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1巻
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しおりを挟む序章
「モニカ、すまない。俺は本物の愛を知ってしまったんだ。だから君とは結婚できない」
十七歳の誕生日。
婚約者のルーファス様は、プレゼントを渡す代わりに別れを告げてきた。
悪びれもせずに、屈託のない笑顔を向けてくる彼。
――私は、この笑顔が大好きだったのに……
「その本物の愛のお相手は、どなたなのですか?」
聞かなくても予想はついていたけれど、はっきり答えを聞いて心にケジメをつけたかった。
「実は、サンドラなんだ」
やっぱり、予想通りの答え。
サンドラは、私の義姉だ。義姉といっても歳は同じで、私より三カ月ほど早く生まれただけ。
四年前に母が亡くなり、三年前に父が再婚した。
そして、義母の連れ子のサンドラが義姉になったのだ。
義母のシンシアは男爵家の生まれだったが、未婚のまま父親がわからない子を産んだ。
そんな義母と再婚した父について『実はシンシアは前からの愛人で、サンドラは隠し子なのでは』と皆が噂していた。
それはただの噂ではないかもしれない、と私も思っている。だとすればサンドラは義姉ではなく異母姉ということになるのだけれど……
父が再婚して義母のシンシアとサンドラが屋敷に来てから、私の居場所はなくなった。
そもそも、父は母を愛してはいなかった。
ほとんど屋敷に帰らず、母が病気になっても放ったらかし。
それが再婚してからは屋敷で過ごすことが多くなり、今では三人がはじめから家族だったかのように見える。
私が使っていた部屋はサンドラの部屋になり、今は物置部屋が私の部屋だ。ドレスも宝石も、幼い頃に母が買ってくれたぬいぐるみでさえも、サンドラは私から奪っていった。
なんの役にも立たない私に使うお金はないと、彼らは食事代ですら惜しむようになった。
食事は一日一回、硬くなったパンをひとつだけ。
そんな生活が三年……私にとって、ルーファス様がいてくれることが、心の支えだった。
けれどそのルーファス様までサンドラに奪われてしまったようだ。
「そう……ですか」
それ以上、言葉が出てこなかった。
「本当にすまないと思っているんだ! だが、最近のモニカは、魅力がないというか……触れても柔らかみがないし、なんだかやつれているようだし、前はあんなに美しかったのに、今は女の子っぽくないというか……」
それは、本当に悪いと思っている人の言葉なのだろうか……
私とこのルーファス・ドナルド様が婚約したのは、七年前のことだ。
少し子供っぽいけれど、いつも見せてくれる屈託のない笑顔が大好きだった。
母が病に倒れた時はそばで元気づけ、亡くなった時も『俺がそばにいるから』と言って、寄り添ってくれた。
私はそんな彼の優しさに救われていたのに、彼のほうは私の外見や感触にしか価値がないと言っているように聞こえる。
「こんなガリガリの身体では、魅力なんてないですよね。肌もボロボロですし、髪の毛だって……」
自分で言っていて、涙が出てきた。
三年間も毎日パン一個で暮らしてきたのだから、身体はほとんど骨と皮しかない。
肌の手入れもできるはずがなく、栄養不足でガサガサだ。
お風呂は冷たい井戸水で髪を洗い、使い古された雑巾のような布で身体を拭くだけ。
もちろん、石鹸なんて買えるはずがない。私が自由にできるお金は与えられていないからだ。
こんな状況で、私にどうしろと言うの?
