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1巻
1-1
しおりを挟むⅠ
「踊ってください、私の王子様」
黒髪の美丈夫が優雅に跪き、壁の花と化していたレオンの手を取った。男の表情は無機質で彫像のようだが、オニキスを思わせる瞳の奥に、焔が籠ったような情熱を見せていた。
春は出会いの季節だ。
ここフランメル王国では、春シーズンを皮切りに年四回のお見合いダンスパーティーが開催されている。その舞台となる王城のパーティー会場に、ざわめきが波のように広がるのをレオンは感じ取り、顔をしかめた。
(随分古い作法でダンスの申し込みをしたものだ。悪目立ちしているじゃないか)
魔導で車が走る現代に、馬車が主力だった時代の騎士が迷い込んだかのような時代錯誤。
普通は踊りませんかと声をかける程度と聞いていたし、実際会場内を二時間観察していても、みな軽いやり取りで踊り始めていた。
少し居心地が悪くなるが、せっかく申し込んでくれた相手を無碍にするのも申し訳ない。男は若干引いているレオンの様子を感じたのか、戸惑うように瞳が揺れている。
(それはこちらも同じだと叫びたくなるな……)
レオンはええいままよ、と取られた手を握り返し、立ち上がるよう手を引いた。そして引き寄せた彼とごく近い距離で視線を合わせ、圧の籠った声で返答する。
「踊りましょう、私のお姫様」
オメガであるレオンは、アルファである黒髪の男を〝お姫様〟呼ばわりした。
(王子様と呼ばれる〝出来損ないオメガ〟に関心を持ってくれる変わり者のアルファだ。関心を持たせ、私を引き取ってもらわなければならない)
この見合い会場で、相手を確保しなければ自分に自由はないのだ。
◇◇◇
――この世界には男女の性とは別に、アルファ・ベータ・オメガという第二性が存在している。
人口のほとんどを占めるベータは普通の人間であり、特筆すべきは、一割にも満たないアルファとオメガという存在だ。
アルファは強靭な肉体と優れた頭脳を持っているため、多くの貴族家は当主にアルファを据えている。
そして、その支配階級に君臨するアルファと〝番〟という唯一無二の関係になれるのが、オメガだ。
オメガは産む性という性質を持っており、男であっても妊娠できる。
三か月に一度訪れる発情期におけるオメガの妊娠率は他の性と比べてはるかに高い。しかも、アルファとの間に生まれた子供は、必ずアルファかオメガになるのだ。半々の確率でアルファを産めるということが、オメガに最も価値を見出されている点である。
だが、発情期を過ごすオメガは大変だ。
この特定の期間中、オメガは生殖本能に支配され、文字通りの発情状態となる。その程度は、一週間にわたる発情期の、開始三日間の記憶が飛ぶほどの強烈な興奮状態となることからも理解できるだろう。
当然、これは生殖のために起こるので、オメガの意志は無関係に、身体はアルファの精を求めるように反応する。アルファにとって発情期のオメガとの交接は、至高の快楽と言えるのだ。
しかし、オメガのすべてがアルファにとって都合がいい訳ではない。
オメガは常にアルファを惹きつけるフェロモンを発しているのだ。特に発情期になると、そのフェロモンはアルファの理性を奪うほど多量に分泌される。
貴族社会において、性的なトラブルは名誉を汚し、時に致命的な結果を招く。そのため、オメガのフェロモン事故を忌避するようになるのは当たり前のことだった。
要するに、この強力な誘引力を持つフェロモンこそが、オメガ性が社会的地位を確立できず、疎まれてしまう原因となっていたのである。
(こういったダンスパーティーができるのも〝フェロモン抑制剤〟があればこそだ)
半世紀以上前に開発されたフェロモン抑制剤によって、発情トラブルは防げるようになり、オメガの地位は表面上は向上した。
しかし、あとになって〝成長期にフェロモン抑制剤を使用すると、性成熟が妨げられ、妊娠率の低下や出産時の死亡事故が増加する〟という恐ろしい副作用が判明する。
