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1巻
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プロローグ
ベッドの上で聞いた彼の掠れた声が、まだ耳に残っている。
「美玲、出張から帰ってきたら……ここに指輪をはめさせて」
トクリと高鳴る胸の鼓動。後ろから巻きつく腕が、何も身につけていない身体を引き寄せた。ゆうべ、激しく重ねた身体を労わるように、優しく触れた指先が左手の薬指をなぞっている。
初めて出会ったのは内戦中の国だった。あの時からいろいろあったけれど、今は彼――一三条誠治の愛に包まれている。
少し目尻の下がった涼やかな瞳に、形の整った眉。外国人かと見紛うほど高い鼻梁に、肉厚の唇。見る人全てを魅了する極上の容姿のおかげで、上背があるのに威圧感を与えない。
誠実さの塊のような彼は微笑みを絶やさず、優しさと甘さのある顔立ちをしている。それなのに、同僚からは『冷静で冷酷な外交官』と呼ばれている。
そんな彼からプロポーズめいたことを囁かれた美玲は、心を歓喜で震わせつつこくんと頷く。
「こっち向いて、美玲」
細身でありながら、彼の身体はしっかりと筋肉がついている。誠治が少し力を込めると、美玲の身体はベッドの中で反転した。
すぐ傍にある誠治の身体に、裸の胸が触れてしまう。スリムなのに人よりも大きめな膨らみの先端は、寝起きにもかかわらず尖っていた。柔らかい朝の日差しの中で、誠治の跳ね気味の黒髪が光を受けている。
「プロポーズの予約。してもいいかな」
「……うん」
日本で最も優秀な人が集まる大学を出て、キャリア官僚の道を突き進む彼。賢いだけでなく、人を惹きつける魅力に溢れている。外国語だって英語だけでなく、フランス語やアラビア語まで習得している秀才だ。
そんな彼からの真摯な言葉に胸が弾む。その一方で、美玲の心の中にはいつもの疑問がひょっこりと芽を出した。
――こんな私が、彼の隣にいてもいいの?
美玲の揺れる眼差しに不安の色を見つけたのか、誠治はこつんと額と額をくっつけた。
「こら、また美玲は自信をなくしているのか? あれだけ言っただろう? 僕が好きなのは、そのままの美玲だよって」
「……うん」
胸の奥がじわりと温かくなる。つい、自分のことを卑下しがちだけれど、いつも誠治の言葉が呪縛を解いてくれた。もっと、自分に自信を持っていい。彼の傍にいてもいい。彼を――愛してもいい。
「美玲、愛しているよ」
熱い吐息と共に、彼の唇が降りてくる。ゆうべも腫れるかと思うほどに貪られた唇を優しく食まれた。唇の裏側の柔らかい部分を重ねあうようにキスをしていると、熱がうつるように恋情が湧き上がる。
「私も……好き」
泣きたいほどの嬉しさが込み上げてくる。力強い腕に抱きしめられ、真新しいシーツに美玲の柔らかい髪が流れていく。後頭部に回された手が、キスをしている間中髪を梳くように撫でていた。
こんなにもおだやかで眩しい朝を二人で迎えるなんて――美玲の身体を焼き尽くすような喜びが胸の内に膨れ上がる。
美玲はこの後崖から突き落とされ、転がり落ちることも知らずに、幸せの絶頂にいた。
橋渡美玲は、紅茶にミルクを落としたような色の柔らかい髪をふわりと片方の肩に流した。父親がアジア系のフランス人のため、日本人女性の平均よりは少し高めの背にスリムな身体つきをしている。よく目力があると言われる、彫りの深い顔をしているけれど……美玲は鏡に映る自分の顔があまり好きではない。
中学生になる頃に両親が離婚をし、生まれ育ったフランスから母親と日本に帰国した。その途端――周囲から浮いてしまった外見にコンプレックスを持ちはじめる。
美女と言われ、恋愛に奔放な母に容姿が似ている自分。なるべく目立たないように、息を潜めて生きてきた。外見と中身が違うと言われるほど、美玲は引っ込み思案な性格だった。少なくとも、誠治に会うまでは――
結局その日の朝は、誠治がフランスに出張する時間ギリギリまで抱きあっていた。今回はたった二週間の出張なのに、名残惜しいとばかりに肌を合わせ胸元に赤く散る痕を残された。太ももの内側にまでつけられた所有印を見ると、彼の独占欲を感じて嬉しくなるのだから、美玲も随分と浮かれている。
時間になってしまい、慌ただしくキスをしてからホテルを出る。美玲は仕事のスケジュールを思い出していた。
「誠治さんが帰国する日は休みだから、空港まで迎えに行こうかな」
一緒にいられるなら、ずっと傍にいたい。少し遠出になるけれど、誠治と過ごせるなら構わなかった。けれど、彼から返ってきた言葉は期待とは少し違ったものだった。
「それは……悪いけど必要ないよ」
「そうなの?」
「ああ、海外出張は頻繁にあるから気にしないでほしい。それに、帰国したらすぐに仕事に取りかかるから、移動時間も資料を読むために使っている」
そこまで言われてしまうと、美玲は何も言えなくなる。
誠治は外交官は公僕――国に仕える身分だからと、仕事のことに関しては恐ろしいほどに冷静で私情を挟まない。彼のそんなクールなところも好きな美玲は、誠治を信頼しきっていた。
「気をつけてね。時差もあるだろうし、連絡はいつでもいいから」
「すまない。出張中は気を張ることが多いから、頻繁にメッセージもできないと思うけど……待っていてほしい」
「うん」
それぞれの家に向かう交差点で別れると、美玲は颯爽と歩く誠治の後ろ姿を眺めた。本当はいつでも一緒に過ごしていたい。海外に行って離れていた彼を、空港で「おかえりなさい」と迎えたかった。
――でも、プロポーズの予約って、言ってくれたから。
彼が帰国すればすぐに結婚に向けて動き出す。込み上げてくる嬉しさのあまり、風船のようにふわふわと浮かれた気分で、美玲は自宅のアパートに向かった。
◆
それから二週間。
「今度はハロウィンかぁ」
流暢なフランス語を生かして外国語スクールの教師をしている美玲は、イベント準備のための買い出しをしていた。いかにも怖そうなお化けや魔女のコスプレなど、毎年恒例の季節行事。
郊外にある大型ショッピングモールに、ハロウィン用の飾りがたくさん売っていると聞き、気分転換を兼ねてやって来たけれど……子ども連れの家族の多さに、独身の美玲は驚いた。
普段は都心で買い物をすることが多いから、ここに来るのは久しぶりだ。ふらりとウィンドーショッピングをしながら目的の店を探していると、反対側の通路を見知った顔が横切り美玲は振り返った。
――え? 帰国するのは明日のはずなのに……どうして?
