捨てられた花嫁ですが、一途な若社長に溺愛されています

紺乃 藍

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1巻

1-1

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 ◇ 第一章


 ステンドグラスから降り注ぐ夕暮れ刻の陽光が、蜜色に揺れて煌めいている。チャペルの中央に伸びるバージンロードの両サイドには白薔薇が添えられ、間を繋ぐシルクのドレープが美しい流線を描いている。
 荘厳な光景にほう、とため息を一つ落とした柏木七海かしわぎななみは、父である柏木稔郎かしわぎとしろうの腕を離れると、赤い絨毯の向こうに佇んでいた佐久慎介さくしんすけの手に白いグローブを嵌めた指先を乗せた。
 花婿である慎介は七海より三歳年上の三十歳で、同じ会社に勤める上司でもある。部署は違うが社内の親睦会で意気投合し、二人きりで会うようになって三回目のデートで告白され、その半年後にプロポーズされた。
 天然パーマの髪を明るく染めていることと元々童顔であることから若く見られがちな慎介だが、こうして白いタキシードに身を包むと洗練された凛々しさを感じる。ただし、しっかりと緊張はしているようだ。
 そう――七海も稔郎も慎介も、全員が緊張している。厳かな儀式ならではの張りつめた空気を、今日のために丹念に磨いてきた肌でじかに感じとる。だがどんなに緊張していても、神父の宣言により式が始まればあとは流れに従うしかない。二人の元を離れた稔郎が親族席の一番手前に移動すると、チャペルの中に祝福の鐘の音が響き渡った。けれど。

(全然、実感湧かないな……)

 純白の装いと、美しい光景と、優美な音色。目の前で粛々と聖書の一部を読み上げている神父。二人を祝うために結婚式に参列してくれた多数のゲスト。
 すべてがつつがなく進行しているはずなのに、ちゃんと緊張もしているのに。
 どうしてだろう……何となく現実感がない。何かが抜け落ちているように感じてしまう。

(式のプランも、この後の披露宴の準備も、ちゃんと確認した……はず)

 七海の心の隅に潜んでいる不思議な違和感。言葉に言い表せない引っ掛かり――それが突如として現実化したのは、誓いのキスをするために慎介がべールを外した直後だった。
 膝を曲げて頭を下げていた七海が元の姿勢へ立ち上がった瞬間、チャペルの中に可愛らしい女性の声が響き渡った。

「ま……待ってっ!」
「!」

 厳粛な空気を打ち破る思いもよらない発声に、弾かれたようにパッと顔を上げる。
 声がした方向へ顔を向けてみると、全員が整列して長椅子に着座する中、新郎のゲスト席の最後方で一人の女性が立ち上がっているのが目に入った。

(だ、誰……?)

 年齢は同年代か、少し年下だろうか。ベージュのパーティドレスに黒いショートボレロを羽織り、パールがあしらわれたカチューシャを頭にのせた小柄で可憐な女性が、なぜか目にうるうると涙を浮かべてこちらをじっと見つめている。
 七海には見覚えのない女性だ。新郎側のゲスト席に座っているということは、慎介の友人なのだろうか。招待客のリストは数回チェックしてうっすら把握しているものの、まさか挙式の最中に大声を出して進行を中断させるような人がいるとは思ってもいなかったので、素直に驚く。
 一瞬、急な体調不良に陥って助けを求めている可能性が頭をよぎった。だがその女性に苦しさや辛さを訴える様子はない。

愛華まなかちゃん……」
「まなかちゃん?」

 ならば一体どういうつもりで……と首を傾げる七海の目の前で、慎介が動揺を隠しきれないといった様子で苦しげな声を絞り出した。彼が何かを呟いたので表情を確認しようとしたが、その直後に立ち上がった例の女性――愛華と呼ばれた女性がわぁっと泣き崩れた。

