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1巻
1-1
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プロローグ 交渉という名のプロポーズ
冬は夜の訪れが早い。
クリスマスまであと一ヶ月というこの時期、定時で会社を出る頃には外は宵闇に染まり、街路樹を彩るイルミネーションがきらびやかな輝きを放っている。
「夏瀬社長は怒ってた?」
オフィス街にあるカフェの窓際の席に座り、外の景色を眺めていた夏瀬詩織こと石川詩織は声に反応して視線を前に戻した。
テーブルを挟んだ向かいのソファーに腰掛けるのは、上質なスーツを品良く着こなしている男性だ。
ジャケットの袖から覗くカフスや腕時計は一目で高級品とわかり、世界的シェアを持つミツハ自動車の御曹司である美月波綾仁に相応しいものと言える。
しかし詩織はそんな肩書きを承知で、彼に胡乱な眼差しを向けた。
スッキリとした輪郭に、高い鼻梁と切れ長の目。キリリとした眉は、ほどよく手入れされており、彼の精悍な顔立ちを印象づけるのに一役買っている。
艶のある黒髪をオールバックにした、目力の強い伊達男。
わかりやすいイケメン御曹司である彼は、間違いなく女性にモテることだろう。事実、若い頃はかなりの浮名を流していたと聞いた。
つまり、「モテる男には近付かない」と心に誓っている詩織にとって、関わりたくないタイプの相手ということだ。
「私を連れ出したのが貴方と知って、かなり心配していたようです。帰るなり質問攻めにあいました」
若干の皮肉を込めた言葉に、彼が気を悪くする様子はない。
それどころか、さらなる質問を投げかけてくる。
「夏瀬社長に俺たちの関係について聞いてみた?」
色気のある綾仁の視線に咄嗟の防衛本能が働き、詩織は唇を引き結ぶ。
すると相手は、頬杖をついて優美に笑った。
明らかにこちらの反応を楽しんでいる様子なのが腹立たしい。
手にしていたカップをテーブルに戻した詩織は、観念したように言う。
「美月波さんは私の元許嫁で間違いありませんでした」
「だろ」
「父が私に貴方の存在を告げずにいたのは、数々の浮名を流している貴方は、私の夫に相応しくないと思ったからだそうです」
そんな詩織の言葉に、綾仁は余裕綽々といった感じで返す。
「夏瀬社長は情報のアップデートを怠っているようだな。それは過去の話だ」
そう言って彼は、コーヒーで唇を湿らせ癖のある笑みを浮かべる。
「最近の俺は、真面目に婚活中だ」
「その割に、女性にワインをかけられていましたよね」
先日、目の当たりにした光景を思い出して、つい半眼で睨んでしまう。
「それでも、君よりは真面目に婚活をしているよ」
「……まあ、確かに」
詩織の場合、結婚の意思が全くないにもかかわらず見合いを繰り返しているので、返す言葉がない。
「それで本題だが」
綾仁が少し前屈みになり笑みを深めるが、瞳の奥は笑っていない。よからぬことを企てていそうな表情に警戒心を強める中、綾仁は一つ咳払いをして口を開いた。
「夏瀬……いや今は石川詩織さんか。一つ提案なんだが、元許嫁のよしみで俺と結婚しないか?」
「はい?」
思いもしなかった提案に詩織は声を裏返して目を瞬かせる。
かなり突拍子もない発言だが、綾仁本人にその自覚はないのか、どこまでも強気な表情のままだ。
「君は家族の持ってくる縁談から解放されたい。俺は俺で、結婚しないといけない事情がある。お互いの利害関係は一致しているし、君にとっても悪い話ではないと思うが?」
「……っ」
こちらの事情をすっかり把握している相手の言葉に、返す言葉が出てこない。
詩織が反論しない隙に、彼はなおもたたみかける。
「社長令嬢のフリもそろそろ限界だろう? 俺と結婚すれば、そういう窮屈な状況から解放されるぞ。結婚と言っても、俺は君に男女の関係を求める気はないし、別居でも構わない。もちろん君の仕事に口を出したりもしないし、必要なら協力も惜しまない」
ずいっとこちらに顔を寄せ、詩織にとってこれ以上ない好条件を並べていく彼は、どこまでも強気な態度で最後に「どうだ?」と微笑む。
鼻持ちならない伊達男の提案に乗るのは、正直面白くないけれど、詩織にも色々と事情がある。
どうするべきか返事に迷っていると、綾仁は背中をソファーに預けて言う。
「別に無理に受ける必要はない。元許嫁のよしみで提案したが、断るならそれもよし。俺は俺で見合いを続けるから、君は君で見合いを頑張ってくれ」
今の話は忘れてくれとでも言いたげに、手をヒラヒラさせる。
悔しいが、この場の主導権は彼にある。
元許嫁とはいえ、お互い相手に特別な思いがあるわけではない。詩織が返答を渋れば、相手にこの交渉を続けるつもりはないのだろう。
黙り込む詩織に、綾仁は右手を開いて視線の高さに持ち上げた。そして親指から順番にゆっくりと折っていく。そうしながら視線で『どうする?』と問いかけてきた。
きっとこれは、返事を待つカウントダウンだ。中指、薬指と順番に折られていく指に、詩織は無意識に自分の手に力を込めた。
綾仁は、そんな詩織の様子をじっと見つめながら最後の小指を折りにかかる。
彼の小指が半分ほど曲がったところで、詩織は声を絞り出した。
「美月波さんの提案をお受けします!」
