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1巻

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 アメリ・レフェーブルはおそらく、いままでの人生で最低な誕生日を迎えていた。
 アメリには恋人がいる。恋人の名はエドガール、この辺りでは珍しい黒髪と深緑色の切れ長な目を持つ美丈夫びじょうふだ。王都でも有名な商会に勤めており、営業成績もよく優秀な人材であった。
 アメリが五つ年上のエドガールと知り合ったのは、彼の勤める商会に落とし物を届けたことがきっかけだった。アメリはお礼にと食事に誘われ、その後も頻繁に会う約束を繰り返し、ちょうど三年前の十八歳の誕生日に告白されたことでエドガールと付き合うことになった。
 それからいまこのときまでの三年間、アメリはとてもしあわせだった。
 エドガールはアメリにとてもやさしく紳士的で、会うたびかならず花を贈り、彼女の誕生日は盛大に祝った。
 今日の二十一歳の誕生日もエドガールと一緒に過ごす約束をしていたアメリは、せいいっぱいのおめかしをしていた。
 背の中ほどまで伸びた少し赤みを帯びた金髪を結い上げ、薄く化粧を施し、藍色の目はそのときを楽しみにかがやいていた。
 アメリはエドガールを愛していたし、彼からの愛を感じてそれを信じて疑わなかった。たとえ仕事で会えなくなったと言われても、その言葉をまったく疑うことなく信じていた。
 ――そう、信じていた。
 いま、エドガールがアメリではないほかの女と抱き合い、深く口づけし合っている光景を目にするまでは。

(……なに、なんなのこれ……)

 アメリは驚きのあまり言葉を失い、頭の中が真っ白になってなにも考えられずに立ち尽くしていた。
 指から力が抜け、手に持っていた包みがすべり落ちる。包みの中にはエドガールに贈ろうとしていた貴重なワインの瓶が入っており、それは地面に落ちて盛大に音を立てて包みをぬらした。
 赤いワインがにじみ出て地面にじわじわと広がっていく。それはアメリの靴先にまで届いたが、目を見開き、まっすぐ前を見つめている彼女は気づけなかった。

「えっ……」

 音に反応した二人は顔を上げ、アメリのほうへ目を向ける。エドガールはアメリを一目見ると顔色を悪くして驚きの声をもらし、その腕に抱かれていた女性は怪訝けげんな表情を浮かべた。

「なに……?」

 女性はエドガールと同じくらいの年齢か、短く整えられた亜麻色あまいろの髪と、きりりとした灰青色はいあおいろの目が印象的だ。顔を真っ青にし、唇を震わせて二人を見つめるアメリの様子に、女性はただならぬ事態になっているのだと気づいたのだろう。

「あなた、いったい……?」

 女性はエドガールの腕を不安そうに握り、おそるおそるといったようにアメリへと声をかける。
 ただならぬ仲だと思わせる二人を前に、アメリは言葉が出なかった。

「どうして……」

 なぜその場所に、自分ではないほかの女性がいるのか。アメリは怒りやかなしみ、戸惑いといった感情がぐちゃぐちゃに混ざって現実を受け入れられずにつぶやいた。

「ア、アメリ……」

 エドガールは動揺のあまりアメリの名を呼ぶ。すぐに失言だと気づいたようで、慌てて口を片手で覆った。その発言は、エドガールとアメリが既知きちの仲である証左しょうさとなる。

「……なに、エド。この人と知り合いなの?」

 女性はそれを聞き逃さず、エドガールの腕の中から彼を見上げて鋭い目を向けた。

「あ……えっと、いや……う……っ」

 その視線を受けたエドガールは動揺し、言葉にならない声をもらして目を泳がせる。険悪な雰囲気ながらも抱き合う二人から目をそらすこともできず、アメリはどくどくと高鳴る胸を押さえながらゆっくりと口を開いた。

「……エド。その女の人はだれなの?」
「えっ、いや、その……」

 エドガールはアメリの言葉に大げさに体を震わせ、しどろもどろになる。アメリはこの状況とエドガールの態度から、彼の腕の中にいる女性がどういう存在なのか予想できて、みるみるうちに表情を怒りにゆがませた。