「わたし……わたしっ! やっぱり慎介さんが他の人と結婚するの、耐えられない……!」
「えっ……?」

 愛華が発した衝撃的な台詞に、思わず声がひっくり返る。どういうこと? と慎介に問いかけようとしたが、その直前に両手で自身の顔を覆った愛華が、くすんくすんと嗚咽を漏らし始めた。

「わたし、慎介さんがいなきゃっ……生きていけないのに……っ」

 しん、と静かな空間の中に、愛華の冗談としか思えない訴えが響く。
 冗談だと思うに決まっている。今この瞬間が何のための時間なのか、この挙式のためにどれほどの準備期間と労力を費やしているのか、同じ女性である彼女に理解できないのだろうか。
 そもそも、彼女は慎介とどういう関係なのだろう。披露宴からではなく挙式から招待しているとなれば、それなりに親交がある間柄のはずだ。
 七海自身が招待したゲストについてはしっかりと把握しているが、慎介が招待した相手の顔と名前までは完全に一致していない。最後に確認した挙式の参列者リストを頭の中に用意した七海だったが、その中身を思い出す前に、慎介が七海の前から一歩後退した。

「七海、ごめん。……俺、自分の気持ちに嘘はつけない」
「は、はい……?」

 慎介がふと放った一言に七海の思考が完全停止する。
 驚愕の台詞に目を瞬かせる。だがその意味は頭に入ってこない。全然、理解ができない。

「俺やっぱり、愛華ちゃんが好きだ。だから七海とは……結婚できない」
「ちょ……え? ちょっ……!?」

 そう言ってくるりと踵を返す慎介の姿に、全身からサッと血の気が引く。白いドレスの中で足が震える。いつも履いているヒールより少し高さがあるせいか、下半身にぐっと力を入れていないとそのまま力が抜けて崩れ落ちてしまいそうなほどに。

「まってまって、どういうこと!? 全然、意味がわからない……!」

 震える身体に力を込め、七海に背を向けて愛華の元へ駆け寄ろうとする慎介を呼び止める。今は大事な挙式の真っ最中なのだ。この状況で七海を一人残して、彼はどこへ行くつもりなのか。
 七海の呼びかけに一応は足を止めてくれる慎介だが、こちらを見てはくれない。彼の目にはもう愛華しか映っていないらしい。
 それでも必死に頭を働かせる。七海だって、黙って慎介を見送れるわけがない。

「私たち、結婚式は今日だけど、もう夫婦なのに……」

 一応、言葉は選んだ。二週間ほど前に婚姻届を提出した七海と慎介は法律上すでに夫婦となっているのだから、包み隠さず表現すれば、彼が七海以外の女性を選ぶことは『不倫』と同義である。
 だがこの結婚という祝福に満ちた場面で、そんな不吉なワードは間違っても口にしたくない。それが温かな家庭を築いていく最初の一歩となるこの場所で発していい言葉じゃないことぐらい、気が動転している七海にだって判断できる。しかし表現を選んでぎりぎり修正可能な道を模索する七海と異なり、慎介が発した言葉はひたすらに無情だった。

「夫婦じゃない」

 ぽつりと呟いた言葉で、七海の動きが再び停止する。ざわざわとどよめいて事態を見守っていた周りの空気も、一瞬フッと静寂に包まれる。

「実は婚姻届、まだ出してないんだ」
「え……ええっ……!?」
「決心がつかなくて……。だから俺が覚悟できたら、そのときに出せばいいかな、って」
「いやいや、何言って……!」

 あまりにも自分勝手な言い分に、急激な目眩と頭痛に襲われる。胃まで痛くなってくる。

(いいわけないでしょ! それ結婚記念日変わっちゃうじゃない!)