その言葉に、目の前の伊達男は匂い立つような美しい勝者の笑みを見せた。
「交渉成立だな」
なんとなく敗北感を味わいながら、詩織は先日の記憶を辿る。
1 石川詩織の憂鬱
十一月、様々な菓子の商品開発・受注生産を生業とするまほろフードのオフィスで、石川詩織は小さく肩を回し凝り固まった背中の筋肉をほぐす。
「石川さん、企画案できたの?」
詩織の動きを見てそう声をかけてきたのは、先輩社員の茂木仁美だ。
長い髪を一つに束ねている彼女は、いつも姿勢がよく凜とした雰囲気がある。
詩織より五歳年上の彼女は、まほろフードの商品開発部の先輩で、これまでいくつもの人気商品の開発を手掛け、中には誰もが知るコンビニの定番スイーツもあるというベテランだ。
誰にも頼らず生きていける自立した女性を目指す詩織にとって、仁美はお手本にしたい尊敬する存在である。
そんな彼女の問いかけに、詩織は笑顔で頷く。
「はい。会心の仕上がりになったと思います」
詩織の言葉に仁美は嬉しそうに頷いてくれた。
まほろフードは、コンビニやレストラン、洋菓子店などの依頼を受けて企画の提案と商品開発をおこない、時にはその製造を直接請け負うこともある。
二人は今、とあるコンビニから依頼を受けたスイーツの企画をそれぞれ練っている最中だ。
「じゃあコンペを楽しみにしているね」
お互いに同じコンペに参加するので一応はライバル関係にある。けれど、誰の企画が採用されても、その後はチーム一丸となって商品をブラッシュアップしていくので、自然と部内の仲間意識は強くなっていた。
「よかったら今日、企画案の完成を祝って飲みに行かない?」
仁美からの誘いを嬉しく思いつつ、詩織は断りの言葉を口にする。
「すみません。今日は先約があって……」
「そう。残念。じゃあ、また今度誘わせてね」
気を悪くした様子もなく、仁美は仕事に意識を切り替えていく。
そのあっさりした性格を好ましく思いながら、詩織も自分の仕事を再開した。
その日の帰り、詩織は大学時代からの友人である高河絵麻と、双方の職場の中間地点にあるバルで落ち合った。
半地下になっているその店は、年代を感じさせる風合いの木材が使用されており、ロウソクを模したLEDライトの間接照明もあって、洒落て落ち着いた雰囲気がある。
「とりあえず乾杯」
絵麻は、声を弾ませて詩織の持つグラスに自分のグラスを当てた。
そしてそれぞれに、グラスのビールを口に運ぶ。
「やっぱり最初の一杯は、ビールに限るよね」
グラスのビールを半分ほど飲み、詩織がしみじみとした声で呟く。
社会に出て、洒落たお店でお酒を飲むようになっても、最初の一杯にビールを頼むのは学生の時と変わらない。
「夏瀬ケミカルの社長令嬢が、なに庶民くさいこと言ってるの」
「そのネタやめてよ」
ボックス席で向かい合って座る友人の言葉に、詩織は嫌そうに顔を顰めた。
絵麻はその表情を肴にして、美味しそうにビールを飲んでいる。
「だって本当のことじゃない。同級生のいっちゃんが、ある日突然、大企業の社長令嬢になるなんてね……」
絵麻はやれやれと首を振る。
そんなふうに言われると、物語のような壮大なドラマがあるように聞こえるが、事実はなんてことはない。
詩織の母である石川洋子は一般家庭の育ちでありながら、世界的シェアを誇る夏瀬ケミカルの御曹司である父・夏瀬貴彦に見初められて、社長夫人となった。いわゆる玉の輿というヤツである。
物語ならそれでハッピーエンドだけど、生憎現実はシビアなもの。母は周囲との価値観の違いややっかみに疲れ果て、さらには嫁を認めない姑との軋轢もあって精神的に追い詰められたあげく、父との離婚を選択した。
その際、幼い詩織は母に、年の離れた兄は父に引き取られた。以来、苗字を夏瀬から石川に改めた詩織は、母が夏瀬家との関わりを一切断っていたこともあり、至って庶民的な価値観で育ち大学までいった。
しかし詩織が大学二年生の秋、母が事故で急逝したことでその環境が一変した。
成人はしていてもまだ学生である詩織は、父の貴彦と兄の圭一の勢いに押し切られる形で夏瀬の家に戻ることになったのである。
そうして生家に戻って五年。苗字は母の姓である石川のままだが、立場としては夏瀬ケミカルの社長令嬢となっていた。
といっても、職場ではそのことを隠しているし、絵麻も昔と同じように詩織を『いっちゃん』と呼び、変わらぬ付き合いを続けてくれている。
「でもさぁ、いっちゃんのお父さんは、今まで苦労させた分、これからはできる限りの支援をしてくれるって言ってるんでしょ? なんで働いてるの?」
半熟卵をのせたシーザーサラダを取り分けながら、絵麻が理解できないと言いたげな視線を向けてきた。
カプレーゼを食べながら、トマトが甘すぎてモッツァレラチーズが負けてしまっていると思っていた詩織は、それをビールで流し込んで答える。
「もちろん、自分で自分を養うためよ」
離婚後、母が夏瀬の家からの支援を一切拒否したため、石川家の経済事情はそれなりに厳しいものだった。
食べるのに困るほどではないが、趣味やお洒落を楽しむ余裕まではなく、たまに買ってもらえるコンビニスイーツが贅沢品という暮らし。詩織がバイトをするようになってからは状況も改善したので嘆くほど不幸ではなかったけれど、節約と堅実な生活は骨身にしみている。
そんな環境で育った彼女は、生きていく上で、三つのことを心に刻んだのだ。
