が震えて奥歯がガチガチ音をたてそうになるのを、歯をくいしばって防いだ。
「閣下……お戯れはおよしください」
「戯れなどではない。其方に俺が買い取るだけの価値があるかどうか、確かめているだけだ」
美しい顔に嗜虐的な笑みを浮かべる男だが、そこには欲情の色は欠片もない。
(この人は、私を試しているのだ)
私は恐怖に体が震えそうになるのを堪えながら、赤い瞳を睨みつけた。
◇
「……ここでなにをしている」
その声には、怒りと侮蔑と諦め。
左目を眼帯で隠したその顔には、面倒くさいとはっきり書いてある。
「公爵閣下をお待ち申し上げておりました」
今夜は王城で大規模な夜会が開かれており、今私たちがいるのは公爵家専用の控室だ。
ただの控室だというのに、私の実家の応接室よりも広く、豪華な調度品で品よく飾られている。
「女などいらん。出ていけ」
奥の続き部屋には、公爵閣下が一晩泊まることができる寝室がある。
溜息をつき、顎をしゃくって寝室ではなく廊下へと続く方の扉を示した公爵閣下だったが、私はそれに大人しく従うわけにはいかない。
「お待ちください。私は、公爵閣下の褥に侍りに来たわけではございません」
こうやって追い払われることくらい予想していた。
歓迎なんてされるわけがないことをわかっていて、私は敢えてここに来たのだ。
鋭利な刃物のような眼光で射貫かれたくらいで、怯んでなどいられない。
ここが正念場。運命の分かれ道。
負けるわけにはいかない!
私は緊張に震える両手を握りしめ、完璧な淑女の笑みをうかべた。
私が今、対峙しているのは、テオドール・エデルマン公爵。御年二十九歳。
タータル王国の筆頭公爵家当主にして、国内屈指の魔法剣士だ。
短く整えられた鳶色の髪、切れ長の右目は紅玉のような深い紅。
左目を覆っていても隠しきれないその美貌と均整のとれた逞しい長身は、多くの貴婦人たちの視線を集めてやまない。
そんな彼にはいくつかの二つ名がある。
『氷炎公爵』というのは、氷と炎の魔法を得意としているところからついた。
それはいいのだが、次からが問題だ。
『氷血公爵』という、一つ目の二つ名をもじったこれは、あまりに冷酷で血が氷のように冷たい、という意味だ。
そして、もう一つ、 『女嫌い公爵』というのは文字通り、女性が嫌いで一切傍に寄せつけないところからそう呼ばれるようになった。
他にもあるのかもしれないが、私が知っている有名なのは以上の三つだ。
公爵という身分と優れた容貌で、社交界デビュー前から多くの注目を集めていた彼に、多くの女性たちが果敢に挑み、そして悉く玉砕した。
妖艶な美女にも可憐な乙女にも、異国の踊り子にも凛々しい女性騎士にも、どんなタイプの女性も一顧だにしない。
そんな噂、というか事実が広まり、今では公爵にどうこうしようとする女性すらいなくなった。
それはそうだ。女性たちだって、負け戦などしたくないのだ。
特に、結婚相手を探している令嬢たちは、いくら公爵本人と公爵夫人の座が魅力的でも、短い女盛りの時間を無駄にしたくないと思うのは無理もないことだ。
というわけで、最近では一夜限りの火遊びへと誘われることすらなくなったのだそうだ。
そんなことを教えてくれたのは、公爵閣下に仕える侍従なので、確かな情報だ。
「では、なにをしに来た」
凍えそうなほど冷たい声。
室内の気温が下がった気がするのは、気のせいだろうか。
もしかしたら、魔法を使って威圧しているのかもしれない。
「閣下に取引をしていただきたいのです」
それでも、怯んで俯くという選択肢は私にはない。
気力を振り絞って閣下の紅い右目を見つめた。
「それは、其方の父との取引ということか」
「いいえ、父は関係ございません。私個人との取引でございます」
私は、ここで優雅にカーテシーをした。
