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   第一章 二度の婚約破棄


 五歳の頃から決まっていた婚約者に、ある日突然婚約の破棄を言い渡された。

「ど、どういうことなの? ブライス……。なぜ突然そんなことを……」
「君には本当にすまないと思っているよ、ロゼッタ。だけど……これ以上は、今は言えない。また後日、改めてご両親に挨拶させてもらおうと思うから」
「え? どうして……、ちょ、ちょっと! ブライスッ!」

 休み時間の終わり、学園の中庭にポツンと私だけを残して、ブライス・ヘンウッド子爵令息はそそくさと教室に戻っていった。
 婚約を、白紙に戻してほしい? もう十年以上の仲なのに?
 理由も言えない? そんな身勝手な話ってある?
 後日改めてご両親には挨拶に行くと? 思うからって何よ。私たちハーグローヴ子爵家に説明するのは当然の責務でしょう?
 怒りとショックで体がふるふると震えだした。両の拳をギュッと握りしめ、唇を噛み締める。ブライスのことは、特別な人として愛情を持って接しているつもりだった。
 涙がじわりとにじんできた。
 その日の夜、涙ながらに今日の出来事を話すと両親は当然激怒した。ブライスとヘンウッド子爵夫妻が我が家に謝罪に来たのは、それから一週間も後のことだった。

「一体どういうことですかな、ヘンウッド子爵。今後の業務提携の話も具体的に進んでいたというのに……。もう我々は家族も同然だと思っておりましたが」

 私の父、ジェームズ・ハーグローヴ子爵が不機嫌を隠すこともなくそう言うと、ヘンウッド子爵と夫人は申し訳なさそうな、戸惑ったような顔をした。

「いやぁ、たしかにそうなのですが……。本当に子爵にもロゼッタ嬢にも申し訳ないと思っております。ですが、愚息がその……」

 ヘンウッド子爵が言いよどむと、ブライスが続けるようにきっぱりと言い放った。

「他に、好きな人ができたのです。僕はすでにその人と将来を誓い合っております。……ロゼッタ、本当にすまない。僕のことは諦めてくれ。君にも真実の愛が見つかることを祈っているよ」
「は……?」

 勝手にこの話し合いを終わらせようとしている。納得できるわけもなかったけれど、この後私の両親がいくら問い質してもブライスは口を閉ざしたままだった。
「お相手の女性については、何かあってはマズイので……」などと、まるでハーグローヴ家が危害を加えることを警戒しているかのような嫌な言い逃れをする。

「……そちらの一方的な都合で婚約破棄などと都合の良いことは言わないでいただきたい。この婚約はもう十年以上も前に書面を交わしてあるのですぞ。娘を傷つけ、我がハーグローヴ家をかろんじるような行いを、法にのっとってしっかりつぐなっていただきたい」

 最後まではっきりしない態度をとり続けたヘンウッド家だったが、その後私たちが弁護士を通して請求した慰謝料には納得いかないと争う姿勢を見せてきた。私が浮気をしていた疑惑がある、ブライスへの態度が傲慢ごうまんだったなどと、後から無理のある言いがかりをしてどうにか慰謝料を減額しようとしていた。

(訳が分からない。ブライス……、あんな人だなんて思わなかった。いつから? いつから私を裏切って他の女性を愛していたんだろう……)

 もう男の人を信じられなくなりそうだった。
 通っている貴族学園でもあっという間に私たちの婚約破棄のうわさは広まり、皆から好奇の目で見られるようになった。居心地が悪くなり、毎日が最低の気分だった。
 しかし、私ロゼッタ・ハーグローヴの災難はこれだけでは済まなかったのだ。


   ◇ ◇ ◇


「ロゼッタ! おはよう。大丈夫か? 大変だったな」
「……アルロ、おはよう」

 ブライスとの婚約破棄の話し合いから数日後、久しぶりに幼なじみのアルロ・ダウズウェル伯爵令息と会った。私の母とアルロの母は若い頃から親しく、結婚後も密に交流があったため、自然と私とアルロも子どもの頃から仲が良かった。