誠治と思しき男性が歩いている。まさか、と二度見するけれど、あの後ろ姿はやはり彼に違いない。
長い足に濃いブルーのデニムパンツを穿き、ブラックのツイードジャケットの下には白のタートルネックのカットソー。普段よりもカジュアルな装いをしている。それだけでなく、隣には黒髪の美しい女性と……二歳ぐらいの男の子がいた。
――まさか!
ドクン、ドクンと心臓が嫌な音を立てている。さっきまで聞こえていた、ざわつくフロアの音が静まり、彼の姿がスローモーションのように流れていく。音のない景色の中で、誠治が隣に歩く子どもを抱き上げて微笑んだ。
美玲は呼吸を止めた。
彼が抱き上げている子どもは、誠治にそっくりだ。二重の目も、形の良い眉も。いかにも賢そうな顔がよく似ている。
「なんで……」
疑問が頭の中をぐるぐると回っている。彼は一人っ子だから甥ではないし、どう見ても仲の良い親子にしか見えない。ぐずついていた子どもは、誠治に抱き上げられた途端、きゃっきゃとはしゃいでいる。
隣にいる女性は、鮮やかな紅色のワンピースを優雅に着こなし、幸せそうに微笑んでいた。
黒目の大きな顔立ちの彼女とは、以前一度だけ会ったことがある。
――あの女性は! 誠治さんの婚約者だと言っていた……!
日本人形のように白い肌に漆黒の細くまっすぐな髪。一重で切れ長の目に小さな唇。品のある佇まいは、日本の美を思い起こさせた。
いつか大使となる外交官の妻であれば、自分とは違い東洋系の美人の方がいいに違いない。そんな劣等感を抱かせるのに十分な美しさを持つ彼女に嫉妬していた。だから――
「誠治さん……うそ」
彼からは誰とも長く付き合ったことはないと聞いていたけれど、彼女は自分のことを誠治の婚約者だと言っていた。長いまつ毛を伏せ、清らかに微笑む姿を思い出しては悲しくなり、やはり自分はふさわしくないのかと苦しんだから、見間違えることはない。
誠治の隣に立つ彼女は――外交官の伴侶となるのにふさわしい気品を兼ね備えた、理想的な妻そのもの。
そして、誠治と似ている子どもが一緒にいる。やはり、彼の母親から聞いた話は本当だった。
ほんの少し前まで、誠治と結婚する未来を夢見ていたのに。現実を目の前にして、美玲の足は震えてしまう。通り過ぎていく彼らの後を追いかけたいのに、まるで床に接着剤で留められたかのように足が動かない。
「あなた、大丈夫? お顔が真っ青よ」
通りすがりの女性に声をかけられ、美玲はハッとして鞄を持ち直した。
「いえ……大丈夫です」
女性にそう答えると、まずは傍にあったベンチに腰かける。そして彼らのいた方向を見ると、どうやらフードコートのある場所に向かっているようだ。
――あ、行っちゃう……
彼の二股を目の前にしても、声をかける勇気が出てこない。
テレビドラマのように彼を糾弾するなんて、とてもできそうにない。何より子どもの目の前で言い争うことは、美玲には無理だった。
三人の姿が人込みの中に入っていく。現実とは思えない彼の裏切りに、美玲の心はナイフで切り刻まれたように血を流す。――痛い。痛くてたまらない。
呆然としていたあまり、美玲は後に、どうやって家に帰ったのかを思い出せないほどだった。
第一章
美玲と誠治はアフリカで出会った。
当時大学を卒業したばかりの美玲は得意の語学力を生かして、国際的な非営利団体の職員をしていた。
医療を専門とする団体は、どんな国であっても草の根の支援を絶やさない。以前からそんな世界に興味のあった美玲は、学生時代からボランティア活動をしていた。
内向きになりがちな自分を変えたくて頑張ったことが功を奏し、職員にならないかと声をかけられたのだ。
さらにはフランス語が流暢なことから、医療職をサポートするスタッフの一人としてアフリカに派遣された。
政情は不安定ながら、比較的落ち着いている地域と説明を受けていたけれど……美玲が派遣されて二年、内戦が一気に加速する。
「先生っ、大使館から連絡が来ました。邦人は退避するようにって」
団体の運営する診療所は北部にあるため、まだ静かだった。だが、南部にある都市は反政府組織が実効支配しつつある。
停電や断水が続き、日常生活を送ることも困難になってきた。何よりも、日本人が戦闘に巻き込まれてしまうと国際問題になりかねない。
美玲の場合、成人した時に日本の国籍を選んだといっても、以前はフランス国籍を持っていたから余計ややこしい。
一緒に働く医師の藤崎は眉間に皺を寄せた。彼は勤務していた病院を早期に引退し、ボランティア精神からアフリカの医療を支えるため、かれこれ五年もこの地に住んでいる。診療所への思いも美玲より強いに違いない。
髪に白い色が交じっているが、まだまだ体力も気力もある人だ。けれど、事態は一刻を争う。
「ここも戦闘地域になりかねないと。退避のため、自衛隊も国連も動いているようです」
「わかった。美玲君、荷物をまとめるんだ」
「はい」
こんなこともあろうかと、美玲はすでに準備をしていた。4WDのピックアップ・トラックには水や保存食、ガソリンを積んである。診療所を閉じることになるため、これまで支えてくれた現地スタッフに声をかけた。
『ごめんなさい、ここは一時閉鎖することになったの』
『うん、ミレイとドクターは日本人だからね』
外国人であっても、現地に溶け込めるように努力してきた。けれど、戦闘の危険が迫ると逃げなければいけない。でも、現地スタッフは自分たちと違って逃げる場所がない。
申し訳なさに胸を痛めながらも、自分たちが残り続ければ攻撃の標的にもされかねない。外国人は目立つため、どうしても狙われがちだ。
