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1巻

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   プロローグ


 大聖堂の、祭壇の前。薔薇窓から差し込む光が女神の像を照らす。
 金銀で装飾された慈悲の微笑みが、わたしたちの門出を祝福している。

「汝、ユード・フォン・オーベルシュトルフ、病めるときも健やかなるときも、生涯変わらぬ愛を誓うや?」
「はい。誓います」

 隣に立つ人の、低くはっきりした声が聞こえる。続いて司祭がわたしに問いかける。

「汝、セシリア・フォン・ブロムベルク。病めるときも健やかなるときも、生涯変わらぬ愛を誓うや?」
「はい。誓います――」

 そう、口にした瞬間、わたしの脳裏に別の誰かの声が甦る。

『ユードはあなたのことなんて、愛していないわ。可哀想なセシリア。彼が愛していたのは、わたくしだもの。わたくしたちは愛し合っていた。ずっと以前から』

 脳内に響く声にわたしは混乱し、白いヴェールの下で目を瞑った。
 わたしの戸惑いにお構いなく、まるで泉のように、膨大な記憶の奔流が頭の中に沸きあがってくる。

『ユードはね、身分違いのわたくしと結婚するためにあなたに取り入ったのよ。全部、最初から仕組まれていたのよ』

 この記憶は、何?
 ――わたしはいったい、何を思い出してしまったの?
 現実に戻ろうとわたしは目を開き、白いレースのヴェール越しに祭壇を見上げる。
 高い天井から降り注ぐ、ステンドグラスを通した鮮やかな光。色とりどりのガラスが描く、精霊と神の姿と、建国神話の一場面。ここは帝都で最も格式の高い大聖堂だ。
 今、わたしは結婚式の最中なのに。一年前に婚約して以来、わたしはユードを愛していたし、ユードもわたしを愛してくれていると信じ、嫁ぐ日を心待ちにしていた。
 しかし、突然甦った忌まわしい記憶が、容赦なくわたしを押し流していく。
 これは夢でも幻でもない、自身が体験した記憶だとなぜか確信があった。
 冷たく暗い地下牢のかび臭さも憶えているし、鉄格子越しに見る彼女の、赤い唇が妙に鮮やかだったのも思い出した。

『ユードはあなたに愛を囁いたかもしれないけれど、それはすべてまやかしよ。あなたはずっと騙されていたの、最初から最後までね。でも、もうどうでもいいことよ。なぜならあなたは――』

 一気に記憶が甦ったせいか、頭がガンガンと割れるように痛む。目を閉じても流れ込んでくる辛い記憶に、心臓の鼓動がドクドクと速まり、冷や汗が吹き出す。
 得意げにわたしに秘密を暴露するのは、黒髪に紫色の瞳が印象的な、オーベルシュトルフ侯爵家のディートリンデ様。そのよく動く赤い唇がわたしに告げた。

『あんたはここで、穢されて死ぬの。お気の毒なセシリア。それも一人二人でなく、何人もの、卑しい男たちの手で』

 ディートリンデ様の背後には、髭面で衣服も着崩れ、いかにも荒くれ者という男たちが並んでいた。みな、ギラついた下卑た目でわたしを見てニヤニヤ笑っている。

『これが名高いブロムベルクの妖精姫かぁ……本当にっちまっていいんですか?』
『乱暴にしたら壊れちまいそうだな』
『おい、誰からする? 順番だぞ?』

 鉄格子の扉が開き、男たちが扉をくぐって近づいてくる。わたしは恐怖で鉄格子から飛びのき、逃げようとした。

『や、いや、来ないで……やめて、たすけて、ユード!』
『どこに逃げようってんだぁ?……大人しくしてろよ』

 節くれだった大きな手が足首を掴み、乱暴に引っ張られて――
 わたしは悲鳴を上げ――ようとしたが、喉がひりついて声は出ず、はくはくと息を吐いた。
 だめよ、セシリア。結婚式の最中に、大声を出してはだめ――
 ちょうど、祭壇の前で司祭様が何か唱えて、隣のユードがわたしの顔を覗きこんだ。