「もう耳に入っているのね」
「まぁな。誰も彼もがお前たちの婚約破棄の話で盛り上がってやがる。……ったく、皆好きだよな、人のうわさ話がさ」

 こうしてアルロと並んで校舎へ向かって歩いている今でさえ、周りにいる生徒たちがこちらをチラチラ見ながらささやき合っているのが分かる。私は溜め息をついた。

「ロゼッタ。元気だせよ」
「うん……。ふふ、ありがとう。大丈夫よ」

 少しも大丈夫ではなかったけれど、アルロに余計な心配をかけたくなくて無理矢理笑顔を作る。アルロはそんな私を気遣わしげな目で見ていた。
 私に追い打ちをかけるように、隣のクラスのブライスが学園内である女性と一緒にいるのを見かけるようになった。
 エーベル・クルエット伯爵令嬢。私と彼女はクラスが違って、会話を交わしたこともない。だけどその可憐な容姿は学園内でも有名で、私も前々から綺麗な人だと思っていた。
 美しい赤い巻き毛はつややかで、いつも綺麗に薄化粧をしている。肌が真っ白で、とてもか細く華奢きゃしゃな人だ。クリクリとした大きな青い目は同性から見ても魅力的。一言で言えば、「守ってあげたい」と大抵の男性が思うようなタイプの、それはそれは可愛いご令嬢なのだ。
 今も教室の窓から中庭を覗くと、ブライスとクルエット伯爵令嬢が仲睦なかむつまじく二人で秘密の会話を楽しむかのように寄り添っている姿がちらりと見えて、私はぱっと目を逸らした。

「ロゼッタさん、大丈夫ですか? あの方でしたのね、ヘンウッド子爵令息の秘密の恋人って……」
「私たち、ロゼッタさんのことが心配なんですの。幼い頃から婚約していた仲だったのでしょう? ヘンウッド子爵令息とは。それなのに、今になってこんな……、あんまりですわ」

 大して話したこともない令嬢までぞろぞろとやって来て、私に無遠慮な言葉を投げかけてくる。

「……あは。どうも、ご心配ありがとう、皆さん」

 心配心配と言っているその目には明らかに探るような好奇の色が浮かんでいて、全くいい心地がしない。

(デリカシーないなぁ。余計に傷つくんですけど)

 悪気があるのかないのか、こんなことが重なるにつれて私は徐々に憔悴しょうすいしていった。
 そんなある日のこと、帰宅しようとしていた私は例のご令嬢から突然話しかけられた。

「……あ、あの……」

 か細い声に何気なく振り向くと、そこにはエーベル・クルエット伯爵令嬢が立っていて、上目遣いで私を見ていた。心臓が大きく跳ねる。私はできる限り平静をよそおって答えた。

「……なんでしょうか、クルエット伯爵令嬢」

 やはり声がかすれてしまった。下校途中の同級生たちが、興味津々きょうみしんしんといった様子でわざとゆっくり通っていったりする。

「……あ、謝りたくて。ごめんなさい、ロゼッタさん……。あ、あなたの婚約者だったブライス様が……、わ、私のことを……っ。ごめんなさい……ごめんなさいぃ……っ!」
「っ⁉ ちょ、ちょっと……」

 なんとクルエット伯爵令嬢は突然両手で顔を覆うと大きな声で謝り、号泣しはじめたのだ。周囲にいた生徒たちの視線が一気に集まる。わざわざ隣の教室から顔を出してこちらを見ている人たちまでいる。

「ゆっ、許して、ください! お願いですから……っ。わ、私……私っ、ふ……うぅぅ……っ」

 周囲の視線にとげとげしいものが混じっている気がして、私は大きく溜め息をついた。
 傍から見れば私がエーベル・クルエット伯爵令嬢をいじめているように見えるのかもしれないが、私だって別に、やたら体格が良いわけでも男勝りなわけでもない。
 金髪に緑色の瞳に、きちんとお手入れをした白い肌。髪だってしなやかだ。時折男子生徒たちから声をかけられたりデートに誘われたりするぐらいだから、きっとそれなりに小綺麗に見えているのだろう。
 だけど目の前のこの女性は、私など比較にならないほどに愛らしい。顔を覆って震わせているこの指のか細ささえ、とてもかなわない。

