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2巻

2-1

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 大陸の北に位置するシュテルンリヒト王国の夏はとても美しい。
 王都の至るところに色とりどりの花々が咲き、それは華やかな雰囲気になる。
 ユーリス・ヨルク・ローゼンシュタインが暮らす王都の東区には、貴族たちのきらびやかな屋敷が並んでいる。どの屋敷も美しい庭を有していて、その全てに夏の花が鮮やかに咲き誇っていた。
 中でも王宮にほど近い場所にあるローゼンシュタイン家の庭は、その家名の通り一面薔薇園ばらえんとなっている。正門から続く前庭は屋敷の顔として豪華に整えられ、見る者を圧倒する美しさがあったが、本館から別館へと続く中庭も負けてはいなかった。
 朝の柔らかな日差しの中で、ユーリスは朝露で輝く薔薇ばらを眺めていた。
 赤、黄色、白。花びらの先が薄っすらと薄紅に染まったものや、花びらがひらひらと波打ったもの。アーチ状に整えられたつる薔薇ばらに、整然と並ぶ木立性のもの。
 シュテルンリヒト王国第一王子ヴィルヘルムの侍従として、王宮で暮らしていたときに眺めていた庭もたいそう美しいと思っていたが、このローゼンシュタイン邸の薔薇園ばらえんも負けてはいない。多種多様な薔薇ばらが取り揃えられ、丹精込めて世話をされている。
 ユーリスがこの屋敷にとついできてからの三年間、毎年息を呑むほど見事な薔薇ばらたちが夏の訪れを教えてくれた。

「ユーリス」
「ギルベルト様」

 熱心に薔薇ばらを見ていたユーリスは不意に名前を呼ばれて、慌てて振り向いた。薔薇ばらの芳香に包まれていたので、そばにギルベルトが来ていることにまったく気づかなかった。
 視線を向けた先には、真っ黒な騎士服に身を包んだ背の高い人影があった。色とりどりの薔薇ばらたちの中にあってなお存在感のあるその美丈夫はギルベルト・ユルゲン・フォン・ローゼンシュタイン。――ユーリスの夫兼つがいであり、このローゼンシュタイン伯爵邸の主だ。

「朝の散歩ですか」
「はい。薔薇ばらが綺麗に咲いていますから、少し摘んでミハエルに持っていこうかと」

 ユーリスが手にしていた剪定鋏せんていばさみを見せながら答えると、ギルベルトはそうですか、と静かに頷いた。透き通った紫色の瞳がじっと近くの薔薇ばらを見つめる。すっと通った鼻筋に、涼やかな目元。アルファらしく整ったその横顔に、ほうっと見惚みとれそうになったユーリスにギルベルトが問う。

「どの薔薇ばらを摘みますか?」
「え?」
「手伝います」

 その申し出にユーリスは少しだけ驚いた。ユーリスはよくこの別館と本館の間にある中庭を散策している。晴れていれば毎朝足を運ぶし、そこで花を摘んだり軽い手入れをしたりするのは日課のようなものだった。
 しかし、ギルベルトは違う。王国騎士として多忙なギルベルトは、ユーリスたちよりも早く起きて身支度をし、屋敷を出ることが多い。それこそユーリスが王宮に再び出仕するようになるまでは、顔を合わせることすらまれだったのだ。もちろん、朝の庭を一緒に散歩したことなどないし、ましてギルベルトが薔薇ばらを摘むところなんて想像もしたことがなかった。
 けれども、ユーリスはギルベルトの申し出をありがたく受けることにした。
 薔薇ばらを摘むのにそう手は必要ないけれど、少しでも一緒に過ごす時間が増えるのは、彼に恋焦がれるユーリスにとってとても嬉しいことだったからだ。
 ありがとうございます、と微笑むと、ギルベルトのユーリスを見る目が微かにやわらいだ気がした。

「今日は、そうですね……」

 色とりどりの薔薇ばらを前にして、ユーリスはしばし思案する。
 昨日は赤や薄紅といった明るい色味の薔薇ばらを摘んだ。可愛らしいその薔薇ばらをミハエルはとても喜んで、それがまだ別館の寝室に飾ってあった。今日はもう少し珍しいものがいいかもしれない。