 二人で話し合い、ちょうど一年前に恋人として付き合い始めた十二月十二日を結婚記念日にしようと決めていた。だがその日は平日で、仕事で忙しい七海が役所の受付時間内に窓口へ向かうことは、どう考えても不可能だった。
 昨今はオンラインや時間外でも受け付けてくれるが、別件で役所近くに用事があるから自分が出してくる、という慎介に任せていたのに……まさか、まだ婚姻届を提出していなかったなんて。
 確かに、慎介は不思議な印象を受ける人だ。物静かで口数もそれほど多くなく、いつもミステリアスな雰囲気を纏っていて――その独特な空気感が彼の魅力の一つだと思っていた。とはいえ特別に根が暗いというわけでもなく、仕事はできて性格も優しいし、家事も率先してやってくれる。
 総務部総務課システム係の長というポストに就いていることもあり、同じ会社に勤める総務部長である七海の父・稔郎も、彼の穏やかな性格と的確な仕事ぶりを買っていた。だからこそ父もすんなりと結婚を認めてくれたというのに、まさかこんな状況に陥るなんて。慎介が七海以外の女性とも繋がっていて、この大事な場面で七海の手を離して別の女性の手を取ろうとするなんて。

「ごめん、七海」
「いや、あのね、ごめんじゃなくて……」

 振り向きざまに澄んだ目で謝罪をされても困る。七海には彼が何を思っているのか、何を言っているのか、まったく理解できない。付き合い始めて一年、プロポーズされてからは半年という期間では、お互いを理解するには短すぎたのだろうか。愛を育む時間が足りなかったのだろうか。

「愛華ちゃん……!」
「慎介さん!」

 七海が途方に暮れているうちに、傍を離れた慎介がゲスト席の後方へ辿り着く。等間隔に並んだ長椅子の間から転がり出てきた愛華の手を取ると、お互いじっと見つめ合う。
 そのまま微笑み合ってチャペルの扉から出て行ってしまう二人を制止しようと口を開きかけるも、七海にはかけるべき言葉が紡げない。
 ――結婚の実感なんて、湧かないに決まっている。
 きっと慎介は、最初からこの結婚に乗り気じゃなかった。なぜなら愛華の手を取った瞬間に彼が見せた幸せそうな笑顔は、七海には向けられたことのないものだった。
 確かに、彼はいつも優しかった。常に穏やかな笑顔を浮かべていた。けれどどこか他人行儀な印象があって『結婚式の準備なら俺がやるよ』『仕事が大変なら無理しなくていいよ』と、必要以上に七海を気遣うような素振りばかりだった。

(慎介さんはやっぱり、出世のために私と付き合ってたのかな……)

 七海と慎介は職場内恋愛だった。部署は違ったし親睦会で話をするまで接点もなかったが、以前から父である稔郎は慎介を優秀な人材だと褒めていた。慎介も父を尊敬していると言っていた。
 そう、慎介が欲していたのは七海の愛情ではない。彼が本当に望んでいたのは、上司である七海の父・稔郎の関心だったのだ。もちろん仕事に真面目で公明正大な父は、娘婿をえこ贔屓することはない。だが慎介は上司の娘である七海に、その価値を見出していたのだろう。

(私は、慎介さんの本命じゃなかった)

 そう思うとこれまでは微かな違和感だった疑問が、不思議と胸の奥に馴染んでいく。腑に落ちる、というのはきっとこういう感覚だろう。
 優しく穏やかな態度を崩さず、仕事が忙しく中々デートに行けないことに不満を言わず、結婚式の準備を手伝えなくても文句さえ言わない。慎介だって忙しいはずなのに、いつも七海の都合を優先してくれる。奇妙なほど優しかった理由に気づき、今になって妙に納得してしまう。
 七海は愛されていなかった。出世の足がかりにさえなれれば誰でもよかった。彼が本当に愛していたのは愛華というあの女性だった。あるいは七海を愛せなかったがゆえに、可愛らしい彼女に気持ちが移ったのかもしれない。
 正解はわからない。しかし今は、それどころではない。