「セシリア?」
「……え?」

 ユードの手がわたしのヴェールをそっとめくり上げ、ヘッドドレスにかけた。視界が開け、ユードの顔が正面に迫ってくる。

「誓いのキスを……」

 だが、流れ込む記憶の奔流に溺れそうになっていたわたしは、ユードの深い青の瞳を見て、最後の緊張の糸が切れてしまった。
 地下牢の中でディートリンデ様が語ったユードの裏切りと、これから先に起こる出来事の、衝撃的な記憶。
 今から一年後、ユードはわたしの父・ブロムベルムク辺境伯の謀叛計画を皇帝に密告し、父は捕らえられて殺され、わたしは地下牢でならず者たちに凌辱される。
 ユードの裏切りを信じたくなくて、ずっと彼の助けを待っていたが、彼は来なかった。
 ディートリンデ様の言う通り、ユードはわたしのことなど愛していなかったのだ。
 その絶望の中でわたしはたぶん死んでしまって――
 じゃあ、わたしは今、どうしてここに? あのあと、死んだのならわたしは――
 混乱とショックでまっすぐ立っていられず、今にも崩れ落ちそうなわたしをユードが抱きとめる。異常事態に気づいたらしいが今は結婚式の最中だ。彼は司祭の指示通り唇の端に口づけ、心配そうに囁いた。

「セシリア?」

 ああ、この人はわたしを裏切り、我が家を破滅に導く嘘つき男――
 突然甦った悲惨な記憶の洪水に耐え切れず、わたしはユードの腕の中で、意識を失った。




   第一章 死に戻りの花嫁


 わたしの父は、帝国の東方辺境を統べるブロムベルク辺境伯。数年前の流行り病で嫡男ちゃくなんを失くした父は、妾腹しょうふくの娘であるわたし、セシリアに婿を取り、跡を継がせることに決めた。その婿として選ばれたのが、ユード・フォン・オーベルシュトルフ。オーベルシュトルフ侯爵の――養子だ。
 ユードは平民出身の騎士。父は身分に拘らず、騎士としての技量と人柄を見込んでユードを選んだけれど、皇帝陛下は辺境伯の跡継ぎが平民なのは問題だと考えた。そのため、陛下自らオーベルシュトルフ侯爵家に掛け合い、ユードを養子にさせたのだ。もともとあまり仲のよくない我がブロムベルク家と中央のオーベルシュトルフ家の二大家に縁を結ばせるのは、皇家にとって意味があるらしい。皇帝陛下の肝いりで、わたしとユードは、帝都の大聖堂で分不相応に豪華な結婚式を挙げることになった。
 いわば、家の継承目的と皇家の思惑が絡んだ、純然たる政略結婚である。しかし、ユードが密かな初恋の相手であったわたしは、この結婚を心から喜んでいた。
 何しろ、ユードはとても美しい。
 灰色に近いアッシュ・ブロンドは少し癖があって、背が高く、細身ながら鍛えられた鋼のような肉体に、やや頬骨の高い整った顔立ち。精悍な眉の下、深い眼窩がんかの奥の瞳は紺色に近い深い青で、森の奥に隠された湖のような静謐せいひつな輝きを湛えている。でも、わたしを見つめる視線には熱がこもり、見つめ合えば魂を絡め取られそうな気持ちになる。低く甘い声に耳元で愛を囁かれれば、それだけでわたしの脳は溶けてしまいそう。初めて出会った日から、わたしはユードに惹かれ、彼から目が離せなかった。姿も声も立ち居振る舞いも何もかも、わたしの夢の騎士、まさに理想の男性だった。
 容姿だけではなくて、ユードは父が後継者と見込むほど剣にも優れ、頭脳明晰で、どんなときでも冷静さを失わず、そして誠実だった――そう、最後の項目については、今の今まですっかり騙されていたわけだけど。
 よりによって結婚式の最中に、隣に立つこの理想の夫が、実は裏切り者の大嘘つきであることに気づいた――というか、思い出した。わたしの、前世に起きた出来事を。


