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1巻
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――目覚めたら、旦那様から離縁されていた。
そんなことってある?
「可哀想なサーラ! 離縁されて行き場がないなんて!」
十年前。
結婚式当日、何者かの罠によって氷の中に閉じ込められた可哀想な令嬢がいた。
その令嬢とは、アールグレーン公爵家の令嬢サーラ。
私のことである。
大勢の令嬢の中から王子様の妃に選ばれて、『王子様と結婚して末永く幸せに暮らしました――めでたし、めでたし』で終わるはずだった結婚。
それが、氷の中に閉じ込められること十年。
目覚めた私を待っていたのは、厳しい現実だった。
実家の両親は氷の中から娘が救われたのに一度も会いに来ないばかりか、結婚に失敗した私を厄介者扱いし、帰ってくるなと言う。
どこにも行くあてはなく、所持金はゼロ。どころか十年前に王宮で使っていたものもすべて、まるっとなくなっていた。
金なし、宿なし、裸同然の無一文令嬢。
可哀想と言われるのも仕方のない状況である。
「悪く思わないでね。サーラが氷の中に閉じ込められた後、わたくしがルーカス様の妃に選ばれたの」
私の代わりに第一王子の妃に納まったソニヤは、目を潤ませて涙をぬぐうふりをした。
十年経ち、私の夫だったルーカス様は新しい妻を迎えていた。
それが目の前にいる女性、ノルデン公爵家の令嬢ソニヤだ。
ソニヤは王立魔術学院で、私やルーカス様と同学年だっただけでなく、幼い頃から私と共に王子の遊び相手として王宮に出入りしていた幼馴染み。
昔から優秀で美人と評判が高かったソニヤだけど、十年後もやっぱり美人で、腰まで伸びた銀髪はよく手入れされており、紫色の瞳はアメジストのようだ。妃となって不動の地位を手にしたからか、美しさに磨きがかかっていた。
一方、私の容姿は十八歳のままで、地味な亜麻色の髪に青い瞳、小さめ……控えめな胸。
なにより決定的な違いは、私が魔力を持たないということ。
『ヴィフレア王国は魔術師と魔道具師の国』。
そう称されるだけあって、王族と貴族なら誰もが魔力を持つのが普通で、特に王族と四大公爵家の血筋は強い魔力に恵まれることが多い。
だが、私には魔力がない。
四大公爵家の一つアールグレーン公爵家の娘でありながら【魔力なし】として生まれたのだ。両親は魔力のない娘に、魔術師ではなく魔道具師を目指すよう命じた。魔道具を作るのに魔力は必ずしも必要ではないからだ。
とはいえ、魔道具師だって才能の世界。私は王立魔術学院に入学したものの、魔道具師としての成績は平凡で、特別な力にも目覚めず、家族から疎まれ、できそこないと呼ばれていた。
だから、どれだけ馬鹿にされても黙っているしかなかった。【魔力なし】で落ちこぼれの私は――
「サーラが氷に閉じ込められて悲しんでいたルーカス様をお慰めしたのは、わたくしよ。結果的にあなたから妻の座を奪ってしまったけど、許してくれるわよね?」
あたかも自らの献身によって傷心のルーカス様を癒やし、妻に選ばれたように語ってるけど、私は知っている。
結婚前から、二人が付き合っていたことを。
終始、勝ち誇った笑みを浮かべている彼女は、私に対して悪いなんてこれっぽっちも思っていない。
「もちろんだよ。ソニヤが気に病む必要はない」
私が返事をするところのはずが、なぜかルーカス様が答える。
ルーカス様にかばわれたソニヤは満足げな表情を浮かべ、手にした扇子でゆっくりあおいだ。
「悪いのはすべて僕だ!」
――ルーカス様、本当にそう思ってますか?
額に手をあてた苦悩のポーズが、なんとも芝居がかっている。
私の元夫、ルーカス様は二十八歳になっても十八歳の頃とあまり変わらず、金髪碧眼、見た目だけはさわやかで、まさに王子様という容姿。性格はともかく見た目だけは無駄にいい。
「サーラ。僕は君を愛していたよ!」
突然、愛の告白が始まった。
ルーカス様の隣にいたソニヤの顔が嫉妬でゆがむ。彼女の恐ろしい本性が垣間見え、背筋が寒くなった。殺意を感じたのは、きっと気のせいじゃない。
「でも、僕は第一王子だ!」
ここが舞台なら、ルーカス様は悲劇のヒーロー。
声を張り上げて言ったセリフは棒読みで、悲しげに目を伏せる姿がわざとらしい。
「愛だけでは、君を待つことはできなかった!」
自分に酔った演技が続く――これ、いつまで眺めていればいいの?