この副作用が分かった時点で、国はオメガを収容する〝楽園〟を作った。
エデンはオメガと診断された子供たちを集め、抑制剤を使用せずに育てる全寮制の学園だ。成人し、性成熟に問題がなければ卒業となり、その後一年以内に番を作る決まりになっている。
国がこの制度を強引に押し進めているのは、薬の副作用によって減少したオメガの人口回復を促すためだ。
子を産み、増やせという政策は人権意識の高い現代社会では反発を呼びそうだが〝フェロモン抑制剤の使用を短期間に抑え、オメガの健康に生きる権利を守る〟というのが表面上の理由となっているため、反対の声は聞こえない。
アルファとオメガが番になれば、放たれるフェロモンは番相手にのみ効果を発揮するようになるので、オメガの生活は確かに楽になる。社会に出て、働く道も開かれるのだ。
だが別の視点から見ると外出するにも番を、少なくとも婚約者を持つ必要があり、それができないのなら自由が制限されるとも言える。
――まるで籠の鳥のように。
そういった背景から、ダンスパーティーは婚約者を見つけるための見合いの場として開催されている。
◇◇◇
学園を卒業したレオンは、初回のパーティーに挑んだものの、予想以上に誰からも相手にされず、すっかり壁の花となっていた。
(やはり〝オメガ〟らしい愛らしさがないせいだろうな……)
レオンは決してナルシストではないが、自身の容姿が整っていることは自覚している。
柔らかな金色の髪は艶やかで、天使の輪を形づくっているし、澄んだ青色の目は周囲からサファイアにたとえられることが多い。白磁のような肌は滑らかで、頬は健康的なバラ色。ふっくらとした唇はキスをすれば大層気持ちいいだろう……と、口づけ未経験者でありながら思うほどだ。
難があるといえば、背が高く、肩幅もあり、腕っぷしが強いという辺りだろうか。
オメガしかいないエデンで、アルファのような見た目であるレオンは、モテにモテた。
何か問題が起きれば頼りにされることも多く、それに喜びを感じて、進んで解決に取り組んでいた。その結果、いつの間にやらエデンでは〝王子様〟というキャラクターに祀り上げられていた。
しかし王子様ともてはやされてオメガたちからの人気はあったものの、アルファから見ればオメガの魅力に欠ける出来損ないに過ぎなかった。
加えて、レオンはまだ一度も発情期を迎えたことがなく、身体機能的にも、オメガとしては不完全と言えるだろう。フェロモンも薄く、フェロモン抑制剤を使えばほとんど香らない。
オメガとしての魅力が無い無い尽くしだから、この現状に陥っている。
そんな中、手が差し伸べられた。
レオンは誰であろうとも受け入れるほどには自暴自棄になっていないが、それでも彼は救世主のように思えた。たとえ初手のアプローチが奇抜であっても目をつぶる。
レオンは立ち上がった男をじっと観察した。彼の身長は高身長のレオンを超えており、目を合わせるためには視線を少し上げる必要がある。
印象的なのは、夜の闇よりなお深いと思わせる黒い瞳だ。
その双眸は鋭さがあるものの、甘さを感じるのは長いまつ毛に彩られているからだろうか。目元に影を落とす彫りの深い顔立ちはアルファ性を殊更主張していた。
整髪料で整えた短い黒髪も、仕立てのよい黒のドレススーツも、慌てて会場にやってきたのか少し乱れている。それが彼の完璧さをわずかに崩し、色香を感じさせる隙を作っていた。
(綺麗だ……)
周囲から注目もされないレオンに声をかけてくるには、上等すぎる男だった。
そのためレオンは、たまたま暇そうにしていた自身に、戯れに声をかけたのだ、と推測した。
彼がレオンの次に誰を誘うか分からないが、おとぎ話に出てきそうな古の騎士しぐさで他のオメガが気まずい思いをするのは可哀想だ。早めに理解してもらうのが彼自身のためにもなるはずだ、とレオンはアドバイスを口にした。
「悪目立ちする申し込みはやめたほうがいい。私はともかく、オメガは気の弱い者も多いから困らせてしまうだろう」
