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1巻
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第一章 事故です。誤解なんです。許してください。
カナリーは息を殺して、足音を忍ばせて廊下を歩いていた。
向かうのは父の書斎だ。先ほど馬車が出ていったのが窓から見えたので、きっと父は不在だろう。その隙を縫って、書斎からこっそりとインク壺を持ち出すのがカナリーの目的だった。
音を立てないように気をつけて扉を開き、書斎へ侵入する。
たしか、インク壺の予備は棚の中にあったはず。
そっと棚の扉を開きインク壺を取り出したところで、書斎の中に誰かが入ってきた。
「やっと部屋から出てきたわね、カナリー」
「ひっ、お母様!?」
最も見つかりたくなかった人間に声をかけられて、カナリーはビクッと身体を震わせた。
書斎の入り口を封鎖するように仁王立ちしたカナリーの母は、美しい金の髪を一分の隙なく結い上げている。子爵夫人に相応しい格のドレスを着こなし、威圧的な眼差しでカナリーを睨みつけていた。
「な、何のご用でしょうか、お母様」
対するカナリーは、子爵令嬢とは思えないほどみすぼらしい。
母そっくりの金の髪は、まったく手入れされておらずボサボサだ。邪魔にならないよう三つ編みにしているものの、その編み方も非常に雑で左右が揃っていない。
目の下には濃いクマがくっきりと浮かんでおり、服装は使用人と見間違うほど、飾りのない簡素なワンピースだ。
「ティルモ伯爵家で行われた夜会についてです。出席するように言ったわよね?」
「お母様。私は行かないとはっきり断りました。今後も夜会に出るつもりはありません」
この問答はすでに何度も繰り返していた。
夜会の招待状が届くたびに、出席しろと母が怒鳴り、行かないとカナリーが意地を張る。
今回も母が勝手に出席の返事をして、カナリーが夜会をすっぽかしたのだ。
「カナリー、いい加減にしなさい! あなたはもう二十歳なのですよ!? いつまでも部屋にひきこもって魔術の研究ばかりしていないで、結婚相手を見つけなさい!」
母の小言も、もう耳にタコができるほどに聞き飽きている。
たしかに彼女の言う通り、この年で婚約者候補のひとりもいないというのは、貴族令嬢として危機的状況だった。
貴族令嬢の避けられない運命といえば、政略結婚である。同じ年頃のご令嬢が着飾ってパーティに参加し、目の色を変えて条件のいい婚約者を探す中、カナリーは自室から一歩も出ることなく、ボサボサ頭で研究を続けていた。
研究を理由に夜会に出席しないカナリーについたあだ名は、『魔術狂い』だ。
こんな変わり者の令嬢に縁談など来るはずもなく、この先結婚できないことは目に見えていた。
それでも、カナリーは夜会に参加する気は欠片もなかった。
「嫌です、私は結婚なんてしませんっ! 魔術師になって職業婦人として生計を立てるんです!」
「いつまでそんな夢みたいなことを言ってるの! いい加減、目を覚ましなさい!」
母との言い合いは、いつだって平行線だ。
彼女の言い分が正しいのだとカナリーだって理解しているが、それでも魔術の研究をしていたいのだ。
これ以上の話は無駄だと考えたカナリーは、インク壺を抱えて素早く母の脇をすり抜けた。
「あっ、待ちなさい、カナリー!」
背後から母が追ってくる気配がして、カナリーは急いで自室へと滑り込んでドアを閉じる。
すぐさまドンドンと扉を叩く音が聞こえるが、ここまで逃げ込めばもう安心だ。
カナリーの自室の扉には、彼女以外が部屋に入れないように自作の魔法陣が描かれていた。
いつもは安全地帯であるこの部屋から出ないようにしているのだが、部屋に溜め込んでいたインクが切れてしまった。だから、父の書斎にこっそり取りに来たのだ。
「……私は魔術師になるんだから」
カナリーが研究を続けている転移魔術。これが完成すれば、きっと母だってカナリーの実力を認めてくれる。
鳴り続けるドアの音に背を向けて、カナリーは描き途中だった魔法陣へ向き直った。
「やっと! やっと完成したわ!」
カナリーは、描き終わった魔法陣を前に拳を突き上げて喜びの声を上げた。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中には、昼だというのに魔道ランプの明かりが灯っている。
床には羊皮紙や魔石が散乱し、本が乱雑に積み上げられたままだ。
それだけ、カナリーはこの研究に集中していた。
「座標指定、バラチエ家の庭。空間安定の陣と魔力増幅の陣も上手く組み込めたし、魔力の途切れもない。私の理論が正しければ、これで転移魔術が起動するはず」
何度も修正を繰り返した魔法陣の中心に手を当てて、カナリーは深呼吸した。
緊張で速くなる鼓動を抑えて、魔法陣の中心に魔力を流し込む。
前回はこの段階で失敗した。無理に多くの陣を組み込んだ結果、上手く魔力が流れずに途中で術式が中断してしまったのだ。
(やった! 魔法陣が反応してる!)