「私には、自分に課した三つの誓いがあるの」
「三つの誓い?」
尋ねながら、絵麻は詩織の前に取り分けたサラダの皿を置く。そのついでに飲み終えたビールに代わり、ワインを注文する。
一緒に注文するかと聞かれたので、詩織も同じものを頼んで話を戻す。
「そう。まずは『恋愛に自分の人生を左右させない』」
そう言って、詩織は指を一本立てる。
愛があればどんな障害でも乗り越えられると信じて一緒になった両親が離婚し、専業主婦として父に人生を委ねていた母のその後の苦労を自分は誰より知っている。だから、恋愛なんて不確かなものに人生を預けたりしない。
「次に『一生責任を持って自分を養ってくれるのは自分だけ』。それを肝に銘じて、仕事に励む」
二本目の指を立てた詩織は、一度言葉を止めてビールの残りを一気にあおる。
そして三本目の指を立てて言った。
「最後は、『モテる男には近付かない』よ」
「なにそれ。めちゃくちゃ冷めてる」
詩織の話に絵麻は声を出してケラケラ笑う。けれど、こちらは大真面目なのだ。
実の娘である自分が言うのは少々恥ずかしいが、父である貴彦は、五十歳を過ぎた今でもかなり整った容姿をしている。
若い頃は甘いマスクの心優しい御曹司ということで、かなりモテたそうだ。父がそこまで完璧な王子様でなければ、母は周囲から嫉妬という強い悪意を向けられることはなかっただろう。嫁姑問題以外に、そういった悪意にも晒され、母はメンタルをやられてしまったのだ。
「そんなんだから、彼氏ができても長続きしないんだよ」
運ばれてきたワインを受け取りながら絵麻が言う。
学生時代からの付き合いの絵麻は、片手でも指が余る詩織の恋愛事情を承知している。
冷めていると言われる詩織にも、過去に何度か恋人がいた時期はある。だが、この性格が災いして長続きした試しはない。
「私としては、冷静に親の結婚を教訓にしているだけなんだけどね」
真面目な顔で返す詩織に、絵麻は「色々勿体ない」と唸るが、大きなお世話である。
「いっちゃん美人だし、もうちょっと愛想を良くしたり、お洒落に気を配ったら絶対モテるのに」
「だから恋愛には興味ないんだって」
詩織は唇を尖らせて、自分の髪に指をからませる。
背中の中ほどまで伸ばしている髪は生まれつき色素が薄く、父の癖毛を受け継いだのか緩やかにウエーブしている。
小さな顔に、ハッキリとした二重の目と小ぶりな鼻、ふっくらした唇といった、母親譲りの顔立ちをしているので、人から『美人』や『可愛い』と言われることもあるけれど、詩織自身はお洒落にも恋愛にも興味がない。
それは学生時代からの付き合いである絵麻もわかっているはずだ。
「知ってるけどさー、でもお嬢様で結婚相手も選びたい放題なのに、勿体ないよ。お見合いの話もいっぱい来てるんでしょ?」
「それで今困ってるの、知っているくせに」
詩織が軽く睨むと、絵麻はニシシと笑う。
長い付き合いなので、もちろん彼女の言葉は冗談だとわかっている。
今の詩織にとって一番の悩みが、その見合いなのだ。
十五年ほどの時を経て再び一緒に暮らすことになった父と兄は、これまで苦労させたからと、詩織を全力で甘やかそうとしてくる。
それだけならまだしも、母の分も娘に幸せな結婚をしてほしい……という謎の親心まで発揮してくるので厄介なのだ。
「確かに本人に結婚する気がないなら、相手がどんなイケメン御曹司でも、お見合いするだけ時間の無駄だよね。いっちゃん、社長夫人ってキャラじゃないし」
ワイングラスを手にピザを齧る絵麻がしたり顔で頷く。
友人である彼女は、正しく詩織の性格を把握しているようだ。
「そうでしょ。今さら社長令嬢としてパーティーに出席するだけでも気詰まりなのに、その上お見合いだなんて……」
詩織は深くため息を吐く。
――そういえば、今週末もパーティーという名のお見合いの予定が入っていた。
嬉しそうに詩織を誘う父と兄を拒絶しきれず、いつも押し切られてしまう自分を恨めしく思い顔を顰める。
「最近、仕事の方はどうなの?」
詩織の表情から令嬢ネタでからかうのは潮時と思ったのか、絵麻がコロリと話題を変えた。
「実は、春のコンビニスイーツのコンペに、私も企画を出せることになったんだ」
話題が変わったことで、詩織も声を弾ませる。
今はまだ冬だが、依頼はゴールデンウィークに向けてのもの。
年を追うごとに暑さが増していく夏に向け、見た目にも涼しいデザートを考えた。ムラサキに近い青色をしたラムネ味のクラッシュゼリーを夜空に見立てて、カットしたフルーツを星のように浮かべるのはどうかと思ったのだ。
詩織が満面の笑みで仕事の話をすると、絵麻も自分の仕事についての話をする。
そうやって時間いっぱい料理とお喋りを楽しんで店を出ると、強い風が吹きつけてきて二人で身震いした。
「電車で帰るの? 家まで送ろうか?」
コートの襟を立てて首をすくめる絵麻に聞くと、彼女は慌てた様子で首を横に振る。
「緊張するからやめとく」
そう言って、絵麻は次に会う約束をして駅の方へ歩いていった。
詩織がその背中を見送っていると、タイミングを見計らったように目の前に車が停まる。
突然の高級車の登場に、通行人の視線がこちらに集まってくるので恥ずかしい。
車から降りてきたスーツ姿の年配の男性が、後部座席のドアを開けて詩織に深く頭を下げる。
「お嬢様、お待たせいたしました」
運転手のその言葉に、周囲がざわついた。