着ている服さえツギハギだらけのボロボロ。彼はこの姿を見ても、私がこの屋敷でどのような扱いを受けているのか想像すらしないらしい。
「すまない、昔の君は好きだった」
爽やかな笑顔でそう言うルーファス様が、いっそ清々しかった。
つまり、今の私は美しくないから好きではないということだ。
「お気持ちはわかりました。ルーファス様からの一方的な申し出ですので、婚約破棄というかたちでよろしいでしょうか」
気持ちを残さないように、淡々と話を進める。
彼のことを好きな気持ちは、そう簡単には消えてくれない。
けれど、彼の顔を見て悟ってしまった。もう彼の目に、私は映っていないのだと。
こうなってしまった以上、仕方がない。
彼はドナルド侯爵家の五男。サンドラと結婚するのなら、ルーファス様が騎士の試験に合格して騎士爵を得でもしない限り、ふたりは平民になる。
剣術が苦手なルーファス様が試験に受かるとは思えないから、その未来は確定だろう。
そこまで覚悟してサンドラを選んだのなら、祝福しようと思う。
彼はふたつ返事で了承すると、満面の笑みを浮かべながら帰っていった。
そのまま部屋に戻ろうとすると、使用人に「奥様がお呼びです」と呼び止められ、私はリビングに向かった。
リビングには、ソファーに並んで座る義母とサンドラの姿があった。
「ずいぶん騒がしかったけれど、玄関先でなにをそんなに騒いでいたの? うるさくて、ゆっくり本も読めなかったわ」
ルーファス様とのやりとりは、うるさい……というほどのものではなかったはずだ。それに玄関からこのリビングまでは、結構離れている。
だが、義母は私の声が少しでも聞こえるといつも『耳障りだ』と言って激昂するから驚きはしない。
「申し訳ありません。これからは、気をつけます」
丁寧に頭を下げてその場から去ろうとすると、怒りの含んだ声で呼び止められた。
「待ちなさい! 私は、なにを騒いでいたのかを聞いたのよ。私の質問が、理解できないの?」
義母の隣で、くすくすと笑っているサンドラ。
――理由なら、全てサンドラに聞いているはずなのに。
わざわざ私の誕生日に、ルーファス様に別れを告げさせたのはサンドラなのだ。
そのくらい、とうに察していた。
「あ……の、奥様、今日はモニカ様のお誕生日なのです。きっとお友達が、お祝いにいらしたのかと……」
「黙りなさい! 誰がお前に聞いているの!?」
使用人が私のうなだれる姿を見て、黙っていられなくなったようだ。
義母は怖い顔で、使用人の顔をキッと睨みつけた。
私は急いで、関わらないようにと彼女に目で訴える。
私のせいで使用人が叱られるなんて耐えられない。
「ルーファス様から、婚約を破棄したいとお申し出を受けました」
急いでそう話すと、義母は使用人のことはもうどうでもいいとばかりに嬉しそうな顔をした。
「まあ、一体どうして?」
義母は、全部私に言わせたいらしい。
「本物の愛を知ったからだそうです」
「その相手は?」
私が答えるたびに、さらに明るい表情になる。
「サンドラお義姉様です」
私の口から聞くことがそんなに嬉しいのか、ふたりは顔を見合わせると大声で笑い出した。
ふたりにとって、私の婚約者を奪うことは単なるゲームだったのかもしれない。
「ルーファス様がサンドラを選ぶのも仕方がないことだわ。あなたには、魅力がないのだから。それにしても辛気臭い顔ね。見ているこっちが暗くなるわ。早く出ていって」
呼んだのも呼び止めたのも義母なのに、用が済んだら出ていけと言う。
今日は殴られないだけ、マシなほうだ。
私の辛そうな姿に機嫌をよくして、使用人が助けようとしたことはすっかり忘れてくれたようで助かった。
使用人が少しでも私を心配するそぶりを見せると、義母はその使用人に罰を与える。
その罰とは、女性ならふくらはぎを、男性なら背中をムチで打つというもの。
母が生きていた頃からこの家に仕えてくれている彼らに、そんな目に遭ってほしくはない。
だから、使用人たちには決して私を庇うことがないようにきつく命じた。
父や義母やサンドラの言うことだけを聞くように、と。
私が止めに入っても、彼らがムチで打たれる回数が増えるだけ。私がなにかすれば余計に罰を与えられることになる。使用人たちを守るためには、私が距離を取るしかなかった。それが使用人に対して、今の私にできる唯一のことだ。