魔力がぐんぐん吸い取られるのを確認して、カナリーは喜色を露わにした。
だが、成功の手ごたえを感じて嬉しくなったのも束の間、保有魔力の半分が吸い取られたあたりで不安になる。
おかしい。カナリーの予想では、起動にここまでの魔力は必要なかったはず。
失敗かと焦った瞬間、魔法陣が青白い光を放ち、カナリーの身体を呑み込んだ。
魔力の奔流がほとばしり、ドシンとカナリーのお尻に衝撃が走る。
「痛ったぁ……」
痛みに顔を顰めると、カナリーを包み込む光が消えた。
どうやら宙に放り出されたようで、低い高さからではあるが落下してしまったらしい。
涙目になりながら状況を確認すると、見慣れない家具が目に入った。
美しい細工を施されたマホガニーのテーブル。重厚感のある赤いソファーは艶やかな生地が張られていて、ひと目見ただけで高級品だと分かった。
カナリーはベッドの上にいるようで、見上げると立派な天蓋が見える。
資料や魔法陣の羊皮紙が散乱したカナリーの自室に、当然ながらこんな家具は存在しない。
ということは、カナリーは今まったく別の部屋にいるのだ。つまり、転移に成功した。
「や、やった! 成功したのね!」
喜びのまま、カナリーは歓声を上げた。
もちろん、魔法陣は完璧ではなかった。予定なら消費魔力はもっと少なくて済んだはずだし、屋敷の庭へと転移するつもりだったのに別の場所に出てしまった。
けれども、とにかく転移できたことが重要なのだ。座標や魔力といった細かな調整は、これから研究すればいい。
(さっそく部屋に戻って、魔法陣を改良しないと!)
そこまで考えて、カナリーははたと気づく。
そういえば、ここはどこなのだろうか。
あまり入ることのない父親の執務室かと首を捻った瞬間、背後から聞き覚えのない声が耳に届いた。
「言いたいことはそれだけか?」
「え?」
地を這うような低い男の声だった。
驚いて振り返ると、そこには半裸の美丈夫が立っていた。
年の頃は二十過ぎだろうか、初めて見る男だ。
緩やかに波打つ豊かな黒髪。彫刻のように整った美しい顔には、二対の赤い宝石が埋まっている。
――魔物の目。
鋭い眼光に睨まれて、カナリーの心臓が縮みあがった。
血のように赤く光る瞳は魔物と同じものだ。その証拠とばかりに、彼の身体からは目視できそうなほど濃い魔力の気配が漂っている。
いや、そんなことよりも、何よりも。
「ふ、服を着てください!」
顔を真っ赤にしてカナリーは叫んだ。
男はトラウザーズだけを穿いた姿だった。引き締まった筋肉が惜しげもなく晒されていて、異性に免疫のないカナリーには刺激が強すぎる。
けれども男はカナリーの言葉を受けて、呆れた顔をした。
「それはこちらの台詞だ。服を着なければならないのは、君だろう」
「は? ……きゃあああああああ!」
男に促されるままカナリーは自分の身体を見下ろして、特大の悲鳴を上げた。
カナリーは服を着ていなかった。一糸まとわぬ、素っ裸だ。
近くにあったベッドのシーツで咄嗟に身体を隠しながら、カナリーは泣きそうになる。
(なんで、どうして裸なの!?)
顔を真っ赤にしてシーツに包まっていると、扉の向こうでバタバタと走る音が近づいてきた。
「フィデル様! どうされました……か……?」
乱暴に部屋の扉を開け放ったのは、従者らしき男だ。護衛としての役割もあるのか、腰に剣を差している。
その後ろにはメイド服を着た女性もいたが、彼らは一様にカナリーを見て硬直していた。
裸体をシーツで隠したカナリーと、フィデルと呼ばれた半裸の男を見比べて、従者は顔を真っ赤に染める。
「し、失礼いたしました!」
開いたばかりの扉が、バタンと乱暴に閉められる。
なんだかとんでもない誤解をされた気がして、カナリーの頬がひきつった。
同じことをフィデルも感じたのか、彼は大きなため息を吐いてから、椅子にかけられていたシャツとフロックコートを手早く着用する。
なるほど、どうやら彼は着替え中だったらしい。おそらく、この部屋は彼の私室なのだろう。
「あ、あの……ごめんなさい」
気まずい沈黙が続く中、カナリーは恐る恐る謝罪した。
事故とはいえ、カナリーは彼の部屋に全裸で侵入してしまった。その結果、あらぬ誤解を招いたことは先ほどの従者やメイドの反応で明らかだ。
着替えを済ませたフィデルは、クローゼットからコートを取り出して、シーツに包まったカナリーに投げた。
「事情はあとで聞く。逃げるなよ?」
ぶんぶんと頷くカナリーを見てから、フィデルは部屋を出ていく。
逃げるなと言われても、こんな格好で出歩けるはずがない。
無人になった部屋で、与えられたコートを羽織りながら、カナリーは途方に暮れた。
(不法侵入したことをもう一度謝罪して、それから服を借りて……魔法陣を見直さないと)
それにしても、ここはいったいどこなのだろうか。
貴族の屋敷なのは間違いないが、カナリーのいたバラチエ家ではない。
先ほどの男はフィデルと呼ばれていた。だが、ひきこもりで社交をサボっているカナリーは、貴族の顔と名前を覚えていない。
屋敷の場所が分かれば、どのくらい座標がズレてしまったのか割り出せるというのに。
(転移はできたけど、思った場所に行けないのは問題だわ)
座標の指定方法がまずかったのだろうか。それとも、魔力を増幅させる過程に不具合があったのだろうか。転移魔術を完成させるには、まだまだ課題が山積みである。
なんと言っても、全裸で転移してしまったのは重大な問題だ。
魔法陣には転移対象としてカナリーを指定していた。だが、衣服や靴はカナリーではないため対象から外れてしまい、裸の状態で転移することになったのかもしれない。
