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1巻

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   プロローグ


「邪魔なんだよ!」
「迷惑だってことわかんないのかな?」
「これは全部ソラノが選んで決めた結果で、ソラノが悪いんだよ」
「触るな」

 ……嫌悪と怒り。蔑視と嘲笑。そしてあなたから向けられる拒絶。
 周りから向けられる視線が、言葉が、心に刺さって痛い。
 僕をわらう声がずっと頭に響いて心が、身体が日に日に重くなっていった。
 ――情けない。そう思っても、僕は何もできなかった。
 でも――

「よく頑張ったな。もう大丈夫だ、安心しろ」

 ……あの日、貴方に出会えたから。
 そう言ってあなたが僕を見つけて、認めてくれたから僕は変わろうと、負けないと思えたんだ。
 ありがとう――さん。



   第一章


 洗い終えた服を籠へ入れる。冬の川の水の冷たさは凶器のようだった。
 冷え切った手から心臓へと伝わるドクドクとしたような痛みを感じ、その手に息を吐きかけながら何気なく空を見上げれば…… 

「綺麗……」

 髪の隙間から見えた空は青く、とても澄んでいて、どこまでも広がっていた。冷えた空気は肌全てを刺すけれど、この青空の下で吸う空気は清々しくて気持ちよかった。

「よし!」

 別の籠から次の服を手に取り、僕は鼻歌交じりに洗い始めた。
 ジーラル王国。その中心地である王都の端にある貧民街の孤児院。そこに住む僕は、幼馴染と一緒に孤児院から少し離れた山のふもとへ洗濯に来ていた。この国の、少し離れた森の奥深くには、魔の森と呼ばれる魔物が多く生息する森がある。危険だけれど、騎士の人達が定期的に見回りをしてくれているから安心して僕達は暮らせている。
 孤児院には数十人の子供が住んでいるため、一度の洗濯物の量がすごく多い。
 一つの籠分は洗い終えることができたけど、まだあと一つと半分残っている。

「ふんふふん♪ ~~♪」

 鼻歌がいつの間にか声に変わっていく。小さな頃から歌を歌うのが大好きだった。歌えば澄んだ空気に声が響いて気持ちがいい。自然と笑顔になりながら、僕は歌の調子にのって体を揺らしながら服を洗っていった。
 すると後ろからお尻辺りを軽く蹴りつけられた。

「わっ! とっ」
「ソラノ、うるさい」
「あ、ごめん」

 後ろを振り返ると、一緒に洗濯に来ていた幼馴染――アルトが寒さに赤らんだ頬に不快さを滲ませ立っていた。歌う声が大きくなりすぎていたみたいだ。

「耳障りだからやめてよね」
「ごめん……」

 大好きな歌を耳障りと言われ、落ち込んでしまう。そんな僕にアルトは「洗濯どこまで終わった?」と聞いた。

「あっ、あと籠一つだよ」

 慌てて答えれば、アルトは「ふーん」と籠の中を覗き込んだ。そんなアルトを横から見てやっぱり綺麗だなと思った。アルトはもうすぐ十四歳で、僕より一歳と少し年上だ。整えられた茶髪と蒼い瞳をしている。どこかあどけなさを残しながらもその表情には自信が満ち溢れていて、格好いい。
 チラリと川に映る自分に目をやれば、伸び放題の前髪のせいで顔は見えない。アルトより少し明るめの茶髪は、寝癖なのかと言うほどボサボサの跳ね放題で、どこか野暮ったくて見窄みすぼらしい。