   ◆◆◆


 わたしの故郷、ブロムベルク領は帝国の東方辺境にあり、ギストヴァルト――精霊の黒き森――に接している。森には遺跡が点在し、ダンジョンとなっていて太古の魔道具や魔石を産出する。精霊を信仰する神殿があり、森を貫く街道は冒険者や魔石・魔道具の商人、そして巡礼者で賑わう。その地には、かつて精霊王と契約した騎士が開いた国、神聖王国があった。
 二十年前、ギストヴァルトの魔石に目をつけた帝国は、神聖王国に服属を求めた。しかし交渉は決裂して帝国軍が攻め入り、神聖王国は滅びてしまった。その後、ギストヴァルトの統治は辺境伯に委譲され、ブロムベルク領に編入されたのだ。


 わたしの母は、ギストヴァルトの女性だった。
 二十年前、帝国軍の司令官だった父の夜伽を務め、わたしを産んでまもなく亡くなったという。捨て置かれても文句の言えない生まれだが、父は乳母をつけ、わたしを妾腹しょうふくの娘としてブロムベルクの籍に入れた。
 その後、父は帝都の屋敷に正妻を迎えて嫡男ちゃくなんを儲け、わたしはブロムベルク領で乳母に育てられた。母親譲りのプラチナ・ブロンドに薄い水色の瞳。うぬぼれていいならば、容姿は人並み以上に恵まれていると思う。この見た目のおかげで、父はわたしを庶子しょしとして認知したのだろう。いずれ、政略の駒として嫁がせるつもりだったのかもしれない。
 辺境でのびのびと育ったわたしには、幼いころからちょっとした予知能力があった。未来に起こることがぼんやりわかるという程度の漠然としたもので、役に立ったためしはない。
 乳母は精霊の加護だと言うが、精霊信仰の薄い帝国では異端扱いされかねないので、人には知らせるなと、きつく戒められてきた。だから、父にも誰にも話したことはない。
 この力ゆえに、わたしは十二歳のときに帝都で疫病が流行って異母弟が死ぬことも、父がわたしを帝都に呼び寄せることも、帝都で父の正妻に虐められることも、すべて、あらかじめ知っていた。そして、それらの予知はどれもその通りになった。
 ブロムベルクから帝都に迎えられたわたしは屋敷内で孤立し、正妻から虐待された。父が領地にいて帝都に不在のとき、邸内における正妻の権力は絶対で、わたしは孤立無援だった。わずかな瑕疵を言い立てられて食事を抜かれたり、折檻せっかんを受けることもあった。辺境に逃げ帰ることもできず、邸内で息を潜めて暮らしていたわたしにとって、護衛騎士のユードだけが、ただひとりの味方だった。自然な流れとして、いつしか、わたしは彼に淡い恋心を抱くようになった。
 十四歳のとき、ユードの護衛で建国祭の見物に出かけた。祭の広場で若い男性に絡まれたわたしをユードが庇ってくれたのだが、その姿を遠くから見ていたオーベルシュトルフ侯爵家のディートリンデ様が、彼をひどく気に入りユードを譲ってくれと言い出したのだ。
 オーベルシュトルフ侯爵家からの申し入れとなれば、父も無下にはできない。ましてユードの身分は平民だから、彼の意思とは関係なく、父は彼を侯爵家に譲り渡してしまった。
 こうしてわたしの淡い初恋は潰え、わたしは新たな護衛騎士ヨルクとメイドのアニーだけを頼りに、帝都で慎ましやかに日々を送っていた。
 ところが、わたしが十七歳になった昨年、帝都に大地震が起きた。地震が起こることは予知していたのに、正確な日付まではわからなかったので、その日、よりによって貧民街の孤児院の慰問中に、大きな揺れに遭遇した。
 レンガを積み上げただけの粗末な建物が崩れ落ち、火災が発生した。教会のシスターたちと子供たちを守り、なんとか避難することができたが、取り残された子供の悲鳴を耳にして、わたしは自身の身の安全も顧みず、助けに戻った。
 背後でヨルクが引き留める声と、アニーの金切り声を聞きながら、わたしは火の手が上がった孤児院に飛び込み、泣いている子供を見つけ出して抱き上げた。
 そのときにはもう、天井や床が燃え落ち、周囲は炎に包まれていた。炎で視界は赤く染まり、熱風が吹きつける。
 ――この情景を、わたしは予知していた。なのに。
 この予知の力が精霊の加護だとしても、それを活かすこともできず、子供どころか自分すら救えぬまま、わたしはここで力尽きるのか。
 恐怖で泣き叫ぶ子供を抱きしめ、わたしはただ女神に祈ることしかできなかった。
 せめてこの子をひとりでは逝かせまい。それがわたしのできる精一杯――
 死を覚悟したとき、炎の壁の向こうから一人の騎士が現れた。