「テオドール・エデルマン公爵閣下。申し遅れました。私は、レティシア・マークスと申します。マークス子爵家の長女で、今年十八歳になりました。おめもじ叶いましたこと、嬉しく存じます」
「知っている。其方は有名だからな」
閣下は、ここで皮肉げに口の端を歪めた。
「『妖精姫』と呼ばれているそうだな」
誰が最初に言い出したのか知らないが、それが私の二つ名だ。
断じて私がそう名乗ったわけではない。
十六歳で社交界デビューしてから、いつの間にやらそのように呼ばれるようになってしまったのだ。
もちろん、それにも理由がある。
緩いウェーブを描く豊かな髪は艶やかなハニーブロンド。
ぱっちりとした碧の瞳、白磁のような滑らかな肌、サクランボのような唇。
小柄で華奢ながら、出るところはしっかり出ている体つき。
なにを隠そう、私は社交界随一の美少女なのだ。
自分で言うのもアレだというのはよくわかっているが、私は自分が美しいことを自覚し、それを最大限に利用しようとしている。
この容姿は、私が持つ唯一の武器だ。
「閣下のお耳にまで届いているとは、光栄ですわ」
声が震えそうなのを堪えて、刃物を突きつけるような気分でにっこりと笑って見せた。
「それで? 妖精姫が、俺とどんな取引をしたいというのだ」
よかった。少なくとも、話を聞いてくれる気はあるようだ。
「単刀直入に申し上げます」
私はエメラルドのようだと謳われる瞳に力を込めた。
「閣下に、私を買っていただきたいのです」
第一章
公爵閣下は、形のよい眉を顰めた。
「買う、とは?」
「そのままの意味ですわ。私の父に対価を支払い、私の身柄を引き取っていただきたいのです」
閣下の眉間の皺が深くなった。
「俺が女嫌いなのを知らないのか?」
「もちろん存じておりますわ。その上でお願い申し上げているのです。ご納得いただくために、まず、今の私の状況を説明させてくださいませ」
ここで『そんなのどうでもいいから出ていけ』と言われたら終わりだ。
それを防ぐため、私は閣下の返答を待たずに話し始めた。
「私の母は、私が小さいころに亡くなりました。今のマークス子爵夫人は後妻ですの。母の喪も明けぬうちにやってきて、それ以来ずっと私は目の敵にされております。私がまだ生かされているのは、この顔のおかげで高値で売れるからですわ」
貴族にとって、婚姻とは家のために結ぶものだ。
自由に恋愛をして相手を選ぶことなど普通はできない。
そこまではよくあることだとしても、私の場合はここから先が酷い。
「まだ公表されてはいないのですけど、私はもうすぐ結婚することになっております。お相手は、ドアニス男爵です」
「……ドアニス男爵だと?」
「去年、七番目だか八番目だかの奥様が亡くなられて、後添いを探していらっしゃったのだそうです」
ドアニス男爵は現在五十三歳、ブタとヒキガエルを足しっぱなしにしたような外見ながら、大きな商会を営んでいるので、下手な高位貴族などよりよほど裕福なのだ。
そして、特殊な趣味の好色漢としても知られている。
「男爵は、私が嫁いでくるのをとても楽しみにしていらっしゃいます。私のために、お衣装とかお道具とかお薬とか、たくさん準備してくださっているのだそうですわ」
どんな衣装で、どんな道具で、どんな薬なのか。
想像したらしい閣下は、眉を寄せたまま嫌悪感を表情に滲ませた。
「ドアニス男爵との婚姻から逃れるために、俺に買われたいのか」
「えぇ、その通りですわ」
「なるほどな。理解はできた。だが、だからといって、なぜ俺が其方を買わねばならないのだ」
「その点についても、これからきちんとご説明いたしますわ」
そう言われることも、もちろん想定内。
プレゼンの準備はバッチリだ。
「閣下が私を買ってくださることで得られるメリットは、主に六つございます」
私はびしっと指を立てて見せた。
六つもあるのよ? すごくない?