「ほんとだ、早いじゃん。この調子で行けばみんなから褒められるかもね?」
「ほ、ほんと?」

 落ち込んでいた気持ちが浮上する。
 僕は孤児院のみんなから嫌われている。アルトはそんな僕に唯一話しかけてくれて、今日のように院の子達との仲を取り持とうとしてくれるんだ。
 孤児院では、家事は基本、当番制だ。そして洗濯は二人から三人で行う。
 今日は、本当ならアルトと違う子が洗濯当番だったのだけれど、その子が急に体調が悪くなったとかでアルトが一人裏庭掃除をする僕を誘ってくれたんだ。
 曰くこれはチャンスだと言って。冬の水を使うお仕事は寒くて冷たいので嫌われている。そんな中、僕が進んでアルトを手伝い、早く終わらせることができれば、きっとみんなから褒めてもらえると。
 アルトはみんなの人気者だ。
 そんなアルトが言うのなら、本当に皆から褒めてもらえるかもしれない、と想像して頬が緩んだ。

「僕ももうちょっとしたら手伝うからそれまで頑張って」
「うん!」

 アルトは洗濯に慣れていなくて、手の痛みに早くから休憩をしていた。
 元気に頷いて、洗濯に戻ろうとした時、ふとアルトが持っているものに目がいった。 

「あれ? アルト、何持ってるの?」
「これ? 院長が貸してくれたの! 温熱具おんねつぐっていう魔道具だよ。温かいよ~」
「へー」

 魔道具というのは、魔石が埋め込まれた魔法道具のこと。
 温かいという言葉に、アルトが手に持つ丸い黒石のようなものを感心しながら眺めた。そして、少しだけ羨ましく感じてしまった。
 ……アルト、そんなすごいもの院長から借りてるんだ。
 洗濯当番はよく回ってくるけど、そんな道具貸してもらったことがない。
 他の子が使っているのも見たことがないし、きっとアルトだけの特別なんだろうな。

「ソラノも、もし休憩する時があるならこれ貸してあげるよ」
「え⁉ い、いいの⁉」

 つい、大きな声で反応してしまう。
 そんな僕に、アルトはくすくす笑うと綺麗な笑みを浮かべて、僕にその温熱具をかざした。

「うん。だから残りも頑張ってね?」
「う、うん!」

 そんなにも羨ましそうに見てたのかな、と少し恥ずかしく思いつつも嬉しさの方が勝った。
 そして、今度こそと急いで洗濯に戻ろうとした時だ。

「――あ!」
「え?」

 アルトが大きな声を上げた。
 驚いて、アルトを振り返り、その視線の先を辿ると茶色い何かが目に入る。お猿さんだ。一匹のお猿さんは、食べ物か何かと勘違いしたのか、洗い終えた洗濯物の籠を掲げていた。そしてせっかく洗ったばかりの服を撒き散らしながら森の中へと逃げていってしまった。
 ……あまりの光景にポカンと呆気にとられた。

「ソラノ何してるの‼ ここは見てるから早く追って‼」
「……え、あ、うん!」

 その声に、慌てて僕は走り出した。


「――あーあ、もう真っ暗じゃん。最悪」

 重い足取りで、孤児院に向かってアルトの後ろをついて行く。

「絶対に怒られる。なんで猿一匹から籠一つ取り返すのにここまでかかるのかな」
「……ごめん」

 お猿さんを追い、散らばった衣服や籠を取り返すのに時間がかかってしまったために、日は落ちきり辺りは真っ暗だった。
 結局、温熱具を貸してもらうどころではなく、土のついた衣類をアルトに払ってもらい、僕は洗い直すことだけに神経を集中させることになった。
 孤児院のルールでは、日が暮れるまでに帰宅しなくてはいけない。それでなくとも夜の貧民街は危険だ。
 ……また、怒られちゃう。
 冷え切った指を擦り合わせながら、籠に顔を埋める。さっきまで褒められるかもと期待が大きかった分、落胆も大きかった。
 ――ぅ