おかしな演技でも、それなりに見えるのは、やはり容姿がいいからだ。
童顔で少しタレ目の甘めフェイス。自分の魅力をフルに使い、キラキラしたオーラを放ちながら前髪を手で払う。
本物の王子だけあって、おおげさな仕草も違和感がない。
「君が氷に閉じ込められていた期間は十年だ。十年は長すぎる……!」
待てなかったと言うけれど、ルーカス様とソニヤの間には十歳の子供がいる。年齢を考えたら、私との結婚前から関係があったことは明白だ。
でも、ルーカス様とソニヤの堂々とした態度を見る限り、結婚前の浮気について、今まで誰も非難しなかったらしい。
魔力がない私より、優秀なソニヤのほうが妃にふさわしいと、みんなが思っていたからだろう。
私がそんなことを考えている間もルーカス様の芝居は続いていた。
「僕が愛したサーラ! いつも僕に逆らわなかった優しい君なら、ソニヤを妻に選んだ僕を許してくれるよね?」
冷たい目でルーカス様とソニヤを見る。
二人は私がずっと無言だったことにやっと気づいたらしく、静かになった。
「サーラ?」
ルーカス様が私の様子をうかがう。芝居が終わったのか、おとなしく椅子に座った。
私が呼ばれたのは王宮にある広間の一つ。
ヴィフレア王家は裕福だ。
ルーカス様が座る椅子は見事な獅子が彫られた美術品クラスのもので、広間の天井には氷柱のような飾りがついたシャンデリアが輝いている。
金糸の刺繍が入った赤いカーテン、大理石の床もゴージャスだった。
舞台としては、最高の場所だったのではないだろうか。
「なにか言ったらどうだ?」
「氷に閉じ込められていたせいで、口がきけなくなったのかしら?」
高みから私を見下ろし、立派な椅子に座る二人とは対照的に、私は立たされたままで、法廷に呼ばれた罪人のような扱いを受けている。
ルーカス様とソニヤは、私が嫉妬の末に、なにかしでかすとでも思っているのか、絶対に近寄らない。
――これが十年後の世界。
年齢を重ね、今では私より十歳年上の二十八歳。十年経っても二人の高慢な性格は変わらず、私を馬鹿にしてからかう。
大人になっても変わらなかった二人にがっかりした。
でも、私はまだ十八歳。夫に離縁されたけれど、人生終わりと言うには早すぎる年齢だ。
私には私の人生がある。
自分らしい人生を歩むため、私はここから一歩踏み出して、私を馬鹿にしてきた人たちと別れることから始めたい――
「十年ぶりに再会した皆様、ごきげんよう」
膝を曲げ、スカートの裾をつまみ、淑女らしい挨拶をする。
「そして、さようなら。妃でなくなった私が王宮にいる理由はございません。私は王宮から出ていきます」
別れを告げた私にルーカス様は驚き――そして、大笑いした。
「王宮を出てどこへ行くと言うんだ? 魔力すら持たない君が!」
広間にルーカス様の笑い声が反響し、不快なことこの上ない。
私のムッとした顔に気づかず、彼は笑いながら言った。
「サーラ。安心してくれ。僕は君を追い出したりしないよ! だから、感謝してほしい。僕という優しい元夫にね?」
さっきの芝居の続きなのか、ルーカス様はノリノリで両手を広げ、寛大で優しい元夫を演じる。
私は、それを冷めた目で眺めていた。
――まさか、自分が優しい夫だなんて、本気で言ってませんよね?
これが演技じゃなくて、本気で言っているのだとしたら、どうしよう。
「とりあえず、侍女でどうかな?」
「まあ、ルーカス様。名案ですこと!」
ルーカス様の提案を聞いて、ソニヤは嬉しそうに手を叩いた。
「そうだろう? じゃあ、サーラ……」
「お断りします」
考えることなくルーカス様の提案を一蹴すると、二人は驚いていた。
――むしろ、驚くあなたたちに私はびっくりですよ。
きっと私が素直に『はい』とうなずいて、言いなりになると思っていたのだろう。
「気弱な君にしては強気な態度だね。でも、王宮を出てどうやって生活していくつもりなのかな?」
私が一人で生きていくのは不可能だと言いたいらしい。
その問いは予想していたから、私の答えは決まっていた。
「ご心配なく。手に職を持ち、自立します」
「落ちこぼれの君が手に職? 無理だよ、無理! 現実を見つめたほうがいいよ?」
ルーカス様は私を落ちこぼれ呼ばわりしたあげく、二回も無理だと言った。
しかも、笑いをこらえるので精一杯らしく、口元に手をあてている。
「実家のアールグレーン公爵家は、君の兄が結婚して妻子がいる。役立たずの出戻り娘がいても邪魔なだけだ」
「実家へ戻るつもりはありません」
「それなら、なおさら僕がいないと生きていけないはずだろう」
私のことを愛していなかったくせに、なぜか今になって引き留めてくるルーカス様。
元妻には『自分を忘れず、永遠に愛していてほしいのさ』というところだろうか。
――だが断る。
「ご心配には及びません」
結婚前に浮気をし、子供を作って裏切っていた夫。妻が氷に閉じ込められても悲しむどころか、すぐに浮気相手と再婚した男である。
なぜそんな男に養ってもらわなくてはならないのか。
召し使い、もしくは都合のいい愛人?