「まず、私を傍に置くことで、現在流れている閣下にとっては不本意であろう噂を払拭することができます」
あまりにも女性を寄せつけないので、閣下は実は男色なのではないかという噂を耳にした。
そんな噂のせいで、本当にその気がある男性が、閣下に粉をかけに来るということがあったとも聞いている。
私が傍にいたら、その噂が嘘だという証明になり、閣下にそういう目的で近づく男性はいなくなるだろう。
「二つ目に、閣下の周りの方々を安心させることができます。私が今夜この場所に来ることができたのは、前回の夜会で閣下の侍従の方に、『一夜だけでも閣下のお情けがほしい』と直談判したからです。そんな女性はもうずっと現れなかったと、とても喜ばれました。『妖精姫の名に懸けて、必ず閣下を寝台に引きずり込む』と意気込みを述べたところ、涙ながらに応援してくださいましたわ」
公爵閣下の控室に私が入れたのは、そういう下準備があった上でのことだ。
ボディチェックで刃物も毒物も隠し持っていないことをきちんと確認され、閣下に仕える侍従に扉を開けてもらって正々堂々とこの控室に足を踏み入れたのだ。
その際、アイコンタクトだけで『頑張ってください!』『全力を尽くしますわ!』というやりとりまでした。
あの侍従は、もう完全に私の味方だ。
「……あいつ……あとで締めてやる」
閣下は舌打ちをしそうな苦い顔で扉を睨んだ。
「あの方、とても閣下のことを心配してらっしゃいますわね。他にもそのような方が大勢いらっしゃるのではありませんか? 私を傍に置けば、それが一気に解消できますわ」
私の言葉に図星を指されたらしく、閣下はまた別の苦い顔になった。
「三つ目。私を買ってほしいとお願いいたしましたが、正妻になろうなどとは思っておりません。愛人で十分でございます。正式な婚姻ではございませんので、面倒な手続きもありませんし、結婚式も不要です。私の身柄を引き取ってくだされば、それで終了ですわ」
「……それでいいのか?」
普通、結婚式というのは女の子の晴れ舞台であり憧れだ。
私だってそういう気持ちはなくはないが、そんなことより大切なものがあるのだ。
「えぇ。私の家はしがない子爵家。元より閣下の正妻には不釣り合いな身分ですもの。高望みはいたしませんわ。それに、閣下が婚姻なさるとなれば、準備期間が少なくとも一年は必要でございましょう? 私、そんなに待てません。できることなら、明日にでも引き取っていただきたいくらいなのですから」
「そこまで急ぐ理由がなにかあるのか」
「現マークス子爵夫人の連れ子が私の義兄になっているのですが、あの方は私を妙な目で見るのです。ドアニス男爵との結婚が決まってからも、それは変わらなくて……あの家は私にとって危険だらけなのです」
ゲオルグという名の義兄は、私の一歳上で現在十九歳。
それなりに整った容姿で女性の扱いが上手く、多方面で遊んでいるらしい。
外の遊びだけで満足すればいいものを、私にまでちょっかいを出そうとするのだ。
あの粘つくような視線を思い出すだけで寒気がする。
「四つ目。私は安上がりな愛人になります。高価な宝石などを強請って閣下を煩わせたりはいたしません。もし私を社交の場に同伴なさる場合は、それなりのドレスなどを揃えていただく必要はございますけれど、それ以外ではメイドのお仕着せでも与えて、メイドと同じように扱ってくださって構いませんわ。私は掃除も洗濯も一通りのことはできますので、メイドの仕事も問題なくこなせるはずです」
私は手袋を外して、閣下の前に手をかざして見せた。
私の手は貴族の令嬢の白魚のような手とはほど遠い。
小さな切り傷の痕がいくつもあり、爪も割れたまま手入れされておらず、指にはあかぎれがある。
これを見れば、私が家で冷遇されていることと、そのために家事ができることをわかってくれるだろう。
『妖精姫』などと呼ばれながら、私は見えるところだけをきれいに取り繕ったハリボテ令嬢なのだ。
「五つ目。私を引き取ってくださった後、閣下に言い寄ってくる女性がいた場合は、私が全力で追い払います。女性関係においての閣下の安寧は、私が体を張って守りますわ!」
私が傍にいることにより、閣下の女嫌いが解消されたと見て寄ってくる女性もいることだろう。
だが、それは私が許さない。
『妖精姫』とまで呼ばれるこの美貌を最大限に利用し、ちぎっては投げちぎっては投げする所存だ。
「六つ目。実際に結婚するわけではありませんが、所謂白い結婚で構いません。私から閣下に触れることはございませんし、私に触れていただく必要もございません。閨で待ち伏せするのも、今夜が最初で最後といたします。あくまでも、見せかけの愛人で構いませんわ」