「……可哀相だわ、見て、あれ」
「ええ……。きっとクルエット伯爵令嬢にも、何かよほどの事情が……」

 私はまだ何も言っていないというのに、案の定、周囲からはそんな声が聞こえはじめた。迷惑もいいところだ。私は落ち着いた声で彼女に言った。

「……あの、泣き止んでくださらない? クルエット伯爵令嬢。あなたにそんな風に大きな声で謝られると、まるで私があなたを責め立てているみたいだわ」

 だけど私のその言葉を聞いたクルエット伯爵令嬢は、ますます激しく声を震わせる。

「あっ……あぁぁっ……! ごめんなさいっ、違うんです……! そ、そんな……私そんなつもりじゃあ……っ」

 はぁ……、と私が再度溜め息をつくと、同じクラスの男子生徒たちが声をかけてきた。

「ハーグローヴ子爵令嬢、もう止めてあげないか。何もこんなところで……」
(……え?)

 ぞろぞろと集まってきた数人の男子生徒は、明らかに私がクルエット伯爵令嬢を泣かせたと思っているような口ぶりだ。

「もっとブライスとよく話し合ってみたら? 君がそんな感じだから、二人の気持ちがすれ違ってしまったんじゃないかな」
「い、いいんです、皆さん。あ、ありがとうございます……。でも、お願い……。私、ちゃんとロゼッタさんとお話したいんです。こうして誤解されたまま、冷たい態度をとられ続けたくはないの……。大丈夫、私は大丈夫ですから……。今は、どうか二人きりにして……」

 彼女が口を開けば開くほど、なぜだか私が悪者になっていく。

「……分かったよ、エーベル嬢。……気を付けて」

 いや、気を付けてって、何。
 集まっていた数人は私を責めるような目で見て去っていく。遠巻きに見ていた人たちの中にも、同様に敵意ある眼差しをこちらに向けてくる人がいた。
 ますます気持ちが沈んだ時、クルエット伯爵令嬢が突然声をひそめて言った。

「……そういうわけですの。今の方たちのお話、聞いたでしょう? ロゼッタさん。私、別にブライス様と恋人同士になったわけではありませんのよ。ですから、当然婚約の話だってしていないわ。分かります?」
「……え?」
「つまりね、うちにはあなたのお宅に慰謝料を支払う義務はありませんの。誤解されてはいけないと思って……。一度ちゃんと伝えておきたかったんです」
「あの」
「ブライス様からはたしかに愛を打ち明けられましたわ。でもね、あなたとの婚約を勝手に破棄したのはあちらだし、私と彼はこれからゆっくりとお互いを知っていけたらいいなというぐらいの仲ですの。つまり、ただの友人関係ですわ。……だから勘違いなさらないで。ね?」
「あ、あなた……」
「分かります? もう一度言いますけど、あなたとブライス様の婚約破棄の原因は、断じて私ではありませんわ。……変なこと考えないでちょうだいね。では、失礼しますわ」

 誰も周りにいなくなった途端にきっぱりとそう言い切ると、クルエット伯爵令嬢は口元にハンカチを当てクスンクスンと鼻を鳴らし、泣き真似をしながら去っていった。

(あの人って、少しもか弱くなかったのね……)

 明らかに確信犯だ。同じ女だからこそ分かる。
 私は呆気あっけにとられて彼女の後ろ姿を見送った。廊下の向こう側には、ハンカチを握ったままうつむいている彼女の周りに数人の男子生徒が集まっているのが見える。一人は背中に手を当ていたわっていた。
 この一件により、私は気が強くて、ブライスに振られた腹いせにクルエット伯爵令嬢をいじめているといううわさが学年中に流れはじめた。普段から親しくしていた一部の友人たちを除き、私は皆から白い目で見られるようになったのだ。

(なんでただ婚約破棄されて傷ついているだけの私が悪者になるのよ……。こんなのあんまりでしょ……)

 傷口にさらに塩をすり込まれたようなそんな日々の中、幼なじみのアルロからある日再び声をかけられた。

「ロゼッタ、ちょっと、お前に話があるんだが……」
「うん? 何? そんなに改まって」
「ここではちょっと。放課後、時間をもらえるかな」
「……うん。別に、いいけど」