(でも、魔力のない衣服をどうやって転移対象に含めればいいのかしら。衣服に魔石をつけて、魔法陣に認識させる? ……現実的じゃないわね。難易度は上がるけど、指定した空間ごと転移する仕組みを考えないと)
転移するたびに裸になるのは困る。
身だしなみに無頓着なカナリーだが、羞恥心までは捨てていなかった。
初対面の男に裸を見られてしまったことが、たまらなく恥ずかしい。
(貴族女性が全裸で転移してくるなんて、ありえないわよね。お母様達に知られたら、なんて言われるか……)
男性の部屋へ全裸で忍び込むなんて、とんでもない醜聞である。
ただでさえ結婚に難があったカナリーだが、これがトドメになりそうだ。
実家のお荷物になっている自覚があるカナリーは、先を思ってため息を吐いた。
しばらくすると、メイドらしき女性がドレスを持ってきてくれた。
カナリーが普段着ているよりも質の良いドレスで、思わず恐縮してしまう。
「フィデル様のご命令です」
そう押し切られて、カナリーはおずおずとドレスを借りた。
どこの誰とも知れない相手にこんな良い服を貸し出すなんて、フィデルはいったい何者なのだろうか。高位の貴族に借りを作ったとなれば大変だ。
バラチエ家よりも格下であってほしいと願いながら待っていると、ようやくフィデルが部屋に戻ってきた。
カナリーは座っていたソファーから立ち上がり、フィデルに向かって頭を下げる。
「このたびはご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございません」
「謝罪は結構。謝られたところで、失ったものは戻ってこない」
フィデルの声には苛立ちが含まれていた。どうやら彼はかなり怒っているらしい。
たしかに迷惑をかけた自覚はあるが、失ったものとは何なのだろうか。
不思議に思ってカナリーが顔を上げると、フィデルは経緯を説明し始めた。
「今日は屋敷にランシール子爵令嬢が来ていたのだ。私との婚約話を進めるためにな。彼女と会うべく、私は身だしなみを整えているところだった」
「えっと……それは……」
嫌な予感がして、カナリーの頬がひきつった。
「婚約は破談となった。婚約者と会う日に、恋人を部屋に連れ込むような不実な男との結婚はごめんだそうだ。もちろん、私に恋人などいないし、部屋に女を連れ込んだ覚えもない。だが、彼女と会う前に、自室に全裸の女がいたことは事実だ。私の説明は受け入れられなかった」
「本当に申し訳ございません!」
カナリーは顔を青くして、もう一度頭を下げた。
なんということだろう。カナリーが転移してしまったせいで、彼の婚約が破談になったのだ。
「謝罪は不要だと言ったはずだ。それよりも、どう責任を取ってくれる?」
フィデルの言葉を受けて、カナリーはどうすれば責任を取れるのかと必死で考えを巡らせる。
「ええと……そうだ! ランシール子爵令嬢の誤解を解いてきます。私からもきちんと説明すれば……」
「無駄だ。そもそも、向こうはこの縁談を断る口実を探していたのだ。私の浮気が発覚したのは渡りに船だったのだろうな。いくら誤解だと説明したところで、考えを変えることはないだろう」
つまり、もともと彼は婚約者に嫌われていたらしい。
であれば、カナリーの件がなくても同じ結果になっていたのではないだろうか。
「それじゃあ、破談になったのは私の責任じゃないんじゃ?」
「当人の感情がどうであれ、私は先方の弱みを握っていた。こちらに不手際がなければ、問題なく婚約は結ばれていたはずだ」
どうやら彼は、弱みにつけ込んで婚約を押し通そうとしていたらしい。
フィデルにとっては災難だっただろうが、ランシール子爵令嬢にとってはいいことをしたのかもしれない。
「当人の感情を無視して、無理に婚約するのは良くないと思いますけど」
「つまり、婚約を破談にさせた責任は君にはないと? 今日のことが広まれば、私は婚約を打診しながら別の女を連れ込む不埒者と噂され、さらに結婚が遠ざかることになるだろうが、それに関してはどう思う」
「うぐっ……それは本当に、申し訳ないと思っています……」
貴族にとって、名誉や評判はとても大事なものだ。カナリーだって、魔術狂いという噂のせいで縁談話が一件も来ない。
フィデルの評判に泥を塗ったのであれば、その責任は取るべきなのだろう。
「だけど、いったい私にどうしろって言うんですか」
噂を払拭する力など、カナリーにはない。できることといえば賠償金を支払うくらいだが、カナリーには個人的な財産がなかった。
家に迷惑をかけることを考えるだけで気持ちが沈む。
「その前に、君の身元を明らかにしたい。君はバラチエ家の長女、カナリー・バラチエではないか?」
見事に言い当てられて、カナリーは驚いた。
フィデルとカナリーは初対面だし、家から出ないカナリーの顔が知られているとも思えない。
「どうして分かったんですか?」
「バラチエ子爵と顔立ちが似ている。何より、纏う魔力がそっくりだ」
「もしかして、魔力が見えるんですか?」
カナリーは普通の貴族よりも魔力が多く、その扱いにも長けている。そんな彼女であっても、他人の魔力は薄らと感じ取るしかできない。
血縁関係が分かるほど敏感に魔力を知覚できるなんて、すごい力だ。
「呪われた魔物の力だと蔑むか?」
フィデルは赤い目を細めて、皮肉げに笑った。
カナリーは彼の異質な色彩に注目する。
どんな種類であっても、魔物の目は赤く体毛は黒い。