お・こ・と・わ・りです!
「私には魔道具師としての技術と知識があります」
不敵な笑みを浮かべる私を見て、ルーカス様とソニヤが静かになった。
彼らの心の声が聞こえるようだ。
『以前の気弱なサーラと違う?』
――大正解。
この体の中にいる魂は、二人が知っているサーラではない。
私の前世は柴田桜衣という名の日本人女性で、年齢は二十六歳。
ルーカス様に逆らわず、ソニヤに馬鹿にされても我慢してきたサーラじゃない。
サーラに代わり、私があなたたちにハッキリ言ってやりますよ!
「王宮を出て、魔道具師として自立します!」
私は裏切り者二人の前で、一人で生きていくことを宣言したのだった。
第一章
私の転生前――柴田桜衣としての生涯は、入退院を繰り返し、健康な人を羨む毎日だった。
病室の窓から眺めた飛行機雲と青い空。それが、あちらの世界で見た最後の風景となった。
そこから、長い夢を見た。
ヨーロッパのような町並み、魔法や魔術があって、獣人がいる不思議な世界。
自分の見ている夢が誰かの記憶だと気づいたのは、夢の中の私が、サーラと呼ばれる少女の背中にくっついていたからだ。
サーラの金魚のフン、もしくは背後霊。
世界を傍観するだけの私は、サーラに悲しいことや辛いことがあっても、励ましの言葉一つかけられない――
「できそこないの娘が、ようやく我がアールグレーン公爵家の役に立ってくれた」
「なにかの間違いでしょうけど、落ちこぼれの娘を選んでくれたルーカス様に感謝しなくてはなりませんわね」
おめでたいはずの結婚式当日、両親からサーラにかけられた言葉はこれだけだった。
他人の人生だとわかっていても、不快な気持ちになった。
サーラは生まれてから、ずっとこんな扱いを受けてきた。今日くらい優しい言葉をかけてくれてもいいと思う。
だって、今日は結婚式なのだ。
――嫁ぐ娘に両親がかける言葉がそれ? せめておめでとうくらい言ってください!
あまりにひどい両親に、自分が幽霊のような存在であることも忘れ、怒りながら文句を言っていた。
もちろん、向こう側に私の声は届かない。
サーラの人生を眺めている間、何度もツッコミを入れたり、文句を言って暴れたりしても無駄だったから、わかっている。
でも、言わずにはいられなかった。
――サーラ。妃になったら覚えてらっしゃい、くらい言ってもいいんですよ?
悔しいことに、サーラにも私の声は聞こえない。
サーラは泣くのをこらえ、震えていた。
初めて両親から褒めてもらえると思って、サーラが今日という日を心待ちにしていたことを私は知っている。
サーラが幼い頃から、両親はずっとこの調子で彼女を馬鹿にしてきた。
両親以外の家族とも、関わりが薄い。次期公爵である兄は他人同然で、彼は結婚式に出席しただけで、サーラに会いに来ることもなかった。
身内の冷たい態度に傷ついたサーラは、ウェディングドレスのまま、愛する夫を捜し、王宮内を歩く。
自分を選んでくれたルーカス様なら、優しい言葉をかけてくれると信じて。
――大丈夫よ。ルーカス様はサーラを愛してるわ。きっとサーラを慰めてくれる。
幽霊みたいな私だけど、胸の前で両手を握りしめ、サーラの幸せを神様に願わずにはいられなかった。
「ルーカス様……」
サーラの小さな声が、ルーカス様の名前を呼んだ。
王宮の庭園に影を見つけて、サーラの足がぴたりと止まる。
視線の先にある人影は一人ではなく、二人。
そこには、さっき愛を誓ったばかりの夫のルーカス様がいた――美人で優秀だと評判の令嬢ソニヤと共に。
そして、二人は秘密の話をしていた。
「あなたの子供よ」
「僕の子供? 本当に?」
「身に覚えがあるでしょう? 忘れたなんて言わせなくてよ」
サーラの目から涙がこぼれた。
私も泣いていた。
――子供って……! こんなの、ひどすぎる!