 一体どうしたのかしら。なんだか知らないけど耳たぶを赤くして視線を泳がせているアルロの様子に、私は首を傾げたのだった。
 その日の放課後、私はアルロに連れられて学園から少し離れた大きな公園の広場に来た。
 並んでベンチに座ってぼんやりと目の前を通り過ぎる人々を見ていると、ふいにアルロが言った。

「あ、あのさ、ロゼッタ。……俺、お前のことが、好きなんだ」
「うん。……ん?」

 聞き間違いかと思って、隣のアルロの顔を見る。そのまなじりは朱色に染まり、ぎゅっと引き結んだ口元は強張っていて、とても冗談を言っているようには見えない。

「ア、アルロ……?」
「ロゼッタ。俺さ、子どもの頃からお前のことがずっと好きだったんだ。だけどお前はブライス・ヘンウッドとの婚約が決まっていたし、とても俺が入り込む隙なんてなかった……。だから、この想いはずっと自分の胸の中に秘めておくしかないって、そう思っていたんだ。でも……、今ならもう、言ってもいいよな? 俺の恋人に、なってほしい」

 そんな……、本当に?
 アルロは私にとって、ただの仲の良い幼なじみだった。一緒にいると楽しくて気が合う、身内と言ってもいいくらいに近しい存在。
 そんなアルロが……、私のことを、好きでいてくれたなんて……
 アルロの真っ赤な顔を見ているうちに、私の頬にもじわじわと熱が移る。互いに見つめ合い、あまりの気恥ずかしさに私が先に視線を逸らした。

「お前さえよければ、正式に婚約の手続きを進めたいんだ。俺ならお前を泣かせたりしない、ロゼッタ。あんな軽薄な男より何倍も、俺がお前を幸せにする」
「ア……アルロ……」
「俺の恋人になってくれ」

 胸がいっぱいになって言葉が出ない。頭の中には様々な思いが巡っていた。アルロなら……、小さな頃からずっと仲よくしてきたアルロとなら、素敵な関係を築けるんじゃないかしら。

「ア、アルロは、本当に私でいいの……? 十年来の婚約者から婚約を破棄されて、学園でも社交界でも悪い意味でうわさまとなのよ……? 傷ものよ、私。あなたなら、他にもっといくらでもいいご縁が……」
「関係ない。周りのうわさとか、そんなものどうでもいい。ロゼッタ、お前はそんなこと一切気にしなくていいんだ。俺が守るから」
「……アルロ……ッ」

 私の不安をさえぎるようにきっぱりとそう言った彼は、今までで一番格好よく見えた。傷つき弱っていた私の心に覿面てきめんに効いた。
 だから私はアルロの告白と、その言葉を信じた。

「……ありがとう、アルロ。……よ、よろしくお願い、します……」
「っ‼ いっ、いいのかっ⁉ ロゼッタ! ほ、本当に?」

 パッと顔を輝かせたアルロが突然私を強く抱きしめた。

「きゃっ! ちょ、ちょっと、アルロったら……!」
「やった……! 嬉しいよロゼッタ! 大事にするからな!」
「ふふ……。もう……」

 子どものようにはしゃぎながら喜ぶアルロに、私も素直に嬉しくなる。

(……婚約破棄も、無意味じゃなかったのかも)

 それからすぐに、私とアルロは互いの両親に交際を報告し、婚約の許しを請うた。

「ダウズウェル伯爵家の子息か」
「いいじゃありませんのあなた! 素晴らしいご縁だわ。夫人とは若い頃からよく見知った仲なのだけれど、とても素敵な方よ。きっとアルロさんも立派な方のはずだし、何よりロゼッタを心から想ってくれる男性がいるのなら……」

 傷ついた私のことをずっと心配していた母は、喜んでくれているようだった。たしかに我が家にとっては悪い話ではないと言った父は、後日アルロの父親であるダウズウェル伯爵と話し合いの場を設け、私たちの婚約はすんなりとまとまった。

(よかった……。一度婚約破棄された私とご子息との結婚を、アルロのご両親は承諾してくれたのね……)