「……今、何か聞こえなかった?」

 聞こえた妙な声に立ち止まり、振り返る。

「はぁ? 何も聞こえなかったけど?」
「確かに聞こえたはずなんだけど……」

 目を閉じ、耳を澄ませてみれば、また微かな声がした。

「ソラノ⁉」

 なんだかそれが苦しそうに聞こえて、止めるアルトの声も聞かずに声の方へ走り出した。
 道には灯りなんてついていないから、音だけが頼りだ。必死に耳を澄ませて走れば路地裏の掃き溜めの中に誰かが倒れているのを見つけた。

「大丈夫ですか⁉」

 持っていた籠を置き、急いでその人に駆け寄る。大人の男の人だ。
 呼びかけると、その人から微かな呻き声が漏れ、ホッとした。

「よかった、生きてる……。っつ⁉」

 ふと落ちた視線の先に息を呑む。シャツの胸元がどす黒い。たぶん血だ。
 恐る恐る確認してみればすでに固まっているみたいだけど……

「ちょっと! ソラノ何して……って、え? 何それ、人?」

 どうしようかと考えていたところにアルトが追いついてきてくれた。

「アルトちょうどよかった! この人怪我をしてるみたいなんだ。運ぶのを手伝って!」

 この寒空のせいで男の人の身体は冷え切っている。早く手当てしないと命が危ないかもしれない。
 僕一人だと運ぶのは難しいけれど、アルトと二人ならこの人を安全な場所まで運べるはず。
 だけど、僕の言葉を聞いてアルトは顔をしかめた。

「はぁ? 嫌だよ。その黒いの血でしょ? この寒さでそれだけ血が出てるならもう助かりっこないよ。ここどこだかわかってる? 貧民街だよ? 面倒事はごめんだし、放っておいて帰ろう」

 そう言ってアルトに手を引かれる。言い募ろうとするもアルトは聞いてはくれない。
 確かにアルトの言うことの方が正しいかもしれない。でも……

「ほら‼ ソラノ早く‼」

 そう急かされるがままに僕は立ち上がり、一度だけ男の人を振り返って僕達は孤児院への道を急いだ。そして、着いたと同時にアルトに「お願い」と籠を渡した。

「はあ⁉ 何考えてんの⁉」
「僕一人だとあの人を運べないから」

 院には小さいけれど一つ荷車がある。子供の僕一人じゃ無理だけど、これでならなんとかあの人を運べると思う。荷車を用意しているとアルトが苛立ったように足を踏み鳴らした。

「ソラノ、まさか助けに戻るつもり? あんなの連れ帰ったらまた院長に怒られるよ?」
「……うん」

 怖いけど、仕方ない。見つけてしまったのだからあんな苦しそうな人、僕にはそのまま見殺しになんかできない。
 僕だって、昔両親が死んで一人ぼっちだったところを助けられて今ここにいるんだもん。

「っああそう! じゃあ勝手にすれば? 僕は絶対手伝わないし、怒られても知らないからね‼」

 アルトは早口に言うと僕の分の籠を背負い、もう一つは自分の籠に重ねると早足にこの場から去って行った。
 ……すごい。重たいのに一気に全部持っていっちゃった。
 そんなアルトに目を丸くするも、ハッと意識を戻し気合を入れた。

「よし! 僕も急ごう‼」

 荷車を持つ手に力を入れ、僕は男の人の無事を祈りながら彼の元まで急いだ。


「はぁ、はぁ、は、運べたぁ……」

 荒れた裏庭を通り、そこにある物置小屋――自分の部屋のベッドへと男の人を寝かせたところで思わず床に座り込んでしまう。
 つ、疲れた……重たかった……
 孤児院では複数人で一部屋を使用している。だけど僕だけは違って、外にある小さな物置を一人で使っている。これは誰も僕と相部屋になりなくないと言った結果だった。
 悲しいけれど、そのおかげで気兼ねなく男の人を運ぶことができた。