その視線から逃げるように、詩織は小声でお礼を言って急いで車に乗り込んだ。
「ではご自宅まで送らせていただきます」
運転席に乗り込んだ男性は、詩織がシートベルトをしたのを確認して車を発進させる。
この送迎車はなにかと言えば、親バカな貴彦が自分の運転手を迎えによこしたのだ。
友達と飲みに行く時はもちろん、残業などで少しでも帰りが遅くなる時など、いつの間にか近くの駐車場に車を待機させている。
「送迎とかしていただかなくても大丈夫ですよ」
返事はわかりきっているが、申し訳なくてそう伝える。
案の定、運転手の男性は「お嬢様にもしものことがあれば、私が旦那様にしかられますから」と柔らかな口調で応えた。
「……」
言いたいことが喉まで上ってくるが、それを言ったところで愚痴にしかならないとわかっている。
バックミラー越しにこちらの表情を窺った男性が苦笑する。
「お嬢様からすれば窮屈かもしれませんが、旦那様はきっと、お嬢様にどんなことでもしてさしあげたいんですよ。これも親孝行と思って、許してあげてください」
「わかってます」
詩織はため息をついて視線を戻す。
仲のいい友達からも『冷めている』と言われるし、自分でもその自覚はある。でも決して情がないというわけではない。
迷惑と思いつつも、自分を心配する父の気持ちを無下にすることもできず、文句を言いながらも帰りが遅くなりそうな時は事前に連絡し、毎回周囲の視線にいたたまれない思いをしながら送迎を受け入れている。
「到着いたしました」
運転手からそう声をかけられて、詩織はハッと顔を上げた。
企画書を完成させるため、ここしばらく忙しくしていたので、いつの間にかウトウトしていたらしい。
気が付けば、車は屋敷の前に横付けされていた。
後部座席に回った運転手がドアを開けてくれる。
「ありがとうございます」
お礼を言って車を降りた詩織は、自分の家を仰ぎ見た。優美な装飾が施されている洋風建築の夏瀬家は、周囲を堅牢な柵で守られ、古くからある高級住宅地の中でも一際存在感を放っている。
――五年経っても、ここが我が家とは思えないな。
そんな本音を呑み込んで、詩織は玄関のドアを開けた。
「ただいま戻りました」
声をかけると、詩織の帰りを待ち構えていたと言わんばかりの勢いで父の貴彦が両手を広げて出迎えてくれた。その後ろには、兄の圭一の姿もある。
「詩織、おかえり」
「友達との食事は楽しめた?」
「ええ、まあ」
その質問に詩織がぎこちなく頷くと、二人は嬉しそうに目を細める。
若い頃『経済界のプリンス』ともてはやされていたという父は、整った顔立ちはそのままに、今は加齢による渋さを増し、経営者としての風格を感じさせる。いわゆるイケオジというやつだ。
そしてそんな父の長所をそのまま引き継いだような兄が、今は『経済界のプリンス』と呼ばれているのだとか。
両親の離婚は詩織が五歳の時なので、おぼろげながらも、ここで暮らした記憶はある。だから、二人を赤の他人とまでは思わないけれど、未だに大企業の社長令嬢としてお屋敷と言っていいレベルの家で暮らしている自分には現実味がない。
そんな詩織の胸の内に気付くことなく、貴彦は娘を抱きしめてきた。
「なにか困ったことはないか?」
毎日帰って来る度に、熱烈な歓迎をしなくてもいいと思うのだが。しかし、毎回ツッコミを入れるのも大人げないので、最近は口にしないでいる。
「おかげさまで」
それでも日本人の適切な距離感で接してほしいと、父の胸を押して距離を取る。
そんな素っ気ない詩織の態度に貴彦が表情を曇らせた。
悲しげな表情を浮かべる父に、罪悪感が刺激される。
「ファンデーションがついちゃうから」
抱擁を拒んだ理由をそう説明すると、貴彦は破顔する。
「そんなことは気にしなくていいんだよ」
娘に嫌われていないのなら、それでいい――貴彦の醸し出す雰囲気がそう語っている。
それは父の後ろに立つ兄の圭一も同じである。
「着替えてきます」
もともと表情が乏しい詩織は、精一杯の笑顔でそう答えて父と兄から離れる。
「週末のパーティーに着ていくドレスが届いているから、後で合わせてみよう」
「先に見せてもらったけど、シックなデザインで素敵だったよ。僕としては、詩織にはもっと可愛い感じのドレスも似合うと思うけど」
貴彦の言葉に、圭一の声が重なる。
すると貴彦が「次に注文するドレスは、圭一の意見を参考にしよう」と朗らかに笑う。
「ドレス……そんなにいらないですよ」
控えめな詩織の言葉は、二人の笑い声に消されてしまう。
リビングに引き返していく父子の背中を見送った詩織は反論を諦めて、バッグやコートを家政婦に預け洗面所に足を向けた。
「はあ~ぁぁっ」
洗面所で蛇口から流れる水と共に、詩織は深いため息を吐く。
手洗いとうがいを済ませ、目の前の鏡を見る。
「確かに顔の造りはお母さんとよく似ている」
詩織は鏡に映る自分の顔を確認しながら頬を撫でた。
母の洋子は、愛らしい女性的な顔立ちをしていた。
繊細なガラス細工のような儚さがあって、それでいて感情豊かな人でもあった。嬉しい時は弾けるように笑い、悲しい時は幼い子供のように涙を流す。その屈託のなさに、父は惹かれたのだと言う。
二人の出会いは、父の会社近くのカフェで、そこで働く母に一目惚れした父は周囲の反対を押し切り身分違いの恋を成就させた。