男はレオンの言葉によって青ざめた。すぐさま姿勢を正し、強い口調で訴える。
「あなた以外を誘うつもりはない」
「それは光栄だが……いや、名乗らず話を進めるのはよろしくない。私はレオン・アイディール。きみの名を聞いても?」
レオンは男の勢いに狼狽えつつも、軽く受け流した。
彼はその対応にグッと唇を噛む。しかし、ダンスを誘う前にまず名を名乗り、挨拶するのが礼儀だと分かっている様子だ。なぜ奇妙なアプローチをしてきたのか分からないが、理解しているのであれば問題ない。
「変な誘い方をして申し訳なかった。はじめまして、レオン。私はジェラルド・エース・クイン。近衛騎士をしている」
「クイン……クイン家の」
レオンは思わぬ家名に目を瞬かせた。
フランメル王国には王家が存在するが、実務は筆頭五家と呼ばれる旧家によって行われている。軍事・宗教・経済・医術・魔術という各分野がそれぞれの家に割り振られていて、クイン家はその中で軍事を取り仕切っている。
家名の前に冠された〝エース〟はそのまま五家の序列一位であることを表していて、政治的発言力はとても強い。
「家名は気にしなくていい。私は次男だし、家も出ている。ただの騎士だ」
「なるほど。……安心した。大きな家名を背負うなど、私では力不足だからな」
「そんなことはない。あなたは……」
ジェラルドの言葉尻は、会場に流れるワルツ曲の盛り上がりにかき消され、上手く聞き取れなかった。しかし、赤く染まった頬を見る限り、悪いことを言われた訳ではなさそうだ。
初対面にもかかわらず、奇妙なほど好意的な様子を見せる彼に引っかかりを覚えるが、好条件の相手が自分を強く求めてくれるなら、その好機を逃す訳にはいかない。
今度はレオンから誘いをかける。
「次の曲が始まる。踊ろうか、ええと」
「ジェラルドでいい。敬称もいらない。レオン」
「分かった、ジェラルド」
そう言って、レオンはジェラルドの手を取り、ダンスホールの中央へと躍り出た。
ジェラルドはレオンを王子様と呼んだだけあって、自然に女性パートに収まってリードを求めた。レオンは男性パートでの踊りに慣れており、自分よりも背の高いジェラルドとも問題なく合わせられる。
この場合の男女パートの役割はベータ基準で呼ばれており、アルファとオメガが踊る時はアルファが男性パート、オメガが女性パートを踊るのが通例だ。
アルファであり、さらには他の貴族をも引っ張る筆頭五家の男性がオメガのリードを受ける姿は、滑稽に見えるかもしれない……という、レオンの抱いていた危惧は杞憂だったようだ。しなやかで華のある彼の姿は、会場中から感嘆のため息を引き出していた。
「きみ、かなり上手いな」
「レオンのリードがいいからだろう。それに、ダンスは数少ない趣味だ」
確かにダンスの善し悪しを決めるのはリードする側の腕ではあるが、ジェラルドはまるでレオンの動きの先を読むかのように動いてくれるので、踊っていてストレスがない。気を配ることなく踊れるのがレオンは純粋に楽しかった。
「こうして踊っていると、子供の頃を思い出すよ」
レオンは性分化前の時期――ただのレオンだった頃を思い出す。
こちらを見つめるジェラルドが、幼年学校の裏庭でよく一緒に踊っていた少女――シェリーと、髪や瞳の色合いが同じだからだろうか。
「エデンに入る前……幼年学校時代に出会った女の子がいてね。ダンスを教えてあげてたんだ。ああそういえば、先ほどきみが口にした誘い文句の『踊ってください、私の王子様』って、もしかして絵本からの引用じゃないか?」
「……そうだ」
「やっぱり。何度も読んであげたからセリフを覚えてる。懐かしいな」
レオンは話しながら微笑んだ。
シェリーは絵本に描かれた金髪の王子様の絵がレオンに似ていると言っていたし、思い返すとレオンを王子様と呼んだのはシェリーが最初だったかもしれない。
レオンも彼女をお姫様扱いし、痛ましい姿の彼女を回復させようと、食べ物を与え、身なりを整え、そして絵本を読み聞かせるなど、少女が喜びそうな夢を与えた。