ムチで打たれる辛さは、誰よりも私自身がわかっている。
三年前、初めて屋敷にやってきた義母は、顔が気に食わないと言って私をムチで打った。
私の場合はふくらはぎではなく、足の裏だった。
私が暴力を振るわれていると、他の人に気づかせないためだ。
それから何度も何度もムチで打たれたせいで、足の裏は腫れ上がり、皮が剥けてぐちゃぐちゃになっている。化膿して病気にでもなったら困るからか、化膿止めの薬だけはくれるけれど、痛み止めはくれない。
こんな思いをするくらいなら、いっそ逃げ出してしまいたい……そう、何度も思った。
でも、私が逃げ出せば残された使用人たちがもっと酷い目に遭うことは目に見えている。
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物置部屋に戻ると、窓の外は雨が降っていた。
さっきまでは、降っていなかったのに……まるで、私の心を映し出しているように感じた。
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声に出したのは、自分に活を入れるため。
このバーディ侯爵家の当主は、私だ。
当主だった母が亡くなってすぐに、娘の私がこの侯爵家を継いだ。
今は父が当主のように振る舞っているし、周囲もすっかりそう思わされているけれど、本来は私が十八歳になるまでの代理に過ぎない。
私が父の言いなりになっているのは、自由まで奪われたくないからだ。
サンドラに全てを奪われても、文句ひとつ言わない。
義母に理不尽に殴られても、ただひたすら謝るだけ。
父が私を見ようとしなくても、食事を与えられなくても、ベッドのない物置部屋で暮らすことになっても、全てを受け入れてきた。
父は一生、このまま当主代理でいられると思い込んでいる。
けれど、私にそんなつもりは一切ない。
母の葬儀にさえ姿を現さなかった父に、愛情などこれっぽっちもなかった。
私が十八歳になるまでは我慢するけれど、それ以上好きにさせるつもりなんてない。
十八歳の誕生日には、なにもかも返してもらう。
明日から、新学期が始まる。
王立学園は、十二歳から十八歳までの貴族令息や令嬢が通う場所だ。
学園の授業は一日に四時間だけで、お昼頃には終わる。
正直、家庭教師を雇ったほうが効率はいい。なにより、学園に子供を通わせるには多大なお金がかかる。それでも貴族たちが自分の子供を学園に入学させるのは、学園に通わせられるだけの財力があると証明するため。そして幼いうちから他の貴族たちと縁を結ぶことで、人脈を広げるためだ。
私は母が亡くなる前から通っていたこともあり、今もまだ学園に通えている。
世間体を考えると、義姉を編入させておいて娘を退学させるわけにはいかなかったのだろう。
代わりに、一日でも休んだら退学させると言われている。
それほど私にお金を使いたくないのだろう。
ルーファス様を失った今、私には学園だけが心穏やかになれる場所。
その場所を、奪われたくない。
床に横になり、小さく丸まって眠る。ほとんど骨と皮だけの身体は、床に当たって痛い。
「……こんなガリガリの私に、魅力なんてあるわけないじゃない。……お腹、空いたな」
その日は強くなっていく雨の音と、自分のお腹の音でなかなか眠れなかった。
第一章
制服に着替え、学園に向かうため馬車に乗り込む。
昨日の大雨はすっかり上がり、今日は青空が広がる良い天気だった。
学園までは馬車で三十分ほど。王都に住んでいない生徒は、寮に入っている。
「到着しました。行ってらっしゃいませ」
「行ってきます、シド」
シドは、私が幼い頃からバーディ侯爵家に仕えてくれている使用人だ。
以前から無愛想な態度だったからか、シドに対して義母はなにも言わない。そのおかげで、シドといる時は義母の目を気にしなくて済む。
学園に到着して馬車を降りると、周りからの視線を感じた。
考えられる理由は、ルーファス様との婚約破棄だ。
婚約破棄なんて、そうそうあることではない。婚約者に捨てられた私がそれほど物珍しいのだろう。
そう思っていたのだけれど……
「見損なったわ、モニカ」
教室に入ろうとした私にそんな言葉を投げかけたのは、親友のエイリーンだった。
ドルーグ子爵家令嬢、エイリーン。彼女とはこの学園に入ってすぐに仲良くなって、私はずっと親友のつもりでいた。