ずっとしかめっ面だった閣下の右目が、どこか剣呑な光を帯びた。
「……ほぅ。白い結婚を望むと?」
「閣下にとっても、その方がいいのではありませんか? 私が見たところ、閣下は本当に女性が苦手でいらっしゃるのだと思います」
「なぜそう思う?」
「これまでも、夜会などで何度か閣下をお見かけしたことがございます。どの時も、閣下は慎重に女性を避けていらっしゃるようでした。数人でかたまっておしゃべりに興じている女性たちにも、女性の給仕にさえも、一定の距離を空けていらっしゃって……そうではございませんか?」
「……その通りだ。よくわかったな」
「わかりますわ。私も男性が苦手ですので。できることなら、私も閣下のように男性を避けたいのです。立場上、そうも言っていられないのですけれど」
ドアニス男爵との婚約はまだ公表されていないこともあり、私は夜会に参加すると多くの男に囲まれ、ひっきりなしにダンスに誘われることになる。
父であるマークス子爵は、私を利用して社交界で顔を売って甘い汁をすするのに必死だ。
私は嫌で嫌でしかたがないのだが、そんな本心を淑女の笑みの下に隠して可憐な妖精姫を演じているのだ。
「男が苦手? とてもそうは見えないが」
「そう見えないように頑張っているのです。少しでも嫌な顔をすると、翌日の食事を抜かれてしまいますから。このドレスだって、私の趣味ではございませんわ」
今夜の私のドレスは、可愛らしい薄紅色ながら胸元が大きく開いたデザインになっている。
未婚の令嬢が着るには煽情的すぎる形なのだが、それも全て多くの男性を惹きつけるための装置なのだ。
ダンスをする際、相手の男性は必ず私の胸の谷間を覗き込んでくるので、私は頭の中で相手をボコボコに殴って不快感に耐える術を身につけた。
「そうか……其方の言い分はわかった」
数秒瞑目した後、閣下は相変わらず剣呑な瞳のまま口を開いた。
「では、私を買ってくださいますか?」
返ってきたのは、その質問の答えではなかった。
おもむろに私に歩み寄ってきた閣下は、私を荷物のように抱え上げて奥の寝室に運び込んだのだ。
(え⁉ 嘘でしょ⁉ 白い結婚でいいって言ってるのに!)
予想外の流れに混乱している間に、広くてふかふかの寝台の上にぽいっと放り投げられた。
そして、冒頭のシーンに戻る。
レースで飾られた薄紅色の生地が、大きな手で破れる寸前くらいまで引っ張られて、胸が零れ出そうになる。
「俺は確かに女が嫌いだが、不能なわけではない。もし俺がこのようなことをしたら、其方はどうする」
「……どうするもこうするも、黙って受け入れるだけですわ」
だって、他にどうしようもないじゃない!
「其方は男が嫌いなのだろう? 俺の愛人になったら、毎晩このような目にあわされるかもしれないぞ? それでもいいのか?」
私は全力で閣下の紅い右目を睨みつけた。
「そうなさりたいのなら、どうぞご自由に。私を買っていただいた後、どう扱うかは閣下次第ですもの」
こういう可能性だって考えなかったわけではない。
だが、それならそれで、もう一つ譲れないことがある。
「ですけれど、そうなさるのならせめて、私との間にできた子を虐げることはしないと約束してくださいませ。認知してくださらなくても結構です。最低限の衣食住を与えてくだされば、私が責任をもって育てます。閣下のお手を煩わせることはいたしません」
形のいい眉がまた顰められた。
「……俺が我が子を無体に扱うような男だと思っているのか」
「わかりませんわ。閣下とお話をするのは、今日が初めてですもの……私にとって、一番身近な男性は父です。どうしても男性は全て父のようにふるまうものだと思ってしまうのです」
私を見下ろす瞳が眇められた。
「其方は、俺が怖くないのか」
「怖いですわ。閣下がというより、男性全てが。今だって、泣き叫びたいのを必死で堪えているのです」
泣き叫んでいたら交渉が進まないし、泣く女は面倒くさいと控室から放り出されてしまうかもしれない。
そうなったら、私の今までの努力が水の泡になってしまう。
それだけは避けなければならないという一心で、男を睨み返しているのだ。
気分は大型肉食獣の牙に引き裂かれる寸前の子兎だ。
閣下は私の言葉のどこかで気分を害したらしく、私の両手首を握る手に力が加わった。
骨が軋みそうなほどの力に私は痛みで顔を歪め、閣下はそんな私にまた嗜虐的な笑みを見せた。