「これはどうでしょうか」

 迷うユーリスの様子を見て、ギルベルトが一本の薔薇ばらを指さした。それは木立性のもので、白い花弁がフリルのように波打っている品種だった。花弁の先がほんの少しだけ緑色に染まっている。

「緑の薔薇ばらとは、珍しいですね」
「はい。新しい品種の薔薇ばらなんですよ。ギルベルト様は緑がお好きですか?」
「……はい」
「では、これにしましょう。ミハエルも緑色は大好きなので、きっと喜ぶと思います」

 ギルベルトが選んでくれたことが嬉しくて、ユーリスはすぐにその薔薇ばらを数本はさみで切り、束にしていく。差し出されたギルベルトの手の上に棘が当たらないようにそっと置くと、ギルベルトが首を傾げた。薔薇ばらの束がふたつあったからだろう。

「おひとつどうぞ。ギルベルト様の執務室にでも飾ってください」

 お裾分けです、と微笑んで、それからユーリスは気がついた。ギルベルトの執務室はローゼンシュタイン邸の本館にある。もちろん、家令や専用の使用人たちが大勢いて、彼らがほこりひとつないように屋敷中を整えていた。
 当然、玄関ホールにも廊下にも、各部屋にも季節の花が飾られているはずだ。

「必要なかったでしょうか。本館にも、花は生けてありますよね……」

 そもそも、ユーリスはギルベルトに花を飾る習慣があるかすら知らなかった。それなのに、いきなり押し付けても迷惑かもしれない。
 そう思い薔薇ばらの花束を引き取ろうとしたユーリスだったが、予想に反してギルベルトは薔薇ばらを大切そうに抱え直した。

「いります。オットーに言って飾らせましょう」
「それなら、よかったです」

 意外なほど強い口調にユーリスは目をまたたかせた。ギルベルトが特別薔薇ばらが好きだという話は聞いたことがなかったが、どうやら喜んでもらえたようだ。
 薔薇ばらを抱えたまま、その後少しだけ庭をふたりきりで歩いた。
 交わしたのは本当に他愛のない会話ばかりだ。けれど、ギルベルトと並んでいるだけで、その声を聞くだけでユーリスの心は満たされていく。それは彼がユーリスのつがいだからだろうか。それとも長く想い続けている相手だからか。
 柔らかな日射しが降り注ぎ、小鳥のさえずりが聞こえる。先日、狩猟大会の折に巻き込まれた騒動が嘘のように穏やかな朝だった。
 そろそろ身支度をしなければいけない時間になり、別館に戻る際、玄関までわざわざギルベルトが付き添ってくれた。そして真剣な顔をして言う。

「後で、こちらまで迎えに来ます。屋敷の中とはいえ、あまりひとりにはならないように」

 それから「朝の散歩は言ってくだされば、私が付き添います」と続けた。

「は、はい」

 その言葉にユーリスは素直に頷いた。
 やはり、ギルベルトはとても過保護になった。狩猟大会の後、ぼろぼろになったユーリスを見た彼は、おそらくひどく心を痛めたのだろう。王宮との往復だけでなく、こうして結界が張ってあるらしい屋敷の中ですら警戒して付き添うと言い張るほどに。
 ――それなのに。
 アデルに告げられていた今日の予定を思い出して、ユーリスはギルベルトからそっと視線を逸らした。まっすぐで誠実な彼の目を見ていられなかったからだ。
 何せ、本日、ユーリスは王宮を抜け出すつもりでいる。
 行き先はかつてユーリスやギルベルトも通った王立シュテルンリヒト魔法学園。もちろん、そのことをギルベルトには告げていない。


 ――なんでこんなことになってしまったんだろう……
 深い後悔を抱えて、ユーリスは手を握りしめた。
 魔獣の襲撃をて、アデルは一連の事件の真相を知りたいと言った。全てを明らかにすれば、魔法学園でアルファに襲われた件も分かるのではないかと期待しているのだ。
 おそらく彼は以前よりずっと訴えていたリリエル・ザシャ・ヴァイスリヒトの無実を証明したいのだろう。強い意志を秘めたまっすぐな瞳で、そのために力を貸してほしいと請われてしまえば、ユーリスに断ることなど出来なかった。