その彼女に見損なわれるようなことをした覚えはない。
わけがわからず首をかしげる私を、彼女は冷めた目で見ていた。
「エイリーン、なんのこと?」
「ふん、しらばっくれる気? サンドラ様がおっしゃった通り、本当に性悪なのね!」
サンドラ……
また、彼女がなにかしたようだ。
なにを言われたかは知らないけれど、エイリーンが親友の私よりもサンドラを信じたのだと思うと悲しくなってくる。
「なによ、その顔。そんな『傷ついてます』みたいな顔して、同情でも誘うつもり? サンドラ様に大怪我をさせておいて、なんて図々しい!」
どうやら婚約者を奪われて逆上した私がサンドラを突き飛ばし、そのせいで彼女は腕の骨を折った……とサンドラは触れ回っているらしい。
私は、彼女に触れてさえいないのに。
それに本当に怪我をしていたら義母が大騒ぎして、たとえ私が原因でなくても叱責は免れなかったはずだ。
つまり、サンドラは怪我もしていないのだろう。
「私はそんなことしていないわ。エイリーンは、信じてくれると思ってたのに……」
エイリーンの顔を見ればわかる。なにを言っても、信じてはもらえないだろう。
そんなに私は、彼女と信頼関係を築けていなかったのだろうか。
「信じる? 冗談でしょう? ルーファス様がサンドラ様を選んだのも当然ね。こんな性悪な人間と今まで親友でいたなんて、恥ずかしいわ!」
今までサンドラは、学園では嫌われ者で目立たない存在だった。
再婚相手の連れ子という立場は、貴族の令息令嬢が通う学園では、あまり好かれるものではない。そんなサンドラが目立てば、虐められるからだ。
もしかしたら、サンドラはずっとルーファス様を狙っていたのかもしれない。
サンドラが父の隠し子というのは、今まではただの噂に過ぎなかった。けれど、私の婚約者だったルーファス様と婚約したとなると、単なる噂では済まなくなってくる。
今はシンシアが父の正妻なのだから、父の隠し子とされるサンドラは、バーディ侯爵家の正式な娘として認められたのだと皆は考えるだろう。
つまり、ルーファス様と結婚してバーディ侯爵家を継ぐのはサンドラだと勘違いする者も出てくるというわけだ。
父がバーディ侯爵家を牛耳っているのだから、そう思う人が多いのも自然なことだと思う。
事実、義母とサンドラは、完全に勘違いをしているのだから。
サンドラが私をこんなにも嫌うのは、自分は男爵家で貧乏な暮らしをしていたのに、私が侯爵家でぬくぬくと育ってきたからだと言っていた。
父が母と離婚し、もっと早くシンシアと再婚していれば、自分は侯爵令嬢として幸せに暮らせていたはずなのに……と。
父の実家は子爵だ。しかも五男。
生家の爵位を継ぐことはまず望めない立場だった。
母に愛がないのに離婚しなかったのは、貴族の立場にしがみつきたかったからだろう。
もし母が生きているうちに離婚して父がシンシアと再婚していたら、平民として暮らす道しかなかったはずだ。
それを話したところで、サンドラはなにかしら理由をつけて私を嫌うのだろうけれど。
ルーファス様は、明るくて誰にでも優しい。容姿が特別美しいわけではないけれど、それなりに人気者だ。薄茶色のふわふわした柔らかい髪の毛、緑色の大きな目でじっと相手の目を見て話す彼は、まるで子犬のように愛らしい。そんな彼を、嫌いな人はいなかった。
バーディ侯爵家の跡継ぎで、ルーファス様に選ばれたサンドラ。
ルーファス様に捨てられ、侯爵家の跡継ぎでもなくなった私。
周囲には、今の私たちがそんな風に見えているのだろう。
それは、この学園にも私の居場所がなくなったことを意味していた。
学園は、私にとって唯一落ち着ける場所だった。
けれど、もう違うのだと思い知る。
「そうね、ごめん」
エイリーンならわかってくれると思っていた私が愚かだった。
話しても無駄だと悟り、自分の席に着く。
そんな私の態度が気に入らなかったのか、エイリーンは私の机をバンッと大きな音を立てて叩いた。
「謝れば許されるとでも? これで終わりだと思わないことね」
鋭い眼差しを私に向けるエイリーンは、親友だった頃とは別人のようだ。
捨て台詞を残し、エイリーンも自分の席に戻った。
それにしても、サンドラが私に怪我をさせられたからと言って、なぜエイリーンがこれほど激怒しているのだろう。
彼女がサンドラと仲が良かったという記憶はない。