『ミレイ、これを持っていって』
看護師をしているマリアが、乾燥させたイチジクと木彫りの人形を渡してくれる。イチジクは貴重な甘味なのに、美玲は泣きそうになりつつもグッと彼女の手を握りしめた。
『ありがとう』
元気でね、とか、また会おうね、とか。そうした未来のある言葉をかけられない。彼女たちはこれから、厳しい現実に直面するからだ。
退職金代わりに多めの給料を渡し終えると、藤崎は診療所の扉の鍵をスタッフに渡して車に乗り込んだ。
厳しい目を診療所に向けながら、きっと再びこの地に戻りたいと思っているのだろう。
運転手に声をかけ出発する。悪路を進むせいで何度も車が跳ね、そのたびに舌を噛みそうになる。そのうち国道に出た車は、広大な平原が広がる地にまっすぐに延びる道路を走っていく。
車載無線を国連が開設しているバンドに合わせると、各国の退避する様子が流れてくる。時折、砂が入ったようにザラついた音を聞きつつ、美玲は緊張を緩めるように鞄を手繰り寄せた。
鞄には全世界対応の衛星携帯電話が入っている。停電を繰り返しながらも、この電話の充電だけは欠かさなかった。非常時には情報が命綱となるからだ。
美玲に連絡をくれた日本大使館の人は、一三条と言っていた。会ったことはないけれど、安全確認をしてくれた時の低い声が耳の奥に残っている。
「では、退避対象者は二名でよろしいですか」
「はい。あの、やっぱり国外に避難しないといけないのでしょうか」
「北部は比較的安定していますが、首都をはじめ南部の都市には攻撃がはじまっています。空港も占拠されたため、一刻も早く退避行動をお願いします」
「……そんなことになっているなんて」
都市から離れたところでは、銃声など聞こえてこない。今朝も鶏が元気に鳴いていたから、美玲には深刻な事態が実感できなかった。
「人は危険が迫っていても、危険と思いたくない、というバイアスがどうしてもかかります。おこがましいですが、僕を信じて行動を起こしてください。いつ、橋渡さんのところに攻撃があってもおかしくない状況です」
「でも、ここはまだ静かですよ」
「飛行場にある建物は、連日砲弾を受けています。外国人が残ると、人間の盾として利用される可能性があります。一刻も早く退避しましょう」
ここまで説得されてようやく、美玲は覚悟を決めた。藤崎も納得してくれるだろう。
「わかりました」
「っ……ありがとう」
一拍置いて、お礼を言われる。心配してもらったこちらがお礼を言うべき場面なのに、人の良さがにじみ出るやり取りに、美玲は安堵する。
彼のいる場所はきっと、美玲たちのいる場所よりも危険が迫っているに違いない。退避するなら、一時停戦をしている三日間の間に動かないといけない。それなのに、のんびりと答える美玲を落ち着いて説得してくれた。
――僕を信じて。
不思議と彼の言葉がすっと心に染み込む。目を閉じると低い声が聞こえてくるようだった。
このまま車で走って集合場所の日本大使館に行けば、彼に会える。こんな非常時にもかかわらず、美玲は一三条と名乗る彼はどんな人なのだろうかと想像した。
語っていた声の感じからは、かなり年上のような気もするし、まだ若い専門官のような気もする。
――どんな人かな……
車窓にはひたすら草原の景色が続いている。時折、小さな町を通り抜けていくけれど、どこもひっそりとして普段のような賑わいは見えない。
某国政府は軍隊の派遣を見送った、と無線から情報が流れてくる。
ここまで来るとさすがに、美玲も事態の深刻さを実感していた。そして、忍耐強く自分を説得してくれた一三条に改めて感謝するのだった。
土埃が舞い、直前まで戦闘が行われていた形跡が残る道を進むと、ようやく二人を乗せた車は日本大使館に到着した。首都の建物はところどころ崩壊していて、焼け焦げた臭いが漂っている。大使館の前面の道路には、大型バスが駐車していた。
黒い鉄柵のある門のところでパスポートを見せ中に入ると、広場には在留日本人と思しき人々が集まっている。受付の場所を聞いてそこへ向かうと、美玲の耳は聞き覚えのある声を拾った。
「橋渡美玲さんですね、一三条です」
美玲が振り返った先に、背の高い男性が立っている。ドクン、と心臓が跳ねる。――電話で聞いた声だ。
「はじめまして。橋渡です」
医師の藤崎と一緒に到着したことを報告すると、いかにも安堵したように彼は「良かった」と呟いた。白いシャツを腕まくりして額に汗をかいている。想像していたよりもずっと若く、整った容姿をしていた。
一三条は疲れた顔をしながらも、美玲を安心させるように微笑み、手を差し出してくる。
「電話では失礼しました」
「いえ、こちらこそ。あの時はありがとうございました」
強い視線を感じ、美玲は顎を上げると彼と目を合わせて手を伸ばす。ぎゅっと握りしめる大きな手が熱い。アフリカでは当たり前の仕草なのに、なぜか特別に強く握られている気がする。
漆黒の瞳をした彼は、美玲の少し薄い色をした瞳に気がつくと、確認するように声を落とした。
「橋渡さんは、確かフランス国籍を持っていましたね」
「はい、でももう日本国籍を選択しています」
「……わかりました。では、ここからは僕たちが全力で守ります」
意志の強そうな瞳で見つめられ、美玲は耳の奥にトクトクと心臓が速く脈打つ音を聞く。不安な時に、守ってくれるという言葉を聞いたからだと、自分を戒めつつも彼から目が離せなくなる。
一三条も同じように、美玲から視線を外さない。
ほんの数秒のはずが、永遠にも思えるほど見つめあっていたけれど――一三条は次々と到着する日本人の対応に呼ばれてしまう。