「ユーリス先生、すっごい似合ってますよ!」
「……そうでしょうか」
「はい! それはもう、びっくりするくらい!」

 そう力いっぱい言われて、ユーリスは力なく微笑んだ。
 似合っている。その言葉に、そんなことはないはずだ、と思いつつも言い返すことはしなかった。ただ懐かしい黒いローブのフードを目深に被り直して、ぐっと口をつぐむ。着古した厚手のローブと絹地の白シャツ。首に締めたネクタイは濃紺で、これは今の一年生の学年カラーではないか、と気づいて青ざめる。いくら若く見えることが多いオメガの自分たちだって、さすがに十五歳には見えないだろう。
 そう、ユーリスはなんと九年ぶりに母校の制服に袖を通しているのである。
 魔法学園に潜入することを決めた翌日、行くなら今日しかない、と言われてアデルに渡されたのは学園の制服であった。
 貴賓きひんとしてではなく、一生徒として紛れ込むと改めて言われれば、どうしたって不安しかない。その上、もうすぐ而立じりつにも手が届くというのに、制服を着ろと言われたのだ。正直な話、ちぐはぐなその格好を誰かに見咎められる気しかしなかった。
 目の前のアデルも同じように魔法学園の制服を身につけて、さらに変装用に薄茶色のかつらを被っている。アデルの薄紅の髪はひどく目立つ。だから、そうして目立つ部分を隠してローブをまとったアデルは、一見「アデル・ヴァイツェン」には見えなかった。
 なんでも魔法学園の中には魔法探知の結界が仕掛けられていて、魔法で姿を変えればすぐに見つかってしまうのだという。こういう古典的なやつが一番効果がある、と笑うアデルは確かに頼もしかった。
 ひと通り身支度を整えて、アデルはユーリスに訊ねた。

玻璃宮はりきゅうから学園までの道は分かりますか?」
「はい。私は毎日ここから学園に通っていたので……。それより、道中の見張りや護衛をどうやってあざむくのですか?」
「それは俺に任せてください」

 玻璃宮はりきゅうだけでなく、王宮内には侵入者に備えるために各所に兵士が待機している。いくら変装をしたからといって、彼らの前を素通り出来るわけはない。むしろ、何故こんなところに学生がいるのかと余計に不審に思われるはずだ。
 しかし、ユーリスの心配をよそに、アデルは自信ありげに胸を張る。そして、一回だけ、ぱちんと指を鳴らした。その途端、きらきらした光の輪が弾けてユーリスとアデルの周囲に広がっていく。その光の美しさにユーリスは目をみはった。

「これは水魔法と光魔法を組み合わせて作った目くらましです。光の屈折を利用して、俺たちの姿が周りに見えないようにしてます。輪の中に入っていればお互いの姿は見えますけど、出てしまえば分からなくなってしまうので俺から離れないでくださいね」
「これは、……すごいですね」

 感心したように呟いて、ユーリスは思い出した。アデルはユーリスが教育係を務める前に、何度か玻璃宮はりきゅうから脱走していると確かにギルベルトが言っていた。これだけ警備が厳重な玻璃宮はりきゅうからどうやって逃げ出したのかと思っていたが、きっとこの魔法を使ったのだろう。
 かつらといい、目くらましの魔法といい、脱走に慣れている様子のアデルに苦笑することしか出来ない。

「ギルベルト様がユーリス先生を迎えに来る時間がタイムリミットです。外の騎士さんたちは今日は中に入れない人たちばっかりだし、時間内に戻ってこられれば大丈夫だと思います」
「アデル様、せめてルードヴィヒ殿下やギルベルト様にはお話ししておいた方が……」

 さあ、行こうと立ち上がったアデルに、ユーリスは言った。しかし、返ってきた答えは予想通りのものだ。

「駄目ですよ。ルートは絶対大人しくしてろって言うに決まってます。ギルベルト様に言ったらルートにまでばれちゃうから、そこにも秘密」
「しかし……」
「護衛がいないのが危ないって言うんなら、大丈夫ですよ。ユーリス先生だって見てたでしょ? 発情期でもない限り、俺に真正面から挑んで勝てる魔法使いはいないです」