「ああ、やっぱり貴女はここに! 間に合ってよかった!」

 彼は呆然としているわたしと子供を抱き上げ、救い出してくれた。
 それが三年ぶりの、ユードとの再会だった。


   ◆◆◆


 地震で絶体絶命のところを救われる。
 こんな劇的な再会を果たして、わたしの恋心が再燃しないはずがなかった。
 そして信じられないことに、ユードはわたしの命を救った褒賞として、わたしの護衛に戻りたいと父に申し出た。

「身分違いは承知しております。俺は以前から、お嬢様に恋焦がれておりました。命を懸けて、お守りいたします」

 青い瞳を情熱に滾らせてわたしへの想いを語るユードに、わたしは夢を見ているような気分だった。
 ユードが以前から、わたしのことを愛してくれていたなんて、嘘みたい!
 ――実際、嘘だったけれど。
 わたしと結婚すれば、ユードは辺境伯になれる。平民出の彼にとっては大出世だ。
 野心のある男だったら、千載一遇せんざいいちぐうのチャンスと考えるだろう。世間知らずの小娘に媚びを売るくらい、簡単なことだ。
 夢のような告白にすっかりのぼせ上がったわたしは、彼の嘘に気づけなかった。ユードとディートリンデ様が恋仲だという噂は、以前からあったのに。
 恋心で目が眩んだわたしと異なり、父は冷静に彼の力量を見極め、彼を辺境伯軍の騎士として迎え入れた。そして彼の非凡な才能と人柄を見込み、わたしと婚約させ、辺境伯の後継者にユードを据える決断をしたのだ。
 父の英断も、継母が生きていたら無理だったかもしれない。わたしの縁談をことごとく潰していた継母は、地震で落ちてきたシャンデリアの下敷きになって死んでしまった。
 地震のあとの不安な情勢も、わたしとユードの結婚を後押しした。
 地震の被害は帝都だけに限られていたが、地震のあとは天候不順が続き、追い打ちをかけるように皇帝陛下が崩御し、帝都には不穏な空気が蔓延していた。
 新たに即位した今上陛下は、帝都の暗い雰囲気を払拭ふっしょくしたかったらしい。ユードをオーベルシュトルフ侯爵家の養子とし、帝国の二大家、ブロムベルク辺境伯家とオーベルシュトルフ侯爵家の婚姻だと大いに宣伝したのだった。
 そして本日、一年の婚約期間を経て迎えた華々しい結婚式のまっただなかで、わたしは突如前世を思い出し、そして理解した。
 わたしの能力は、未来予知ではない。わたしは以前経験した人生の記憶を持って生まれたのだ、と。
 わたしはセシリア・フォン・ブロムベルクとしての人生をすでに一度生き、絶望のまま、非業の最期を迎えたのだ。