魔物は呪われているからだとか、血を欲しているから目が赤くなるのだとか、風説は色々あるけれど、カナリーは魔力過多が原因なのだと思っている。
八十年前に魔術師ナルケルが残した論文によると、魔物は普通の獣が魔力暴走によって変異することで生まれるらしい。
多すぎる魔力は制御を失い、獣の知性を破壊して身体のつくりを変質させるのだという。
実際に、髪の色や目の色は魔力の質によって変わる。抜けた髪の毛に別の魔力を注ぎ込むと、色が変わるのはカナリーも実験済みだ。
黒い毛と赤い瞳は、膨大な魔力を持っているからこそ現れる色なのだ。
「どちらかといえば、羨ましいですね」
羨望をこめて、カナリーはフィデルの赤い目を見つめた。
魔力の流れが見えるなら、今よりも研究が捗るに違いない。それに、それだけの魔力があれば、一定期間で起動できる魔法陣の数も増えるだろう。
カナリーの魔力だと、日に十個程度しか魔法陣を扱えないのだ。
「羨ましいだと? 呪われたこの色が?」
「どうせ私は部屋から出ないので、色はどうでもいいです。呪いなんて迷信だって知っていますから。だから純粋に、自由に使える魔力が多いのが羨ましいんです」
カナリーは自分の外見に欠片も頓着がない。服は動きやすい方がいいし、髪だってボサボサで構わない。
金の髪や緑の目に愛着もないので、髪や目の色が変わるだけで魔力量が増えるなら、喜んで黒髪赤眼になるだろう。
カナリーがそう言うと、フィデルは驚いたように目を瞬いた。
「なるほど。バラチエ家の令嬢は、噂通り変人のようだ」
「本人相手に、面と向かってそういうこと言います?」
「変人でなければ痴女か? 男の部屋に裸で侵入するような女だからな」
「ぐっ……あれはちょっとした事故なんです。魔術が失敗して、服を自室に置いたまま転移しちゃったんですよ」
おそらくカナリーの部屋には、脱ぎ捨てられた服が落ちているはずだ。
カナリーの説明に、フィデルはピクリと眉を上げた。
「転移魔術を成功させたというのか? 君が?」
「成功と言うには、お粗末な結果でしたけど」
なにせ、転移場所は指定と違っているし、衣服を置いてきて裸での転移だ。
だけど、一番重要な「転移する」という点はクリアできた。
今回の失敗の原因を解明して研究を続ければ、転移魔術を完成させることができるはずだ。
「そういうことなので、早く家に帰って研究したいんです。あまりお金は持っていないんですが、賠償金はお支払いしますので、条件があるなら言ってください。できれば、バラチエ家を通さずに、私個人で支払える額だとありがたいんですが」
「支払い能力があるのか?」
「……出世払いなら。今はちょっと資金が尽きてますけど、転移魔術が完成すれば稼げるはずです」
魔術の研究にはお金がかかる。
新しい魔術を開発する際、普通は出資者を募るものなのだが、カナリーには出資者がいない。
だから、カナリーは私財やちょっとした魔術を売ったりして研究資金を捻出していた。
けれども、転移魔術が完成すればその心配はなくなるだろう。
転移魔術の汎用性は高い。何日もかかる距離が一瞬で移動できるようになるのだ。商人なんかは喉から手が出るほど欲しい魔術だろう。
「あいにく、金には困っていないので、金銭を請求するつもりはない。君に頼みたいのは別のことだ」
金銭を払わなくていいと聞いて喜びそうになるが、含みのある発言に警戒を強める。
「バラチエ家の長女には婚約者がいないと聞いているが、それは事実か?」
「え? まぁ、はい。噂通り私は変わり者なので、縁談なんて来ません」
「ふむ。ならばちょうどいい。私と結婚してくれ」
「はぁ……え、えええっ!?」
聞き流しかけてから、カナリーは驚きの声を上げる。
「聞き間違いでしょうか。今、なんだかすごいことを言われた気が……」
結婚してくれと、彼はそう言っていなかっただろうか。
「聞き間違いではないな。私は今、君に求婚した」
さらりと肯定されて、カナリーは困惑した。
はたして求婚というのは、こんな風に何の情緒もなく告げられるものなのか。
「理由を聞いても? まさか、ひと目惚れとかじゃないですよね?」
カナリーは自分の容姿を理解している。
研究にかまけて、いっさい手入れをしていないボサボサの髪。化粧っ気のない素朴な顔はいかにも地味で、間違っても美人とは言えない。
カナリーの言葉を聞いて、フィデルはフンと鼻を鳴らした。
「残念ながら、恋愛感情とは別のものだ。私は結婚できれば誰でもいい」
「求婚した相手に向かって、最低な言い草ですよ!?」
あんまりな物言いに、カナリーは思わず突っ込んだ。
ひと目惚れなどと言われても胡散臭いが、誰でもいいと言い切るのも酷い。
もう少し上手く伝えることはできなかったのか。
「貴族の結婚などそんなものだろう。条件が合えば構わない」
「では、ランシール子爵令嬢のことはもういいんですか?」
弱みを握ってまで婚約しようとしていたのではなかったのだろうか。
「ランシール子爵令嬢が脅しやすかっただけで、結婚できるなら誰でも構わなかった。破談になったところに別の弱みを持った子爵令嬢がやってきたのだから、乗り換えても問題はない」
少し顎を上げ、フィデルは尊大な口調で言う。
「その別の弱みを持った子爵令嬢とやらは、もしかしなくても私ですか?」
「婚約を破談にした責任を取ってくれるのだろう?」
脅すように言われて、カナリーは頬をヒクリとひきつらせた。
たしかに、悪いとは思っている。賠償するつもりもある。
だからといって、代わりに結婚するというのはあまりにも突飛すぎる。