育った環境の違いを気にする母に、父は『君のことは僕が生涯守り抜く』と誓ったそうだが、二人の結婚生活は十年ほどで破綻した。
冬は夜の訪れが早い。
クリスマスまであと一ヶ月というこの時期、定時で会社を出る頃には外は宵闇に染まり、街路樹を彩るイルミネーションがきらびやかな輝きを放っている。
「夏瀬社長は怒ってた?」
オフィス街にあるカフェの窓際の席に座り、外の景色を眺めていた夏瀬詩織こと石川詩織は声に反応して視線を前に戻した。
テーブルを挟んだ向かいのソファーに腰掛けるのは、上質なスーツを品良く着こなしている男性だ。
ジャケットの袖から覗くカフスや腕時計は一目で高級品とわかり、世界的シェアを持つミツハ自動車の御曹司である美月波綾仁に相応しいものと言える。
しかし詩織はそんな肩書きを承知で、彼に胡乱な眼差しを向けた。
スッキリとした輪郭に、高い鼻梁と切れ長の目。キリリとした眉は、ほどよく手入れされており、彼の精悍な顔立ちを印象づけるのに一役買っている。
艶のある黒髪をオールバックにした、目力の強い伊達男。
わかりやすいイケメン御曹司である彼は、間違いなく女性にモテることだろう。事実、若い頃はかなりの浮名を流していたと聞いた。
つまり、「モテる男には近付かない」と心に誓っている詩織にとって、関わりたくないタイプの相手ということだ。
「私を連れ出したのが貴方と知って、かなり心配していたようです。帰るなり質問攻めにあいました」
若干の皮肉を込めた言葉に、彼が気を悪くする様子はない。
それどころか、さらなる質問を投げかけてくる。
「夏瀬社長に俺たちの関係について聞いてみた?」
色気のある綾仁の視線に咄嗟の防衛本能が働き、詩織は唇を引き結ぶ。
すると相手は、頬杖をついて優美に笑った。
明らかにこちらの反応を楽しんでいる様子なのが腹立たしい。
手にしていたカップをテーブルに戻した詩織は、観念したように言う。
「美月波さんは私の元許嫁で間違いありませんでした」
「だろ」
「父が私に貴方の存在を告げずにいたのは、数々の浮名を流している貴方は、私の夫に相応しくないと思ったからだそうです」
そんな詩織の言葉に、綾仁は余裕綽々といった感じで返す。
「夏瀬社長は情報のアップデートを怠っているようだな。それは過去の話だ」
そう言って彼は、コーヒーで唇を湿らせ癖のある笑みを浮かべる。
「最近の俺は、真面目に婚活中だ」
「その割に、女性にワインをかけられていましたよね」
先日、目の当たりにした光景を思い出して、つい半眼で睨んでしまう。
「それでも、君よりは真面目に婚活をしているよ」
「……まあ、確かに」
詩織の場合、結婚の意思が全くないにもかかわらず見合いを繰り返しているので、返す言葉がない。
「それで本題だが」
綾仁が少し前屈みになり笑みを深めるが、瞳の奥は笑っていない。よからぬことを企てていそうな表情に警戒心を強める中、綾仁は一つ咳払いをして口を開いた。
「夏瀬……いや今は石川詩織さんか。一つ提案なんだが、元許嫁のよしみで俺と結婚しないか?」
「はい?」
思いもしなかった提案に詩織は声を裏返して目を瞬かせる。
かなり突拍子もない発言だが、綾仁本人にその自覚はないのか、どこまでも強気な表情のままだ。
「君は家族の持ってくる縁談から解放されたい。俺は俺で、結婚しないといけない事情がある。お互いの利害関係は一致しているし、君にとっても悪い話ではないと思うが?」
「……っ」
こちらの事情をすっかり把握している相手の言葉に、返す言葉が出てこない。
詩織が反論しない隙に、彼はなおもたたみかける。
「社長令嬢のフリもそろそろ限界だろう? 俺と結婚すれば、そういう窮屈な状況から解放されるぞ。結婚と言っても、俺は君に男女の関係を求める気はないし、別居でも構わない。もちろん君の仕事に口を出したりもしないし、必要なら協力も惜しまない」
ずいっとこちらに顔を寄せ、詩織にとってこれ以上ない好条件を並べていく彼は、どこまでも強気な態度で最後に「どうだ?」と微笑む。
鼻持ちならない伊達男の提案に乗るのは、正直面白くないけれど、詩織にも色々と事情がある。
どうするべきか返事に迷っていると、綾仁は背中をソファーに預けて言う。
「別に無理に受ける必要はない。元許嫁のよしみで提案したが、断るならそれもよし。俺は俺で見合いを続けるから、君は君で見合いを頑張ってくれ」
今の話は忘れてくれとでも言いたげに、手をヒラヒラさせる。
悔しいが、この場の主導権は彼にある。
元許嫁とはいえ、お互い相手に特別な思いがあるわけではない。詩織が返答を渋れば、相手にこの交渉を続けるつもりはないのだろう。
黙り込む詩織に、綾仁は右手を開いて視線の高さに持ち上げた。そして親指から順番にゆっくりと折っていく。そうしながら視線で『どうする?』と問いかけてきた。
きっとこれは、返事を待つカウントダウンだ。中指、薬指と順番に折られていく指に、詩織は無意識に自分の手に力を込めた。
綾仁は、そんな詩織の様子をじっと見つめながら最後の小指を折りにかかる。
彼の小指が半分ほど曲がったところで、詩織は声を絞り出した。
「美月波さんの提案をお受けします!」
その言葉に、目の前の伊達男は匂い立つような美しい勝者の笑みを見せた。
「交渉成立だな」
なんとなく敗北感を味わいながら、詩織は先日の記憶を辿る。
1 石川詩織の憂鬱