 ただ、思い出した前世と、今生きている現世で、ところどころ違いがある。前世では、ユードは最初からオーベルシュトルフ侯爵家の騎士だった。偶然、地震で逃げ遅れたわたしを救い、それがきっかけとなり、父が彼を婿に定め、オーベルシュトルフ侯爵家の養子となってわたしと結婚した。やはり大聖堂で結婚式を挙げて、わたしとユードは晴れて夫婦となった。
 前世でわたしはユードを愛し、ユードもまたわたしを愛していると信じていた。――幸せな日常があっさりと崩れたあの日までは。
 結婚して一年ほど経ったある日、突如、皇帝の親衛軍が辺境伯家の屋敷を取り囲み、父を叛逆罪で拘束して、わたしも捕らえられた。
 ユードが父を告発し、皇帝が兵を差し向けたのだった。
 根も葉もない濡れ衣だと父は訴えたが、裁判にもかけられずに斬られたらしい。わたしに至ってはわけもわからぬまま拘束され、なぜかオーベルシュトルフ侯爵家の地下牢に入れられた。そこにディートリンデ様がやってきて、わたしに告げたのだ。

『最初から最後まで騙されていたのね。ユードが愛しているのはわたくしで、あなたのことなんて愛していなかったのに』

 ディートリンデ様が言うには、ユードと彼女は恋仲だったけれど、身分差ゆえに結婚は難しい。一方、オーベルシュトルフ侯爵は、ブロムベルク辺境伯家の婿に子飼いの者を送り込み、家を乗っ取る計画を立てた。
 侯爵は娘との結婚をエサに、ユードに命じてわたしを誘惑させた。首尾よく婿に収まったユードは、最後の仕上げに父を冤罪で告発し、その褒賞としてブロムベルクを手に入れる――
 愚かなわたしはユードの真意を疑いもせず、彼の偽りの愛に心も身体もすっかり陥落して、まんまと彼らの計画に嵌ってしまったのだ。
 よくよく前世を思い出してみると、ユードの周囲には常にディートリンデ様の影がちらつき、二人が恋仲だという噂も頻繁に耳に入っていた。舞踏会の夜、人気のない庭園で抱き合う二人を物陰から目撃していたのに、どうしてわたし、自分が愛されていると思っていたのかしら。
 ――前世のわたし、率直に言って馬鹿じゃない?
 たぶん、二人きりのときのユードがとても優しくて、いつも耳元で愛していると囁いては、わたしを求めてくれたからだ。
 身も心も焼きつくすような交わりをユードと分かち合うたびに、愛されていると信じ込んでしまった。ディートリンデ様とはただの主従関係だと言う彼の言葉を、疑いもしなかった。
 いいえ、実のところ、疑ってはいた。でも、わたしはユードに夢中なあまり、不都合な事実から目を背けてきたのだ。
 だからディートリンデ様に暴露されたとき、嘘だと否定もできなかった。彼女の話が真実だとわかってしまったのだ。
 彼がわたしに囁いた愛の言葉も、抱きしめてくれた狂おしいほどの夜も、何もかもすべてまやかしだったのだ、と。
 前世のわたしの最期は、薄暗くジメジメした地下牢で凌辱されて、記憶もおぼろげだ。おそらく精神に異常をきたしてしまったのだろう。とにかく、わたしは酷い辱めを受けて死んだ……らしい。
 前世の最期の記憶に映るのは、ユードのあの、湖のような深い青色の瞳だった。彼が地下牢にやってきたのか、それとも心が壊れたわたしが見た幻覚だったのか、わたしの記憶はそこで途絶えている――


   ◆◆◆


 結婚式の最中に前世の記憶を思い出し、わたしは気を失った。花婿のユードがわたしを抱きかかえて退場したのだろう、控室で意識を取り戻したわたしは、心配そうに覗きこんでくるユードの青い瞳を見て、前世の続きかと息を呑んだ。