「私は結婚には向きませんよ。社交マナーも覚えていませんし、魔術にしか興味ありません。本当に、変人だという噂の通りですよ?」
「この際、結婚できるなら変人でも何でもいい。子爵令嬢だというのが大事なんだ」
「ええと、でも、結婚って家同士の繋がりですし、お父様達が反対するかも」
カナリーは視線を泳がせながら必死に断る口実を探した。
どうやら彼は、本当に結婚できれば誰でもいいらしい。
「ヴァランティス伯爵の申し出を、君の両親は断るだろうか」
「伯爵様だったんですか」
改めてフィデルの身分を聞いて、カナリーはくらくらした。
伯爵令息でもなくご当主らしい。悪評のあるカナリーにとって、良縁どころの話ではない。
カナリーは貴族に詳しくないが、ヴァランティス伯爵家の名前は聞いたことがあった。
カナリーは息を殺して、足音を忍ばせて廊下を歩いていた。
向かうのは父の書斎だ。先ほど馬車が出ていったのが窓から見えたので、きっと父は不在だろう。その隙を縫って、書斎からこっそりとインク壺を持ち出すのがカナリーの目的だった。
音を立てないように気をつけて扉を開き、書斎へ侵入する。
たしか、インク壺の予備は棚の中にあったはず。
そっと棚の扉を開きインク壺を取り出したところで、書斎の中に誰かが入ってきた。
「やっと部屋から出てきたわね、カナリー」
「ひっ、お母様!?」
最も見つかりたくなかった人間に声をかけられて、カナリーはビクッと身体を震わせた。
書斎の入り口を封鎖するように仁王立ちしたカナリーの母は、美しい金の髪を一分の隙なく結い上げている。子爵夫人に相応しい格のドレスを着こなし、威圧的な眼差しでカナリーを睨みつけていた。
「な、何のご用でしょうか、お母様」
対するカナリーは、子爵令嬢とは思えないほどみすぼらしい。
母そっくりの金の髪は、まったく手入れされておらずボサボサだ。邪魔にならないよう三つ編みにしているものの、その編み方も非常に雑で左右が揃っていない。
目の下には濃いクマがくっきりと浮かんでおり、服装は使用人と見間違うほど、飾りのない簡素なワンピースだ。
「ティルモ伯爵家で行われた夜会についてです。出席するように言ったわよね?」
「お母様。私は行かないとはっきり断りました。今後も夜会に出るつもりはありません」
この問答はすでに何度も繰り返していた。
夜会の招待状が届くたびに、出席しろと母が怒鳴り、行かないとカナリーが意地を張る。
今回も母が勝手に出席の返事をして、カナリーが夜会をすっぽかしたのだ。
「カナリー、いい加減にしなさい! あなたはもう二十歳なのですよ!? いつまでも部屋にひきこもって魔術の研究ばかりしていないで、結婚相手を見つけなさい!」
母の小言も、もう耳にタコができるほどに聞き飽きている。
たしかに彼女の言う通り、この年で婚約者候補のひとりもいないというのは、貴族令嬢として危機的状況だった。
貴族令嬢の避けられない運命といえば、政略結婚である。同じ年頃のご令嬢が着飾ってパーティに参加し、目の色を変えて条件のいい婚約者を探す中、カナリーは自室から一歩も出ることなく、ボサボサ頭で研究を続けていた。
研究を理由に夜会に出席しないカナリーについたあだ名は、『魔術狂い』だ。
こんな変わり者の令嬢に縁談など来るはずもなく、この先結婚できないことは目に見えていた。
それでも、カナリーは夜会に参加する気は欠片もなかった。
「嫌です、私は結婚なんてしませんっ! 魔術師になって職業婦人として生計を立てるんです!」
「いつまでそんな夢みたいなことを言ってるの! いい加減、目を覚ましなさい!」
母との言い合いは、いつだって平行線だ。
彼女の言い分が正しいのだとカナリーだって理解しているが、それでも魔術の研究をしていたいのだ。
これ以上の話は無駄だと考えたカナリーは、インク壺を抱えて素早く母の脇をすり抜けた。
「あっ、待ちなさい、カナリー!」
背後から母が追ってくる気配がして、カナリーは急いで自室へと滑り込んでドアを閉じる。
すぐさまドンドンと扉を叩く音が聞こえるが、ここまで逃げ込めばもう安心だ。
カナリーの自室の扉には、彼女以外が部屋に入れないように自作の魔法陣が描かれていた。
いつもは安全地帯であるこの部屋から出ないようにしているのだが、部屋に溜め込んでいたインクが切れてしまった。だから、父の書斎にこっそり取りに来たのだ。
「……私は魔術師になるんだから」
カナリーが研究を続けている転移魔術。これが完成すれば、きっと母だってカナリーの実力を認めてくれる。
鳴り続けるドアの音に背を向けて、カナリーは描き途中だった魔法陣へ向き直った。
「やっと! やっと完成したわ!」
カナリーは、描き終わった魔法陣を前に拳を突き上げて喜びの声を上げた。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中には、昼だというのに魔道ランプの明かりが灯っている。
床には羊皮紙や魔石が散乱し、本が乱雑に積み上げられたままだ。
それだけ、カナリーはこの研究に集中していた。
「座標指定、バラチエ家の庭。空間安定の陣と魔力増幅の陣も上手く組み込めたし、魔力の途切れもない。私の理論が正しければ、これで転移魔術が起動するはず」
何度も修正を繰り返した魔法陣の中心に手を当てて、カナリーは深呼吸した。
緊張で速くなる鼓動を抑えて、魔法陣の中心に魔力を流し込む。
前回はこの段階で失敗した。無理に多くの陣を組み込んだ結果、上手く魔力が流れずに途中で術式が中断してしまったのだ。
(やった! 魔法陣が反応してる!)