十一月、様々な菓子の商品開発・受注生産を生業とするまほろフードのオフィスで、石川詩織は小さく肩を回し凝り固まった背中の筋肉をほぐす。
「石川さん、企画案できたの?」
詩織の動きを見てそう声をかけてきたのは、先輩社員の茂木仁美だ。
長い髪を一つに束ねている彼女は、いつも姿勢がよく凜とした雰囲気がある。
詩織より五歳年上の彼女は、まほろフードの商品開発部の先輩で、これまでいくつもの人気商品の開発を手掛け、中には誰もが知るコンビニの定番スイーツもあるというベテランだ。
誰にも頼らず生きていける自立した女性を目指す詩織にとって、仁美はお手本にしたい尊敬する存在である。
そんな彼女の問いかけに、詩織は笑顔で頷く。
「はい。会心の仕上がりになったと思います」
詩織の言葉に仁美は嬉しそうに頷いてくれた。
まほろフードは、コンビニやレストラン、洋菓子店などの依頼を受けて企画の提案と商品開発をおこない、時にはその製造を直接請け負うこともある。
二人は今、とあるコンビニから依頼を受けたスイーツの企画をそれぞれ練っている最中だ。
「じゃあコンペを楽しみにしているね」
お互いに同じコンペに参加するので一応はライバル関係にある。けれど、誰の企画が採用されても、その後はチーム一丸となって商品をブラッシュアップしていくので、自然と部内の仲間意識は強くなっていた。
「よかったら今日、企画案の完成を祝って飲みに行かない?」
仁美からの誘いを嬉しく思いつつ、詩織は断りの言葉を口にする。
「すみません。今日は先約があって……」
「そう。残念。じゃあ、また今度誘わせてね」
気を悪くした様子もなく、仁美は仕事に意識を切り替えていく。
そのあっさりした性格を好ましく思いながら、詩織も自分の仕事を再開した。
その日の帰り、詩織は大学時代からの友人である高河絵麻と、双方の職場の中間地点にあるバルで落ち合った。
半地下になっているその店は、年代を感じさせる風合いの木材が使用されており、ロウソクを模したLEDライトの間接照明もあって、洒落て落ち着いた雰囲気がある。
「とりあえず乾杯」
絵麻は、声を弾ませて詩織の持つグラスに自分のグラスを当てた。
そしてそれぞれに、グラスのビールを口に運ぶ。
「やっぱり最初の一杯は、ビールに限るよね」
グラスのビールを半分ほど飲み、詩織がしみじみとした声で呟く。
社会に出て、洒落たお店でお酒を飲むようになっても、最初の一杯にビールを頼むのは学生の時と変わらない。
「夏瀬ケミカルの社長令嬢が、なに庶民くさいこと言ってるの」
「そのネタやめてよ」
ボックス席で向かい合って座る友人の言葉に、詩織は嫌そうに顔を顰めた。
絵麻はその表情を肴にして、美味しそうにビールを飲んでいる。
「だって本当のことじゃない。同級生のいっちゃんが、ある日突然、大企業の社長令嬢になるなんてね……」
絵麻はやれやれと首を振る。
そんなふうに言われると、物語のような壮大なドラマがあるように聞こえるが、事実はなんてことはない。
詩織の母である石川洋子は一般家庭の育ちでありながら、世界的シェアを誇る夏瀬ケミカルの御曹司である父・夏瀬貴彦に見初められて、社長夫人となった。いわゆる玉の輿というヤツである。
物語ならそれでハッピーエンドだけど、生憎現実はシビアなもの。母は周囲との価値観の違いややっかみに疲れ果て、さらには嫁を認めない姑との軋轢もあって精神的に追い詰められたあげく、父との離婚を選択した。
その際、幼い詩織は母に、年の離れた兄は父に引き取られた。以来、苗字を夏瀬から石川に改めた詩織は、母が夏瀬家との関わりを一切断っていたこともあり、至って庶民的な価値観で育ち大学までいった。
しかし詩織が大学二年生の秋、母が事故で急逝したことでその環境が一変した。
成人はしていてもまだ学生である詩織は、父の貴彦と兄の圭一の勢いに押し切られる形で夏瀬の家に戻ることになったのである。
そうして生家に戻って五年。苗字は母の姓である石川のままだが、立場としては夏瀬ケミカルの社長令嬢となっていた。
といっても、職場ではそのことを隠しているし、絵麻も昔と同じように詩織を『いっちゃん』と呼び、変わらぬ付き合いを続けてくれている。
「でもさぁ、いっちゃんのお父さんは、今まで苦労させた分、これからはできる限りの支援をしてくれるって言ってるんでしょ? なんで働いてるの?」
半熟卵をのせたシーザーサラダを取り分けながら、絵麻が理解できないと言いたげな視線を向けてきた。
カプレーゼを食べながら、トマトが甘すぎてモッツァレラチーズが負けてしまっていると思っていた詩織は、それをビールで流し込んで答える。
「もちろん、自分で自分を養うためよ」
離婚後、母が夏瀬の家からの支援を一切拒否したため、石川家の経済事情はそれなりに厳しいものだった。
食べるのに困るほどではないが、趣味やお洒落を楽しむ余裕まではなく、たまに買ってもらえるコンビニスイーツが贅沢品という暮らし。詩織がバイトをするようになってからは状況も改善したので嘆くほど不幸ではなかったけれど、節約と堅実な生活は骨身にしみている。
そんな環境で育った彼女は、生きていく上で、三つのことを心に刻んだのだ。
「私には、自分に課した三つの誓いがあるの」
「三つの誓い?」
尋ねながら、絵麻は詩織の前に取り分けたサラダの皿を置く。そのついでに飲み終えたビールに代わり、ワインを注文する。