シェリーの瞳が日に日に輝きを増していく様子に、レオンは未知の種類の喜びを感じたのだ。
(あれが私の初恋だったな)
記憶の中の少女を追っていたレオンは、ハッとして言葉を止める。
今、ダンスを踊っている相手はジェラルドだというのに、関係のない初恋の話を始めてしまった。見合いの場である以上、過去の他の人への恋心について話すのは無粋だろう。
しかし、顔をしかめられると思いきや、ジェラルドは寂しそうに目を細めるだけだった。
「そうか」
「すまないジェラルド。関係ない話を……」
「いや、あなたのことはなんでも知りたいから構わない」
気まずくて謝罪するレオンに対し、ジェラルドは特に気にした様子を見せない。その時、踊っていたワルツが終盤にさしかかり、曲が静かにフィナーレを迎え、二人の時間は終わりを告げた。
レオンは自己アピールを上手く行えず、悔しさに打ちひしがれた。気の利いた話もできなかったのだ。普段は王子様としてのキャラクターを駆使して、要領よく立ち回るレオンだが、アルファ相手だとどうも上手くいかない。
(このざまでは、婚約者に選んでもらえそうもないな)
レオンは落ち込みながら礼の姿勢をとり、それから顔を上げた。目の前に立っているジェラルドは再び右手を差し出してくる。今度は跪くことなく、スマートだ。
「レオンは女性パートを踊れるか?」
ジェラルドの問いかけに、レオンは軽く頷き返す。
「ああ。エデンできちんと教育を受けている」
「ならば、次はあなたをリードして踊りたい」
「え」
思わぬ言葉にレオンは目を瞠る。
「ダメだろうか? 三曲目も誘うつもりだから、三度目はより楽しかったほうで踊ろう」
誘いをかけるジェラルドの表情は硬いものの、視線は穏やかだった。
(私を三曲目に誘うのか。本当に?)
このパーティーでダンスを共にする曲数には意味がある。
一曲目で〝相性の見極め〟。
二曲目で〝番の相手として考えているというアプローチ〟。
三曲目で〝婚約成立〟。
ここで言う婚約に法的拘束力はないものの、アルファは概ね執着心が強い傾向にあり、選んだ相手を手放さないので、人的拘束力という意味合いだ。
したがって、ジェラルドが三曲目を誘うという宣言は、レオンを〝番〟にしたいという意思表示である。
「この手を選んでほしい、レオン」
ジェラルドのアプローチは真っ直ぐだった。アルファから貰えると思っていなかった、自身を求める言葉と仕草に、気持ちがグッと掴まれる。
(嬉しいものなんだな……打算含みで彼とダンスを共にしたのに)
レオンはジェラルドの右手に、そっと自身の左手を重ね、戸惑いながらも婚約を受け入れた。
◇◇◇
ダンスパーティーは滞りなく終了した。今回のイベントでは、九割方婚約が成立したという素晴らしい結果だったようだ。
国は王城の客室棟を開放しており、婚約したカップルは閉会後、そちらに移動し、同じ部屋で宿泊することになっている。
アルファもオメガもフェロモン抑制剤を使用しているため、発情は起こらないものの、フェロモンの相性がよいカップルが一緒に寝ることは、アルファがオメガに対する執着……愛情を深めるきっかけとなるらしい。まさに人的拘束力による婚約が成立する時間なのである。
レオンとジェラルドは割り当てられた客室に移動し、一緒に入室した。すると扉が閉まると同時に、後ろからジェラルドに抱きすくめられる。
ふわりと包み込むように香る彼のフェロモンは、抑制剤を使っているにもかかわらず、はっきりと感じ取れた。どことなく懐かしさを覚える花の香りだ。
「ジェラルド?」
「すまない。少しこうさせてほしい。会場ではあまりフェロモンを感じられなかったから」
「……それは」
レオンは肉体的な欠陥を指摘されたように感じて身を固くした。
本来、フェロモンの相性は会場にいるうちに確認する。ジェラルドのフェロモンはもとから強いのか、人の多いパーティー会場でも彼の近くにいれば感じ取れた。レオンはそれを好ましい匂いだと思えたので、相性は悪くないだろう。