魔力がぐんぐん吸い取られるのを確認して、カナリーは喜色を露わにした。
だが、成功の手ごたえを感じて嬉しくなったのも束の間、保有魔力の半分が吸い取られたあたりで不安になる。
おかしい。カナリーの予想では、起動にここまでの魔力は必要なかったはず。
失敗かと焦った瞬間、魔法陣が青白い光を放ち、カナリーの身体を呑み込んだ。
魔力の奔流がほとばしり、ドシンとカナリーのお尻に衝撃が走る。
「痛ったぁ……」
痛みに顔を顰めると、カナリーを包み込む光が消えた。
どうやら宙に放り出されたようで、低い高さからではあるが落下してしまったらしい。
涙目になりながら状況を確認すると、見慣れない家具が目に入った。
美しい細工を施されたマホガニーのテーブル。重厚感のある赤いソファーは艶やかな生地が張られていて、ひと目見ただけで高級品だと分かった。
カナリーはベッドの上にいるようで、見上げると立派な天蓋が見える。
資料や魔法陣の羊皮紙が散乱したカナリーの自室に、当然ながらこんな家具は存在しない。
ということは、カナリーは今まったく別の部屋にいるのだ。つまり、転移に成功した。
「や、やった! 成功したのね!」
喜びのまま、カナリーは歓声を上げた。
もちろん、魔法陣は完璧ではなかった。予定なら消費魔力はもっと少なくて済んだはずだし、屋敷の庭へと転移するつもりだったのに別の場所に出てしまった。
けれども、とにかく転移できたことが重要なのだ。座標や魔力といった細かな調整は、これから研究すればいい。
(さっそく部屋に戻って、魔法陣を改良しないと!)
そこまで考えて、カナリーははたと気づく。
そういえば、ここはどこなのだろうか。
あまり入ることのない父親の執務室かと首を捻った瞬間、背後から聞き覚えのない声が耳に届いた。
「言いたいことはそれだけか?」
「え?」
地を這うような低い男の声だった。
驚いて振り返ると、そこには半裸の美丈夫が立っていた。
年の頃は二十過ぎだろうか、初めて見る男だ。
緩やかに波打つ豊かな黒髪。彫刻のように整った美しい顔には、二対の赤い宝石が埋まっている。
――魔物の目。
鋭い眼光に睨まれて、カナリーの心臓が縮みあがった。
血のように赤く光る瞳は魔物と同じものだ。その証拠とばかりに、彼の身体からは目視できそうなほど濃い魔力の気配が漂っている。
いや、そんなことよりも、何よりも。
「ふ、服を着てください!」
顔を真っ赤にしてカナリーは叫んだ。
男はトラウザーズだけを穿いた姿だった。引き締まった筋肉が惜しげもなく晒されていて、異性に免疫のないカナリーには刺激が強すぎる。
けれども男はカナリーの言葉を受けて、呆れた顔をした。
「それはこちらの台詞だ。服を着なければならないのは、君だろう」
「は? ……きゃあああああああ!」
男に促されるままカナリーは自分の身体を見下ろして、特大の悲鳴を上げた。
カナリーは服を着ていなかった。一糸まとわぬ、素っ裸だ。
近くにあったベッドのシーツで咄嗟に身体を隠しながら、カナリーは泣きそうになる。
(なんで、どうして裸なの!?)
顔を真っ赤にしてシーツに包まっていると、扉の向こうでバタバタと走る音が近づいてきた。
「フィデル様! どうされました……か……?」
乱暴に部屋の扉を開け放ったのは、従者らしき男だ。護衛としての役割もあるのか、腰に剣を差している。
その後ろにはメイド服を着た女性もいたが、彼らは一様にカナリーを見て硬直していた。
裸体をシーツで隠したカナリーと、フィデルと呼ばれた半裸の男を見比べて、従者は顔を真っ赤に染める。
「し、失礼いたしました!」
開いたばかりの扉が、バタンと乱暴に閉められる。
なんだかとんでもない誤解をされた気がして、カナリーの頬がひきつった。
同じことをフィデルも感じたのか、彼は大きなため息を吐いてから、椅子にかけられていたシャツとフロックコートを手早く着用する。
なるほど、どうやら彼は着替え中だったらしい。おそらく、この部屋は彼の私室なのだろう。
「あ、あの……ごめんなさい」
気まずい沈黙が続く中、カナリーは恐る恐る謝罪した。
事故とはいえ、カナリーは彼の部屋に全裸で侵入してしまった。その結果、あらぬ誤解を招いたことは先ほどの従者やメイドの反応で明らかだ。
着替えを済ませたフィデルは、クローゼットからコートを取り出して、シーツに包まったカナリーに投げた。
「事情はあとで聞く。逃げるなよ?」
ぶんぶんと頷くカナリーを見てから、フィデルは部屋を出ていく。
逃げるなと言われても、こんな格好で出歩けるはずがない。
無人になった部屋で、与えられたコートを羽織りながら、カナリーは途方に暮れた。
(不法侵入したことをもう一度謝罪して、それから服を借りて……魔法陣を見直さないと)
それにしても、ここはいったいどこなのだろうか。
貴族の屋敷なのは間違いないが、カナリーのいたバラチエ家ではない。
先ほどの男はフィデルと呼ばれていた。だが、ひきこもりで社交をサボっているカナリーは、貴族の顔と名前を覚えていない。
屋敷の場所が分かれば、どのくらい座標がズレてしまったのか割り出せるというのに。
(転移はできたけど、思った場所に行けないのは問題だわ)
座標の指定方法がまずかったのだろうか。それとも、魔力を増幅させる過程に不具合があったのだろうか。転移魔術を完成させるには、まだまだ課題が山積みである。
なんと言っても、全裸で転移してしまったのは重大な問題だ。
魔法陣には転移対象としてカナリーを指定していた。だが、衣服や靴はカナリーではないため対象から外れてしまい、裸の状態で転移することになったのかもしれない。
(でも、魔力のない衣服をどうやって転移対象に含めればいいのかしら。衣服に魔石をつけて、魔法陣に認識させる? ……現実的じゃないわね。難易度は上がるけど、指定した空間ごと転移する仕組みを考えないと)