 もう良縁は望めないかもしれないと思っていた私は心からホッとした。
 幼い頃から、私のことを一途に想ってくれていたというアルロ。
 きっと優しい旦那様になってくれるだろう。
 何より両親を安心させられたことが嬉しかった。
 アルロに感謝しなくては。
 私は心からそう思っていた。


   ◇ ◇ ◇


 ブライスに婚約破棄を言い渡された私が再び婚約したという話は、またたく間に学園中のうわさになった。

「すごいですわねぇ、ハーグローヴ子爵令嬢、まだヘンウッド子爵令息との婚約破棄から二月ふたつきも経っていませんのに……」
「もしかして、全て計画のうちだったとか?」
「あら、まさか。ほほ。そんなこと言っちゃ失礼よあなた」
「ふふふ、冗談よ。ごめんなさいね、ハーグローヴ子爵令嬢。モテモテでうらやましいわってことよ」
「お上手なのねぇ、殿方を手のひらで転がすのが」

 何よ、この人たち。嫌味ったらしいわね……
 こんな風に意地悪を言ってくる女子生徒たちもいたけれど、私は意に介さないふりをした。なんとでも言えばいい。いろいろ陰口を叩かれるのも分かっていた。分かっていて、私はアルロの婚約の申し出を受け入れたのだから。
 私はハーグローヴ子爵家の娘として最良の選択をしたと信じていた。

「ロッ、ロゼッタ!」
「……なんでしょう、ヘンウッド子爵令息」

 私たちの婚約が知れ渡ってから数日後、ブライスがおずおずと声をかけてきた。

「そ、そんな他人行儀な呼び方しないでくれよ。はは。……いやさ、君の婚約の話を聞いて……、よ、よかったね。これでお互い幸せになれたわけだ。安心したよ」

 そういえば、この人とあのエーベル・クルエット伯爵令嬢の関係って一体どうなっているのかしら……。この人は〝将来を誓い合っている〟なんて言っていた気がするけど、彼女の口ぶりからはとてもそんな様子は感じられなかった。

(向こうにその気はなさそうよ、って教えてあげた方がいいのかしら。……ま、いっか。私にはもう関係ないし。慰謝料さえきちんと支払ってもらえればどうでもいいわ)

 数秒間でそう結論を出した私は、淡々と彼に答えた。

「祝福してくださってどうもありがとうございます、ヘンウッド子爵令息。ですがそんなことより、早急に慰謝料のお支払いをお願いしますわね。いろいろとゴネていらっしゃるようですが、私あなたに対してひどい態度をとったことがあったかしら?」
「……あ、い、いや、その」
「あなたに傲慢ごうまんな態度をとった? 私が浮気をしていた? ……随分な言いがかりですわね。裏切ったのはどちらかしら? 下手な言い逃れは通用しませんわよ」
「……ひ、ひどいなぁ。せっかくお祝いを言おうと、声をかけたのに、随分冷た……」
「責任から逃れないでいただきたいわ。私が新たに婚約したからといって、あなたがたの支払い義務がなくなるわけではありませんのよ? では、失礼」

 大切に思っていた分、反動のように嫌悪感が押し寄せる。
 ズバッと言い切ると、私は彼の前からさっさと立ち去った。
 学園中敵だらけのようだけど、私にだって心を落ち着けられる居場所くらいある。

「本当によかったわね、ロゼッタ。どうなることかと心配していたけれど、まさかダウズウェル伯爵令息が、ロゼッタのことをずっと好きだったなんて……っ」
「まるで恋愛小説みたいじゃないの! 昔からの幼なじみが密かに想いを寄せてくれていて、ヒロインのピンチを救ってくれる、なんて」
「素敵っ! きっと優しい旦那様になってくれるわよ」
「も、もう、やめてよ皆……。……でもありがとう、喜んでくれて」

 普段から仲良しの女子生徒たち数人に囲まれて、その日私は久しぶりに楽しい気分でランチタイムを過ごしていた。

「でもね、私はなんとなく気付いていたわよ。アルロ様ったら、ロゼッタの様子をいつも気にかけているようだったし、よく話しかけてきてたでしょう? もしかしたら好きなんじゃないかしらって思うことも何度もあったわよ」
「ええっ、そうなの?」
「やだ、私は全然気付かなかったわー」
「……私も、全然気付かなかった……」
「もう、ロゼッタったら、意外と鈍感なのね?」
「ふふふふ……」

 しばらくそんな話で友人たちと盛り上がっていた私は、ふと視線を感じ、何気なく振り返った。

(……っ!)