しかし、ジェラルドはレオンの匂いを感じ取れなかったというのだ。
その事実を知ると、急激に不安が襲ってくる。
(ジェラルドは……私が不出来だと分かっても、それでも求めてくれるだろうか)
レオンは〝出来損ないオメガ〟としての欠陥をジェラルドに明かしていない。それが後ろめたさの原因だった。黙って彼に引き取られ、レオンという負債を背負わせるつもりだったのだ。
自己嫌悪に陥るレオンの心の片隅では『卑怯で結構、黙っていればすべて上手くいく』と悪魔の声が囁いていた。
しかし、長年にわたり王子様キャラとして振る舞ってきた正義感が、その行為を許さない。レオンは深く考え込み、長いため息をついた。
(きちんと話そう。いらないと言われたら、次に切り替えればいい。年内のパーティーはあと三度開催されるのだから)
強がるように考えをまとめ、それを内心で何度も繰り返し言い、沈みゆく感情を取り払った。
(それに、傷は浅いほうがいい。二人きりの今、打ち明けるべきことだ)
レオンはジェラルドの腕に自身の手を置き、語りかけた。
「話しておきたいことがあるんだ、ジェラルド」
「なんだろう」
「大事な話だ。向かい合って、きちんと話したい」
玄関からすぐの扉を開けると、王城の客室に相応しい品のあるリビングルームが広がっていた。その中心には、優雅な猫脚のソファーセットが配置されている。歴史を感じさせる美しい調度品の数々の中に、便利な魔導具も置かれていた。
魔導具とは、魔石をエネルギー源とし、刻印された魔術式で稼働する便利な道具だ。
レオンは魔導ポットを用いて湯を沸かし、その隣に置かれたティーセットでお茶を淹れた。
湯気を立てるカップをソファーのローテーブルに静かに置き、ジェラルドの対面に座ると、深呼吸をして話を始めた。
「きみは先ほど私のフェロモンをどう感じた?」
「とてもいい香りだった」
「……そうか。その、香りが薄いとは思わなかったか?」
「確かにもっと嗅ぎたいとは思ったが」
ジェラルドのさらりとした言葉に、レオンは思わず頬を赤らめた。しかし、これから真剣な話をしなければいけない、とレオンは気持ちを切り替える。
「私は、体質的にフェロモンが薄いんだ。発情期もこれから起こるかどうか分からない」
ジェラルドは話の内容を理解した様子だった。真っ直ぐレオンを見つめる彼に頷き、続けた。
「卒業時の身体検査はクリアしている。肉体的にはオメガとして成熟しているそうだ」
しかし、レオンは卒業まで一度も発情しなかった。それは、成熟したオメガとしては非常に珍しいという。レオンはティーカップに視線を落とす。
「エデンにいた頃、検査の一環として、発情誘発剤を飲んだことがある」
発情誘発剤というと恐ろしく聞こえるが、実際には効果のあるハーブティーのようなものだ。薬効の強さを感じさせるような、濃い緑色をしていた。
「確かに、身体が少しは反応した。ポカポカと温まる程度には熱っぽくなったし、その……勃ちもした。しかし、教科書通りに処置し、一度の排出で熱が引いてしまった。医師に報告したが、少しでも熱が出たなら、それは発情する可能性があると判断していいと」
そう言い、レオンは眉根を寄せた。
同じように発情期の遅い生徒たち数人も、誘発剤を使った検査を経験していた。その話を聞くと、全員が通常の発情反応を示したという。
なぜかレオンだけが、誘発剤を使っても大した反応がなかったのだ。
番になるためには、オメガが発情期に入り、交接した状態でアルファがオメガの首筋に噛みつく必要がある。しかし、オメガが発情しなければその過程に進むことはできない。
「発情しない身体では、きみの番になれないかもしれない。この欠陥を伝えずに、きみに私を押し付けるのは不誠実だと思った。申し訳ない」
レオンは座ったまま、頭を深く下げた。
ジェラルドの反応が怖くて、顔を上げられない。
わずかな時間が過ぎた後、ジェラルドが軽く咳をして、静かな声で語り始めた。
「顔を上げてくれ、レオン」