(このあとの披露宴、どうしよう……)

 視線を落としてぐるぐると考える。
 披露宴には七海の友達も、慎介の友達も、もちろん職場の人も招待している。今からすべてキャンセルしたとして、二人のためにやって来た人たちにどう説明して何と謝罪すればいいのだろう。どんな顔をしてこの状況を伝えればいいのだろう。
 泣きたい気持ちを懸命に堪えて顔を上げると、目をまん丸にして呆然とこちらを見つめる父と、着慣れない留袖の袖で口元を覆ってわなわなと震えている母の姿が目に入る。

(お父さん……お母さん……)

 なんという親不孝をしてしまったのだろう、とひどい後悔に苛まれる。
 もちろん晴れの舞台を台無しにした一番の原因は慎介と愛華にあるが、この状況を想定して未然に防げなかった責任は七海にもある。少なくとも慎介ともっとちゃんと話し合いをしていれば――彼の気持ちを理解していれば、こんなありえない事態は回避できたはずなのに。
 心の中で『ごめんね』と繰り返していると、壇上で状況を見守っていた神父からおろおろと声をかけられた。

「あ、あの……とりあえずご新婦様は、退場され……ますか?」
「あ……」

 そうだ。両親への謝罪やゲストへの説明、披露宴のこともあるが、そもそも今は挙式の真っ最中である。花婿が消え、しかも戻って来るつもりがないとわかりきっている以上、まずはこの場で執り行われている挙式の続きをどうするか、七海が一人で決断しなければならない。
 しかし決断も何も、選択肢なんて一つしかない。やることは全部決まっている。
 この場に集まってくれた親族や親しい友人に誠心誠意謝罪し、今夜の挙式と披露宴、そして二人の未来に先がないことを伝えてすべてを終わらせる。ただ、それだけのことだ。
 父のエスコートで入場して一人で退場する花嫁なんて、いい笑い者だな……と思いながらバージンロードの終着点で正面を向く。そのまま謝罪の言葉を述べて頭を下げようと息を吸い込んだ瞬間、またも意外な音がチャペルの中に響いた。

「待ってくれ」

 今度は、男性の声だった。新婦のゲスト席から立ち上がったその人物を視界の端に捉えた途端、息を吸いかけていた七海の呼吸が止まった。

「えっ……」

 発する寸前だった言葉が間抜けな声に反転するが、男性に七海の困惑を気にする様子はない。中央の通路に歩み出た人物が、バージンロードの上を進んで悠々とこちらへ向かってくる。
 少し光沢のある黒のスリーピーススーツとよく磨かれた黒い革靴だけは、七海もあまり見慣れない。けれど普段と違うのは服装だけで、左サイドを後ろに軽く流した髪型も、すこしつり上がった目も、すっと通った鼻筋も、形が綺麗な口元も、もちろん凛としてよく通る声も、いつもと同じ。

「社長……?」

 七海が毎日、慎介や稔郎よりも多くの時間をともにしている相手。秘書として付き従っている七海の上司。我が社の顔ともいえる若き社長、支倉将斗はせくらまさとが優雅な足取りで七海の傍へ歩み寄ってくる。
 将斗の足の長さなら約十歩の距離が、あっという間にゼロになる。そうして目の前に立った将斗が突然のことに困惑して硬直する七海に――否、この場にいる全員に思いもよらない宣言をする。

「佐久が柏木と結婚しないなら、俺がする」

 将斗は艶と深みのある低い声質だが、普段の話し口調は至って穏やかだ。しかしたまに聞く大きな声には身体の芯に響くほどの重さが感じられるので、秘書として傍に身を置く七海でさえ少し驚いてしまう。その珍しく大きな声で突然告げられた一言にびっくり仰天して、高身長の将斗をぽかんと見上げる。