 だから孤児院の訪問だって許可が出ている、と言われてしまうと、反論の余地はなかった。あのスラム街の孤児院に、少数の護衛だけで行くことを許可されるほど、アデルは強かった。
 それでも、と迷うユーリスにアデルは、だったらひとりでも行きます、と告げた。
 そう言われると、ユーリスには何も言えない。差し出された手のひらを拒絶すれば、アデルは本当にひとりで行ってしまうだろう。それは絶対にさせられないと強く思う。
 ひと呼吸ののち、ユーリスはその白い手を取った。細い指と指が絡んで、握り込まれる。ぱちんという音とともに、光の輪がふたりの頭上で輝いて、あっという間にその身体を包み込んでいく。
 アデルは逞しい。きっとひとりで学園に潜入しても、無事に帰ってくる。
 そう思うけれど、それでもユーリスはその手を離すことはなかった。まだ若いユーリスの主は頼もしいが、どこか危なっかしく放っておけないところがある。だから、どこまでも一緒に行こうとユーリスは決意する。たとえ、どう考えてもユーリスの方が足手まといで、守られる立場であったとしても、だ。


 玻璃宮はりきゅうから外苑を通って、王宮を囲む林の中の小さな門をくぐると魔法学園の裏門に出る。
 かつて、ヴィルヘルムと一緒に通った道をユーリスはアデルと歩いた。森に囲まれたその古い小路は、静寂に包まれていた。人の気配はなく、ほとんどの者には知られてもいない。しかし静かに木漏れ日が落ちる石畳は整えられ、欠けたところひとつない。落ち葉も定期的に清掃されているようだった。一部の教師や王宮魔法使いが、学園と王宮を行き来するのに使っているのだろう。
 そうやって無事に潜入した学園で、アデルはしたいことがあるのだと言う。
 その「したいこと」とやらにユーリスの手が必要で、いてくれた方が助かる、と彼は笑う。
 そんな説明をする間も、決してアデルは足を止めることはなかった。明確な目的がある迷うことのない足取りに、ユーリスも慌ててその背中を追う。
 校舎の中を抜けて、中庭を通った。懐かしい教室、懐かしい廊下。光が射し込む硝子ガラス窓さえユーリスの記憶に訴えかけてくるのに、ゆっくりと感慨にふける暇すらなかった。
 王宮も広いが学園も広い。早足で駆けるように進むアデルに、ユーリスは息を切らしてなんとか置いていかれないように努めた。どうしてそんなに急ぐのか、と聞くと、早くしないとすれ違っちゃう、と言う。
 ――すれ違っちゃう、とは、「何」とだろう?
 そんな疑問を抱えたままかされるように走って、ようやく到着したのは学園の正門だった。
 慣れない長い距離を走ったユーリスの息はすっかり上がってしまっていた。玻璃宮はりきゅうに出仕するようになったとはいえ、それまでは屋敷に引きこもった生活をしていたのだ。それにこれまでの人生で、運動とはさっぱり縁がなかった。
 ぜいぜいと乱れた息をなんとか整えようと深呼吸して、懐かしい門を見る。かつては毎日のように通っていた学園の象徴は、今も変わらずその荘厳な姿を維持していた。
 大きな鉄製の門は優美な星の意匠が施されており、一見して豪奢ごうしゃな造りをしている。周囲になびく金と赤の旗は、王国の繁栄と栄光を表しているのだと聞いた。
 シュテルンリヒト王国が誇る王立魔法学園。全ての貴族が通い、魔法を学ぶ偉大な学び舎だ。
 その正門の脇にある管理室で、ひとりの青年が入園手続きをしている。かっちりとしたジャケットに細身のトラウザーズ。着ているものは上質であるのに、どうにも遊びが少なく硬い印象を受けてしまう。どこからどう見ても生真面目な貴族の私服といった格好をしたその人物を認め、アデルは大きく手を振った。

「おーい!」

 目立つのはまずい、と慌てるユーリスを尻目にアデルは手を振るのを止めない。いつの間にか目くらましの魔法は解除されているようだった。

「は!? お前、なんでここに!?」

 遠くから自分を呼ぶ声が誰であるのかに気づいたらしいその人物は、端整な顔を盛大に歪めてこちらを見た。切れ長の青い目が驚愕に見開かれて、普段は冷たく見えるその整った顔立ちが今はずいぶんと人間らしい。
 そこにいたのは、アロイス・シュヴァルツリヒト。
 かつて、この学園でアデルとともに過ごした彼の騎士リッターのひとりだ。