「エド、ちゃんと答えて!」

 アメリは湧き上がった怒りのままにエドガールにつめ寄った。エドガールは顔を青くし、視線をさまよわせて言葉も出ない。その様子にアメリの怒りはさらに沸き立つ。

「ちょっと、待ちなさい!」

 そのままつかみかかろうとしたアメリの前に、エドガールの腕に抱かれていた女性が割って入る。女性はアメリを押し返すと、堂々と胸を張って大きく声を上げた。

「私はエドの婚約者よ! あなたこそ誰なの!?」
「えっ!?」

 攻撃的な女性の言葉を聞いて、アメリは頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。女性は婚約者、つまりは結婚を約束した相手だという。

(……婚約……? そんな、結婚を……)

 想像していた以上の二人の関係にアメリは打ちひしがれる。
 アメリはエドガールと結婚の話をしたことがなかった。交際が三年も続けばそろそろ結婚するだろうと考えてはいたが、エドガールに将来のことを話しても曖昧あいまいに流されるだけだった。
 そんなエドガールが自分以外の女性と婚約していたという事実がアメリの胸を大きくえぐる。

(でも、私は……っ)

 アメリはこの三年、たしかに愛されていたのだと信じたかった。アメリは震えながら、真実に対抗するかのように声を上げる。

「わ、私はエドの恋人よ! もう三年も付き合っているんだから……っ」
「三年!? エド、三年も浮気していたの!?」

 しかし、さらなる真実がアメリを打ちのめした。

『三年も』

 その言葉は女性がエドガールと三年以上の関係を持っている事実を示唆しさしている。

(私が……浮気相手?)

 アメリは全身から力が抜けていくのを感じ、エドガールと怒声を上げながら彼につかみかかる女性の様子をただ見ているしかなかった。

「エド! これはいったい、どういうこと!?」
「い、いやあ……その……」

 アメリは一方的に責めたてられるエドガールと女性を呆然と眺めながら、現実を受け止められずにいた。周りの声が遠くなっていき、じわりと視界がにじんでいく。

(……浮気……)

 アメリはエドガールが婚約していたことなど一切知らなかった。付き合う前から恋人はいないと言われていたのだから、だまされていたことになる。
 しかしはたから見れば、アメリは婚約している男に手を出した浮気女だ。アメリは嫌悪するその不名誉を貼りつけられ、吐き気を覚えて口元に手を当てた。

「婚約は破棄よ、このクズ野郎!」

 女性の罵声が響き、エドガールは小気味いい音と共に盛大に頬をひっぱたかれる。同時に歓声と口笛が響き、アメリはその声の大きさに意識を現実に引き戻した。

(なに、これ……)

 三人が、というより婚約者の女性が大きな声で騒いでいたからか、いつの間にか周りにはやじ馬たちが集まっていた。
 彼らは裏切られた婚約者と、なにも知らずにもてあそばれた浮気相手、そして二人の若い女性をもてあそんだ浮気者の修羅場を、見世物のように眺めている。

「そっ、そんな……レイラ!」
「やめてよっ、気持ち悪い!」

 エドガールが引き留めようとして手を伸ばすと、女性はエドガールを突き飛ばした。勢いよく無様に地に転がったエドガールをやじ馬たちが笑う。
 両手をつき、立ち上がろうとしたエドガールはアメリと目が合い、すがるような声音でアメリの名を呼んだ。

「ア、アメリ……ちがうんだ……誤解だっ」

 アメリは左頬を真っ赤にしたエドガールにどうしようもないほどの怒りを覚える。エドガールは先に女性にすがりつき、アメリはその次だった。
 その事実がアメリをさらにみじめにさせた。

「……あなたとは、ここで終わりよ!」

 アメリは立ち上がり、必死にすがろうとするエドガールの右頬を利き手で思い切りひっぱたいた。同時に再びやじ馬たちから歓声が上がる。
 アメリの怒りもみじめさも、やじ馬たちには見世物でしかなかった。

「本当に最低! もう二度と、私の視界に映らないで!」
「ア、アメリ……」

 アメリの声は震えていた。鼻の奥がつんとし、目の奥が熱くなって、左手は真っ赤に染まって痛かったが、それ以上に胸が痛かった。

(ああ……悪い夢なら、早く覚めて……)

 アメリは裏切られ、笑いものにされ、みじめさと怒りを感じていた。すべて悪い夢だと思い込みたいほど真実は受け入れがたく、かなしかった。
 これはすべて、夢。夢から覚めればエドガールはだれとも婚約していないし、仕事で会えないこともなく、誕生日を一緒に祝ってくれるのではないか。
 アメリの中にそんな願望が生まれていた。