「え……っと? 社、長……?」

 だが七海と目が合っても、将斗はにやりと口角をつり上げて微笑むのみ。驚きに瞠目して動けなくなった右手を掬いとると、おもむろに身を屈めて顔の位置を下げてくる。
 将斗の唇が白いグローブ越しに七海の手の甲に寄せられる。音もなく口づけを落とした将斗が、そのまま視線だけで七海の顔を覗き込んできた。

「柏木。俺と結婚してほしい」

 ゆっくりと――けれど確かに紡がれた求婚の言葉と熱い視線に、どくんと心臓が跳ねる。しかし驚きすぎて意味はスッと頭に入って来ない。ただ困惑するだけで、声の一つも発せない。
 固まって動けなくなった七海に小さな笑みを残すと、一度視線を外した将斗が新郎席の最前席に座る一組の男女に視線を向ける。彼らは先ほど七海を置き去りにしてこの場を立ち去った佐久慎介の両親、新郎の父親と母親だった。

「構いませんよね、佐久さん?」

 突然話題を振られた二人がオロオロと視線を彷徨わせる。土壇場になって息子が挙式の舞台から逃亡し、しかも事情を一切聞いていなかったとなれば、彼らも困惑の真っ只中にいることだろう。そんな彼らに対しても、将斗は一切の遠慮がない。

「まあ、花嫁を置き去りにした花婿一家に、拒否する権利はないと思いますが」

 ばっさりと切り捨てる将斗の言葉に、慎介の父が言葉を詰まらせる。他人に指摘されて初めて、己の息子の非常識さを思い知ったのだろう。しかし将斗を見つめる慎介の父の視線は、見ず知らずの他人に糾弾されるいわれはない、とでも言いたげに不機嫌だ。

「あの、あなたは一体……?」
「私は支倉建設で代表取締役社長を務めております、支倉将斗と申します」
「取締役……社長!?」

 慎介の父も、目の前にいる人物が息子が勤める会社の社長だと、ようやく気づいたらしい。
 そう。支倉将斗は七海や稔郎、慎介が勤務する『支倉建設』の社長である。
 支倉建設はオフィスビルや医療施設、商業施設といった規模の大きな建設事業から、マンションやアパート、個人の住宅や別荘といった細やかな建築事業、さらには都市開発事業や環境エネルギー事業まで幅広く手掛ける、日本屈指の総合建設会社だ。
 そして秘書課に在籍する七海の現在の配属先こそが、社長秘書――つまり七海と将斗は、勤務時間の大半で行動をともにしている『ビジネスパートナー』なのだ。

「ご子息は柏木を置いて、別の女性とどこかへ行ってしまいましたよね? それなら異論はないはずです。――彼女は、俺がもらいます」

 将斗がきっぱりと宣言した瞬間、新婦のゲスト席の後方から複数の女性の歓声が上がった。その声が七海の高校時代からの友人たちによる興奮と歓喜の声だと気がついたが、当の七海本人としてはまったく喜べない。将斗の突然の謎発言と謎行動に、理解が追いつかず反応もままならない。
 目を見開いたまま固まっていると、振り返った将斗が再び七海に近づいてきた。
 その堂々とした態度と余裕を崩さない微笑みに圧倒されて一歩後退する七海だが、やはり将斗の足が長い。あっという間に距離を詰められたと気づく暇さえなく、耳元に将斗の唇が近寄る。

「話を合わせろ」
「しゃ、社長……?」

 七海の顔のすぐ横で、七海にしか聞こえないほどの声量で穏やかに告げられたのは、いつもと同じ絶対命令だった。秘書の懸念や心配など気にもせず、意見や忠告も端から聞く気はない――圧倒的な威厳と風格で他者を魅了する、堂々たる姿。自信の表れ。