一緒に注文するかと聞かれたので、詩織も同じものを頼んで話を戻す。
「そう。まずは『恋愛に自分の人生を左右させない』」
そう言って、詩織は指を一本立てる。
愛があればどんな障害でも乗り越えられると信じて一緒になった両親が離婚し、専業主婦として父に人生を委ねていた母のその後の苦労を自分は誰より知っている。だから、恋愛なんて不確かなものに人生を預けたりしない。
「次に『一生責任を持って自分を養ってくれるのは自分だけ』。それを肝に銘じて、仕事に励む」
二本目の指を立てた詩織は、一度言葉を止めてビールの残りを一気にあおる。
そして三本目の指を立てて言った。
「最後は、『モテる男には近付かない』よ」
「なにそれ。めちゃくちゃ冷めてる」
詩織の話に絵麻は声を出してケラケラ笑う。けれど、こちらは大真面目なのだ。
実の娘である自分が言うのは少々恥ずかしいが、父である貴彦は、五十歳を過ぎた今でもかなり整った容姿をしている。
若い頃は甘いマスクの心優しい御曹司ということで、かなりモテたそうだ。父がそこまで完璧な王子様でなければ、母は周囲から嫉妬という強い悪意を向けられることはなかっただろう。嫁姑問題以外に、そういった悪意にも晒され、母はメンタルをやられてしまったのだ。
「そんなんだから、彼氏ができても長続きしないんだよ」
運ばれてきたワインを受け取りながら絵麻が言う。
学生時代からの付き合いの絵麻は、片手でも指が余る詩織の恋愛事情を承知している。
冷めていると言われる詩織にも、過去に何度か恋人がいた時期はある。だが、この性格が災いして長続きした試しはない。
「私としては、冷静に親の結婚を教訓にしているだけなんだけどね」
真面目な顔で返す詩織に、絵麻は「色々勿体ない」と唸るが、大きなお世話である。
「いっちゃん美人だし、もうちょっと愛想を良くしたり、お洒落に気を配ったら絶対モテるのに」
「だから恋愛には興味ないんだって」
詩織は唇を尖らせて、自分の髪に指をからませる。
背中の中ほどまで伸ばしている髪は生まれつき色素が薄く、父の癖毛を受け継いだのか緩やかにウエーブしている。
小さな顔に、ハッキリとした二重の目と小ぶりな鼻、ふっくらした唇といった、母親譲りの顔立ちをしているので、人から『美人』や『可愛い』と言われることもあるけれど、詩織自身はお洒落にも恋愛にも興味がない。
それは学生時代からの付き合いである絵麻もわかっているはずだ。
「知ってるけどさー、でもお嬢様で結婚相手も選びたい放題なのに、勿体ないよ。お見合いの話もいっぱい来てるんでしょ?」
「それで今困ってるの、知っているくせに」
詩織が軽く睨むと、絵麻はニシシと笑う。
長い付き合いなので、もちろん彼女の言葉は冗談だとわかっている。
今の詩織にとって一番の悩みが、その見合いなのだ。
十五年ほどの時を経て再び一緒に暮らすことになった父と兄は、これまで苦労させたからと、詩織を全力で甘やかそうとしてくる。
それだけならまだしも、母の分も娘に幸せな結婚をしてほしい……という謎の親心まで発揮してくるので厄介なのだ。
「確かに本人に結婚する気がないなら、相手がどんなイケメン御曹司でも、お見合いするだけ時間の無駄だよね。いっちゃん、社長夫人ってキャラじゃないし」
ワイングラスを手にピザを齧る絵麻がしたり顔で頷く。
友人である彼女は、正しく詩織の性格を把握しているようだ。
「そうでしょ。今さら社長令嬢としてパーティーに出席するだけでも気詰まりなのに、その上お見合いだなんて……」
詩織は深くため息を吐く。
――そういえば、今週末もパーティーという名のお見合いの予定が入っていた。
嬉しそうに詩織を誘う父と兄を拒絶しきれず、いつも押し切られてしまう自分を恨めしく思い顔を顰める。
「最近、仕事の方はどうなの?」
詩織の表情から令嬢ネタでからかうのは潮時と思ったのか、絵麻がコロリと話題を変えた。
「実は、春のコンビニスイーツのコンペに、私も企画を出せることになったんだ」
話題が変わったことで、詩織も声を弾ませる。
今はまだ冬だが、依頼はゴールデンウィークに向けてのもの。
年を追うごとに暑さが増していく夏に向け、見た目にも涼しいデザートを考えた。ムラサキに近い青色をしたラムネ味のクラッシュゼリーを夜空に見立てて、カットしたフルーツを星のように浮かべるのはどうかと思ったのだ。
詩織が満面の笑みで仕事の話をすると、絵麻も自分の仕事についての話をする。
そうやって時間いっぱい料理とお喋りを楽しんで店を出ると、強い風が吹きつけてきて二人で身震いした。
「電車で帰るの? 家まで送ろうか?」
コートの襟を立てて首をすくめる絵麻に聞くと、彼女は慌てた様子で首を横に振る。
「緊張するからやめとく」
そう言って、絵麻は次に会う約束をして駅の方へ歩いていった。
詩織がその背中を見送っていると、タイミングを見計らったように目の前に車が停まる。
突然の高級車の登場に、通行人の視線がこちらに集まってくるので恥ずかしい。
車から降りてきたスーツ姿の年配の男性が、後部座席のドアを開けて詩織に深く頭を下げる。
「お嬢様、お待たせいたしました」
運転手のその言葉に、周囲がざわついた。
その視線から逃げるように、詩織は小声でお礼を言って急いで車に乗り込んだ。
「ではご自宅まで送らせていただきます」
運転席に乗り込んだ男性は、詩織がシートベルトをしたのを確認して車を発進させる。