「では、説明はまた後で」
「はい」
名残惜しそうにしながらも、握手していた手がほどかれる。美玲は心を持っていかれたように、彼の後ろ姿を見つめることしかできなかった。
日本大使館に集まった人々は、国連の主導する退避団に合流することになった。各国の退避メンバーが集まり、何十台もの車が列になって進むようだ。
車列の先頭や最後、そしてところどころにどこかの国の軍隊が武装して並走する。
日本にいると目にすることのない光景を、美玲は緊張した面持ちで眺めていた。
まさか、こんなことが自分の身に起こるとは思っていなかった。内戦状態といっても、ここ数年武装勢力が攻撃するのは一部の地域に限られ、派遣先はそこからはずっと遠い静かな地域だった。
――しっかりしないとね……
美玲は不安に怯えそうになる気持ちを押し込める。
大使館に集まった人の中には子ども連れの人も、アフリカ人の妻を置いて日本に帰国する人もいた。妻の両親、兄弟姉妹はここにいるため、離れられなかったと聞く。そうした人たちにとって、この退避は心理的にかなり厳しいだろう。
結局、国外退避する日本人は六十名近かった。大型バスは用意されていたが、座席が足りないため美玲たちは乗ってきた車を提供することに決める。
ガソリンは予備の分まで載せているから、港に到着した後は運転手に任せることになる。
「すみませんが、僕も同乗させてもらえますか?」
大使館職員はそれぞれバスや車両に分かれて移動することになり、一三条は美玲の乗る車を希望した。座席は空いているので、彼が来るのは歓迎だ。
美玲が後部座席に移動すると、一三条が助手席に座る。
「ドクターがいると、安心しますね」
「こんな時は、できないことの方が多いですよ。医療品も最小限しか持っていません。私たちにしてみれば、一三条さんのような外交官の方が頼りですから」
藤崎が朗らかに笑うと、自ずと緊張がほどけていく。一三条は車についているアンテナを見て、「車両無線があるので助かります」と顔を緩めた。
衛星携帯電話の使用は控えるようにと国連からの通達があったため、無線から得られる情報が頼りだ。どこで武装勢力が傍受しているかわからないため、できる限り情報を漏らさないように気をつける。
車が走り出すと同時に一三条は無線をつけた。すると騒々しいほどのやり取りが交わされている。英語だけでなく、時折アラビア語でも交信しているが、一三条はその内容も理解しているようだった。
美玲はふと疑問に思ったことを口にした。
「アラビア語がわかるなんて、一三条さんは専門官としてアフリカに来たのですか?」
「いえ、僕は総合で入省しました。今は二等書記官です。……アラビア語は、学生時代に学んでいたから得意なだけですよ。外務省での研修言語はフランス語でした」
「まぁ、そうだったんですね」
アラビア語が堪能なので専門官職員と思われたが、彼は総合職、いわゆるキャリア官僚だった。
外交官には大きく分けて二つある。地域の言語や政情に通じた『専門官』と、将来は大使まで上り詰める『総合職』。
どちらも重要なことに変わりないが、普段であれば美玲がキャリア官僚である一三条に会う機会はほとんどない。
無線を使い、一三条は国連職員と連絡を取り合っていた。無線は携帯電話と違い、独特な言い回しが必要だが、それさえも完璧に使いこなしている。
「一三条さんは、なんでもできるんですね。こうした現場を経験されたことがあるのですか?」
「そういうわけでは……ただ、セキュリティ研修を兼ねて自衛隊の訓練を受けたのが役立ちました」
「はぁ、凄いですね」
何事にも動じない雰囲気でありながらも、時折美玲に見せる表情は柔らかい。ピックアップの後部座席に座ったまま、助手席に座る一三条の横顔を飽きることなく見つめてしまう。
辛く、不安になる道のりも彼がいることで不思議と落ち着くことができた。さらに、外交官として優秀な彼は他の国の外交官とも親しく、休憩時間の情報交換を怠らない。
吊り橋効果――危険な状況を一緒に過ごしたことで、相手を好きになってしまうというそれだと思いながらも、美玲の中で一三条の存在が大きくなっていく。
けれど――どれだけ準備していても不測の事態はやってくる。車の異変を感じた運転手は、車列を抜けると道の片側に車を止めた。
「あちゃ~、まいったな」
悪路を走っていたせいか、ピックアップ・トラックのタイヤの一つがパンクしているのを見て藤崎が叫ぶ。
車に乗っていた全員が降りると、砂を含む乾いた風が吹いてきた。周囲は赤茶けた風景が広がるだけで何もない。
幸いにも予備タイヤを載せていたが、交換するために持ち上げるジャッキが見当たらなかった。美玲は呆然と車を眺めることしかできない。
「橋渡さん、ちょっとお願いがあるんだけど」
乾燥した風が吹く中、立ちすくんでいると一三条が美玲に声をかけた。冷静な彼にしては珍しく、額に汗をかいている。
ベッドの上で聞いた彼の掠れた声が、まだ耳に残っている。
「美玲、出張から帰ってきたら……ここに指輪をはめさせて」
トクリと高鳴る胸の鼓動。後ろから巻きつく腕が、何も身につけていない身体を引き寄せた。ゆうべ、激しく重ねた身体を労わるように、優しく触れた指先が左手の薬指をなぞっている。
初めて出会ったのは内戦中の国だった。あの時からいろいろあったけれど、今は彼――一三条誠治の愛に包まれている。
少し目尻の下がった涼やかな瞳に、形の整った眉。外国人かと見紛うほど高い鼻梁に、肉厚の唇。見る人全てを魅了する極上の容姿のおかげで、上背があるのに威圧感を与えない。