「ずっと、柏木が好きだった」
「……え」
「君の口から結婚することになったと聞かされて、諦めていたんだ」

 そんな将斗がいつになく真剣な表情で語ったのは、思いがけない熱烈な告白だった。
 瞠目して停止する七海の手を今一度掬い取る将斗だが、今度は手の甲へのキスはない。その代わり手首を掴んでぐいっと身体を引き寄せられ、そのままドレスごと腰を抱かれる。
 ゼロになった距離といつになく真剣な表情に、またも心臓が飛び跳ねる。

「でも破談になるなら、もう遠慮はしない。絶対に幸せにするから、俺と結婚してくれ」

 将斗の宣言と同時に、ゲスト席の後ろの方で再びキャアアァと歓声があがる。だが急展開の連続と思いがけない将斗の真剣な表情に、七海は何も反応できない。ただ硬直することしかできない。
 固まった七海の様子を確認した将斗が、表情を緩めてやわらかな笑顔を向けてくる。あまり見慣れない微笑みを間近で見つめてハッと我に返った七海だが、明確に返答する前に将斗の視線は七海から外れていた。
 チャペルの正面を向いた将斗が、成り行きを見守って狼狽えていた神父に式の再開を促す。

「続けてください」
「で、ですが……」

 予定になかった展開に慌てふためく神父だったが、ほどなくして従うべき相手を見定めたらしい。普通ならどう考えても式場を予約してサービス料を払っている七海の意見を優先すべきだと思うが、つい先ほど耳にした『支倉建設社長』の肩書と将斗の纏うオーラや威圧感に屈したのかもしれない。コホン、と咳払いを一つ残すと、そのまま挙式の進行を再開する。

「それではご新郎様――病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、あなたは妻・七海を愛し敬い慈しむと誓」
「誓います」

 尋ねられた文言に頷くことで合意を示す『誓いの言葉』は、新郎が新婦に永遠の愛を捧げるもの。それをあっさりと受け入れて認めた将斗の横顔を呆然と見つめる。

(なんで食い気味……?)

 一切の躊躇いがない将斗の態度に疑問が湧く。だがちらりと目線だけでこちらを見た将斗は、七海の困り顔を見つけても小さな笑みを零すだけ。その表情は『異常事態に異常事態が重なったせいで混迷の極みに達した己の秘書を、ここぞとばかりにからかってやろう』と考えているようにしか見えない。

「病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、あなたは夫……を愛し敬い慈しむと、誓いますか?」

 神父は将斗の正確な名前がわからなかったのだろう。プランにも打ち合わせにもない展開なのだから、当然といえば当然である。ふわっとぼかされた将斗の名前と表現に何と返答していいのかわからず「ええと」「あの」と口籠もっていると、隣にいた将斗がぽつりと何かを呟いた。

「七海」
「は、はいっ?」

 それが自分の名前だと気づいた七海は、驚きのあまり咄嗟に声を発してしまう。
 将斗は秘書である七海をいつも名字で『柏木』と呼び捨てており、これまで下の名前で呼ばれたことは一度もない。その驚きもあって、声が見事に裏返った。

「あ、まって! 今のちが……!」

 しかし七海の発声を肯定と捉えたのか、訂正する前に神父が次の段階に進んでしまう。よもやこの状況が面倒くさくなったのでやけくそで適当に済ませたのではないか、とすら思う七海だ。
 やはり今からでも中断すべきか、とりあえずやり過ごすべきか、と考えているうちに、挙式のすべてが終わる瞬間を迎える。指輪交換の行程をまるっと飛ばしたせいもあるだろう。高身長で男性らしい体つきの将斗と、細身で中性的な印象の慎介の体格が明らかに違うことから、指輪のサイズも異なると神父が判断してくれたことはありがたい。正直、今の七海は慎介と相談して購入した結婚指輪を左手の薬指に嵌める気にはなれなかったから。
 神父に後ろへ振り返るよう促されたことで、新郎と新婦が揃って退場するタイミングになったのだと気づく。だが新郎の親族やゲストにも、新婦の親族やゲストにも、どんな顔をしていいのかわからない。それに未だ状況を受け入れられず、七海自身も困惑している。このまま振り返って誰かと目が合うのが怖い。
 俯いたまま困っていると、動けなくなった七海の腰に将斗の腕が回ってきて、ぐいっと強く抱き寄せられた。
 純白のドレスの中に矯正下着を仕込んでいるせいで、腰は普段よりも細く見えるはず。その腰と将斗の身体が密着したので、ハッと顔を上げる。
 目が合った将斗は優しい微笑みを浮かべていた。普段仕事をしているときと同じく強引で尊大で、それでいて逞しく凛々しい、いつも通りの笑顔で。