「……大丈夫、息してる」

 僕が男の人の元に戻った時、男の人は意識がないまま掃き溜めの中にいた。
 男の人の呼吸を確認した後、僕はもうひと踏ん張りだと気合を入れて、今度は手当てに必要な道具を取りに院の中へと急いだ。
 でも、食堂の前を通った時、扉の向こうから楽しそうな声がして一瞬足が止まりかけてしまう。
 誰かわからない人を孤児院に連れて来てしまったんだ。バレたら怒られる。そうなれば男の人の手当てができない、と明るい喧噪を振り切るように僕はそっと廊下を通り過ぎた。

「ふぅ……」

 塗り薬や包帯を巻き、なんとか一通りの手当てを終えたところで額の汗を拭った。
 手当てといっても、簡単なことしかできなかったけど、血の量の割に胸の傷が浅くてよかった。
 蝋燭の灯りの下、改めて男の人を見ると山吹色の髪をした端正な顔立ちをした若い男の人だった。
 体格もいい。道理で重たいはずだ。

「これどうしよう……?」

 男の人の服を掲げる。血で汚れて、胸元を含め所々破れているけれど、黒の布地は高そうで、所々入っている金の柄がすごくかっこいい。脱がすのがちょっと大変なくらい、生地もしっかりしていた。
 流石に捨てるのはよくないよね?
 今度洗おうと畳んでベッドの下にしまった。

「ぅ……」

 呻き声に、慌てて男の人を覗き込む。男の人は眉間に皺を寄せて震えていた。
 額を触ればすごく熱い。首下まで毛布をかけるも、男の人はまだ震えている。
 寒いのかな……
 古い石造りの部屋は、所々穴が開いていて夜には冷える。狭い部屋の中をさまよい、暖を取れそうなものを探すも何も見つからない。
 ……どうしよう。あ、確か院の建物には予備の毛布があったはず。
 また取りに行かなくちゃ、と立ち上がった時、小屋の扉が開いた。

「――ソラノ」
「院ちょ……っ‼」

 部屋に入ってきた壮年の細身の男の人――サルバ院長は入ってくるなり、手を振り上げ、僕の頬を強く叩いた。その衝撃に床に倒れ込んでしまう。

「お前は……また勝手なことをして! なんだその男は。そんなどこの誰かもわからないような奴に貴重な薬や包帯を使うとは何事だ!」
「す、すみません!」

 見上げると、前髪を後ろに撫で付けた院長の額には筋がはっきりと立って、顔は怒りで歪んでいた。

「アルトから話は聞いた。指示された裏庭掃除をサボり、無理矢理アルトの当番相手と洗濯当番を代わって、アルトにつきまとったそうだな!」
「……え?」
「それで洗濯もせず猿と遊んでいただと? 挙句の果てにはこんな時間までアルトを連れ回し、アルトに荷物全てを押し付け――お前は一体何をしているんだ‼」
「……っすみません」

 怒鳴る声に体が跳ねた。慌てて頭を下げて謝るも、告げられた言葉に内心困惑した。
 サボったり、無理当番を代わったりしたつもりはなかった。
 アルトの相手は体調不良だったんじゃなかったのかな? でも、僕がお猿さんに籠を取られていなければ、早く取り返せていればこんな時間までかからなかっただろうし、アルトが荷物を全部持っていってくれたのは本当のことだ。
 全部、うまくできなかった僕が悪いんだ。

「罰として今日の晩ご飯は抜きだ。そこの男も厄介ごとが起きる前に捨ててこい」
「っ、待ってください‼」

 冷たく告げるサルバ院長に、バッと顔を上げた。

「傷がいっぱいで熱も出ているんです。今外に出してしまったら死んでしまいます!」
「それがどうした。何か問題でもあるのか?」

 鋭く院長に睨みつけられて一瞬怯む。
 それでも僕は、床に手と頭をついてなんとか言葉を絞り出した。

「っか、勝手なことをしてすみませんでした! だ、だけどっ捨てるなんてことできません! ぼ、僕が全部責任を負います! 面倒も全部見ます! だからこの人を置くことを許してください!」

 子どもの僕にどこまでできるのかわからない。
 でも、僕がこの人を連れてきたんだ。僕にできることならなんだってする。

「お願いします……っ」

 必死に頭を下げる。すると、暫くの静寂のあと院長は大きな溜息を吐き出した。

「……薬も包帯ももう使わせない。食事も用意しない。何か問題を起こせばその男共々すぐに切り捨てるからな」
「え?」

 院長の言葉に顔を上げる。だけど僕が何かを言う前にサルバ院長はさっさと部屋から出ていってしまった。
 許してもらえた……?