「俺が冷酷な『氷血公爵』と呼ばれていることは知っているだろう」
「もちろん、存じておりますわ」
「俺の愛人になどなったら、凌辱された挙句に縊り殺されるかもしれないとは思わないのか」
「もしそうなったとしても、ドアニス男爵と結婚するよりはマシです」
「ほぅ? だが、男爵のところに嫁いだら、少なくとも殺されはしないだろう?」
「ご冗談を。男爵の奥様たちは、全員嫁いで一年以内に病死や事故死をなさっておいでですのよ。その意味がおわかりでしょう?」
紅い瞳が瞬いた。
ドアニス男爵のことは閣下も知っていたようだが、その奥様たちのことまでは知らなかったようだ。
「どうせ凌辱されて殺されるのなら、ブタヒキガエルよりも見目麗しい殿方に手を下していただきたいと思うのが乙女心というものですわ。それに、私は自分の意志で閣下を選び取引をもちかけたのです。私自身の見る目のなさで死ぬ方が、父に無理やり押しつけられた相手に殺されるよりも諦めがつくというものです。そうは思われませんか?」
数秒、閣下は私の言った意味をじっくりと吟味したようだった。
そして、ゆっくりとその薄く怜悧な印象の唇が弧を描いた。
「くっ……く、くくっ……ブタヒキガエル……ふはははっ……乙女心、だと……?」
どうやら、私を寝台に組み敷いたまま笑っているようだ。
「あーはっはっはっ! 面白い! 其方のような女は、初めてだ!」
呆気にとられる私の拘束を解き、閣下は腹を抱えて笑い出した。
私にはなにが面白いのだかよくわからないが、とにかく手首の痛みから解放されたのはありがたい。
「まさか妖精姫が、このように強かな女だったとは! 変態オヤジのおもちゃになって死なせるには惜しい! それくらいなら、俺がもらった方がマシというものだ」
私はがばっと上体を起こした。
「閣下⁉ ということは、取引成立ということでよろしいのですか⁉」
「その通りだ! 其方は俺が買い取ろうではないか!」
私が淑女の仮面を放り投げて渾身のガッツポーズを決めている間に、閣下は寝台の脇の台に置かれていたベルをチリンチリンと鳴らした。
それを待ち構えていたらしく、すぐに私を控室に入れてくれた侍従が顔を出した。
「カルロス! この女を愛人として囲うことにしたぞ!」
「だ、旦那様ぁ!」
カルロスというらしい侍従の顔が喜びに輝いた。
「詳しい話は後だ。今は、成すべきことがある」
閣下は私をひょいっと抱き上げて立たせ、ドレスと髪を検分した。
「うん、そう乱れてはいないな。夜会に戻るぞ」
「夜会に? なにをなさるのですか?」
「ダンスに決まっているだろう。其方が俺のものになったということを対外的に示すには、今夜の夜会は最適だ。二曲連続で踊るぞ。できるな?」
二曲以上連続で踊るのは、夫婦か婚約者同士だけというのが暗黙の了解になっている。
私たちが今夜そんなことをしたら、話題を一気に席巻することになるだろう。
流石は筆頭公爵家の当主。社交界のことをよくわかっている。
「もちろんできますわ!」
「では、身形を整えろ。すぐに行くぞ」
私は喜びに頬を緩めながら、いそいそと鏡の前で髪とドレスを整えた。
幸い、髪型もそれほど崩れていない。
強引に引っ張られたドレスの胸元も無事だ。
髪飾りの位置などを手早く直し、閣下に向き合った。
「其方はこの瞬間から、俺の愛人だ。其方の身は髪の一本まで俺のものだ。誰にも触れさせることは許さない。いいな」
「はい、閣下。よろしくお願いいたします。私をお買い上げいただいたこと、決して後悔はさせませんわ」
私は差し出された手をとり、飛び上がって喜びたいのを堪えながら淑女の笑みをうかべて見せた。
公爵閣下は夜会に顔を出すには出すが、最低限の挨拶だけしてすぐに控室に引き籠るというのが社交界の常識だった。
それなのに、今夜は一度姿を消した閣下が再び会場に戻ってきた。
それだけでも異例だというのに、更に女性をエスコートしているではないか。
更に更に、その女性というのが今話題の『妖精姫』だというのだから、会場の視線が一気に集まったのも無理はない。
堂々と歩く閣下の横で、私も柔らかい笑みをうかべたまましっかりと前を向いて歩いた。
私はもう公爵閣下の愛人なのだ。
どれだけの視線に晒されようと、俯くわけにはいかない。
ダンスホールの中央あたりにさしかかったところで、ちょうど奏でられていたワルツが終わり、次の曲へ移り変わった。
「踊っていただけますか。俺の妖精姫」
「はい、喜んで」
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