「七海。俺が必ず、幸せにするから」
「!」

 けれどはっきりと告げられた言葉は、今まで一度も聞いたことがない。
 そもそも名前で呼ばれたこともなかった七海はたった一言で挙動不審になるが、

「ほら、腕組め」

 と当然のように指示されると、不思議と気持ちが落ち着いてくる。というより、このありえない状況下でも呼び方以外は普通でいられる将斗の神経の図太さに、動揺している方が馬鹿馬鹿しくなってくる。

「抱っこされたいか? していいならするが」
「結構です!」

 まるでこの事態を楽しんでいるようなからかいの笑みと態度に、つい苛立ちを含んだ声が出る。だが将斗は七海の様子を見ても一切笑顔を崩さない。

(どうしてそんなに楽しそうなんですかっ!)

 そのまま歩き出した将斗の腕にどうにか掴まり、慣れないヒールの上で震える脚を必死に動かして、バージンロードの中央をゆっくりと移動する。
 チャペルの中にいる人々がどんな表情をしているのか確かめるのが怖くて、右にも左にも視線を向けられず、顔も上げられない。そんな中で七海が唯一目を向けることができたのは、毎日のように顔を合わせて見慣れを通り越して見飽きたはずの、将斗の楽しげな横顔だった。


 チャペルを出てすぐ隣にある控室に誘導されると、そのまま将斗と二人きりで取り残される。どうやら介添係の女性は、担当のウェディングプランナーを呼びに行ってくれたらしい。扉が閉まって空気がシン、と静まり返ると、それまで黙っていた将斗が盛大に吹き出した。

「ふはっ! ハハハッ……!」

 身体をくの字に曲げて腹を抱える将斗に、恥ずかしさで消え入りたい気持ちを抱く。

「おま、結婚式の真っ最中に花婿に逃げられるとか……! くくく……」
「笑わないでくださいません……!?」

 チャペルを出るまでは真剣な表情を崩さずにいてくれた将斗だったが、やはり内心では七海の悲劇を面白がっていたらしい。いつもずぼらでいい加減な将斗を叱ってばかり、なんの面白味もなく地味で真面目一辺倒な七海のありえない失態に笑いが止まらない、といった様子だ。

「ああ、そうだな。悪い悪い」

 涙が滲みそうになっている表情を悟らせまいとそっぽを向くと、笑いを引っ込めた将斗が謝罪の言葉を零した。そのままそっと伸びてきた将斗の手が、丁寧に編み込まれて綺麗に結い上げられた髪をぽんぽんと撫でる。

「あの場から逃げずに一人で乗り越えようとしただけで、柏木は十分えらいよ。さすが俺の秘書だ。泣かずによく頑張ったな」
「社長……」

 いつも七海をからかってばかりの将斗の慰めに、今度は別の意味で涙が滲みそうになる。
 顧客や取引先の前ではシャンとしているくせに、社長室に戻れば不真面目でぐうたら、一切のやる気が感じられなくなる将斗なのだ。
 慰められたところで反発心が生まれて、見栄を張りたくなるだけ。――そう思っていたのに、七海の虚勢と悔しさを受け止めてくれる大きな手とそこから感じる温度に、ぼろぼろに砕かれた心が少しだけ潤う気がした。


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