「おい、お前こんなところで何をしている」

 静寂の中にアロイスの声が響く。校内で騒ぐのはまずいと三人で移動した先で、アロイスはアデルに詰め寄った。

「顔怖ッ、なんだよ。俺は別に抜け出してきたわけじゃ――」
「抜け出してきました……」
「あっ! ユーリス先生、ひどい!」

 思いがけないユーリスの裏切りにアデルが声を上げた。それに慌てたのはアロイスで、静かにしろとアデルを睨みつける。その鋭い視線に、この場所がどこか思い出したらしいアデルは素直に口を押さえた。
 ここは王国が誇る叡智えいちが集まる場所――王立魔法学園の図書館だ。広々とした室内にはアーチ状の天井を支えるいくつもの柱が立っている。それら全てに植物をかたどった装飾が施されており、実に壮麗なものだった。
 美しい天井にまで届くような背の高い本棚がずらりと並び、そこには分厚い魔法書がぎっしりと詰まっている。大きな窓からは柔らかい光が射し込んで、舞い上がったほこりが光を反射してきらきらと輝いていた。その一画、禁書の並んだ本棚の陰で腕を組んだアロイスはアデルを見下ろして言った。

「で? アデル、お前はなんで王宮を抜け出してまで学園に来たんだ? 抜け出したってことは、ルードヴィヒには許可を取っていないんだろう」
「アロイス、だから顔怖いって。なんで怒ってんの?」
「俺の顔はどうでもいいから、さっさと質問に答えろ。だいたい、どうして俺に声をかけた。しかもあんな目立つ場所で」

 飄々ひょうひょうとした態度のアデルに、アロイスは苛立った態度を隠さなかった。そんな彼に構わず、アデルはけろりとした表情で返した。

「アロイスに会いに来たんだよ」
「俺に?」
「そう。アロイス、休みの日は学園によく来てるだろ? だから、手っ取り早くアロイスに会うには学園に来るのが一番かと思って」

 王太子の婚約者であるアデルは、その身柄の安全のため、ほぼ玻璃宮はりきゅうに軟禁状態だった。そんな彼が誰かと――特に、アルファであるアロイスと会うためには、ひどく面倒くさく時間のかかる許可と準備が必要になる。アデルはその手間を惜しんだらしい。

「まぁ、学園で調べたいことも出来たから、ちょうどよかったっちゃよかったんだけど」
「なんで俺に会いたかったんだ? ここに来て、懐かしい思い出話をしたいとかそんなんじゃないよな。伯爵夫人まで巻き込んで何を企んでいるんだ」

 さっさと話せ、と言わんばかりの口調にアデルはうっそりと笑った。そんな笑みを浮かべると、薄茶色のかつらも相まってアデルはまったくの別人のように見えた。

「相変わらず、せっかちだなぁ」
「アデル」
「ユーリス先生についてきてもらったのは、その方が交渉が上手くいくと思ったからだよ」
「交渉?」
「そ、アロイス。――俺には、協力者が必要だ」

 ――協力者。
 アデルの言葉にユーリスはそういえば、と思い出す。アデルが学園に行こうと言い出したとき、確かに犯人を見つけるための協力者が必要だと言っていた。目星をつけたその「必要な協力者」とやらがアロイスなのだろう。
 しかし、突然そんなことを言われたアロイスは案の定いぶかしげにアデルを見た。

「協力者? なんのだ」
「俺が狙われた一連の事件の犯人を捜すための」
「断る」
「はっや! もっとしっかり考えてよ」
「しっかり考えなくても、良からぬことに巻き込まれそうなことだけは分かった」
「良からぬことって何!? 俺、別になんか悪いことしようとしてるわけじゃないよ!」
「悪いことじゃなくても、余計なことをしようとしているだろう」

 そう言って、アロイスはねて膨れたアデルの頬を容赦なく掴んだ。その遠慮のないやり取りに、ユーリスはとうとう堪えきれなくなった。

「ふふっ」
「ふぇんひぇい……」
「すみません、つい」

 頬を掴まれたままアデルが声を上げる。先生、と呼びかけたかったらしいアデルの咎めるようなそれに、ユーリスは謝罪の言葉を口にした。しかし揺れる肩は治まらない。

「おふたりは本当に仲が良くていらっしゃいますね」
「伯爵夫人、笑い事ではない。あなたが付いていながら、どうしてこいつはこんなところで、こんなことを言い出している」