誠実さの塊のような彼は微笑みを絶やさず、優しさと甘さのある顔立ちをしている。それなのに、同僚からは『冷静で冷酷な外交官』と呼ばれている。
そんな彼からプロポーズめいたことを囁かれた美玲は、心を歓喜で震わせつつこくんと頷く。
「こっち向いて、美玲」
細身でありながら、彼の身体はしっかりと筋肉がついている。誠治が少し力を込めると、美玲の身体はベッドの中で反転した。
すぐ傍にある誠治の身体に、裸の胸が触れてしまう。スリムなのに人よりも大きめな膨らみの先端は、寝起きにもかかわらず尖っていた。柔らかい朝の日差しの中で、誠治の跳ね気味の黒髪が光を受けている。
「プロポーズの予約。してもいいかな」
「……うん」
日本で最も優秀な人が集まる大学を出て、キャリア官僚の道を突き進む彼。賢いだけでなく、人を惹きつける魅力に溢れている。外国語だって英語だけでなく、フランス語やアラビア語まで習得している秀才だ。
そんな彼からの真摯な言葉に胸が弾む。その一方で、美玲の心の中にはいつもの疑問がひょっこりと芽を出した。
――こんな私が、彼の隣にいてもいいの?
美玲の揺れる眼差しに不安の色を見つけたのか、誠治はこつんと額と額をくっつけた。
「こら、また美玲は自信をなくしているのか? あれだけ言っただろう? 僕が好きなのは、そのままの美玲だよって」
「……うん」
胸の奥がじわりと温かくなる。つい、自分のことを卑下しがちだけれど、いつも誠治の言葉が呪縛を解いてくれた。もっと、自分に自信を持っていい。彼の傍にいてもいい。彼を――愛してもいい。
「美玲、愛しているよ」
熱い吐息と共に、彼の唇が降りてくる。ゆうべも腫れるかと思うほどに貪られた唇を優しく食まれた。唇の裏側の柔らかい部分を重ねあうようにキスをしていると、熱がうつるように恋情が湧き上がる。
「私も……好き」
泣きたいほどの嬉しさが込み上げてくる。力強い腕に抱きしめられ、真新しいシーツに美玲の柔らかい髪が流れていく。後頭部に回された手が、キスをしている間中髪を梳くように撫でていた。
こんなにもおだやかで眩しい朝を二人で迎えるなんて――美玲の身体を焼き尽くすような喜びが胸の内に膨れ上がる。
美玲はこの後崖から突き落とされ、転がり落ちることも知らずに、幸せの絶頂にいた。
橋渡美玲は、紅茶にミルクを落としたような色の柔らかい髪をふわりと片方の肩に流した。父親がアジア系のフランス人のため、日本人女性の平均よりは少し高めの背にスリムな身体つきをしている。よく目力があると言われる、彫りの深い顔をしているけれど……美玲は鏡に映る自分の顔があまり好きではない。
中学生になる頃に両親が離婚をし、生まれ育ったフランスから母親と日本に帰国した。その途端――周囲から浮いてしまった外見にコンプレックスを持ちはじめる。
美女と言われ、恋愛に奔放な母に容姿が似ている自分。なるべく目立たないように、息を潜めて生きてきた。外見と中身が違うと言われるほど、美玲は引っ込み思案な性格だった。少なくとも、誠治に会うまでは――
結局その日の朝は、誠治がフランスに出張する時間ギリギリまで抱きあっていた。今回はたった二週間の出張なのに、名残惜しいとばかりに肌を合わせ胸元に赤く散る痕を残された。太ももの内側にまでつけられた所有印を見ると、彼の独占欲を感じて嬉しくなるのだから、美玲も随分と浮かれている。
時間になってしまい、慌ただしくキスをしてからホテルを出る。美玲は仕事のスケジュールを思い出していた。
「誠治さんが帰国する日は休みだから、空港まで迎えに行こうかな」
一緒にいられるなら、ずっと傍にいたい。少し遠出になるけれど、誠治と過ごせるなら構わなかった。けれど、彼から返ってきた言葉は期待とは少し違ったものだった。
「それは……悪いけど必要ないよ」
「そうなの?」
「ああ、海外出張は頻繁にあるから気にしないでほしい。それに、帰国したらすぐに仕事に取りかかるから、移動時間も資料を読むために使っている」
そこまで言われてしまうと、美玲は何も言えなくなる。
誠治は外交官は公僕――国に仕える身分だからと、仕事のことに関しては恐ろしいほどに冷静で私情を挟まない。彼のそんなクールなところも好きな美玲は、誠治を信頼しきっていた。
「気をつけてね。時差もあるだろうし、連絡はいつでもいいから」
「すまない。出張中は気を張ることが多いから、頻繁にメッセージもできないと思うけど……待っていてほしい」
「うん」
それぞれの家に向かう交差点で別れると、美玲は颯爽と歩く誠治の後ろ姿を眺めた。本当はいつでも一緒に過ごしていたい。海外に行って離れていた彼を、空港で「おかえりなさい」と迎えたかった。
――でも、プロポーズの予約って、言ってくれたから。
彼が帰国すればすぐに結婚に向けて動き出す。込み上げてくる嬉しさのあまり、風船のようにふわふわと浮かれた気分で、美玲は自宅のアパートに向かった。
◆
それから二週間。
「今度はハロウィンかぁ」
流暢なフランス語を生かして外国語スクールの教師をしている美玲は、イベント準備のための買い出しをしていた。いかにも怖そうなお化けや魔女のコスプレなど、毎年恒例の季節行事。
郊外にある大型ショッピングモールに、ハロウィン用の飾りがたくさん売っていると聞き、気分転換を兼ねてやって来たけれど……子ども連れの家族の多さに、独身の美玲は驚いた。
普段は都心で買い物をすることが多いから、ここに来るのは久しぶりだ。ふらりとウィンドーショッピングをしながら目的の店を探していると、反対側の通路を見知った顔が横切り美玲は振り返った。
――え? 帰国するのは明日のはずなのに……どうして?