転移するたびに裸になるのは困る。
身だしなみに無頓着なカナリーだが、羞恥心までは捨てていなかった。
初対面の男に裸を見られてしまったことが、たまらなく恥ずかしい。
(貴族女性が全裸で転移してくるなんて、ありえないわよね。お母様達に知られたら、なんて言われるか……)
男性の部屋へ全裸で忍び込むなんて、とんでもない醜聞である。
ただでさえ結婚に難があったカナリーだが、これがトドメになりそうだ。
実家のお荷物になっている自覚があるカナリーは、先を思ってため息を吐いた。
しばらくすると、メイドらしき女性がドレスを持ってきてくれた。
カナリーが普段着ているよりも質の良いドレスで、思わず恐縮してしまう。
「フィデル様のご命令です」
そう押し切られて、カナリーはおずおずとドレスを借りた。
どこの誰とも知れない相手にこんな良い服を貸し出すなんて、フィデルはいったい何者なのだろうか。高位の貴族に借りを作ったとなれば大変だ。
バラチエ家よりも格下であってほしいと願いながら待っていると、ようやくフィデルが部屋に戻ってきた。
カナリーは座っていたソファーから立ち上がり、フィデルに向かって頭を下げる。
「このたびはご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございません」
「謝罪は結構。謝られたところで、失ったものは戻ってこない」
フィデルの声には苛立ちが含まれていた。どうやら彼はかなり怒っているらしい。
たしかに迷惑をかけた自覚はあるが、失ったものとは何なのだろうか。
不思議に思ってカナリーが顔を上げると、フィデルは経緯を説明し始めた。
「今日は屋敷にランシール子爵令嬢が来ていたのだ。私との婚約話を進めるためにな。彼女と会うべく、私は身だしなみを整えているところだった」
「えっと……それは……」
嫌な予感がして、カナリーの頬がひきつった。
「婚約は破談となった。婚約者と会う日に、恋人を部屋に連れ込むような不実な男との結婚はごめんだそうだ。もちろん、私に恋人などいないし、部屋に女を連れ込んだ覚えもない。だが、彼女と会う前に、自室に全裸の女がいたことは事実だ。私の説明は受け入れられなかった」
「本当に申し訳ございません!」
カナリーは顔を青くして、もう一度頭を下げた。
なんということだろう。カナリーが転移してしまったせいで、彼の婚約が破談になったのだ。
「謝罪は不要だと言ったはずだ。それよりも、どう責任を取ってくれる?」
フィデルの言葉を受けて、カナリーはどうすれば責任を取れるのかと必死で考えを巡らせる。
「ええと……そうだ! ランシール子爵令嬢の誤解を解いてきます。私からもきちんと説明すれば……」
「無駄だ。そもそも、向こうはこの縁談を断る口実を探していたのだ。私の浮気が発覚したのは渡りに船だったのだろうな。いくら誤解だと説明したところで、考えを変えることはないだろう」
つまり、もともと彼は婚約者に嫌われていたらしい。
であれば、カナリーの件がなくても同じ結果になっていたのではないだろうか。
「それじゃあ、破談になったのは私の責任じゃないんじゃ?」
「当人の感情がどうであれ、私は先方の弱みを握っていた。こちらに不手際がなければ、問題なく婚約は結ばれていたはずだ」
どうやら彼は、弱みにつけ込んで婚約を押し通そうとしていたらしい。
フィデルにとっては災難だっただろうが、ランシール子爵令嬢にとってはいいことをしたのかもしれない。
「当人の感情を無視して、無理に婚約するのは良くないと思いますけど」
「つまり、婚約を破談にさせた責任は君にはないと? 今日のことが広まれば、私は婚約を打診しながら別の女を連れ込む不埒者と噂され、さらに結婚が遠ざかることになるだろうが、それに関してはどう思う」
「うぐっ……それは本当に、申し訳ないと思っています……」
貴族にとって、名誉や評判はとても大事なものだ。カナリーだって、魔術狂いという噂のせいで縁談話が一件も来ない。
フィデルの評判に泥を塗ったのであれば、その責任は取るべきなのだろう。
「だけど、いったい私にどうしろって言うんですか」
噂を払拭する力など、カナリーにはない。できることといえば賠償金を支払うくらいだが、カナリーには個人的な財産がなかった。
家に迷惑をかけることを考えるだけで気持ちが沈む。
「その前に、君の身元を明らかにしたい。君はバラチエ家の長女、カナリー・バラチエではないか?」
見事に言い当てられて、カナリーは驚いた。
フィデルとカナリーは初対面だし、家から出ないカナリーの顔が知られているとも思えない。
「どうして分かったんですか?」
「バラチエ子爵と顔立ちが似ている。何より、纏う魔力がそっくりだ」
「もしかして、魔力が見えるんですか?」
カナリーは普通の貴族よりも魔力が多く、その扱いにも長けている。そんな彼女であっても、他人の魔力は薄らと感じ取るしかできない。
血縁関係が分かるほど敏感に魔力を知覚できるなんて、すごい力だ。
「呪われた魔物の力だと蔑むか?」
フィデルは赤い目を細めて、皮肉げに笑った。
カナリーは彼の異質な色彩に注目する。
どんな種類であっても、魔物の目は赤く体毛は黒い。
魔物は呪われているからだとか、血を欲しているから目が赤くなるのだとか、風説は色々あるけれど、カナリーは魔力過多が原因なのだと思っている。
八十年前に魔術師ナルケルが残した論文によると、魔物は普通の獣が魔力暴走によって変異することで生まれるらしい。
多すぎる魔力は制御を失い、獣の知性を破壊して身体のつくりを変質させるのだという。
実際に、髪の色や目の色は魔力の質によって変わる。抜けた髪の毛に別の魔力を注ぎ込むと、色が変わるのはカナリーも実験済みだ。
黒い毛と赤い瞳は、膨大な魔力を持っているからこそ現れる色なのだ。
「どちらかといえば、羨ましいですね」