「大丈夫ですか? 身体の具合は」

 低い声で問いかけられ、こんなときでもわたしの胸は轟いてしまう。

「いえ、たぶん、ただの貧血よ。昨日、緊張で眠れなかったから。それと、コルセットの締めすぎだと……」

 とっさに誤魔化せば、ユードが正面に膝をついて見上げるような体勢で言った。

「このあと、お屋敷で披露宴ですが、無理なら――」
「大丈夫です。ありがとう。わたしが倒れてしまって、お客様に失礼はなかったかしら?」

 何しろ皇帝陛下のご臨席を賜っているのだ。

「陛下と大魔導師のラウレンツ卿は、今はあちらの貴賓室にいらして、義父上ちちうえがお相手をしていらっしゃいます。体調が許すようなら挨拶に来るようにと」
「……まだ、少しだけふらつくけれど、あなたが支えてくださるなら」
「ならば、少しだけ拝謁はいえつして――」

 ユードが振り返って、わたしの護衛騎士であるヨルクに合図した。ヨルクは頷き、父に伝えるために部屋を出て行く。
 わたしはお付きのメイドのアニーが淹れてくれた熱い紅茶を一口飲んで、身体が温まったせいかいくぶん、落ち着いてきた。
 あの記憶。まるで昨日のことのように甦った、恐怖の思い出。
 騙され、裏切られ、貶められて、酷い最期を迎えた。
 人が聞けばそんな馬鹿なと言うに違いない。でも、わたしは事実だと確信していた。
 あれは、以前に起きたこと。そして、これから起こり得ること。
 わたしはアニーの助けを借り、鏡を見て化粧を直し、髪を整える。
 鏡に映るわたしは、花嫁の純白のドレスに緩く波打つプラチナ・ブロンドを結い上げ、真珠とサファイアのヘッドドレスで着飾っている。
 この姿で、騎士の正装をしたユードの隣に立つことを、昨夜まではずっと心待ちにしていたのに。
 ――どうせなら、結婚証書にサインする前に思い出せばよかった。
 わたしはため息をつきたいのをぐっと堪える。
 結婚証書は式の前にサインしてしまった。もう、やめることはできない。
 ブロムベルクの乗っ取りが目的の結婚だと、もっと早くわかっていたら――
 ちらりと鏡越しにユードを見れば、普段と同じように無表情ながら、彼の青い目にはなんとも言えない喜びが浮かんでいる。いかにもわたしのことが愛しくてたまらないとでもいうかのように。
 そう、この目に騙されたのだ。それと夜の、情熱的な愛し方に――
 わたしははしたない記憶を思い出してしまい、ぎゅっと目を閉じ、大きく深呼吸した。
 一度死んだはずなのに、どうしてやり直しているのか。どうしてよりによって、結婚式の最中に前世を思い出したのか。疑問は次から次へと湧いてくるけれど、きっと答えは出ないだろう。そんなことより、重要なことはただひとつ。
 どんな理由にせよ、やり直しが許されたのだから、前世と同じ過ちを繰り返さず、破滅を回避することだ。
 ――もう、この男には騙されない。
 心の中で誓って、わたしはユードに微笑みかけた。


 大聖堂の貴賓室は、皇族を迎えるにふさわしい豪華な造りだ。辺境伯の跡取り娘とはいえ、妾腹しょうふくで田舎育ちのわたしは身の置きどころに戸惑うけれど、精一杯の優雅さで片脚を引き、肘掛椅子に座る陛下に対して頭を下げる。

おもてを上げて楽にせよ」

 陛下の若々しい声がかかり、わたしは姿勢を戻す。陛下の顔を正面から見つめるのはしつけなので、胸元のレースのクラヴァットとそれを止めるルビーのブローチに視線を定めた。皇帝ヴィンフリート二世は御年おんとし二十二歳。昨年、先帝陛下の突然の崩御を受け、即位されたばかりだ。

「……そなたがブロムベルク辺境伯自慢の娘か。いや、これは美しいな」
「たしかに、ブロムベルクの妖精姫の異名は偽りではなかったのですね」

 そう合いの手を入れたのが、斜め隣の肘掛椅子に座る、皇宮大魔導師のラウレンツ卿だ。彼は陛下の護衛も兼ねて同席している。

「過分なお言葉、おそれいります……」

 見えすいたお世辞にわたしは礼を返し、ちらりと大魔導師に目を向けた。


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