 さっさと玻璃宮はりきゅうに帰れ、と続けられた声音に毒はなかった。あるのは友人を心配する生真面目な青年の優しさだけだ。
 しかし、アデルは諦めなかった。アロイスに断られることは最初から分かり切っていたと言わんばかりの顔で、その薄く繊細そうな手を払う。

「ユーリス先生には俺がついてきてって頼んだの。その方が頼みやすいから」
「頼む? 俺に協力者になれというやつか。なら答えはさっき言っただろう。却下だ」
「そんなこと言わないで。俺たちだけじゃ自由に動けないんだよ」

 その言葉にはユーリスも頷かざるをえなかった。ユーリスは軟禁状態のアデルよりも多少自由がある。とはいえ、最近では玻璃宮はりきゅうへの行き帰りは護衛よろしくギルベルトが付きっきりであるし、玻璃宮はりきゅうではアデルの騎士たちに囲まれている。「何か」をしたいと思ったら、こうしてこっそりと抜け出すしかない。

「十分、自由に出てきているだろ」
「まぁね。でも頻繁には使えないでしょ、これ。魔力も使うしさ」

 今回はばれずとも、次回はばれてしまうかもしれない。そうアデルが言うと、アロイスは盛大なため息をついた。目の前にいる友人の不自由な身の上を思い出したらしい。
 深まった眉間の皺を揉むように手をやって、ようやく顔を上げる。

「お前を狙った犯人を捜し出すための手足になれというのか。お前、俺のこと暇だと思ってないか?」
「思ってないよ。アロイスが忙しいのはよく存じていますとも。でもさ、どうせなら一緒に調べたいって話」
「一緒に?」
「アロイス、休みのたびにリリエル様の件を調べてるんでしょ? それを俺にも手伝わせてほしいんだ」

 アデルはもう笑っていなかった。明るい緑色の瞳はとても真剣で、ただアロイスの返事を待っている。アデルは、どうしてもこの件を明らかにしたいらしい。
 そんなアデルの視線をまっすぐに受け止めて、アロイスは目をすがめた。何かを見透かそうとしているかのようなそれに、けれどアデルがひるむことはなかった。

「……お前は、なんでそこまでリリエルにこだわるんだ。ルードヴィヒだって、あいつが認めたからもう何も出来ることはないと――」
「そんなのアロイスと一緒だよ。俺にはリリエル様が認めたこと自体が信じられない。だから真実を知りたいんだ。結果として俺があの人の居場所を奪ってしまったんだから、なおさら」

 それに、とアデルは続ける。

「アロイス、ユーリス先生にひどいことしたの忘れたわけじゃないよね? 言葉だけの謝罪なんて意味ないからね。ユーリス先生のお願い、断っちゃ駄目じゃない?」

 ね、と笑いかけられて、ユーリスは苦笑する。アデルがユーリスを連れて来た理由はこれだったのだ。にやりと笑いつつアロイスの肩に手をかけたアデルのやり口は、交渉というかほぼ恐喝のようであった。
 ユーリスが是、とも否、とも言わないうちに、アロイスはひどく悔しそうな顔をして唸る。

「……伯爵夫人も、アデルと同じことを望まれますか」

 まさしく絞り出すような声だった。苦渋、という言葉がよく似合うその問いに、ユーリスは少しだけ思案する。けれど、最初から答えは決まっていたようにも思った。

「私は……そうですね。あの、アデル様とリリエル様が、それですこやかにお過ごしになれるのでしたら」

 その言葉に偽りはなかった。ユーリスの願いはそれだけだ。
 ――アデルとリリエル。
 年若い彼らが少しでも心穏やかに、すこやかに過ごせるように。誰かの身勝手な欲望で、害されてしまわないように。
 そう思いを込めて頷くと、アロイスががっくりと肩を落とした。

「……――分かりました」
「やった! アロイス! ありがと!!」

 きゃあ、と喜ぶアデルとは対照的に、アロイスは断頭台に引き立てられる咎人のような顔をしていた。生真面目で堅物な性格とアデルが揶揄やゆする通り、アロイスはひどく真面目な性格をしているらしい。以前、自らが働いた無作法をずいぶんと気にしていたのだろう。
 アデルをこのまま自由にさせるのは彼のためによくないと分かりつつも、その願いを受け入れてしまうくらいには。
 けれど、そんなアデルの無鉄砲には慣れ切っているらしいアロイスは、切り替えも早かった。協力を承諾した彼は、図書館内の隅にある小さな机に移動して、ユーリスたちを手招いた。追い返さず、詳しい話を聞くことにしたらしい。