「よ、よかったぁ……」

 閉まる扉を前に、身体の力が抜けた。あとはこの人が悪い人じゃないことを祈るばかりだ。
 それから僕は、院長が近くにいないことを確認して毛布を取りに行った。そして、戻ると震える男の人に毛布を被せ、手を握った。

「大丈夫ですよ」

 そう言って、僕は小さな声で歌い出した。歌と一緒に魔法を使うと、水色のキラキラとした粒子が男の人の側を舞い始める。
 癒し魔法。
 この世界には、火・水・土・風・光・闇・無の七つの属性が存在している。
 大体は一人に一つの属性だけど二つや三つと属性を持っている人もいるそうだ。
 僕の属性は水だから光属性とは違い、傷や病気を治す治癒魔法は使えない。だけど、水属性でも体力や気力の助力になる癒し魔法を使うことはできる。
 僕はその魔法が得意だった。特に大好きな歌を歌えば魔力消費も少なくずっと使うことができる。

「大丈夫ですからね」

 苦しげに顔を歪めている男の人にまたそっと優しく囁いた。そして、苦痛がやわらぐことを祈って、静かに歌を歌った。


 それから、僕は時間があれば歌と魔法で男の人を癒すようにした。
 お世話を全て自分一人でしながら、当番のお仕事をこなしつつ魔法を使うのは少し大変だったけれど苦痛は感じなかった。

「これで合ってるのかな?」

 男の人を助けてから三日目の夜。包帯代わりに布を巻きつけ、終わったところで男の人の左足を見ながら首を傾げた。
 胸の傷や他の細かな傷以外にも、足の骨が折れていたようで、拾った木を添木代わりに固定して布を巻いているけれど、いまいちやり方が合っているのかわからない。誰に聞いても教えてはくれず、たぶんこうだろうと一人で首を傾げるしかなかった。
 椅子に座り、まだ目覚めない男の人に向かって歌を歌う。

「――♪」

 優しく歌うつもりが滲む期待に少し声が跳ねてしまう。それは、熱も下がってずいぶん顔色のよくなった男の人がそろそろ目覚めるかもしれないと思っているから。
 早くこの人とお話ししてみたいな。
 そう思った時、男の人からいつもと違う呻き声が聞こえた。

「ん……」

 男の人の瞼がピクピクと動いている。そして、 瞬きをする隙間から翠色の瞳が見えた。

「……ここは?」 
「め、目が覚めましたか?」

 思わず叫びそうになるのをなんとか呑み込み尋ねた。

「ここは……。私は……」

 男の人は目を何度も瞬かせる。なかなか目の焦点が合わない。
 それはそうだよね。四日も眠ってたんだもん。
 そんな男の人に僕は息を落ち着け、できるだけゆっくりと事情を話そうとした。

「えと、あのっ、こ、ここはジーラル王国の貧民街孤児院です。あ、あなたは酷い怪我をしてゴミ捨て場に倒れていたんですが……お、覚えていますか?」

 でも、緊張で言葉が上擦って全然うまく言えなかった。少し熱くなる頬に顔を俯けていると、男の人はハッとした様子で勢いよく起き上がろうとした。

「孤児院……。怪我……っ、そうだ! 私は、っつ!」
「だ、大丈夫ですか⁉」

 だけどそれは失敗して、胸を押さえまたベッドの上へと戻ってしまう。男の人は痛みを逃すよう数度息を吐き出し「そうか……」と呟くと、僕を見た。

「……ここは孤児院なんだな。声からして少年のようだが――君が助けてくれたのか?」
「は、はい!」
「そうか、ありがとう。重ね重ねすまないが、私はどれくらい眠っていた? それと、辺りが暗くてよく見えないんだが、今はどういう状況なんだろうか?」
「えっ――」