違和感はあるけれど、あの様子では聞いても答えてはくれないだろう。
いつもなら、あっという間に終わってしまう学園での一日。
それが今日はものすごく長く感じる。
朝にエイリーンに絡まれた以外は、誰ひとり話しかけてくることはなかった。
それでも、冷たい視線はずっと感じていた。
少しだけでいいから、誰もいないところに行きたい――そう思い、私は授業が終わるとすぐに裏庭へ向かった。
裏庭には、ひとりになりたい時によく来ていた。
まさか、一日中ひとりになりたいと願うことになるとは思わなかったけれど。
白いベンチに腰を下ろして、空を見上げる。
真っ青な空が綺麗で、少しだけ心が癒される。
学園での平穏な日々を失った今、本当に私にはなにもなくなってしまった。
たったひとりの友達さえ、私には許されなかった。
この先頑張っていけるのか、自信がない。
「弱気になってはダメ!」
パンッと両頬を叩いて、気合いを入れる。
「それ、痛くないの?」
いつからいたのか、男子生徒が不思議そうな顔をしながら私の目の前に立っていた。
「え……!? あの……」
誰もいないと思っていたのに、急に話しかけられて慌てていると……
「アンソニー様~? どちらにいらっしゃるのですか~?」
誰かを捜しているのか、媚びを売るような女子生徒の甘い声が聞こえてきた。
「あの……」
きっと、あの子が捜しているのはこの人だろう。
そう思って声をかけようとすると、男子生徒が「しーーっ!!」と左手の人差し指を自分の唇に押し当て、私の口を右手で塞いだ。
突然の出来事に、身体が固まる。
「ごめん、見つかりたくないんだ」
耳元で言われてコクンと頷くと、そっと男子生徒の手が離れる。
女子生徒の声が遠ざかると、彼は大きな溜め息を漏らしながら、私の隣に腰を下ろした。
「はぁ……助かったー! 誰もいないだろうと思って、ここに逃げてきたんだ。このベンチ、大きな木に隠れて見えないから、ちょうどいいんだよね」
目の前には大きな池があり、後ろには大きな木があるこの場所は、確かに隠れるには最適だ。私も誰にも見られたくなくてここに来たから、気持ちはわかる。
「女の子から、逃げてきたのですか?」
それにしてもこの男子生徒は、初対面なのに距離が近すぎやしないだろうか。
見つかりたくなかったとはいえ、初めて会った人の口を塞ぐなんてありえない。
「そうなんだけど……なんか、警戒してる?」
いつの間にか、私はベンチの端のほうに移動していた。無意識に彼から距離をとっていたようだ。
彼は苦笑いを浮かべながら、ベンチから立ち上がった。
「俺は、アンソニー。君は?」
「……モニカ」
アンソニーと名乗った男子生徒は私の名前を聞いて微笑むと、そのまま「またね」と言い残して去っていった。
あの人は一体、なんだったのだろう……
ただ、学園中に悪い噂が流れていたであろう私の名を聞いても、彼は嫌な顔をしなかった。
しばらく空を眺めた後、馬車に乗り込んで屋敷に帰る。
屋敷に到着し玄関を開けると、すぐに「奥様がお呼びです」と使用人に言われて、リビングに向かった。
リビングでは、義母とサンドラが楽しそうに話をしていた。
「お呼びでしょうか?」
ふたりは私に気づくと、指をさして大笑いした。
「あははははっ! 今日、学園は楽しかったでしょう? 私を怪我させたモニカは、学園中の人気者になれたものねぇ! 誰だっけ、あの……モニカの親友のバカ女! すっかり信じちゃって、笑いを堪えるのが大変だったわ!」
自分を信じてくれた人を、バカ女呼ばわり……
エイリーンに同情するつもりは一切ないけれど、サンドラには人の心なんてわからない。
笑いすぎて涙を浮かべながら人を馬鹿にするサンドラのほうこそ、滑稽に思える。彼女は腕に巻いていた包帯をするすると外し、その包帯を私に向かって投げつけた。
「こんなものに騙されるなんて、ほんと単純。それ、捨てておいて。もう部屋に戻っていいわ」
今日のことをバカにするだけのために、私は呼ばれたようだ。
包帯を拾い、部屋に戻ろうとすると……
「待ちなさい」
義母の声に、身体が硬直する。
「台の上にうつ伏せになりなさい」
うつ伏せになれということは、ムチで打たれることを意味している。
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