この送迎車はなにかと言えば、親バカな貴彦が自分の運転手を迎えによこしたのだ。
友達と飲みに行く時はもちろん、残業などで少しでも帰りが遅くなる時など、いつの間にか近くの駐車場に車を待機させている。
「送迎とかしていただかなくても大丈夫ですよ」
返事はわかりきっているが、申し訳なくてそう伝える。
案の定、運転手の男性は「お嬢様にもしものことがあれば、私が旦那様にしかられますから」と柔らかな口調で応えた。
「……」
言いたいことが喉まで上ってくるが、それを言ったところで愚痴にしかならないとわかっている。
バックミラー越しにこちらの表情を窺った男性が苦笑する。
「お嬢様からすれば窮屈かもしれませんが、旦那様はきっと、お嬢様にどんなことでもしてさしあげたいんですよ。これも親孝行と思って、許してあげてください」
「わかってます」
詩織はため息をついて視線を戻す。
仲のいい友達からも『冷めている』と言われるし、自分でもその自覚はある。でも決して情がないというわけではない。
迷惑と思いつつも、自分を心配する父の気持ちを無下にすることもできず、文句を言いながらも帰りが遅くなりそうな時は事前に連絡し、毎回周囲の視線にいたたまれない思いをしながら送迎を受け入れている。
「到着いたしました」
運転手からそう声をかけられて、詩織はハッと顔を上げた。
企画書を完成させるため、ここしばらく忙しくしていたので、いつの間にかウトウトしていたらしい。
気が付けば、車は屋敷の前に横付けされていた。
後部座席に回った運転手がドアを開けてくれる。
「ありがとうございます」
お礼を言って車を降りた詩織は、自分の家を仰ぎ見た。優美な装飾が施されている洋風建築の夏瀬家は、周囲を堅牢な柵で守られ、古くからある高級住宅地の中でも一際存在感を放っている。
――五年経っても、ここが我が家とは思えないな。
そんな本音を呑み込んで、詩織は玄関のドアを開けた。
「ただいま戻りました」
声をかけると、詩織の帰りを待ち構えていたと言わんばかりの勢いで父の貴彦が両手を広げて出迎えてくれた。その後ろには、兄の圭一の姿もある。
「詩織、おかえり」
「友達との食事は楽しめた?」
「ええ、まあ」
その質問に詩織がぎこちなく頷くと、二人は嬉しそうに目を細める。
若い頃『経済界のプリンス』ともてはやされていたという父は、整った顔立ちはそのままに、今は加齢による渋さを増し、経営者としての風格を感じさせる。いわゆるイケオジというやつだ。
そしてそんな父の長所をそのまま引き継いだような兄が、今は『経済界のプリンス』と呼ばれているのだとか。
両親の離婚は詩織が五歳の時なので、おぼろげながらも、ここで暮らした記憶はある。だから、二人を赤の他人とまでは思わないけれど、未だに大企業の社長令嬢としてお屋敷と言っていいレベルの家で暮らしている自分には現実味がない。
そんな詩織の胸の内に気付くことなく、貴彦は娘を抱きしめてきた。
「なにか困ったことはないか?」
毎日帰って来る度に、熱烈な歓迎をしなくてもいいと思うのだが。しかし、毎回ツッコミを入れるのも大人げないので、最近は口にしないでいる。
「おかげさまで」
それでも日本人の適切な距離感で接してほしいと、父の胸を押して距離を取る。
そんな素っ気ない詩織の態度に貴彦が表情を曇らせた。
悲しげな表情を浮かべる父に、罪悪感が刺激される。
「ファンデーションがついちゃうから」
抱擁を拒んだ理由をそう説明すると、貴彦は破顔する。
「そんなことは気にしなくていいんだよ」
娘に嫌われていないのなら、それでいい――貴彦の醸し出す雰囲気がそう語っている。
それは父の後ろに立つ兄の圭一も同じである。
「着替えてきます」
もともと表情が乏しい詩織は、精一杯の笑顔でそう答えて父と兄から離れる。
「週末のパーティーに着ていくドレスが届いているから、後で合わせてみよう」
「先に見せてもらったけど、シックなデザインで素敵だったよ。僕としては、詩織にはもっと可愛い感じのドレスも似合うと思うけど」
貴彦の言葉に、圭一の声が重なる。
すると貴彦が「次に注文するドレスは、圭一の意見を参考にしよう」と朗らかに笑う。
「ドレス……そんなにいらないですよ」
控えめな詩織の言葉は、二人の笑い声に消されてしまう。
リビングに引き返していく父子の背中を見送った詩織は反論を諦めて、バッグやコートを家政婦に預け洗面所に足を向けた。
「はあ~ぁぁっ」
洗面所で蛇口から流れる水と共に、詩織は深いため息を吐く。
手洗いとうがいを済ませ、目の前の鏡を見る。
「確かに顔の造りはお母さんとよく似ている」
詩織は鏡に映る自分の顔を確認しながら頬を撫でた。
母の洋子は、愛らしい女性的な顔立ちをしていた。
繊細なガラス細工のような儚さがあって、それでいて感情豊かな人でもあった。嬉しい時は弾けるように笑い、悲しい時は幼い子供のように涙を流す。その屈託のなさに、父は惹かれたのだと言う。
二人の出会いは、父の会社近くのカフェで、そこで働く母に一目惚れした父は周囲の反対を押し切り身分違いの恋を成就させた。
育った環境の違いを気にする母に、父は『君のことは僕が生涯守り抜く』と誓ったそうだが、二人の結婚生活は十年ほどで破綻した。
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