 暗い……?
 周囲を見回す。確かに薄暗いけれど、蝋燭に照らされているから周囲が見えない程ではない。
 男の人を見れば答えない僕に困惑したような表情を向けている。だけど、その視線は僕とは合わない。
 その様子にごくりと唾を呑んで答えた。

「……今日は十二月の十二日で、あなたを見つけてから四日程経っています。でも……確かに今は夜で暗いですが蝋燭をつけているので……」

 そこまで言うと、男の人の視線が弾かれたように上がる。だけどやっぱりその目が僕を捉えることはなく、どこか遠い。
 目が見えないんだ。男の人の様子から初めから目が見えなかったわけではなさそうだ。

「そうかあの時……」

 男の人は何か心当たりがあるのか息を吐き、目を閉じた。
 そんな男の人の様子に、僕は沈痛な思いで項垂うなだれた。

「……ごめんなさい。僕が上手く手当てできなかったから……」

 あれだけの傷を負い、苦しんだのに、目を開けると何も見えなくなっている。それはどれだけ不安で悲しいことなんだろう。
 だけど、僕の言葉に男の人は一瞬驚いたように目を開き、そして目元をやわらげた。

「……大丈夫だ。これは怪我のせいではなく、魔法のせいだと思う。専門の者に見せれば元に戻るだろう」
「ま、魔法? 本当に大丈夫なんですか?」
「ああ、心配ない」

 不安のない声で言うと、男の人はもう一度僕に向かって微笑んでくれる。それはどこか僕を安心させてくれているように見えて、きっとこの人は悪い人じゃないと思った。

「そうですか……それならよかったです」
「心配してくれてありがとう。……しかし申し訳ないのだが、もう少し身体が回復するまでここに置いてくれないだろうか」
「はい、それはもちろんです! しっかりお世話しますので頼りにしてください!」

 身体の前で両手をグッと握り締め、力強く頷いた。
 そうすれば男の人は「ありがとう……」と言って再び目を閉じてまった。
 慌てて確認すれば寝息が聞こえる。まだ怪我も治ってないし熱も下がったばかりだ。
 ホッと息を吐き出し、男の人から言われた「ありがとう」という言葉を思い出し、クスッと笑みがこぼれる。

「……次起きた時にも、僕とお話ししてくれるかな?」

 静かな部屋に、願いにも似た言葉がぽつりとこぼれた。
 この孤児院では、アルト以外誰も僕とは話をしてくれない。当番決めは気づけば終わっていて、誰かと組んでも無視される。ご飯も僕だけこの部屋で食べている。みんな僕を避け、嫌い、陰で笑っている。だからこそこの人の目が見えないと知った時、ちょっとだけ、ほんの少しだけ僕を嫌わないで、お話ししてくれるんじゃないかと期待してしまった。
 目が見えなければ、醜い僕を嫌うことはないかもしれないと。

「……そんなこと本当は思っちゃダメなのに」

 前髪を掴んで自分を隠すように引っ張った。それから気持ちを切り替えるように、両頬を手でパチンと叩く。

「よし! 明日からも頑張るぞ!」

 暗い気持ちを振り切るよう、明日のため早く寝ようと床に寝転び目を瞑った。


 お盆を手に裏庭を駆ける。外の朝の空気は殊更冷えているけれど、へっちゃらだった。
 苦戦しながら自分の部屋の扉を開けば、男の人――アランさんがこっちを向き微笑んでくれる。