(……私って、本当にばかね……)

 しかしアメリの願いを否定するかのように、左手の痛みはこれこそが現実なのだと主張している。

「……最低……」

 アメリは力なくつぶやき、肩を落としてうつむいた。
 現実を受け入れなければならない。アメリにとってもっとも許せない浮気をした男、それがエドガールだと。

(……でも……)

 アメリは頭ではわかっていても、すぐにきれいさっぱりとエドガールへの気持ちがなくなったりはしなかった。けれど浮気をした男と関係を続けていくことなど、アメリには到底受け入れられない。

「アメリ、待ってくれ! これは、その……違う……違うんだ!」

 エドガールはアメリを引き留めようと声を上げる。しかしアメリはさきほどの言葉どおりに終わりだと言わんばかりにきびすを返して背を向ける。

「アメリ……っ」

 エドガールは諦め悪くアメリに手を伸ばす。その手はアメリに届く前にはたき落とされたが、その行動をとったのは意外な人物だった。

「このクズ、触るんじゃないわよ!」
「レ、レイラ……」

 その声を聞いて、アメリは振り返る。ついさきほどまで熱い抱擁ほうようと口づけを交わしていたはずの婚約者、レイラが目尻をつり上げながらエドガールをにらみつけていた。
 エドガールはその剣幕にされて口をつぐみ、身を縮こまらせた。

「いい、覚悟しておきなさいよ。私たちの時間を無駄にしてくれた礼は、たっぷりさせてもらうわ!」

 レイラはエドガールをにらみつけながら低い声で告げる。その言葉にエドガールは顔を青くし、慌ててレイラにすり寄った。

「ちょっ、待ってくれ!」
「待つわけないでしょう、このあほうが!」
「ぎゃっ」

 レイラは追いすがろうとしたエドガールの股間を蹴り上げる。短い悲鳴を上げ、エドガールは両手で股間を押さえながらその場に倒れ込んだ。

(なに、これ……)

 やじ馬たちは大よろこびだ。アメリは目の前で繰り広げられた珍劇に口を半開きにして立ち尽くす。あまりのことに声を出せず、動けずに呆然としていたアメリの腕をレイラが引いた。

「ほら、行くわよ」
「あ……」

 アメリは情けない声でうめいているエドガールを見下ろし、すぐにレイラを見上げた。なぜレイラが婚約者の浮気相手である女を助けるのか、エドガールは大丈夫なのか。
 アメリにはわからないことだらけだったが、少なくとも今日が最低最悪な誕生日だということだけはよくわかった。
 レイラの痛快な制裁を見たやじ馬たちの盛り上がりは最高潮だ。
 アメリは呆然としながらレイラに腕を引かれ、やじ馬たちの輪を抜け出す。やじ馬たちからは、二人の女性をもてあそんだ結果、二人に拒まれ痛い目を見たエドガールを嘲笑あざわらう声や彼女らの雄姿を讃える声が上がった。

(なにが……どうなって……)

 アメリはその声が遠くなっていくのを感じながら、状況を理解しようと頭の中を整理する。
 だがアメリの意思に反して頭は理解することを拒んでいるようで、うまく考えがまとまらなかった。そうしているうちに、アメリは人気ひとけのない路地裏に連れ込まれ、元恋人の元婚約者と向かい合うことになった。

「ねえ、あなた」

 レイラに声をかけられ、アメリはびくりと肩を震わせる。そのままレイラが言葉を続ける前に、アメリは勢いよく頭を下げた。

「……申し訳ありません!」
「えっ」
「私、あなたの……婚約者と……っ」

 知らなかったとはいえ、婚約者がいる相手と浮気してしまった。アメリは被害者であるレイラになにを言われても仕方がないと自責し、うなだれる。

「待って、待って。あなた、なにも知らなかったんでしょう!」

 アメリの様子にレイラは慌てた様子で声を上げた。レイラは肩をつかんで顔を上げさせようとしたが、アメリはうつむいたままだった。

「……知らなかったんです、私……けれど、そんな言い訳が通用しないことは……」
「じゃあ、あなたも被害者! 浮気された側! だから、謝らないで。私も謝らないから!」