レオンは言葉を交わさず、ただゆっくりと顔を上げる。ジェラルドの表情が、感情が抜け落ちた人形のように見え、レオンは冷や汗をかいた。やはり、彼を怒らせてしまったのだろうか。
すると、ジェラルドはその表情のまま口を開いた。
「そうだな、私の欠陥も伝えておこう」
「ジェラルドの?」
「私は昔受けた投薬の後遺症で、上手く表情が作れない。特に口元が」
ジェラルドは指で口角を持ち上げてみせたが、離すと直ぐに元の形に戻った。
レオンは彼が不機嫌な訳ではないと理解し、そして彼の状態を心から心配する。表情が乏しいとは感じていたが、そこまで気になることだとは思わなかった。
「顔の上半分は問題ないので、怒りは伝わるのだが、笑顔は下手だ。笑っても口元が歪むだけで、含みがあるように勘違いされてしまう。だから、私と婚約するなら、笑いもしない厳めしい顔の男との生活になることを覚悟しておいてほしい」
ジェラルドは眉間に指を当て、眉根を寄せた。確かに、眉は動かせるようだ。
ジェラルドはダンス会場で顔色が頻繁に変わったり、レオンに熱い視線を向けたり、表情以外の部分が彼の気持ちを雄弁に語っていた。おそらく自由に表情を動かせたなら、彼は豊かに心情を表して見せたのかもしれない。
今、ジェラルドが彼自身の〝欠陥〟を必死にアピールしてくるのは、レオンが気後れすることがないよう、配慮しているのだろう。
そう考えると、レオンの緊張は自然と解け、声を出して笑ってしまった。
「笑い事ではない。笑顔のない相手との生活はかなりのストレスだと思うぞ」
「いや、すまない。ジェラルドは優しいんだな」
「あまり言われたことはないが」
「私が、そう感じたんだ」
レオンはティーカップに口をつける。緊張してたせいか、喉が渇いていた。
ジェラルドは目を細めてレオンを見つめている。その顔に笑みは浮かんでいなかったが、眼差しは温かい。声もまた穏やかに彼はレオンへ語りかけた。
「レオン、私はあなたがいいんだ。発情しなくても、それで構わない」
「ジェラルド……」
レオンが彼の名を呼ぶ声には、感謝と安堵が混ざっていた。
◇◇◇
もう少しフェロモンを感じたいというジェラルドの要望に応え、彼が満足するまで寄り添ったあと、レオンはジェラルドに「ティールームへ行く」と告げ、客室を後にした。
ダンスパーティーの晩に限り、王城客室棟にあるサロンは、特設ティールームとして開放されている。このティールームは王城で働くオメガたちが、ダンスパーティーに参加した後輩たちの、不幸な番契約を防ぐために始めた場所だ。
婚約成立したオメガはこのサロンに集い、現状を報告し合う。級友たちと婚約者ができた喜びを分かち合いたいと言えば、これを阻むアルファはおそらくいないだろう。そして、問題行動をするアルファがいた場合、相手のオメガをここで匿って、婚約解消へ持っていくのだ。
要するにこの場所は、オメガ同士が助け合うための秘密のサロンとして機能している。
この取り組みが始まってかなりの年数が経っているため〝ティールーム〟という言葉自体が、すでにオメガたちにとって〝内密の情報を共有する場〟を意味するという認識となっている。
美麗な装飾が施された大扉を開けて広間に入ると、級友たちの賑やかな声がレオンを迎えてくれた。かけられる言葉に王子様スマイルで応えながら、ムードランプの照らす室内を悠々と歩いていく。一番奥の座席に目をやると、そこに幼馴染みのリックが座っていた。
「やぁ、リック」
レオンが声をかけると、リックはグラスから口を離して軽く頷き、挨拶の意味で片手を上げた。それに応じて、レオンも苦笑いしつつ片手を上げ、彼の向かいに座る。
リックは〝ベータから生まれた失敗作オメガ〟と自称している。
レオンはリックを愛らしい容姿だと思っているが、彼自身、一般的で地味な茶色の髪と目と、顔に広がったそばかすを見苦しいと感じているようだ。背が高いのも、孤児という出自も、ベータの平均より低い魔力量も、すべてがオメガだと思えないと。そんな自己評価を低く見積もる彼だが、観察眼は鋭く対人関係の構築が上手い。