ずっと周囲から馬鹿にされ、冷たい態度にも耐えてきたサーラだけど、この仕打ちには我慢できず、花嫁のために用意された控え室へ逃げるようにして走り去った。
控え室に閉じこもったサーラは、ずっと一人で泣いていた。
ただの傍観者とはいえ、サーラに起こる出来事をずっと見てきた私には、他人事とは思えなかった。
けれど胸を痛めているのは私だけで、彼女を慰める人は誰もいない。
【魔力なし】と見下されてきたサーラは自然と人付き合いが苦手になり、おとなしく気弱な令嬢に成長した。
お祝いに訪れてくれる友人はいない。サーラは孤独だった。
無力な自分を悔しく思っていると、サーラが顔を上げ、なにかを眺めていることに気づいた。
涙で濡れた瞳が見ていたのは、銀製の宝石箱だった。
――宝石箱? あんな宝石箱、鏡台の上に置いてあった?
ウェディングドレスを着たサーラが控え室を出ていく時はなかったような気がする。
サーラは宝石箱が気になるのか、手にとって真剣な顔で見つめた。
それは、繊細な銀細工が施されていた。複雑な模様が箱に刻まれており、美術館に飾ってあってもおかしくないくらい美しい。
――こんな立派な宝石箱、一度見たら忘れないわ。
やっぱり、式が始まる前にはなかったと思う。
「これが結婚した私への贈り物……」
泣き笑いのような表情を浮かべたサーラの顔が鏡に映る。
背後には、花やキャンディ、クッキーやアクセサリーなどの贈り物がたくさんあったけれど、そちらには目もくれない。
控え室に置いてある贈り物の数々は、この機会にサーラの父であるアールグレーン公爵に名前を覚えてもらいたい貴族や商人たちがこぞって贈ったものだ。
そんな贈り物の中で、この銀製の宝石箱は異彩を放ち、他と違って見えた。
――サーラはこの宝石箱になにを見出したの?
宝石箱には涙の形をした青い石がはめられ、どこか寂しさと不安を感じさせる。
お祝いには、不向きな気がした。
私にはなぜこんなものが贈られたのか、わからなかった。
――もしかして、この青い石って……魔石じゃない?
魔石とは宝石のような見た目をした石で、魔力を含む特別なアイテムだ。
私が違う世界の人間で、鑑定能力が備わっていないせいか、残念ながら魔石と宝石の区別はつかない。
でも、王立魔術学院時代、サーラと一緒に授業を聞いていたから、鑑定能力はなくても知識はある。
こちらの世界では、魔石が使われているものすべてを魔道具と呼ぶ。
魔道具はアクセサリーとして身につけることが多く、護符として身の守りや魔力増幅のために使用するのが一般的だ。他には傭兵たちの武器や防具、生活面では水の浄水装置やランプの明かりといった生活必需品も、そのほとんどが魔石を利用した魔道具なのだ。
でも、この宝石箱が今まで見た魔道具と違う種類のものだということは、私でもわかる。
魔道具師を目指し、王立魔術学院で学んできたのだから、サーラも気づいているはずだ。
この宝石箱は、危険なものかもしれないと。
白い手袋をはめたサーラの手が宝石箱の蓋に触れる。
「結婚したら、なにかが変わるんじゃないかって、思ってた……。でも、なにも変わらなかったわ……」
そう言ったサーラの目から、大粒の涙が落ちる。
――サーラ、待って! 開けちゃ駄目!
嫌な予感がして、サーラを止めようとしても、私の手はサーラの体をすり抜ける。
しょせん、私は傍観者でしかない。
サーラを止められなかった。
宝石箱はサーラの手によって開かれ、魔術が発動する。
――やっぱり、魔術だった!
蓋が完全に外れた瞬間、箱の中から冷たい風が吹いた。
宝石箱を持っていたサーラの左手が、一瞬で凍りつく。青い氷に包まれたサーラの手から宝石箱が落ち、床に細工部分がぶつかって割れる音がする。
氷の魔術はこぼれた涙も凍らせ、純白のウェディングドレスを覆っていく。靴の爪先から氷が這い上がっても、サーラは悲鳴を上げなかった。
私にはわかる。
サーラは生きることを諦めたのだと。
――サーラ、諦めないで! 本当にこのままでいいの?