誠治と思しき男性が歩いている。まさか、と二度見するけれど、あの後ろ姿はやはり彼に違いない。
長い足に濃いブルーのデニムパンツを穿き、ブラックのツイードジャケットの下には白のタートルネックのカットソー。普段よりもカジュアルな装いをしている。それだけでなく、隣には黒髪の美しい女性と……二歳ぐらいの男の子がいた。
――まさか!
ドクン、ドクンと心臓が嫌な音を立てている。さっきまで聞こえていた、ざわつくフロアの音が静まり、彼の姿がスローモーションのように流れていく。音のない景色の中で、誠治が隣に歩く子どもを抱き上げて微笑んだ。
美玲は呼吸を止めた。
彼が抱き上げている子どもは、誠治にそっくりだ。二重の目も、形の良い眉も。いかにも賢そうな顔がよく似ている。
「なんで……」
疑問が頭の中をぐるぐると回っている。彼は一人っ子だから甥ではないし、どう見ても仲の良い親子にしか見えない。ぐずついていた子どもは、誠治に抱き上げられた途端、きゃっきゃとはしゃいでいる。
隣にいる女性は、鮮やかな紅色のワンピースを優雅に着こなし、幸せそうに微笑んでいた。
黒目の大きな顔立ちの彼女とは、以前一度だけ会ったことがある。
――あの女性は! 誠治さんの婚約者だと言っていた……!
日本人形のように白い肌に漆黒の細くまっすぐな髪。一重で切れ長の目に小さな唇。品のある佇まいは、日本の美を思い起こさせた。
いつか大使となる外交官の妻であれば、自分とは違い東洋系の美人の方がいいに違いない。そんな劣等感を抱かせるのに十分な美しさを持つ彼女に嫉妬していた。だから――
「誠治さん……うそ」
彼からは誰とも長く付き合ったことはないと聞いていたけれど、彼女は自分のことを誠治の婚約者だと言っていた。長いまつ毛を伏せ、清らかに微笑む姿を思い出しては悲しくなり、やはり自分はふさわしくないのかと苦しんだから、見間違えることはない。
誠治の隣に立つ彼女は――外交官の伴侶となるのにふさわしい気品を兼ね備えた、理想的な妻そのもの。
そして、誠治と似ている子どもが一緒にいる。やはり、彼の母親から聞いた話は本当だった。
ほんの少し前まで、誠治と結婚する未来を夢見ていたのに。現実を目の前にして、美玲の足は震えてしまう。通り過ぎていく彼らの後を追いかけたいのに、まるで床に接着剤で留められたかのように足が動かない。
「あなた、大丈夫? お顔が真っ青よ」
通りすがりの女性に声をかけられ、美玲はハッとして鞄を持ち直した。
「いえ……大丈夫です」
女性にそう答えると、まずは傍にあったベンチに腰かける。そして彼らのいた方向を見ると、どうやらフードコートのある場所に向かっているようだ。
――あ、行っちゃう……
彼の二股を目の前にしても、声をかける勇気が出てこない。
テレビドラマのように彼を糾弾するなんて、とてもできそうにない。何より子どもの目の前で言い争うことは、美玲には無理だった。
三人の姿が人込みの中に入っていく。現実とは思えない彼の裏切りに、美玲の心はナイフで切り刻まれたように血を流す。――痛い。痛くてたまらない。
呆然としていたあまり、美玲は後に、どうやって家に帰ったのかを思い出せないほどだった。
第一章
美玲と誠治はアフリカで出会った。
当時大学を卒業したばかりの美玲は得意の語学力を生かして、国際的な非営利団体の職員をしていた。
医療を専門とする団体は、どんな国であっても草の根の支援を絶やさない。以前からそんな世界に興味のあった美玲は、学生時代からボランティア活動をしていた。
内向きになりがちな自分を変えたくて頑張ったことが功を奏し、職員にならないかと声をかけられたのだ。
さらにはフランス語が流暢なことから、医療職をサポートするスタッフの一人としてアフリカに派遣された。
政情は不安定ながら、比較的落ち着いている地域と説明を受けていたけれど……美玲が派遣されて二年、内戦が一気に加速する。
「先生っ、大使館から連絡が来ました。邦人は退避するようにって」
団体の運営する診療所は北部にあるため、まだ静かだった。だが、南部にある都市は反政府組織が実効支配しつつある。
停電や断水が続き、日常生活を送ることも困難になってきた。何よりも、日本人が戦闘に巻き込まれてしまうと国際問題になりかねない。
美玲の場合、成人した時に日本の国籍を選んだといっても、以前はフランス国籍を持っていたから余計ややこしい。
一緒に働く医師の藤崎は眉間に皺を寄せた。彼は勤務していた病院を早期に引退し、ボランティア精神からアフリカの医療を支えるため、かれこれ五年もこの地に住んでいる。診療所への思いも美玲より強いに違いない。
髪に白い色が交じっているが、まだまだ体力も気力もある人だ。けれど、事態は一刻を争う。
「ここも戦闘地域になりかねないと。退避のため、自衛隊も国連も動いているようです」
「わかった。美玲君、荷物をまとめるんだ」
「はい」
こんなこともあろうかと、美玲はすでに準備をしていた。4WDのピックアップ・トラックには水や保存食、ガソリンを積んである。診療所を閉じることになるため、これまで支えてくれた現地スタッフに声をかけた。
『ごめんなさい、ここは一時閉鎖することになったの』
『うん、ミレイとドクターは日本人だからね』
外国人であっても、現地に溶け込めるように努力してきた。けれど、戦闘の危険が迫ると逃げなければいけない。でも、現地スタッフは自分たちと違って逃げる場所がない。