羨望をこめて、カナリーはフィデルの赤い目を見つめた。
魔力の流れが見えるなら、今よりも研究が捗るに違いない。それに、それだけの魔力があれば、一定期間で起動できる魔法陣の数も増えるだろう。
カナリーの魔力だと、日に十個程度しか魔法陣を扱えないのだ。
「羨ましいだと? 呪われたこの色が?」
「どうせ私は部屋から出ないので、色はどうでもいいです。呪いなんて迷信だって知っていますから。だから純粋に、自由に使える魔力が多いのが羨ましいんです」
カナリーは自分の外見に欠片も頓着がない。服は動きやすい方がいいし、髪だってボサボサで構わない。
金の髪や緑の目に愛着もないので、髪や目の色が変わるだけで魔力量が増えるなら、喜んで黒髪赤眼になるだろう。
カナリーがそう言うと、フィデルは驚いたように目を瞬いた。
「なるほど。バラチエ家の令嬢は、噂通り変人のようだ」
「本人相手に、面と向かってそういうこと言います?」
「変人でなければ痴女か? 男の部屋に裸で侵入するような女だからな」
「ぐっ……あれはちょっとした事故なんです。魔術が失敗して、服を自室に置いたまま転移しちゃったんですよ」
おそらくカナリーの部屋には、脱ぎ捨てられた服が落ちているはずだ。
カナリーの説明に、フィデルはピクリと眉を上げた。
「転移魔術を成功させたというのか? 君が?」
「成功と言うには、お粗末な結果でしたけど」
なにせ、転移場所は指定と違っているし、衣服を置いてきて裸での転移だ。
だけど、一番重要な「転移する」という点はクリアできた。
今回の失敗の原因を解明して研究を続ければ、転移魔術を完成させることができるはずだ。
「そういうことなので、早く家に帰って研究したいんです。あまりお金は持っていないんですが、賠償金はお支払いしますので、条件があるなら言ってください。できれば、バラチエ家を通さずに、私個人で支払える額だとありがたいんですが」
「支払い能力があるのか?」
「……出世払いなら。今はちょっと資金が尽きてますけど、転移魔術が完成すれば稼げるはずです」
魔術の研究にはお金がかかる。
新しい魔術を開発する際、普通は出資者を募るものなのだが、カナリーには出資者がいない。
だから、カナリーは私財やちょっとした魔術を売ったりして研究資金を捻出していた。
けれども、転移魔術が完成すればその心配はなくなるだろう。
転移魔術の汎用性は高い。何日もかかる距離が一瞬で移動できるようになるのだ。商人なんかは喉から手が出るほど欲しい魔術だろう。
「あいにく、金には困っていないので、金銭を請求するつもりはない。君に頼みたいのは別のことだ」
金銭を払わなくていいと聞いて喜びそうになるが、含みのある発言に警戒を強める。
「バラチエ家の長女には婚約者がいないと聞いているが、それは事実か?」
「え? まぁ、はい。噂通り私は変わり者なので、縁談なんて来ません」
「ふむ。ならばちょうどいい。私と結婚してくれ」
「はぁ……え、えええっ!?」
聞き流しかけてから、カナリーは驚きの声を上げる。
「聞き間違いでしょうか。今、なんだかすごいことを言われた気が……」
結婚してくれと、彼はそう言っていなかっただろうか。
「聞き間違いではないな。私は今、君に求婚した」
さらりと肯定されて、カナリーは困惑した。
はたして求婚というのは、こんな風に何の情緒もなく告げられるものなのか。
「理由を聞いても? まさか、ひと目惚れとかじゃないですよね?」
カナリーは自分の容姿を理解している。
研究にかまけて、いっさい手入れをしていないボサボサの髪。化粧っ気のない素朴な顔はいかにも地味で、間違っても美人とは言えない。
カナリーの言葉を聞いて、フィデルはフンと鼻を鳴らした。
「残念ながら、恋愛感情とは別のものだ。私は結婚できれば誰でもいい」
「求婚した相手に向かって、最低な言い草ですよ!?」
あんまりな物言いに、カナリーは思わず突っ込んだ。
ひと目惚れなどと言われても胡散臭いが、誰でもいいと言い切るのも酷い。
もう少し上手く伝えることはできなかったのか。
「貴族の結婚などそんなものだろう。条件が合えば構わない」
「では、ランシール子爵令嬢のことはもういいんですか?」
弱みを握ってまで婚約しようとしていたのではなかったのだろうか。
「ランシール子爵令嬢が脅しやすかっただけで、結婚できるなら誰でも構わなかった。破談になったところに別の弱みを持った子爵令嬢がやってきたのだから、乗り換えても問題はない」
少し顎を上げ、フィデルは尊大な口調で言う。
「その別の弱みを持った子爵令嬢とやらは、もしかしなくても私ですか?」
「婚約を破談にした責任を取ってくれるのだろう?」
脅すように言われて、カナリーは頬をヒクリとひきつらせた。
たしかに、悪いとは思っている。賠償するつもりもある。
だからといって、代わりに結婚するというのはあまりにも突飛すぎる。
「私は結婚には向きませんよ。社交マナーも覚えていませんし、魔術にしか興味ありません。本当に、変人だという噂の通りですよ?」
「この際、結婚できるなら変人でも何でもいい。子爵令嬢だというのが大事なんだ」
「ええと、でも、結婚って家同士の繋がりですし、お父様達が反対するかも」
カナリーは視線を泳がせながら必死に断る口実を探した。
どうやら彼は、本当に結婚できれば誰でもいいらしい。
「ヴァランティス伯爵の申し出を、君の両親は断るだろうか」
「伯爵様だったんですか」
改めてフィデルの身分を聞いて、カナリーはくらくらした。
伯爵令息でもなくご当主らしい。悪評のあるカナリーにとって、良縁どころの話ではない。
カナリーは貴族に詳しくないが、ヴァランティス伯爵家の名前は聞いたことがあった。
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