「それで? アデルがやりたいこととはなんなんだ」

 素直に着席したアデルとユーリスに、アロイスが問う。密やかなその声がぎりぎり聞こえるくらいの距離に耳を近づけて、アデルが返した。

「とりあえず、俺の魔力結晶を見ておきたいんだ。狩猟大会で襲ってきたあいつが、食ったかどうかを確かめたい」
「……本気か?」

 絶句したアロイスの気持ちがユーリスにはよく分かった。
 アデルは本当に無鉄砲だ。魔力結晶は国防に関わる最重要機密だ。王宮魔法使いをはじめ、魔法騎士の魔力結晶が全て納められている学園の保管庫は、恐ろしいほど何重にも結界が施され、保護されていた。忍び込むのはいくらアデルでも不可能だ。
 そのことを当然知っているアロイスは額に手を当て、しばし考え込んだ。そしてふうーっと長く息を吐くと、呟いた。

「……分かった」

 そう言われるのをアデルは分かっていたようだった。
 瞳を輝かせて、アロイスを見ていた。ぐっと顔を近づけて、作戦を聞く。
 ユーリスはただ頷いて、彼らの様子を眺めていた。


 アロイスの作戦はとても正攻法なものだった。
 どうやらアロイスは執務局から正式な監査官という役職をもらい、一年前に学園の風紀を乱したとされるアデルの事件が生徒に与えた影響の調査に来ていたらしい。その立場を利用して、堂々と保管庫へと入る許可を得てきたのだ。

「この春から入学した遠縁の学生にも見せたいと言った。許可は取れたがもちろん、管理人の付き添いはある。アデル、お前しっかりローブを被って顔を隠しとけよ。あと、さすがに中に入れるのはアデルと俺だけだ。伯爵夫人、どこかひとけのない場所に隠れていてください」

 魔力結晶は持ち主と引き合う。数え切れないほど結晶が保管されている保管庫で、アデルの魔力結晶を手っ取り早く見つけるためにはアデル本人が赴く必要があった。

「お気になさらず。……では、私は薬草園近くの庭園におります」
「ああ、あそこか」
「はい」
「ユーリス先生、ついてきてもらったのにごめんね」

 図書館でふたりを見送って、ユーリスもこっそりと移動した。
 先ほど魔力結晶を見たい理由を、アデルはアロイスに魔獣の生態を交えつつ説明した。幸いなことにここは学園の図書館だ。魔法に関することはたいていの資料がある。捜せば、魔牛ヘレ・シュティーアについて書かれている書物も当然のようにあった。
 ――魔牛ヘレ・シュティーア
 シュテルンリヒト王国の北の国境に生息する魔獣だ。野生で発見されたときの大きさはだいたい体長一メートルほどで、大型の猟犬程度だという。性格は温厚。頭部にある鋭い角と硬いひづめは脅威ではあるが、人を襲うことは滅多にない。しかし、魔牛ヘレ・シュティーアには恐ろしい特徴があった。他者の魔力を摂取すると巨大化し、凶暴化するというものだ。
 その大きさは摂取した魔力の質や量と関係しているとされ、狩猟大会での魔牛ヘレ・シュティーアの大きさを思い出すと、それだけ質のいい魔力を食わされたのだと考えられた。
 しかも、アデルの予想通り、魔牛ヘレ・シュティーアは気に入った魔力に執着する。その性質を利用され、戦や襲撃などに使用するために、密猟が後を絶たない。近年では乱獲されすぎて数を減らしているらしい。
 アロイスはあのとき、大会本部で雑用をしていて、騒動を直接見てはいなかったという。しかし、魔獣を拘束したのが観覧客のひとりであると聞いて、嫌な予感がしたと言った。
 現在、あれは狩猟大会の獲物として捕らえていた魔獣が暴走した事故として処理されている。だが、魔法局が不当にユーリスを捕らえた件を考えても、間違いなく故意に暴走させられたものだと考えられているはずだ。
 全ての話を聞いて、アロイスはアデルの意図を理解したようだった。だからこそ颯爽さっそうと保管庫入室の許可を取ってきてくれたのだ。


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