申し訳なさに胸を痛めながらも、自分たちが残り続ければ攻撃の標的にもされかねない。外国人は目立つため、どうしても狙われがちだ。
『ミレイ、これを持っていって』
看護師をしているマリアが、乾燥させたイチジクと木彫りの人形を渡してくれる。イチジクは貴重な甘味なのに、美玲は泣きそうになりつつもグッと彼女の手を握りしめた。
『ありがとう』
元気でね、とか、また会おうね、とか。そうした未来のある言葉をかけられない。彼女たちはこれから、厳しい現実に直面するからだ。
退職金代わりに多めの給料を渡し終えると、藤崎は診療所の扉の鍵をスタッフに渡して車に乗り込んだ。
厳しい目を診療所に向けながら、きっと再びこの地に戻りたいと思っているのだろう。
運転手に声をかけ出発する。悪路を進むせいで何度も車が跳ね、そのたびに舌を噛みそうになる。そのうち国道に出た車は、広大な平原が広がる地にまっすぐに延びる道路を走っていく。
車載無線を国連が開設しているバンドに合わせると、各国の退避する様子が流れてくる。時折、砂が入ったようにザラついた音を聞きつつ、美玲は緊張を緩めるように鞄を手繰り寄せた。
鞄には全世界対応の衛星携帯電話が入っている。停電を繰り返しながらも、この電話の充電だけは欠かさなかった。非常時には情報が命綱となるからだ。
美玲に連絡をくれた日本大使館の人は、一三条と言っていた。会ったことはないけれど、安全確認をしてくれた時の低い声が耳の奥に残っている。
「では、退避対象者は二名でよろしいですか」
「はい。あの、やっぱり国外に避難しないといけないのでしょうか」
「北部は比較的安定していますが、首都をはじめ南部の都市には攻撃がはじまっています。空港も占拠されたため、一刻も早く退避行動をお願いします」
「……そんなことになっているなんて」
都市から離れたところでは、銃声など聞こえてこない。今朝も鶏が元気に鳴いていたから、美玲には深刻な事態が実感できなかった。
「人は危険が迫っていても、危険と思いたくない、というバイアスがどうしてもかかります。おこがましいですが、僕を信じて行動を起こしてください。いつ、橋渡さんのところに攻撃があってもおかしくない状況です」
「でも、ここはまだ静かですよ」
「飛行場にある建物は、連日砲弾を受けています。外国人が残ると、人間の盾として利用される可能性があります。一刻も早く退避しましょう」
ここまで説得されてようやく、美玲は覚悟を決めた。藤崎も納得してくれるだろう。
「わかりました」
「っ……ありがとう」
一拍置いて、お礼を言われる。心配してもらったこちらがお礼を言うべき場面なのに、人の良さがにじみ出るやり取りに、美玲は安堵する。
彼のいる場所はきっと、美玲たちのいる場所よりも危険が迫っているに違いない。退避するなら、一時停戦をしている三日間の間に動かないといけない。それなのに、のんびりと答える美玲を落ち着いて説得してくれた。
――僕を信じて。
不思議と彼の言葉がすっと心に染み込む。目を閉じると低い声が聞こえてくるようだった。
このまま車で走って集合場所の日本大使館に行けば、彼に会える。こんな非常時にもかかわらず、美玲は一三条と名乗る彼はどんな人なのだろうかと想像した。
語っていた声の感じからは、かなり年上のような気もするし、まだ若い専門官のような気もする。
――どんな人かな……
車窓にはひたすら草原の景色が続いている。時折、小さな町を通り抜けていくけれど、どこもひっそりとして普段のような賑わいは見えない。
某国政府は軍隊の派遣を見送った、と無線から情報が流れてくる。
ここまで来るとさすがに、美玲も事態の深刻さを実感していた。そして、忍耐強く自分を説得してくれた一三条に改めて感謝するのだった。
土埃が舞い、直前まで戦闘が行われていた形跡が残る道を進むと、ようやく二人を乗せた車は日本大使館に到着した。首都の建物はところどころ崩壊していて、焼け焦げた臭いが漂っている。大使館の前面の道路には、大型バスが駐車していた。
黒い鉄柵のある門のところでパスポートを見せ中に入ると、広場には在留日本人と思しき人々が集まっている。受付の場所を聞いてそこへ向かうと、美玲の耳は聞き覚えのある声を拾った。
「橋渡美玲さんですね、一三条です」
美玲が振り返った先に、背の高い男性が立っている。ドクン、と心臓が跳ねる。――電話で聞いた声だ。
「はじめまして。橋渡です」
医師の藤崎と一緒に到着したことを報告すると、いかにも安堵したように彼は「良かった」と呟いた。白いシャツを腕まくりして額に汗をかいている。想像していたよりもずっと若く、整った容姿をしていた。
一三条は疲れた顔をしながらも、美玲を安心させるように微笑み、手を差し出してくる。
「電話では失礼しました」
「いえ、こちらこそ。あの時はありがとうございました」
強い視線を感じ、美玲は顎を上げると彼と目を合わせて手を伸ばす。ぎゅっと握りしめる大きな手が熱い。アフリカでは当たり前の仕草なのに、なぜか特別に強く握られている気がする。
漆黒の瞳をした彼は、美玲の少し薄い色をした瞳に気がつくと、確認するように声を落とした。
「橋渡さんは、確かフランス国籍を持っていましたね」
「はい、でももう日本国籍を選択しています」
「……わかりました。では、ここからは僕たちが全力で守ります」