「ソラノか? おはよう」
「はい! アランさんおはようございます!」

 彼が目を覚ました日から今日で六日目。アランさんは普通に起き上がれるようになっていた。そして僕とたくさんお話をしてくれる。
 名前はアランさん。二十歳で、黒騎士団に所属しているそうだ。この国には白と黒の騎士団が存在している。王族やお城、王都の治安を守る白騎士団と、主に犯罪や魔物に関する事案で動く黒騎士団だ。
 アランさんは、黒騎士団の一員としてある犯罪集団を追い詰める際に油断してしまい、気づけばあのゴミ置き場に倒れていたという。

「アランさん、朝ご飯持ってきました」
「ありがとう」

 向けられる笑顔を嬉しく思いながらアランさんの前に食事を運ぶ。
 大きなお盆の上には、パンが四つとスープの皿が二枚。きちんとアランさんの分のご飯も載っている。それまでは僕の分を分け、なんとか食べさせていたけれど、アランさんが目を覚ました次の日に、アランさんから聞いた話を院長に伝えると対応を変えてくれたんだ。
 もっといい部屋へ移ることも提案していたようだけれど、アランさんの「ここがいい」との言葉に、今も僕と同じ部屋で過ごしている。それが嬉しくてニコニコしてしまったのは内緒だ。
 あの黒の服は騎士団の制服だったらしく、院長には「何故服を見て気づかない!」とたくさん怒られてしまった。院長が部屋に来た時、脱がした後だったから……
 でもそれ以降、食べ物や薬を渡してくれるようになったおかげか、アランさんの回復は驚くほどに早い。
 初めは目の見えないアランさんに僕がスープを飲ませていたけれど、今ではまるで見えているかのように一人で飲んでいる。すごい!

「ソラノ、これは君が食べなさい」

 テーブルの上を探るように触れたアランさんは、パンを一つ掴み僕の方に差し出す。

「だ、だから大丈夫です! アランさんが食べてください!」
「私は大丈夫だから食べなさい。これで二つずつだろう?」
「ダメです! アランさんは怪我人なんですから!」

 これはアランさんが起きてから毎朝繰り返される会話。アランさんの食事は僕達と同じ硬いパンとほとんど具のないスープ。でも、僕のパンは一つにアランさんのパンは三つ。大人で怪我人であるアランさんが多く食べることは当然のことだし、いつも僕はパン一つだから慣れっこだ。
 お腹いっぱいに食べて、早く元気になってほしいのに、アランさんは毎回こうやって僕に自分のパンを分けようとする。断ってもいつも押し切られてしまうが、今日こそはと強気な言葉で返した。
 ――しかし、その瞬間に僕のお腹が鳴ってしまう。
 アランさんと顔が合い、熱くなった顔を隠すように慌てて俯くと、アランさんがふっと笑う声がした。

「いいから食べなさい。ソラノは夢の中でまでお腹を空かせているようだしな。食べ盛りだろう?」
「え?」

 顔を上げると、アランさんは思い出し笑いをするようにくすくす笑っている。
 ……もしかして僕、何か寝言で言っちゃってたのかな⁉
 さっきよりも頬が熱くなり、恥ずかしさのままそっとパンを受け取った。

「……ありがとうございます。いただきます」
「ふ、く、ふふ」

 ついに堪えられなくなったらしい笑い声に、頬を膨らませる。でも、受け取ったパンを齧ると、その美味しさに頬が緩んでしまった。

「……ありがとうございます」
「ああ」

 今までは向けられたこともない優しい顔に、嬉しく、また恥ずかしくなった。


「ソラノ。何か私に手伝えることはあるか?」

 裏庭掃除をしていると、僕が拾ってきた長い木の棒を支えに、アランさんが僕の元まで歩いてくる。目が見えないからできることが限られている、とアランさんは少し悔しそうだけど、僕からすれば見えてないなんて思えないほどの動きに驚いてばかりだ。