 レイラは両腕でバツを示し、首を大きく横に振る。アメリはそれに目を丸くし、少し落ち込んだ声でレイラに問いかけた。

「……私の言葉を、そのまま信じてくれるのですか?」
「あのクズの態度もそうだったし、なにより……あなた、いま本当にひどい顔よ」

 レイラに心配そうに声をかけられ、アメリはようやく顔を上げる。アメリの顔は血の気が失せて真っ白で、目には生気がなかった。

「私が……だましているかもって、疑わないのですか……?」
「……これが演技なら、見事なものだってだまされてあげるわ」

 レイラは苦笑いしながら首を横に振る。アメリはその反応にますます自責の念が強くなっていた。

「ちょっと……衝撃的でしたから……」
「……そうね。私も衝撃的だった。あのクソ野郎……」

 二人は三年もの間、お互いの存在に気づかずだまされ続けていたのだ。
 アメリは怒りよりもかなしみのほうが勝っているが、対してレイラはかなしみよりも怒りのほうが強いようで、小さな声で毒づいている。

「ねえ、大丈夫?」
「……大丈夫、……とは、あまり言えないかもしれません……」

 アメリは力なく笑い、肩を落とした。愛する人に裏切られていた、そのこと自体も衝撃的だが、自分が浮気相手となっていたことがなによりも衝撃的だった。

(私……ただの遊び相手、だったんだ)

 アメリは、三年交際を続けていくうちに結婚の可能性すら考えていたが、エドガールにはその気はなかった。だからこそ、エドガールが別の女性と婚約していたという事実はあまりにもつらく、苦しかった。

「こんなことって……」

 アメリは本気でエドガールを愛していた。本気で愛していたからこそ、十八歳から二十一歳までの女性にとっては貴重な結婚適齢期の三年間を捧げた。
 だというのにその時間は無駄になり、その上、浮気相手という不名誉をかぶってしまった。

「あぁ……」
「えっ、ちょっと、あなた……!」

 アメリはあまりのことにめまいがして、頭を押さえて足元をふらつかせる。レイラがとっさにアメリを支えたことで、倒れ込んでしまうことは避けられた。

「あなた、しっかり……」

 レイラも今回のことに衝撃を受けていたようだが、自分よりも顔色悪く倒れてしまいそうなアメリを見て冷静になったようだ。

「……っ、本当に、迷惑をかけてばかりで……」
「気にしないで。あのクズがすべて悪いんだから」

 レイラはものの十数分前までは抱き合い、口づけまでしていた相手だというのに、忌々いまいましげにそう言う。その様子を眺めながら、アメリは暗澹あんたんとした気持ちに目が潤んだ。

「あのクズ野郎には痛い目をみてもらうから、安心して」
「……私は……」
「あなたを責めたりなんて、絶対にしないわ。私をだましていない限りはね」

 レイラはそう言い切って軽く笑う。アメリはレイラの顔をじっと見つめ、なにも言えなかった。

(……本当に、いい人)

 レイラはだまされていた哀れな浮気相手を責めることなく、こうして気遣いすらしている。そんないい人だからこそ、アメリはいっそう胸を痛めていた。
 いっそののしられるほうが良心の呵責かしゃくさいなまれるよりはましであっただろう。アメリのその視線を疑念として受け取ったのか、レイラは自分の胸に手を当ててほほ笑んだ。

「こう見えても、私、魔法使いなの」
「魔法使い……」

 アメリは驚きの声でぽつりとつぶやいた。魔法使いは言葉どおり魔法と呼ばれる術を扱う人間を指し、この国では希少な存在だ。
 魔法とは、魔力と呼ばれる力と、おもに言霊ことだまを用いて奇跡を起こす技術だ。
 生物はかならず魔力を有しており、魔力量は種の中でも個体差がある。人が持つ魔力量はあまり多くなく、小さな火をおこすといった程度の簡単な魔法しか扱えない者がほとんどだ。
 だがまれに魔力を多く保有し、さまざまな魔法を扱える者がいる。そんな者たちを人々は魔法使いと呼んで讃えた。
 魔法使いたちは並の人々より強く、さまざまな魔法を扱い、自分の言葉が力を持つことをよく理解している。ゆえに魔法使いはうそをつくことを禁忌としていた。

「魔法使いレイラ・エティエンヌの名と誇りにかけて、偽りはないわ」

 魔法使いはけっしてうそをつかない。例外となる恥知らずがまったくいないとは言い切れないが、レイラは正しく魔法使いであろう。

「……ありがとうございます」

 もとより、アメリは婚約者の浮気相手にここまで親切に接するレイラの言葉を疑ってなどいなかった。レイラが高潔な魔法使いであることを知ってなおのこと疑う余地などなくなったが、代わりに自分がよりいっそうみじめになる。