意志の強そうな瞳で見つめられ、美玲は耳の奥にトクトクと心臓が速く脈打つ音を聞く。不安な時に、守ってくれるという言葉を聞いたからだと、自分を戒めつつも彼から目が離せなくなる。
一三条も同じように、美玲から視線を外さない。
ほんの数秒のはずが、永遠にも思えるほど見つめあっていたけれど――一三条は次々と到着する日本人の対応に呼ばれてしまう。
「では、説明はまた後で」
「はい」
名残惜しそうにしながらも、握手していた手がほどかれる。美玲は心を持っていかれたように、彼の後ろ姿を見つめることしかできなかった。
日本大使館に集まった人々は、国連の主導する退避団に合流することになった。各国の退避メンバーが集まり、何十台もの車が列になって進むようだ。
車列の先頭や最後、そしてところどころにどこかの国の軍隊が武装して並走する。
日本にいると目にすることのない光景を、美玲は緊張した面持ちで眺めていた。
まさか、こんなことが自分の身に起こるとは思っていなかった。内戦状態といっても、ここ数年武装勢力が攻撃するのは一部の地域に限られ、派遣先はそこからはずっと遠い静かな地域だった。
――しっかりしないとね……
美玲は不安に怯えそうになる気持ちを押し込める。
大使館に集まった人の中には子ども連れの人も、アフリカ人の妻を置いて日本に帰国する人もいた。妻の両親、兄弟姉妹はここにいるため、離れられなかったと聞く。そうした人たちにとって、この退避は心理的にかなり厳しいだろう。
結局、国外退避する日本人は六十名近かった。大型バスは用意されていたが、座席が足りないため美玲たちは乗ってきた車を提供することに決める。
ガソリンは予備の分まで載せているから、港に到着した後は運転手に任せることになる。
「すみませんが、僕も同乗させてもらえますか?」
大使館職員はそれぞれバスや車両に分かれて移動することになり、一三条は美玲の乗る車を希望した。座席は空いているので、彼が来るのは歓迎だ。
美玲が後部座席に移動すると、一三条が助手席に座る。
「ドクターがいると、安心しますね」
「こんな時は、できないことの方が多いですよ。医療品も最小限しか持っていません。私たちにしてみれば、一三条さんのような外交官の方が頼りですから」
藤崎が朗らかに笑うと、自ずと緊張がほどけていく。一三条は車についているアンテナを見て、「車両無線があるので助かります」と顔を緩めた。
衛星携帯電話の使用は控えるようにと国連からの通達があったため、無線から得られる情報が頼りだ。どこで武装勢力が傍受しているかわからないため、できる限り情報を漏らさないように気をつける。
車が走り出すと同時に一三条は無線をつけた。すると騒々しいほどのやり取りが交わされている。英語だけでなく、時折アラビア語でも交信しているが、一三条はその内容も理解しているようだった。
美玲はふと疑問に思ったことを口にした。
「アラビア語がわかるなんて、一三条さんは専門官としてアフリカに来たのですか?」
「いえ、僕は総合で入省しました。今は二等書記官です。……アラビア語は、学生時代に学んでいたから得意なだけですよ。外務省での研修言語はフランス語でした」
「まぁ、そうだったんですね」
アラビア語が堪能なので専門官職員と思われたが、彼は総合職、いわゆるキャリア官僚だった。
外交官には大きく分けて二つある。地域の言語や政情に通じた『専門官』と、将来は大使まで上り詰める『総合職』。
どちらも重要なことに変わりないが、普段であれば美玲がキャリア官僚である一三条に会う機会はほとんどない。
無線を使い、一三条は国連職員と連絡を取り合っていた。無線は携帯電話と違い、独特な言い回しが必要だが、それさえも完璧に使いこなしている。
「一三条さんは、なんでもできるんですね。こうした現場を経験されたことがあるのですか?」
「そういうわけでは……ただ、セキュリティ研修を兼ねて自衛隊の訓練を受けたのが役立ちました」
「はぁ、凄いですね」
何事にも動じない雰囲気でありながらも、時折美玲に見せる表情は柔らかい。ピックアップの後部座席に座ったまま、助手席に座る一三条の横顔を飽きることなく見つめてしまう。
辛く、不安になる道のりも彼がいることで不思議と落ち着くことができた。さらに、外交官として優秀な彼は他の国の外交官とも親しく、休憩時間の情報交換を怠らない。
吊り橋効果――危険な状況を一緒に過ごしたことで、相手を好きになってしまうというそれだと思いながらも、美玲の中で一三条の存在が大きくなっていく。
けれど――どれだけ準備していても不測の事態はやってくる。車の異変を感じた運転手は、車列を抜けると道の片側に車を止めた。
「あちゃ~、まいったな」
悪路を走っていたせいか、ピックアップ・トラックのタイヤの一つがパンクしているのを見て藤崎が叫ぶ。
車に乗っていた全員が降りると、砂を含む乾いた風が吹いてきた。周囲は赤茶けた風景が広がるだけで何もない。
幸いにも予備タイヤを載せていたが、交換するために持ち上げるジャッキが見当たらなかった。美玲は呆然と車を眺めることしかできない。
「橋渡さん、ちょっとお願いがあるんだけど」
乾燥した風が吹く中、立ちすくんでいると一三条が美玲に声をかけた。冷静な彼にしては珍しく、額に汗をかいている。
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