「大丈夫ですよ。ゆっくり休んでいてください」
「いや、何か動いていないと身体がなまりそうなんだ」
「身体が……」

 そう言われて、どうしようと考える。
 アランさんは騎士だ。身体がなまるのはよくないんだろう。だけど、まだ怪我も治っていないのだから手伝いなんてさせられないし、安静にしていてほしい。
 かといって部屋に戻ってもらうにしても、あの寒い部屋では身体がかじかみ、固まってしまうだろう。

「あ、そうだ。ちょっと待っててくださいね」

 目に映った落ち葉に、アランさんにそう声をかけ、僕は自分の部屋から椅子を持ってくる。

「ここに座ってください」
「わかった」

 素直に座ってくれたアランさんの前に、集めた落ち葉や枯れ木を用意し、焚き火の準備を始める。

「……これは何をしているんだ?」

 パチパチと響く音に、されるがままにいたアランさんは困惑した表情だ。

「アランさんはここで火を感じていてください」
「……それは何もしていないのと同じでは?」
「違います。火を感じる訓練です」

 あとは椅子と同じく、持ってきていた毛布をアランさんの背にかける。これで少しは暖かいはずだ。これは火を感じて寒さを感じないようにする訓練だ。うん!

「……いや、これは……」
「訓練です!」

 何か言おうとするアランさんにすかさず訓練で押し通した。
 するとアランさんはため息を吐いて苦笑した。

「……わかった。君はたまに頑固になるな……」
「ふふ。よろしくお願いします!」

 勝った! とホクホク笑顔を浮かべる。嬉しさのままに鼻歌を歌いながら掃除に戻ると、建物の方から僕の名前を呼ぶ大きな声が聞こえた。

「ソラノ‼」
「アルト?」

 その声に急いで歌うのをやめる。振り返れば、眉を吊り上げて、どこか怒っている様子のアルトがこちらへと駆けてきた。

「ソラノ何してるの? 皿洗いサボっちゃダメでしょう!」
「え? 僕?」
「そうだよ! 今日の当番代わってくれるって言ったじゃない!」

 身に覚えのない話に目が丸くなった。今日アルトと会ったのは、朝食を取りに行った時くらい。その間に挨拶はしたけど、それ以外に約束なんてしていないはず。だけどアルトは言ったと譲らない。
 首をかしげる僕にアルトの表情が険しくなった。

「もう! またとぼけるつもり? ほら早く! 院長怒ってるよ⁉」
「え? ま、待って! でも掃除が……」

 院長が怒っているのなら行かないといけない。でもその院長に言われた庭掃除がまだ途中だ。
 どうしたら……と、悩む僕を急かすよう、アルトは苛々した声で言う。

「庭より僕の用が先! 庭掃除なんてていよく院長に外に追い出されてるだけなんだからどうでもいいよ!」
「え⁉」

 そうだったの? 

「ほらもうさっさとしてよ!」
「う、うん」
「ちょっと待て」

 まさかの事実に衝撃を受けつつ、歩き出そうとすれば、アランさんが声を上げた。
 ああ、そうだアランさんに部屋に戻っておいてもらわないと。
 流石に火があるところに目が見えないアランさんを一人置いてはいけない。僕の部屋にと思ったけれど、それはやっぱり寒いだろうから院の方にいてもらおう。
 そう思って振り返ると、アランさんは厳しい顔をしてアルトの方を見ていた。

「っ……アランさんいたんですか?」
「何故君の分の仕事をソラノがしなければいけないんだ」

 アランさんはアルトの問いに答えることなく、僕達の前まで来ると僕を隠すようアルトに向き合った。
 僕の前には鍛え上げられた逞しい背中がある。なんだかすごく大きく見えた。

「っ、それはソラノが代わってくれるって言ったから……」
「ソラノが? それはいつの話だ?」
「いつって……この間です」
「この間か。ソラノ、覚えはあるか?」
「え⁉」


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