リックが変なアルファに捕まるとは思っていなかったが、レオンは挨拶代わりに彼の婚約者の印象を尋ねた。
「婚約者はいい人だったかい?」
「紳士的ではありました」
「含みのある言い方だね」
「相手は魔術師なんですけど、何を考えているのかよく分からなくて」
リックはそう言って唇を尖らせた。
リックは言いたいことをストレートに伝える性格だ。そんな彼だからこそ、相手に理不尽に押し切られたということはないだろう。彼が婚約を承諾したのであれば、レオンと同様に何かしらのメリットがあったに違いない。
「レオン様のほうはどうです?」
「うん、そうだな……」
レオンは問い返されて、目を泳がせた。今のところ婚約者に対しては特に不満もなく、むしろ好感を抱いている。だが、その感情を素直に口にするのは照れくさくて、言葉に詰まってしまった。続きを語ろうと口を開くと口元は自然に緩んでしまう。
「想像していたよりいいやつで困惑している。私という負債を押し付けるのが申し訳なくなるほどだ」
「よかったじゃないですか」
「よかった……うん、よかったんだが、彼が私によくしてくれる理由が分からない」
「なんですか、それ。ノロケですか」
非難するように目を細めるリックに、レオンは苦笑する。出会ってすぐの相手から、理由の分からない好意や優しさを向けられるのは据わりが悪いものだ。魅惑的なフェロモンを持っていれば納得できるが、レオンにそういった武器はない。
リックはレオンの戸惑いに肩をすくめ、それからやれやれと息を吐いた。
「どのみちレオン様と過ごしていれば、好きになってしまいますよ。どんなアルファも」
「慰めてくれるのはありがたいが……二時間会場で壁と友達だった私を見ているだろう」
「気後れするんじゃないですか? その辺のアルファより、カッコいいですし」
「モテないことには変わりないじゃないか」
リックとの気軽な会話で、レオンは普段通りの平静さを取り戻していった。
そんな中、近づいてくる足音に二人は言葉を止める。足音の主は、レオンの親衛隊の隊長だった。レオンはエデン時代、王子様扱いされていてファンが多かった。そんなファンたちが問題を起こさないよう、ファンをまとめ上げる役割を果たす親衛隊が存在していたのだ。
レオンは座席に座ったまま、やってきた隊長を見上げて声をかけた。
「皆の状況はどうかな」
「コーディー以外は確認が終わりました。レオン様」
隊長は優雅に頭を下げた後、レオンに詳細を報告する。確認が取れたオメガたちの婚約関係には問題がないようだった。この場にまだ現れていないコーディーが懸念事項か。コーディーは気が弱く泣き虫で、アルファに強く出られたら間違いなく抵抗できないタイプだ。エデンの教師からも、パーティー会場で気にかけてあげてほしいと頼まれていた。
「コーディーの相手は最初にダンスホールに連れ出した優男だろうか。人がよさそうに見えたが」
「そいつです。かなり強引でしたよ。僕、ちょうど隣にいたのでやり取りの一部始終を聞きましたけど」
リックは眉間に深い皺を刻んでアルファを非難した。彼の表情から、問題がある婚約が結ばれたのだと理解する。親衛隊長もまた、渋い顔をして重々しく口を開いた。
「アルファに引き留められて、客室から出られないのかもしれません」
オメガはアルファに比べて圧倒的に非力だ。力任せに抑え込まれ、行動が制限されれば、自由は容易に奪われてしまうだろう。
しかし、そんな理不尽から身を護るため、秘密のサロンは存在する。オメガ同士が手を取り合い、互いを守ってきた場所。そして、今、ここには力の強いレオンがいる。アルファに立ち向かうならば、発情期の心配もないレオンが、率先して行動すべきなのだ。
「ならば迎えに行こうか。我々はコーディーの友人なのだから、何もおかしいことはない」
レオンは力強く宣言し、立ち上がった。
レオンとリックは、ティールームを隊長に託し、静かな廊下へと歩み出る。