私の声はサーラに届かない。ガラスのような氷が部屋を侵食し、鏡台を凍らせ、手鏡と水差し、花瓶までもが凍る。
壁もカーテンも、すべてが氷に閉ざされていく。
宝石箱に仕掛けられていた氷の魔術は強力なもので、サーラだけでなく、すべてのものを凍らせた。
氷は部屋全体を覆い尽くすまで止まらない。この場の時間すら凍りつかせるかのように。
私はなにもできず、魔術が終わるのを待つしかなかった。
誰か、たった一人だけでもいいから、サーラを救ってほしい。
このままサーラが氷の中に閉じ込められるなんて辛すぎる。
その時。
一人の少年が扉を開けて彼女の名前を呼んだ。
「サーラ!」
部屋に飛び込んできたのは、黒髪に青い目をした美しい少年だった。
彼は何度かサーラと会ったことがある。ヴィフレア王国第二王子のリアムだ。
いつも冷たい態度だけれど、それはサーラ以外の誰に対しても同じだった。
彼はサーラをできそこないと馬鹿にしなかった、数少ない存在だ。
――まだ十二歳の子供だけど、天才魔術師のリアムなら、サーラを助けてくれるかもしれない!
けれど、一足遅かったようだ。
魔術が間に合わないと判断したのか、リアムは持っていた花束を投げ捨てた。手を伸ばし、サーラを氷の中から救おうとする。
けれど、リアムが必死に伸ばした手は届かず、サーラはリアムの手を取らない。
「サーラ! 手を!」
リアムがそう叫んだ時、青い氷がサーラを逃がすまいとするかのように、右手を凍らせる。
絶望し、大きく見開かれたリアムの青い瞳の色が、まるで前世の私が見た最後の空のようだと思った。
次の瞬間、氷が目蓋を凍らせて、サーラの記憶はそこで途切れた。
私が見ていた長い夢は幕を閉じた――終わり。
――終わり? ちょっと待って! サーラはどうなったの?
神様に注文をつけることができるなら、死ぬ間際に見せる話は悲しいものではなく、笑えるストーリーで気持ちを盛り上げてほしい。
――ここで終わりたくない。せめて、サーラがこの先どうなるのか、私に教えて! お願い、神様!
強く願って、暗闇から這い上がるようにもがいた。
死んでなるものかと、暗闇から手を伸ばす。
そこに光がある気がして――伸ばした手が、知らない誰かの手に触れた。
もしかして、この暗闇から出られる?
必死に手を握り返した瞬間、体がふわっと浮き上がり、衝撃が体を襲う。
「い、いたた……」
背中を思いっきり叩かれたみたいな衝撃に、私の体は前のめりに倒れた。
よろよろと顔を上げながら、目を開ける。
「ちょ、ちょっと神様……。いくら魂だけだからって、人の体を雑に扱いすぎ……体? 体がある? 私、生きてる?」
柴田桜衣は死んだはずである。なのに、自分の体の重みを感じる。
それに頭から足の爪先まで、バケツで水をかけられたみたいにびしょ濡れである。
「三途の川を泳いだとか?」
病弱でプールに入れなかったから、私は泳げない。それに幽霊だったら、冷たいなんて感覚はないと思う。
なにより死ぬ前に比べてずっと元気な気がするし、体に力がみなぎっている。
――今なら、なんでもできそう! ……でも、待って?
ここが現実世界とは限らない。
「天国? それとも地獄?」
「天国でも地獄でもない」
「あれ?」
ふと、自分が誰かの体を押し倒し、その上に乗り上げていることに気づいた。
その誰かをよく見てみる。
黒い髪に鋭い青色の目、整った顔立ちをした美青年。もし死神がいるなら、きっとこんな顔をしているに違いない。
死神がイケメンでよかったと思った瞬間、私は絶叫した。
「じっ、地獄ーっ!」
死神の姿を目の当たりにして、恐怖におののく私の叫び声が響き渡る。
――ここはいったい……?
恐る恐る自分の体を確認すると、両手に白い手袋をはめ、白いウェディングドレスを着ている。
周囲を見渡すと、部屋の中は水浸しで、粉々になった石の破片がそこらじゅうに散らばっていた。
惨憺たる状況ではあるが、見覚えがある部屋だ。
「サーラ」
深い青色の瞳が私の姿を映している。青年が手を伸ばして、私の頬に触れた。
「生きてるな」
低い声に混じる安堵の色と濃い疲労感。触れた手は温かく、彼が死神ではなく人間だとわかり、冷静になった。
「私、サーラなんですか?」
「そうだ」
あの夢の続き――これは、サーラが氷漬けになった後の世界?
「魔術が成功したようだな」
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