(……私は、二番目……なんだ……)

 エドガールにとって自分は都合のいい相手でしかなかったと、アメリは嫌でも思い知らされた。
 レイラは魔法使いであり、その上、こんな状況でもアメリを気遣うやさしさを持ち合わせた完璧な女性で、エドガールが結婚を考える相手なのだから、と。

「アメリさん、よね」
「っ、はい……」

 アメリはレイラに名を呼ばれて緊張に体をこわばらせる。名乗っていないが、エドガールが彼女の名を何度も呼んでいたため、その場にいたレイラに知られていてもなんらおかしくはない。
 レイラが責めたりしないと宣言しているのだから、おびえる必要はない。だがそれでも、アメリは元婚約者の女性から名を呼ばれることに、少し恐ろしさを感じていた。

「今日はもう、帰って休んだほうがいいわ」
「……そう、ですね」

 衝撃的な真実が怒涛どとうのように襲ってきて、アメリの精神は疲労しきっていた。アメリにとって唯一幸いだったのは、明日は仕事が休みであったことだろう。その貴重な丸一日の休みを恋人と過ごそうと準備していたことは、すべて無駄になってしまったが。

(……私は……なにも知らずに、一人浮かれて、ばかみたい)

 恋人だと思っていたエドガールには婚約者がいて、自分は都合のいい遊び相手でしかなかった。そのことを知らずに明日を楽しみにしていた自分は、なんて愚かなのかとアメリは自嘲じちょうする。
 今日たまたま欲しかったものが行きつけの店に置いていなかったために、普段近づきもしない地区に足を運ばなければ、アメリはいまもなにも知らずにいたのだろう。

(もし、気づかなかったら……)

 エドガールとレイラは婚約を解消することなくそのまま結婚し、アメリは気づかないまま既婚者と交際を続ける羽目になっていたのかもしれない。
 そう考えると、アメリは身の毛がよだつような思いだった。

「あなた……帰れる? 送りましょうか?」
「……いえ、大丈夫です」

 アメリは力なく笑い、レイラの善意を断る。
 レイラがいい人だと頭ではわかっていても、早く彼女と別れたかった。アメリは話せば話すほどみじめで、レイラへの悪い感情を抱く自分の醜さに嫌気を感じていたからだ。

「そう。じゃあ、ここでお別れね」

 レイラはそれ以上なにも言うことなく、あっさり別れを切り出す。ここで別れて二度と会うことがないほうが、お互いのためになると理解しているのだろう。

「……アメリさん、気をつけて帰ってね」
「レイラさんも、お気をつけて」

 レイラはアメリに背を向け、路地裏から出て大きな通りを歩き出す。アメリはそれを確認すると、路地裏を出てレイラとは逆の方向に向かって歩き出した。

(……どこに行こうかな)

 それは家路とは真逆であったが、もとからアメリには帰る気などなかった。
 エドガールとのデートはアメリの部屋で過ごすことがほとんどで、明日もその予定だった。なにも知らないまま浮かれて準備をしていた部屋に帰りたいなどと、思えるはずがない。

(……どこでもいいか。なにも考えなくて済むなら……)

 アメリはあてどなく一人夜の街を歩く。帰りたくない、ただその思いだけで街をふらつき、なにもかもを忘れたくて酒を呑もうと目についた酒場に入った。

「ワインを、なんでもいいので」

 アメリはカウンターに座ると、一番にワインを頼んだ。
 出てきたグラスを手に取って目の前に掲げ、中に注がれたワインを眺めながらいままでのことを思い返す。

「……ばかみたい」

 アメリが初めてエドガールと食事をしたのは十七歳のころ。お礼だからと高級な店に連れられ、まだ酒が呑めなかったアメリにはワイングラスを揺らす五つ年上のエドガールの姿が大人に思えて、とても格好よく見えていた。
 交際するようになってからアメリも酒を呑み始め、ワインが好きなエドガールに合わせてワインをたしなむようになった。
 本心ではワインが好きではなかったが、彼に釣り合う女性になりたかったアメリは、必死に好きでもないワインを呑んで覚えた。給料をためていいワインを手に入れ、一緒に呑んで楽しい時間を過ごしたかったのだ。

(……もう、終わり)


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