レオンはティールームへ向かう前に、ジェラルドからペンダントを受け取っていた。それは通信具と呼ばれる魔導具で、触れて魔力を流し、念じれば離れていてもメッセージを伝えられる、というものだ。
これを用いてジェラルドに事情を伝えることも考えたが、レオンがジェラルドに顔を見せることなく、他のアルファがいる客室に向かい、状況によってはその客室に足を踏み入れるかもしれないとなれば、あとで問題が起こる可能性もあるだろう。
そういったことをリックに説明し、まずは各々の婚約者から許可を得ようという話になった。二人の客室は逆方向にあったが、ティールームとは同じフロアにあるため、さほど時間がかからずに合流できるはずだ。
レオンはジェラルドの待つ客室へ駆け足で向かいたい衝動に駆られつつも、マナーに反するだろうと考えて競歩のような速さで歩を進める。廊下には誰もおらず、そのような歩き方でも事故は起こらないだろうと思っていた。
「……っ!?」
レオンは突然足が縛られたように動かなくなり、競歩の勢いのまま廊下を転がった。
当然、ずっと前を向いていたため、足元に何もなかったことは分かる。
(な……魔術……『拘束』か!?)
魔術とは、人間の体内に存在する魔力を〝術式〟というルールに従って形づくり、外部に放出して、世界に影響を与える技術だ。魔導具が、動力源である魔石に含まれる魔力を、道具内に記された術式によって動作させるのと仕組みは同様であり、こちらも広義では魔術と呼ばれている。しかし人が使う魔術は、術式を頭で思い描くので、より動的であり難しい。
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・非王道気味
・固定カプ予定は無い
・悲しい過去🐜のたまにシリアス
・話の流れが遅い

黒とオメガの騎士の子育て〜この子確かに俺とお前にそっくりだけど、産んだ覚えないんですけど!?〜
せるせ
BL
王都の騎士団に所属するオメガのセルジュは、ある日なぜか北の若き辺境伯クロードの城で目が覚めた。
しかも隣で泣いているのは、クロードと同じ目を持つ自分にそっくりな赤ん坊で……?
「お前が産んだ、俺の子供だ」
いや、そんなこと言われても、産んだ記憶もあんなことやこんなことをした記憶も無いんですけど!?
クロードとは元々険悪な仲だったはずなのに、一体どうしてこんなことに?
一途な黒髪アルファの年下辺境伯×金髪オメガの年上騎士
※一応オメガバース設定をお借りしています

娼館で死んだΩですが、竜帝の溺愛皇妃やってます
めがねあざらし
BL
死に場所は、薄暗い娼館の片隅だった。奪われ、弄ばれ、捨てられた運命の果て。けれど目覚めたのは、まだ“すべてが起きる前”の過去だった。
王国の檻に囚われながらも、静かに抗い続けた日々。その中で出会った“彼”が、冷え切った運命に、初めて温もりを灯す。
運命を塗り替えるために歩み始めた、険しくも孤独な道の先。そこで待っていたのは、金の瞳を持つ竜帝——
「お前を、誰にも渡すつもりはない」
溺愛、独占、そしてトラヴィスの宮廷に渦巻く陰謀と政敵たち。死に戻ったΩは、今度こそ自分自身を救うため、皇妃として“未来”を手繰り寄せる。
愛され、試され、それでも生き抜くために——第二章、ここに開幕。

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?

美貌の騎士候補生は、愛する人を快楽漬けにして飼い慣らす〜僕から逃げないで愛させて〜
飛鷹
BL
騎士養成学校に在席しているパスティには秘密がある。
でも、それを誰かに言うつもりはなく、目的を達成したら静かに自国に戻るつもりだった。
しかし美貌の騎士候補生に捕まり、快楽漬けにされ、甘く喘がされてしまう。
秘密を抱えたまま、パスティは幸せになれるのか。
美貌の騎士候補生のカーディアスは何を考えてパスティに付きまとうのか……。
秘密を抱えた二人が幸せになるまでのお話。
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