 するといつの間にか、あのエーベル・クルエット伯爵令嬢が後ろのテーブル席から、頬杖をついてこちらをじっと見つめていたのだ。

(び、びっくりしたぁ……。さっきまで他の方たちが座っていたはずなのに……)

 彼女は珍しく一人のようだった。いつもなら男子生徒に囲まれているかブライスと二人でいることが多いのに。
 友人たちは誰もクルエット伯爵令嬢の存在には気が付かない。

「正直、ヘンウッド子爵令息ってちょっと頼りない感じじゃない? いつも自信なさげでオドオドしてるし」
「ええ、成績もあまりよくないしね」
「それに比べてダウズウェル伯爵令息は頭もいいし、家柄も格上だわ。ロゼッタにとってよりよい話なのは間違いないわよ!」
「ちょ、ちょっと、もういいってば……」

 私は慌てて声をひそめるようジェスチャーをしてみせたけど、盛り上がる友人たちは一向に気付く気配がない。
 刺々とげとげしい視線が背中に突き刺さってくるようで、私はなんだか怖くなった。おそるおそる、もう一度肩越しにチラリと後方を確認してみると――

(…………っ)

 クルエット伯爵令嬢が、いつものか弱げな雰囲気からは想像もつかない鋭い視線で私を睨みつけていた。
 私はその視線に、なぜだか嫌な予感をぬぐうことができなかった。


   ◇ ◇ ◇


 それからしばらくは幸せな日々が続いた。
 ハーグローヴ子爵家が王都に構えるタウンハウスにはアルロとご両親が何度も訪れ、皆で料理やお喋りを楽しむ機会が増えた。

「まさか私たちの子どもが夫婦になるなんて……。人生って不思議よね、ルイーズ」

 ダウズウェル伯爵夫人が楽しそうにそう言うと、母も嬉しそうに答える。

「ええ、本当ね。……私とダウズウェル伯爵夫人はあなたたちが通っている学園の同級生でね、あの頃は毎日一緒にいたのよ」
「お母様ったら……、何度も聞いているわ、そのお話」

 母親同士の仲がいいものだから、食事の席はすでにすっかり家族ぐるみといった雰囲気だ。ニコニコと楽しげに過ごしている母を見るのはとても嬉しかったし、そんな私のことを優しい眼差しで見守ってくれるアルロにも安心した。
 父親同士もこの縁を喜んでいるようで、仕事の話で盛り上がっている。

「……広大ですからな、ダウズウェル領は。あちらの方は気候にも恵まれておりますし、うらやましい限りですよ」
「いやしかし、ハーグローヴ子爵領で採れる果実の評判はあちこちで耳にしますよ。最近では子爵領産のブドウを使ったワインが特産品として有名になっているそうですな……」

 何もかもが上手くいっている。
 私はすっかり安心しきっていた。
 だからこそ、それから半年も経たずにアルロがあんなことを言い出すとは思ってもみなかったのだ。

「別れてほしいんだ、ロゼッタ。本当に……申し訳ない」

 卒業を間近に控えたある日の放課後。
 二人きりの教室の空気は、アルロの一言でずしんと一気に重たくなった。

「な……何を言っているの? アルロ」

 何度問い返してみても、アルロはただ黙ってうつむいているばかり。私は苛立って声を荒らげた。

「アルロ、いい加減にして! どうして黙っているの⁉ 別れるって、どういうこと? それってつまり……、私たちの婚約は、破棄するってこと?」

 私はまた、婚約破棄されるの……?
 怒りからか、不安のせいか、私の全身が小刻みに震えはじめた。じっとしていられずに思わず立ち上がる。

「……好きな人が、できたんだ……」

 アルロの言葉に、頭の中が真っ白になった。

「……うそよ……」

 指先がすうっと冷たくなっていく。信じたくなかった。私がどん底にいる時に優しく手を差し伸べて、私を救ってくれたはずのアルロが。


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